「緑谷……?」
切島の声が、狭い路地へ落ちた。
フードの人物──出久は、倒れた男を見下ろしたまましばらく動かなかった。
数秒遅れて、切島の姿を確かめるように顔を上げる。
赤く逆立った髪。
雄英の訓練で何度も見た構え。
腕から肩にかけては既に硬化が始まり、肌の表面がごつごつと岩のように変質している。
見間違えるはずがない。
「……切島君」
フードの奥から、その名が返ってきた。
切島の目が見開かれる。
本当に、緑谷出久だった。
神野以来、ニュース映像や指名手配の写真でしか見ていなかった元クラスメイトが、ほんの数メートル先に立っている。
「お前……」
何を言えばいいのか分からなかった。
どうして大阪にいる。
何をしている。
その男とは何の関係だ。
聞きたいことはいくらでもあるのに、口から出てきたのは別の言葉だった。
「……生きてたんだな」
出久の表情が僅かに揺れた。
「うん」
短い返事だった。
それだけで、切島の胸の奥に妙な感情が込み上げる。
安心したのか、腹が立ったのか、自分でも分からない。
けれど、再会を喜んでいる場合ではなかった。
「っつ……」
足元で男が呻いた。
切島は我に返り、視線を落とす。
先ほど商店街から逃げた三下のヴィランだ。
ファットガムたちに追い詰められ、拳銃のような射出器を抱えて逃走していた男。
その射出器は少し離れた路面へ転がっている。
そして男は出久を見上げ、完全に怯え切っていた。
「わ、悪かったって……!」
男は腹を押さえたまま、必死に後ずさろうとする。
「ちゃんと金は用意する! 今日はちょっと足りなかっただけなんだ! だから──」
「さっきも同じこと言ってましたよね」
出久が淡々と遮った。
切島の眉が寄る。
「……金?」
出久は答えない。
男は切島へ助けを求めるように顔を向けた。
「ヒ、ヒーローだろ!? 助けてくれよ!」
「まず動くんじゃねえ!」
切島は低く言い、倒れた男と出久の間へ少しだけ身体を入れた。
「そいつは俺たちが追ってたヴィランだ。身柄はこっちで預かる」
「それは構わないよ」
出久はあっさりと答えた。
切島は一瞬、聞き間違えたかと思った。
「……いいのか?」
「うん」
出久は倒れている男へ視線を落とす。
「切島君なら安心だよ。僕としては、ケジメさえつけられればそれで良かったから」
「ケジメって……」
「約束した金も持たずに、商品だけ奪おうとした。しかも仲間を連れて、最初から力ずくでどうにかするつもりだったみたいだし」
出久の声は静かだった。
怒っているようには聞こえない。
けれど、その言い方には妙な冷たさがあった。
「逃げたから追った。それで一発殴った。もう十分だよ」
「十分って、お前……」
切島は眉をひそめた。
昔の緑谷なら、ヴィランを殴り飛ばしたあとに「これでケジメはついた」などと言うはずがなかった。
そもそも金を払わず商品を奪おうとした相手を、取引上の裏切りとして処理するような発想自体が、かつての出久には似合わない。
だが今の本人は、それを何でもないことのように受け入れている。
「じゃあ、こいつは俺が確保する」
「お願い」
出久は素直に一歩下がった。
切島は警戒を解かないまま、腰に装備していた拘束バンドを取り出す。
「おい、動くなよ」
「う、動かねえ! 動かねえから!」
倒れていた男は必死に頷いた。
さっきまで逃げ回っていたとは思えないほど従順だった。
切島が男の腕を後ろへ回し、両手首へ拘束バンドを巻きつける。
かちり、と固定音が響いた。
「痛ぇ!」
「我慢しろ。逃げたお前が悪い」
「わ、分かったって……!」
続けて足首も簡易拘束する。
これなら個性を使わない限り、簡単には逃げられない。
切島は男の腰回りを確認し、ナイフらしきものを一本取り上げた。
それから少し離れた場所へ転がっている射出器へ目を向ける。
「これも押収だな」
拾おうとした時だった。
背後で靴音がした。
「……?」
切島が振り返る。
出久が路地の奥へ向かって歩き始めていた。
まるで、自分の仕事はもう終わったと言わんばかりに。
「おい」
出久は止まらない。
「緑谷!」
今度は強く呼ぶ。
出久がようやく足を止めた。
「何?」
本当に不思議そうな声だった。
「何じゃねえよ」
切島は立ち上がる。
「このまま帰るつもりか?」
「うん」
「うん、じゃねえだろ」
出久が僅かに首を傾げた。
「その人は切島君が捕まえた。僕がここにいる理由もなくなったから」
「馬鹿言ってんじゃねえ」
切島の声が路地へ響いた。
倒れている男がびくりと肩を揺らす。
出久は黙ってこちらを見た。
「クラスメイトの時みたいに、じゃあなって訳にはいかねえだろ」
「……」
「お前、自分が今どんな立場か分かってんのか?」
切島は射出器を拾い上げると、念のため男の手が届かない場所へ蹴り寄せた。
それから、ゆっくりと立ち上がる。
「全国指名手配だぞ」
出久の目が僅かに細くなる。
「分かってるよ」
「分かってる奴の態度じゃねえだろ」
切島は一歩、出久との距離を詰めた。
「大阪まで来て、ヴィランと取引して。普通に帰ろうとすんなよ」
「切島君」
「俺は今、インターン中なんだ。仮免だって、取ったんだぜ……」
言いながら、切島の拳へ再び硬化が広がっていく。
皮膚の表面が岩のように隆起し、指先から手首、前腕へと赤黒い硬質化が進んだ。
出久はその変化を静かに見ていた。
「お前を見つけた以上、見なかったことにはできねえ」
「……そうだよね」
「そうだよね、じゃねえよ!」
切島はさらに近づいた。
昔なら、こんな距離で向かい合うことに何の警戒もいらなかった。
訓練の合間。
昼休み。
寮の共有スペース。
ふざけて肩を叩いても、緑谷は少し驚いてから笑っていた。
今は違う。
ほんの数歩先にいる相手へ近づくために、切島は全身へ力を込めている。
「……緑谷」
声の調子が少しだけ変わった。
怒鳴るのではなく、噛み締めるような声音だった。
「大人しく捕まってくれねえか」
出久は何も答えない。
「頼むよ」
切島は拳を握った。
「ダチに怪我させたくねえんだ」
その一言だけは、ヒーローとしてではなかった。
切島鋭児郎個人としての言葉だった。
出久の表情が、ほんの僅かに揺れる。
切島には、それが迷いに見えた。
だから、あと一歩だけ踏み込んだ。
「一緒に戻ろうぜ。何があったのかは、その後で聞く。俺だけじゃどうにもできねえなら、ファットにも頼む。だから──」
返事はなかった。
出久はただ、切島を見ていた。
やがて、その視線が硬化した拳へ落ちる。
「……緑谷?」
切島が呼びかけても、出久は何も言わなかった。
代わりに、身体の内側から小さな音がした。
ぱき。
「……?」
乾いた音だった。
続いて、ぱき、ぱき、と立て続けに鳴る。
骨を鳴らしているようにも聞こえたが、違う。
音は出久の指先から始まり、手の甲、手首へと少しずつ上っていた。
「緑谷……マジでやるんだな」
小さな骨片が皮膚の表面へ浮かび上がり、重なり合う。
ひとつひとつは薄いが、魚の鱗のように隙間なく連なり、指先から手の甲、前腕へと急速に広がっていった。
最初からそういう器官として備わっていたかのように、白い骨の鱗が次々と形成されていく。
「マジなんだな!」
返事はない。
変化は右腕だけでは終わらなかった。
左腕にも同じ鱗が浮かび、肩へ達すると、そのまま首筋へ這い上がる。
頬の一部まで白い装甲に覆われ、フードの奥に覗く顔つきが、人間のものから少しずつ遠ざかっていった。
さらに。
ごきり、と重い音が鳴った。
身体そのものが膨れ上がる。
パーカーの下で肩が大きく盛り上がり、背筋が隆起する。
細身だった腕にも急速に筋肉が付き、袖が内側から押し広げられていった。
百七十にも届かなかったはずの身体が、切島の目の前でひと回り、ふた回りと巨大化していく。
切島はその姿を見上げ、奥歯を強く噛んだ。
怖くないわけがない。
神野の映像で見た姿より、近くで見る分だけ遥かに異様だった。
骨同士が擦れる硬い音。
地面へ伝わる体重。
膨れ上がった腕の太さ。
どれを取っても、自分が正面からぶつかっていい相手には見えない。
それでも、切島は一歩も引かなかった。
「……上等だぜ、緑谷!」
拳を胸元まで引き上げる。
「そこまでやる気なら、こっちだって遠慮しねえ!」
全身の硬化をさらに強める。
赤黒く変質した皮膚の凹凸がより鋭くなり、拳は岩塊のように硬く締まった。
「おおおおっ!」
切島が地面を蹴る。
狭い路地を一直線に駆け抜け、出久の懐へ飛び込んだ。
出久は避けない。
その場に立ったまま、迫る切島を見下ろしている。
「くらえっ!」
硬化した右拳が振り抜かれた。
狙いは胸。
切島の体重と勢いを乗せた拳が、骨の鱗へまともに叩き込まれる。
ごっ、と鈍い音が路地へ響いた。
手応えはあった。
分厚い鉄板でも殴ったような、凄まじく硬い感触が拳から腕へ返ってくる。
だが。
「……まじか」
切島の目が見開かれる。
出久は、のけぞりすらしなかった。
足の位置も変わっていない。
上半身が揺れた様子さえなかった。
切島が全力で殴った拳を胸へ受けながら、出久はただ静かにこちらを見下ろしている。
「嘘だろ……」
思わず声が漏れた。
その瞬間。
出久の右肩が動いた。
「っ!」
切島は反射的に腕を上げようとした。
間に合わない。
巨大化した右腕が、ほとんど予備動作もなく振り抜かれる。
ただの一発。
それなのに、切島には巨大な岩塊が横から飛んできたように見えた。
「ぐっ──!」
拳が切島の胴体へ叩き込まれる。
衝撃。
視界が一瞬で横へ流れた。
足が地面から離れる。
「うおっ!?」
吹き飛ばされた身体が数メートル宙を飛び、そのまま路地脇の壁へ激突した。
轟音が響く。
古いコンクリート壁へ蜘蛛の巣状の亀裂が走り、細かな破片と埃が舞った。
拘束されていた男が悲鳴を上げる。
「ひいいっ!」
切島の身体は壁へ半ば埋まり、そのまま地面へ落ちる。
「……っ」
一瞬だけ息が詰まった。
だが。
「く……っそ!」
切島はすぐに片膝を立てた。
身体を確認する、問題ない。
硬化が衝撃を受け止めている。
痛みもほとんどなかった。
むしろ腹が立った。
「チッ……!」
悔しそうに舌打ちし、瓦礫を払いながら立ち上がる。
「全然効かねえって顔しやがって……」
視線を上げる。
路地の中央には、出久が変わらず立っていた。
こちらを殴り飛ばした右腕を下ろしただけで、追撃してくる様子はない。
まるで。
今の一発で十分だろう。
そう言われているようで、切島の眉間へ深い皺が寄る。
「舐めんなよ、緑谷」
切島は壁際から一歩踏み出した。
肩から細かなコンクリート片が落ち、路面へ乾いた音を立てる。
全身を覆う硬化には大きな損傷もない。
出久の拳をまともに受け、壁へ叩きつけられたというのに、身体は動く。
だからこそ、余計に腹が立った。
向こうは本気で殴ったのかさえ分からない。
追撃もなく、逃げる様子もなく、ただこちらを見ている。その余裕が、どうしようもなく癇に障った。
「お前が居ない間に……」
切島は拳を握り締める。
「俺が、みんなが、どれだけ努力したと思ってるんだ」
出久の瞳が僅かに動いた。
「神野の後だって、何もなかったわけじゃねえ。授業も訓練も止まらなかった。仮免取って、インターン始めて、みんな必死こいて前に進んでんだよ」
切島自身もそうだった。
足りないものを突きつけられた。自分の硬化では守れないものがあると知った。
怖くても前へ出るだけでは足りないと、嫌というほど思い知らされた。
「お前のお袋さん、毎日マスコミが来て参っちまってよ、どんどんやつれちまってよ」
だから鍛えた。
もっと硬く、もっと長く維持できるように。
限界まで硬化し、崩れれば再び固める。
全身を余すところなく硬化させ、筋肉が悲鳴を上げても解除しない。
何度も砕ける寸前まで追い込み、そのたびに硬度を引き上げた。
「麗日なんて雄英辞めてんだぞ……親父さんの会社が潰れて、バイトして……」
切島の硬化が、さらに進んだ。
ごぎ、と全身から低い音が鳴る。
既に岩のようだった皮膚が、さらに鋭く隆起する。
赤黒い表皮はひび割れた岩盤のような形へ変わり、関節部にまで硬質化が及んでいく。
普通なら、そこまでだった。
だが今の切島は、その先へ進める。
「
全身の硬化を、一気に限界まで引き上げる。
「お前の、そのスカした面が気に入らねえ。全部諦めちまってるみたいな面がよお!」
ぎしぃっ、と路地に重低音が響いた。
皮膚が軋んでいるのではない。
硬化した全身そのものが、わずかな動きにすら抵抗するほど密度を増している。
肩を回せば、ぎぎ、と石臼を擦り合わせるような音が鳴る。
拳を握れば、硬質化した指と掌がぶつかり、ぱち、と小さな火花が散った。
切島の全身は、もはや人間というより、削り出された巨大な鉱石の塊のようだった。
出久が初めて、ほんの僅かに姿勢を変えた。
「……それ」
切島は歯を剥いて笑う。
「歯ァ食いしばれや!」
圧縮訓練によって獲得した、現時点における切島鋭児郎の限界。
持続時間は長くない。
身体への負担も大きい。
そして何より、攻撃力そのものが飛躍的に上がるわけではない。
だが。
「今度は──」
切島が地面を踏み込んだ。
硬化した足裏と路面がぶつかり、火花が散る。
「飛ばされねえ!」
一直線に突っ込んだ。
出久も右腕を引く。
「おおおおおっ!」
切島の拳が先に届いた。
出久の胸を、先ほどと同じ場所を殴りつける。
ごん、と路地が震えた。
やはり出久はのけぞらない。
だが切島も止まらない。
「まだだ!」
左。
右。
再び左。
連続して拳を叩き込む。
骨の鱗と硬化した拳が激突するたび、硬質な音と火花が散った。
出久の骨鱗には目立った損傷はない。
切島の拳にも亀裂は入らない。
ただ異常なほど硬い二人が、狭い路地の中央で正面から殴り合う。
「っ!」
出久の右肩が動いた。
切島は見逃さなかった。
先ほど自分を壁まで吹き飛ばした拳が来る。
防御はしない。
足を止め腰を落とす。
全身の硬化を維持する。
「来いよ!」
出久の拳が、切島の胸へ叩き込まれた。
衝撃が全身を突き抜ける。
足元のアスファルトが砕けた。
後方へ衝撃波が抜け、路地に積まれていた空き缶がまとめて転がっていく。
拘束されているヴィランが悲鳴を上げ、頭を抱えた。
だが。
「……!」
出久の目が、僅かに見開かれた。
切島は一歩も下がっていない。
靴底が地面を削り、足元に浅い亀裂こそ走っている。それでも位置そのものは変わっていなかった。
先ほどは壁まで吹き飛ばされた拳を、真正面から受け止めている。
胸元の硬化がわずかに削れ、小さな破片がぱらぱらと落ちる。
だが切島は笑った。
「……そんなナヨナヨしたパンチ、効かねえなぁ!」
切島は挑発するように歯を剥き、そのまま右拳を振り抜いた。
出久の頬を覆う骨の鱗へ拳が叩き込まれ、硬質な衝突音が狭い路地へ響く。
出久の顔が僅かに横を向いたが、すぐに戻る。返すように振るわれた左拳が切島の肩へ直撃し、
「まだまだぁ!」
切島は怯まない。
殴る。
殴り返される。
また殴る。
距離を取るという選択肢は、二人の間から完全に消えていた。
技も駆け引きもない。
相手の死角へ回り込むことも、攻撃を誘って隙を作ることもない。
ただ真正面から立ち、拳が届く距離で互いの身体を殴り続ける。
切島の拳が出久の胸へ食い込む。
出久の拳が切島の脇腹へ返る。
「ぐっ……!」
衝撃に内臓が揺れた感覚こそあるものの、硬化した外殻は崩れない。
切島は口元を吊り上げ、左拳を出久の腹へ打ち込んだ。
「おらぁ!」
ごっ、と重い音。
今度は出久の巨体が半歩だけ後ろへずれた。
「……!」
「どうしたよ!」
切島は逃さない。
さらに踏み込み、顎を狙って右拳を突き上げる。
出久は左腕で受けた。
骨鱗と硬化した拳がぶつかり、火花が散る。
そのまま出久が腕を振り払った。
「うおっ!」
切島の上半身が大きく横へ流れる。
しかし足は動かない。
踏ん張る。
腰を戻す。
そしてその勢いを利用して、再び拳を叩き込む。
「っらぁ!」
今度は出久の肩。
骨の装甲が鳴る。
出久も即座に切島の胸へ拳を返した。
鈍い衝撃が響き、切島の足元が僅かに沈んだ。
「……へっ」
それでも笑う。
「効かねえって言ってんだろ!」
言葉と同時に殴り返す。
切島の硬化は攻撃力を増幅する能力ではない。
だが、倒れない。
吹き飛ばされない。
出久の攻撃を受けても、その場に留まり続ける。
それだけで十分だった。
殴られて距離が開かなければ、次の拳を返せる。
一発で終わらなければ、二発目を出せる。
二発で足りなければ、十発でも百発でも殴ればいい。
「お前が倒れるまで!」
右。
「俺は!」
左。
「ここに!」
もう一度右。
「いるぞ!」
出久の顔、胸、肩へ連続して拳を叩き込む。
出久は避けなかった。
代わりに同じだけ返してくる。
拳がぶつかるたび、硬化した表皮が僅かに削れ、赤黒い欠片が足元へ溜まっていく。
二人の間から会話は消えた。
ひたすら殴り合う。
いつの間にか、拘束されていたヴィランも悲鳴を上げなくなっていた。
路地の壁際で身体を小さくし、目の前で行われている異常な殴り合いを青ざめた顔で見つめている。
切島は一歩も引かない。
出久も崩れない。
殴るたびに骨の鱗から硬い反動が返ってくるものの、切島の拳も
互いに決定打がない。
少なくとも、そう見えた。
だが。
「っ……!」
何十発目かの衝突のあと、切島の右腕から嫌な感覚が走った。
ぱき。
音は小さい。
それでも切島には分かった。
硬化が剥がれた。
右前腕の一部。
拳二つ分ほどの範囲で、
「……まだ!」
即座に個性を集中させる。
剥がれた場所が再び赤黒く変質し、硬度を取り戻す。
問題ない。
圧縮訓練では、何度もやってきた。
崩れたなら張り直せばいい。
「おおっ!」
硬化が剥がれる度に張り直す。
まだ間に合う。
切島は歯を食いしばりながら、拳を振り続けた。
だが、徐々に間隔が短くなっていく。
出久の拳が当たる。
硬化が削れる。
再生する。
次の拳が当たる。
また別の場所が崩れる。
再生しながら殴り返す。
そして。
「ぐっ……!」
脇腹へ一撃。
今度は大きく剥がれた。
腰から腹にかけて、
「っ、まだだ!」
個性を集中させる。
硬化が戻る。
しかし。
ほんの僅かだが、最初より明らかに時間がかかっている。
切島自身も気づいていた。
全身を最高硬度で維持するということは、それだけ個性を酷使するということでもある。
時間が経てば、当然限界は来る。
「まだ……っ!」
出久の拳が飛んでくる。
切島は正面から受けた。
胸の硬化が弾ける。
今度はすぐに戻らなかった。
「……!」
赤黒い装甲の下から、人間の肌が覗く。
そこへもう一発。
「がっ!」
衝撃が直接身体へ響いた。
切島の身体が初めて一歩後ろへずれた。
重低音も弱くなった。
拳を握っても、もう火花は散らない。
「はぁ……っ、はぁ……!」
呼吸が荒い。
全身が熱い。
筋肉が震えている。
それでも切島は前へ出た。
出久の拳が腹へ入る。
「が……っ!」
今度は踏ん張れなかった。
倒れそうになる身体を、壁へ手をついて支えた。
「お前のそれ……」
「制限とか……ないのかよ……」
出久が僅かに目を瞬く。
切島は血まみれの顔で、悔しそうに笑った。
「ずりい……」
掠れた声を最後に、身体から完全に力が抜ける。
赤黒く硬質化していた皮膚はほとんど元へ戻り、残っていた硬化も指先や肩の一部から崩れるように消えていく。
その直後。
「切島!」
路地の入口から、聞き慣れた大声が飛んできた。
出久が顔を上げる。
商店街側から巨体が飛び込んでくる。
その少し後ろには、息を切らせながら天喰も続いていた。
「ファット……」
切島が僅かに顔を持ち上げる。
「アホ! 追いすぎんな言うたやろ!」
ファットガムは怒鳴りながら切島の傍へ駆け寄った。
だが、倒れている切島を見た瞬間、その表情が変わる。
血だらけだった。
コスチュームもあちこち裂けており、露出した皮膚には赤黒い痣が浮かんでいる。
「おい、意識あるか!」
「あるっす……」
「あの逃げた奴、そんなヤバい奴やったんか!?」
ファットガムは切島の呼吸と意識を素早く確認する。
一方、天喰はその場へ到着すると同時に視線を上げた。
そして固まった。
「……あれ」
路地の奥に立っている巨体。
白い骨の鱗。
膨張した筋肉。
人間離れした体格。
天喰も知らないはずがなかった。
ニュースで何度も流れた映像。
神野でオールマイトと激突したヴィラン。
「緑谷……出久?」
ファットガムの動きも止まった。
「……は?」
切島から顔を上げる。
視線の先にいる出久を認識し、その目が一気に鋭くなった。
「お前……」
出久は何も言わない。
骨鱗に覆われた顔で、ファットガムと天喰を交互に見る。
状況は一瞬で理解した。
一対一ならまだしも、ここからファットガムと天喰まで相手にする理由はない。
そもそも切島を倒すこと自体が目的ではなかった。
帰りたかっただけだ。
出久は静かに一歩下がった。
「待てや」
ファットガムの声が低くなる。
出久は止まらない。
「お前が切島やったんか?」
「……」
「答えんかい!」
返事はない。
出久の背中側で、筋肉が僅かに盛り上がった。
ファットガムがそれを見て腰を落とす。
「環」
「ああ」
天喰も即座に構える。
片腕へ触手が浮かび、もう一方には硬質な貝殻が形成されていく。
出久は二人の動きを確認すると、完全に身体を路地の奥へ向けた。
骨格と筋肉がさらに肥大し、アスファルトを踏み砕く。
逃走するつもりだ。
「……っ」
切島は肘を路面へつく。
身体はまともに動かない。
それでも顔だけは上げた。
「おい……!」
出久の足が止まりかける。
「緑谷!」
切島は肺へ残っていた空気を全部吐き出すように叫んだ。
「せめて、お袋さんに連絡してやれ!」
出久の身体が止まった。
ファットガムも天喰も、一瞬だけ切島を見る。
「めっちゃ心配してたんだぞ!」
切島は歯を食いしばりながら上体を起こそうとした。
失敗し、また肩が路面へ落ちる。
それでも声は止めない。
「お前がいなくなってから、ずっとだ!」
出久は振り返らなかった。
「学校にも来てた! 先生たちにも何度も話聞きに来て! マスコミに囲まれて、それでもずっとお前のこと探してた!」
「……」
「生きてるってだけでもいいから!」
切島の声が掠れる。
「一言くらい言ってやれよ!」
路地へ沈黙が落ちた。
遠くから商店街のざわめきが聞こえる。
出久は背を向けたまま動かなかった。
骨の鱗同士が擦れ、小さな音を立てている。
ファットガムは追うべきか迷うように目を細めた。
全国指名手配犯。
目の前にいる以上、本来なら確保すべき相手だ。
だが今、出久の背中から感じるものは、逃走のための緊張とは少し違っていた。
出久はしばらく背を向けたまま立っていた。
「……」
切島の言葉に、返事はしなかった。
やがて僅かに顔を伏せると、そのまま地面を蹴る。
「待て!」
ファットガムが叫んだ。
だが、出久は止まらない。
肥大した脚で一気に加速し、狭い路地を駆け抜けていく。
「緑谷!」
切島の声が背中へ飛んできた。
それでも振り返らなかった。
数秒もしないうちに路地の角を曲がり、その巨体が視界から消える。