市街地から外れた一角に、八斎會が敵連合へ用意した拠点があった。
もとはラブホテルだったらしい。
派手な外装はとうに色褪せ、入口脇に残された看板も半分以上の文字が消えている。
営業を終えてから相当な時間が経っているのか、駐車場のアスファルトには雑草が伸び、建物の壁には雨垂れの黒い跡が何本も残っていた。
それでも、中は最低限使えるよう手が入れられていた。
一階のエントランスには古いソファと低いテーブルが並び、受付カウンターの奥には八斎會が持ち込んだ通信機器や書類が雑然と積まれている。
薄暗い照明のせいで、営業当時の妙な装飾だけがやけに目についた。
そのソファへ腰掛けながら、マグネは携帯端末を耳へ当てていた。
「だからさあ、あんたも大阪来なさいよ」
『行かない』
「えー即答?」
『当たり前でしょ』
電話の向こうから返ってきた声は、呆れ半分だった。
レディ・ナガン。
かつて公安直属のヒーローとして活動し、今も表向きはプロヒーローとして社会に姿を見せている女だ。
敵連合と接触を持ちながらも、その立場を完全に捨てたわけではない。
「楽しいわよ、大阪」
『何が』
「食べ物美味しいし、人も多いし、トガちゃんなんて朝からずっと機嫌いいし」
『旅行じゃないだろ』
「似たようなもんよ」
『違うよ』
ナガンが間髪入れずに否定する。
マグネはソファの背へ身体を預け、脚を組んだ。
「ホテルも結構広いわよ。部屋なんて腐るほど余ってるし」
『そこ、潰れたラブホテルなんだろ』
「そうよ」
『なおさら行きたくない』
「何でよ。ベッド広いわよ?」
『冗談じゃないよ』
ナガンが深く息を吐く。
『私、一応まだプロヒーローとして活動してるんだからね』
「あら、一応なんて言っちゃうの?」
『自分でも微妙な立場なのは分かってるよ』
「でもヒーローランキングにも名前残ってるんでしょ?」
『残ってるし、仕事も来るし、巡回だってしてる』
「真面目ねえ」
『そっちが自由すぎるんだよ』
マグネが声を立てて笑う。
「いいじゃない。たまには地方出張ってことで」
『敵連合の拠点に泊まりに行くプロヒーローがどこにいるのさ』
ナガンの即答に、マグネは喉の奥で笑った。
「相変わらず固いわねぇ。せっかく広い部屋が余ってるのに」
『私は観光客じゃないんだよ。それより──』
そこでナガンの声色が少し変わった。
さっきまでの軽口が消え、仕事の話へ切り替える時の落ち着いた声音になる。
『あんた達が取引してる八斎會だけど、なんか最近かなりごたついてるみたいだよ』
「八斎會が?」
マグネは組んでいた脚を解いた。
「何よ、急に。こっちじゃ特に何も聞いてないわよ?」
『だから気になったんだ。そっちには話が回ってないのかと思ってね』
マグネはソファの背から身体を起こす。
八斎會から大阪へ送り出されて以降、連絡は必要最低限だった。
販路開拓について細かな指示こそ来ているものの、東京に残った組の内情までは逐一知らされていない。
「何があったの?」
『個性消失弾だよ』
その単語に、マグネの表情から笑みが薄れた。
『一時期はかなり勢いがあった。裏じゃ本当に市場をひっくり返すんじゃないかってくらい話題になってたよ。ヒーロー相手にも使えるし、敵対組織の切り札も潰せる。欲しがる連中はいくらでもいた』
「そりゃそうでしょうね」
マグネも実物を知っている。
完全に個性を奪う完成品ではなくとも、一定時間使えなくするだけで十分に価値がある。
個性を前提に動くヒーローやヴィランにとっては、それだけで戦況を変えられる武器だった。
『ところが、その供給が突然止まった』
「……突然?」
『ああ。本当にいきなり』
ナガンの声が少し低くなる。
『新しいロットが出てこない。売人も在庫がないって言い始めた。前なら金さえ積めば試作品くらいは回してもらえたのに、今じゃどこへ聞いても同じ返事だよ』
マグネは眉をひそめた。
「売り惜しみしてるとかじゃなくて?」
『その可能性も最初は考えられてた。でも違うみたいだね』
「どう違うの?」
『八斎會が今捌いてるのは、ありきたりな個性ブースト剤ばっかりだ』
マグネが黙る。
個性ブースト剤。
昔から裏社会には存在している、一時的に個性の出力を引き上げる違法薬物だ。
珍しくもない。粗悪品なら地方のチンピラですら手に入れられる。
『質は悪くないらしいけど、それだけだよ。八斎會じゃなきゃ手に入らない代物でもない。少し前まで個性消失弾で市場を席捲しかけてた連中が、急に昔ながらのブースト剤へ逆戻りしてる』
「……変ね」
『でしょ』
マグネは受付カウンターの奥へ視線をやった。
そこには八斎會から渡された資料や連絡端末が置かれている。
大阪へ来る時に預かった消失弾も、まだ一部は手元に残っていた。
だが考えてみれば、こちらへ追加の弾が届くという話は一度も出ていない。
「こっちにはまだ在庫あるわよ」
『大阪に持たせた分?』
「ええ。最初にもらった分だけだけど」
『じゃあ、それが最後のまとまった出荷だった可能性もあるね』
ナガンは少し間を置いた。
『少なくとも東京じゃ、消失弾を探してる連中が相当焦ってる。金なら払う、倍でも三倍でも出すって連中までいるのに、物そのものが出てこない』
「でも、何で?」
『そこまでは掴めてない』
ナガンは即答した。
『材料が手に入らなくなったのか、製造施設で何かあったのか、内部で揉めてるのか。あるいは警察やヒーローに嗅ぎつけられて止めたのかもしれない』
「八斎會なら、その辺りはかなり慎重だったはずよ」
『慎重な組織だって事故は起こすよ』
マグネは顎へ手を添えた。
東京を離れる前、オーバーホールは事業拡大にかなり積極的だった。
関西へ販路を伸ばし、その後さらに地方へ広げる。
敵連合には商品の運搬だけでなく、新規顧客の開拓まで任せるつもりだった。
その直後に、肝心の商品が消えた。
どう考えても不自然だった。
「オーバーホールからは何も聞いてないわね」
『向こうから連絡は?』
「最低限だけ。売れそうな相手の情報とか、金の回収方法とか、そのくらい」
『消失弾の追加については?』
「なし」
なし」
『……やっぱり妙だね』
ナガンの声が電話越しに低くなる。
マグネも返事をせず、受付カウンターに積まれた資料へ目を向けた。
八斎會から渡された連絡用端末、取引先の候補、回収した代金の記録。そのどれを見ても、少なくとも表向きには事業を縮小する気配などなかった。
なのに、肝心の商品だけが出てこない。
何かが起きている。
そう考えるのが自然だった。
「こっちから探り入れた方がいいかしら」
『慎重にした方がいいよ。向こうが隠してるなら、余計なところまで首突っ込んだと思われる』
「でもねぇ。こっちはあいつらの商品抱えて地方まで来てんのよ? いきなり梯子外されたら困るじゃない」
『それはそうだけど──』
ナガンが言いかけた、その時だった。
どこからともなく、微かな音が聞こえてきた。
マグネが眉を上げる。
「……ん?」
『どうした?』
「ちょっと待って」
耳から携帯端末を少し離した。
エントランスは静かだった。
古い空調設備の低い唸りと、どこかで水滴が落ちる音くらいしか聞こえない。
その向こう。
二階か、三階か。
上の方から、人の声が漏れてくる。
『──♪』
最初は何を言っているのか分からないほど小さかった。
だが、少し意識して聞けば分かる。
歌だった。
「……ああ」
マグネは納得して天井を見上げた。
『何?』
「カラオケ」
『は?』
「上でトガちゃんたちがカラオケしてんのよ」
『……ラブホテルにカラオケまで残ってるのか』
「古い機械だけどね。何部屋かまだ動くのよ」
この建物は潰れて久しいものの、八斎會が拠点として使えるよう最低限の電気や水道を復旧させていた。その際、客室に残されていた設備まで一部使える状態になっている。
その一つが、カラオケだった。
本来なら部屋の扉を閉めれば、外へ大きく音が漏れるようなものではない。
もっとも、それも営業していた頃の話だ。
壁は古く、廊下と客室を隔てる防音材も劣化している。
場所によっては天井板まで少し浮き、音が建物全体へ抜けてしまう。
そのため。
『~~♪』
また歌声が聞こえた。
今度はさっきより少し大きい。
高く、楽しそうな声。
「トガちゃんね」
『よく分かるね』
「そりゃ分かるわよ。毎日聞いてるんだから」
マグネは再びソファへ背を預ける。
しばらくすると、トガの声に重なるように、もう一つ別の声が聞こえてきた。
『……♪』
こちらは小さい。
音程も危なっかしい。
歌詞を追うのに精一杯なのか、ところどころ遅れ、トガの声についていこうとして慌てているのが一階からでも何となく分かった。
マグネの表情が僅かに緩む。
「壊理ちゃんも歌ってるわね」
『壊理って……この前言ってた家出少女の事よね』
「ええ」
ナガンも存在だけは聞いている。
八斎會の車へ紛れ込み、そのまま敵連合と一緒に大阪まで来てしまった少女。
詳しい事情はまだ分からない。
本人も、八斎會についてはほとんど話そうとしなかった。
ただ一つ確かなのは、戻ることを異常なほど恐れているということだけだった。
その時、エントランスの自動ドアが鈍い音を立てて開いた。
外の湿った空気が流れ込み、マグネが何気なくそちらへ目を向ける。
フードを目深に被った少年が、一人で入ってきた。
出久だった。
歩き方そのものは普段と変わらない。
ただ、服のあちこちに埃が付き、袖口には擦れた跡がある。拳には薄く血が滲み、頬にも小さな傷が残っていた。
マグネは一瞬だけ眉を上げる。
「……あら」
『どうしたの?』
「ボスが帰ってきたわ」
出久は電話中のマグネへ軽く視線を向けただけで、何も言わなかった。
そのままエントランスの奥まで歩き、空いていたソファの前で足を止める。
そして。
「……疲れた」
そう呟くなり、身体を投げ出すように寝転がった。
古いソファがぎしりと軋む。
背もたれへ頭を預けるでもなく、横向きになって長いソファをほとんど一人で占領する。
片腕を額へ乗せ、もう片方は腹の上へ置いた。
相当疲れているらしい。
マグネはその様子を眺めながら、電話へ戻った。
「じゃあね。また何か分かったら連絡して」
『分かった。そっちも八斎會の動きには気をつけな』
「はいはい」
『あと、その家出少女のこと──』
「それもまた今度」
『ちょっと──』
「じゃあね」
マグネは有無を言わせず通話を切った。
画面が暗くなる。
携帯端末をテーブルへ放り、そのままソファの反対側に寝転がる出久へ身体を向ける。
「お疲れ様」
「……うん」
出久は腕を額へ乗せたまま答えた。
「随分くたびれてるじゃない」
「ちょっと色々あって」
「色々?」
「色々」
説明する気はないらしい。
マグネは追及せず、出久の服についた埃や擦れた跡を改めて眺めた。
「取引はどうだったの?」
「駄目だった」
返事は早かった。
「駄目?」
「うん」
出久がゆっくり腕を額から退ける。
「向こう、お金ほとんど持ってなかった」
「あらまあ」
「最初から商品だけ奪うつもりだったみたい」
マグネの口元から笑みが消える。
「またそういう連中?」
「今回は前より酷かったかな」
出久は天井を見上げた。
「話してる途中で人数増やしてきたし、武器も持ってた。こっちが断ったら力ずくで取ろうとしてたみたい」
「それで?」
マグネが続きを促す。
出久は天井を見たまま、しばらく黙っていた。
「その後、色々あって」
「色々って便利な言葉ね」
「……うん」
「で、その連中は?」
「ヒーローが拘束した」
マグネが瞬きをする。
「ヒーロー?」
「途中で来たんだ。だから、その人たちはもう任せてきた」
「へえ……」
どう考えても、その一言で終わるような出来事ではない。
服についた埃。
擦れた袖。
拳に残った血。
何より、普段ならもう少し順序立てて説明する出久が、今日は明らかに話を切り上げようとしている。
「そのヒーローとは何もなかったの?」
「……」
「緑谷ちゃん?」
「疲れた」
それだけ言うと、出久は再び片腕を額へ乗せた。
話は終わり。
そう態度で示している。
マグネは少しだけ眉を上げたものの、それ以上は聞かなかった。
「まあ、商品まで取られなかったなら最低限は良かったわね」
「うん」
「代金ゼロだけど」
「……うん」
「赤字だけど」
「分かってるますよ」
返事が少しだけ不機嫌になった。
マグネはくすりと笑う。
「はいはい。今日はもう苛めないでおいてあげるわ」
出久から返事はなかった。
そのまま目を閉じてしまう。
上の階からは、まだカラオケの音が漏れていた。
トガの元気な歌声と、それを追いかける壊理の小さな声。
時折どちらかが笑っているらしく、歌が途中で途切れることもある。
出久は眠っているらしい。
少なくとも、最初はそう見えた。
十分ほど経った頃だった。
「……ん」
ソファから小さな声がした。
マグネが顔を上げる。
出久が眉間へ皺を寄せていた。
眠りながら何か嫌な夢でも見ているのかと思ったが、違うらしい。鼻を僅かに動かし、顔をしかめながら身体の向きを変える。
「……くさ」
「ん?」
出久の目が開いた。
寝起きで焦点の合わない目のまま、何度か瞬きをする。
それから周囲を見回し、もう一度鼻を動かした。
「……」
マグネが不思議そうに見ていると、出久はゆっくり上半身を起こした。
髪が少し乱れている。
「どうしたの?」
「……引石さん」
「なに?」
出久はソファの背もたれへ手を置き、顔を顰めたまま辺りを見回す。
「分倍河原さん、またここでたばこ吸ってました?」
「……ああ」
マグネは一瞬考えてから、昨日の夜を思い出した。
「吸ってたわね」
「やっぱり」
出久の顔がさらに嫌そうになる。
「何で分かるのよ」
「臭い残ってます」
「そんなに?」
出久は自分の服の襟を軽く引っ張り、そちらの臭いまで確認している。
「最悪だ……あんなに外で吸ってって言ったのに」
「本人は窓開けてたからセーフって言ってたわよ」
出久は不満そうに呟きながら立ち上がり、エントランスの隅にある古い換気扇へ目をやった。
動いてはいるが、羽根が回るたびに頼りない唸りを上げるだけで、とても室内に染みついた煙草の臭いまで追い出せそうにはない。
マグネが笑った、その時だった。
上の階で鳴っていたカラオケの音が止んだ。
少し遅れて、廊下の奥からぱたぱたと軽い足音が聞こえてくる。
エレベーターはとうの昔に壊れているため、使えるのは階段だけだ。
やがて二階へ続く階段の辺りから、聞き慣れた声が響いた。
「喉かわきましたー!」
「……かわいた」
「いっぱい歌いましたからねえ!」
最初に姿を見せたのはトガだった。
その後ろから壊理が慎重に階段を下りてくる。
大阪へ来た当初に比べれば、歩き方にも随分と余裕が出ていた。
以前は知らない場所へ移るだけで周囲を警戒し、誰かの服を掴んでいなければ落ち着かなかったが、今ではトガの手を借りながらも自分の足で階段を下りている。
「ジュース飲みましょう、壊理ちゃん」
「うん」
「何にします? オレンジ? メロンソーダ? コーラもありますよ」
「……リンゴ」
「壊理ちゃん、リンゴ好きですよねえ」
エントランスの隅には、営業当時に使われていた古いドリンクバーが残っていた。
機械そのものはかなり年季が入っているが、八斎會の人間が中身だけ交換したらしく、今のところ問題なく使えている。種類は少ないものの、炭酸飲料やジュース、コーヒー程度なら自由に飲めた。
現在はコンプレスがメンテナンスをマメに行っている。
片手に古いマイクを持ったまま、もう片方の手で壊理の手を引いて階段を下りてくる。
トガは真っ直ぐそちらへ向かおうとした。
しかし壊理は、階段を下り切ったところで足を止める。
「……?」
トガもつられて立ち止まった。
「どうしました?」
壊理は答えない。
赤い瞳が、エントランスの中央へ向けられている。
そこには、窓を開けたばかりの出久が立っていた。
「……」
壊理の目が大きくなる。
「デクさん!」
声が明るく弾んだ。
次の瞬間、トガの手を離し、そのまま駆け出す。
「あ、壊理ちゃん!」
小さな足音がエントランスへ響いた。
出久も声に気づいて振り返る。
「え?」
その頃には、壊理はもうすぐ近くまで来ていた。
「デクさん!」
「うわっ」
勢いのまま飛び込んできた壊理を、出久は慌てて受け止める。
胸元へ小さな身体がぶつかり、出久が半歩だけ後ろへ下がった。
「おかえり!」
「た、ただいま……」
出久が少し面食らいながら答えると、壊理は満足したように小さく頷いた。
それでもすぐには離れず、服の裾を掴んだまま出久の顔を見上げている。
「デクさん、おしごとだった?」
「うん。まあ、そんなところ」
「つかれた?」
「ちょっとね」
壊理はそこで初めて、出久の頬や拳に残る小さな傷へ気づいたらしい。
表情を曇らせかけたが、出久が先回りするように笑った。
「大丈夫だよ。もう終わったから」
「……ほんと?」
「ほんと」
壊理はしばらく疑うように出久を見つめていたが、やがて納得したのか、もう一度だけ頷いた。
「それより、喉渇いてたんでしょ?」
「あ」
思い出したようにドリンクバーを見る。
「リンゴ」
「リンゴジュース?」
「うん」
「じゃあ入れておいで」
出久がそう言うと、壊理はようやく服から手を離した。トガのところへ戻り、棚から紙コップを一つ取る。
トガに促され、壊理が小さな指でボタンを押した。
何も出ない。
「……?」
もう一度押す。
機械の内部から、ご、と鈍い音が鳴っただけだった。
壊理は首を傾げる。
「でない」
「あれ?」
トガが代わりにボタンを押した。
やはり出ない。
隣のオレンジジュースを押せば、こちらは問題なく流れてくる。炭酸飲料も同じだった。
「リンゴだけないですね」
トガが機械の下を覗き込む。
出久も近づいた。
「切れてるんじゃない?」
「たぶんそうですねえ」
壊理は空の紙コップを持ったまま、リンゴジュースの表示を見上げていた。
「……ない?」
「みたい」
出久が答えると、壊理はほんの少し残念そうに目を伏せた。
その変化は小さかった。
駄々をこねるわけでもない。
もう一度ボタンを押すわけでもない。
ただ紙コップを両手で持ち直し、隣のオレンジジュースへ視線を移した。
「じゃあ……ほかのでいい」
「いいの?」
「うん」
「メロンソーダにします?」
トガが勧める。
壊理は少し考えて、首を横へ振った。
「オレンジにする」
「そっか」
出久はそう答えながら、リンゴジュースの表示を見た。
別に大したことではない。
ただジュースが一種類切れているだけだ。
壊理自身も我慢すると言っている。
けれど。
「……買いに行こうか」
壊理が顔を上げた。
「え?」
「リンゴジュース」
出久はドリンクバーを指した。
「せっかく飲みたかったんでしょ?」
「でも……」
「近くにスーパーありましたよね」
マグネへ尋ねる。
「あるわよ。歩いて十分くらい。大通り沿いのところ」
「じゃあ、そこ行ってきます」
マグネが目を丸くした。
「わざわざ?」
「散歩ついでに」
壊理の表情が少し明るくなった。
「私も行きます!」
当然のようにトガが手を上げる。
「というか私がいないと駄目ですよ」
「何で?」
「デク君、自分の顔忘れてません?」
「あ」
出久が固まった。
全国指名手配。
少し前まで元クラスメイトと殴り合っていたせいで、その事実を一瞬忘れていた。
トガは腰へ手を当て、呆れたように首を振る。
「駄目ですねえ。普通にその格好でスーパー行くつもりだったんですか?」
「フード被れば……」
「駄目です」
「でも今までそれで」
「今日は私がいますから、ちゃんとしましょう」
トガは嬉々として階段を駆け上がり、数分もしないうちに小さな鞄を抱えて戻ってきた。
出久には帽子と伊達眼鏡、それからマスク。髪型も少しだけ崩して、普段の印象から外す。
壊理には額の角が目立たないよう帽子を被せ、髪を整える。
トガ自身も帽子を被り、いつもの髪型を少し隠した。
「はい、終わりです」
「早いね」
「スーパーへ行くだけですからね。別人になる必要はありません」
トガは出久を上から下まで確認し、満足そうに頷いた。
「じゃあ行きましょっか!」
三人はそのままホテルを出た。
古びた自動ドアが背後で閉まり、薄暗いエントランスから一転して、まだ明るさの残る外へ出る。
市街地から少し離れているため、周囲を歩く人は少ない。
道路沿いには古い工場や倉庫、小さな飲食店が点々と並んでいた。
目的のスーパーまでは、本当に十分ほどだった。
大通りへ出ると、住宅街との境目に中規模のスーパーが見えてくる。駐車場には軽自動車や自転車が並び、入口では夕飯の買い物に来たらしい客が絶えず出入りしていた。
「ここですね!」
トガが看板を見上げる。
「結構大きいね」
「リンゴ、ある?」
壊理が出久の袖を引いた。
「たぶんあるよ」
「いっぱいありますよ、きっと!」
トガが自動ドアを指差し、そのまま先頭に立って中へ入っていく。
冷房の効いた空気が三人を包んだ。
店内は夕方前ということもあって、それなりに混んでいた。
総菜売り場では揚げ物の匂いが漂い、野菜売り場の向こうでは店員が品出しをしている。
買い物籠を腕へ掛けた主婦や仕事帰りらしい客の間を、三人はなるべく目立たないように歩いた。
「壊理ちゃん、こっちですよ」
「うん」
「走らないでくださいね」
出久は帽子のつばへ軽く触れながら周囲を確認する。
誰もこちらを気にしていない。
当然といえば当然だった。
テレビで何度も顔が流れたとはいえ、帽子と眼鏡とマスクで顔の大部分は隠れている。
服装もヴィランらしいものではなく、どう見てもただ買い物へ来た若者にしか見えない。
壊理も帽子で角が隠れているため、一見すれば普通の少女だった。
三人は生鮮食品の棚を抜け、そのまま飲料コーナーへ向かった。
炭酸飲料。
お茶。
スポーツドリンク。
果汁飲料。
棚一面に様々な色のペットボトルや紙パックが並んでいる。
「ありました!」
トガが果汁飲料の棚へ駆け寄る。
壊理もその後をついていった。
「リンゴ……」
小さな声が漏れる。
目の前にはリンゴジュースだけでも何種類か並んでいた。
透明なペットボトルに入ったもの。
一リットルの紙パック。
小さな飲み切りサイズの紙パック。
果汁百パーセントと大きく書かれたものまである。
壊理は目を丸くした。
「いっぱい……」
「いっぱいありますねえ」
トガが嬉しそうに笑う。
「どれがいいです?」
「……」
壊理は真剣な表情で棚を眺めた。
一つを見て、隣を見る。
少し考えて、また戻る。
どうやら種類が多すぎて決められないらしい。
「これ、ホテルのドリンクバーに入れられるかな」
出久が大きめのパックを一本手に取る。
「たぶん大丈夫じゃないですか?」
「コンプレスさんに聞かないと分からないけど」
「壊理ちゃん用なら普通に飲めばいいですよ」
「それもそうだね」
すると壊理が、小さな紙パックを指差した。
「これ」
「これがいい?」
「うん」
赤いリンゴの絵が大きく描かれた、子供向けの小さな紙パックだった。
「じゃあそれにしよっか」
出久が棚から数本取る。
「何本です?」
「とりあえず六本くらい?」
「もっと買いましょうよ」
「そんなに飲む?」
「私も飲みます」
「トガちゃん用だったの?」
「みんなで飲めばいいじゃないですか」
結局、小さな紙パックを何本かと、ホテル用に大きな一リットルパックも二本買うことになった。
壊理は買い物籠の中へ入ったリンゴジュースを覗き込み、満足そうにしている。
「これで帰ったら飲めるね」
「うん」
「もう喉乾いてないです?」
「かわいてる」
「じゃあ会計したら一本飲みましょう!」
「うん」
壊理の返事が、さっきより少しだけ弾んだ。
出久はその様子を見て、小さく笑う。
「じゃあレジ行こっか」
三人は飲料売り場を離れた。
夕方の店内は、入ってきた時より客が増えていた。
レジ前には短い列ができ、店員たちも慌ただしく商品の補充や回収に動いている。
出久は人を避けながら歩いた。
壊理が周囲へ気を取られ、少し遅れそうになる。
「壊理ちゃん、こっち」
「うん」
出久は振り返りながら歩調を落とした。
その時だった。
横の通路から誰かが出てきた。
声に反応して顔を向けたのと、身体がぶつかったのはほとんど同時だった。
「わっ」
「あっ!」
肩と肩がぶつかる。
出久が半歩よろめき、相手が抱えていた商品用の小さな段ボール箱が傾いた。
「危ない!」
反射的に手を伸ばす。
箱の底を支える。
中に入っていたペットボトルが数本、がたがたと音を立てたものの、床へ落ちることはなかった。
「す、すみません!」
女性店員が慌てて頭を下げた。
「こっちこそ、ごめんなさい。よそ見してて」
出久もすぐに謝る。
「大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です。すみません、ありがとうございます……」
少しくぐもった声だった。
相手はスーパーの制服を着ていた。
若い女性。
髪は後ろで簡単にまとめられているが、あちこちから毛先が飛び出している。
白いマスクが口元を覆い、目の下には濃い隈が浮かんでいた。
酷く疲れているように見える。
出久はそう思いながら、支えていた段ボール箱から手を離した。
「本当に大丈夫ですか? 結構重そうですけど」
「あ、はい。大丈夫です。これくらいなら──」
女性店員が答えながら顔を上げる。
その視線が、出久の顔へ向いた。
出久は帽子を深く被り、伊達眼鏡を掛け、口元はマスクで隠している。顔の大半は見えないし、髪型もトガが少し弄っていた。
通りすがりの人間が一目見ただけで正体に気づくような格好ではない。
だから、出久も油断していた。
「……」
女性店員の動きが止まった。
「……?」
出久は首を傾げる。
店員は何も言わない。
ただ、じっとこちらを見ている。
正確には、出久の目を。
帽子と眼鏡の隙間から覗く緑色の瞳を、信じられないものでも見るように凝視していた。
「……あの?」
「…………え」
ようやく声が漏れた。
出久の眉が僅かに寄る。
何だろう。
どこかで聞いたことのある声だった。
「……」
嫌な予感がした。
出久も改めて女性店員を見る。
後ろでまとめられた茶色い髪。頬の辺りまで覆う白いマスク。
疲労のせいで目元はかなりやつれているが、それでも見覚えのある顔立ちだった。
相手も同じだったらしい。
目の前の少年の顔はほとんど隠れている。
それでも、立ち姿や仕草まで完全に隠せるはずがなかった。
「……デ」
店員の唇が動く。
「デク……君?」
出久の身体が固まった。
「……」
数秒、互いに動かなかった。
スーパーの店内放送が妙に大きく聞こえる。
『本日、鮮魚コーナーでは──』
すぐ近くを買い物客が通り過ぎる。カートの車輪が床を転がり、レジからは電子音が規則的に響いている。
そんな日常の真ん中で、二人だけが完全に停止していた。
先に動いたのは女性店員だった。
「……え」
目がさらに大きくなる。
「えっ?」
抱えている段ボール箱が、また傾いた。
「危ない!」
出久が再び支える。
「あっ、ご、ごめ──」
女性店員は箱を抱え直し、それからもう一度出久を見た。
指名手配されてから行方が分からなくなり、雄英を離れ、自分たちの前から姿を消した少年が、なぜか大阪のスーパーで変装して買い物をしている。
「デ、デク君……?」
「……」
「デク君やんね?」
今度ははっきりとした問いだった。
関西へ戻ってから日常的に使うようになった方言が、動揺のせいで強く出ていた。
出久は答えなかった。
答えなくても、もう遅かった。
目の前にいるのは──
「麗日……さん?」
麗日お茶子、神野の悪夢にて人生を投げ打ってまで出久を助けた元同級生。
「……うん」
小さく返事が返ってきた。
生きていた、こんな場所で出会えるなんて思っても居なかった。
こんな場所で。
こんな普通のスーパーで。
買い物籠まで持って。
「……何してんの?」
「買い物」
「それは見たら分かるけど!」
思わず声が大きくなり、お茶子は慌てて自分の口を押さえた。
「なんでデク君が普通に買い物してんの……? 捕まっちゃうよ……?」
「色々あって」
「色々って何……?」
お茶子の視線が買い物籠へ落ちる。
中身はリンゴジュースだった。
小さな紙パックが何本も入っている。さらに一リットルの大きなパックが二本。
「……リンゴジュース?」
「うん」
「デク君、そんなリンゴジュース好きやったっけ?」
「いや、僕じゃなくて──」
「デクさーん」
「……え?」
お茶子が声がした方を見る。
人混みの向こうから、小さな女の子が歩いてきていた。
帽子を被り、その下から白っぽい髪を覗かせた少女。
壊理だった。
少し離れた棚の商品を見ていたらしく、出久が立ち止まっていることに気づいて戻ってきたのだろう。
「デクさん、どうしたの?」
「……壊理ちゃん」
壊理はお茶子にはほとんど注意を向けず、出久の横まで来ると、ごく自然に彼の服の裾を掴んだ。
お茶子は、出久の隣に立った少女を見つめた。
どう見ても小学生くらいだろうか。帽子の下から白っぽい髪が覗き、赤い瞳で出久を見上げている。何より気になったのは、その距離の近さだった。
知らない大人へ寄っていく子どもの距離ではない。
壊理は何の警戒もなく出久の服を掴み、出久もそれを気にした様子すらない。
むしろ、少し遅れてきた少女が無事に自分のところまで来たことを確認するように、ごく自然な仕草で頭へ手を置いた。
「どうしたの? 何か欲しいものあった?」
「ううん」
お茶子は黙って二人を見ていた。
何だろう。
妙に慣れている。
いや、それ以前に。
「……デク君」
「何?」
「その子……誰?」
「ああ」
出久が壊理を見る。
「壊理ちゃん」
「……」
「今、一緒に暮らしてる子」
「…………え?」
お茶子の口から、間の抜けた声が漏れた。
出久は何がおかしいのか分からないらしく首を傾げている。
「一緒に?」
「うん」
「暮らしてる?」
「そうだけど」
お茶子は壊理を見る。
次に出久を見る。
もう一度、壊理を見る。
「…………子ども?」
「うん?」
「子ども!?」
声が裏返った。
抱えていた段ボール箱がまた大きく傾き、今度はお茶子自身が慌てて抱え直す。
「えっ、ちょっ、待って!? デク君、子ども!?」
「子どもおるん!?」
「何でそうなるの!?」
出久が即座に否定した。
お茶子は混乱していた。
当然だった。
人生をドロップアウトしてまで助けた、助けてしまった元同級生と、こんなところで突然再会したのだ。
「だ、だって一緒に暮らしてるって!」
「暮らしてるけど僕の子じゃないよ!」
「そ、そうなん!?」
「当たり前でしょ!」
「そ、そうやんな! そうやんなあ!」
お茶子は何度も頷いた。
考えてみれば当然だ。年齢を考えればおかしい。
いや、しかし。
「じゃあ……親戚?」
「違うよ」
「妹?」
「違う」
「……養子?」
「何で家族関係から離れないの!?」
「だって一緒に暮らしてるって言うから!」
「他にもいるんだよ!」
「他にも!?」
お茶子の頭がますます混乱する。
壊理は二人の会話についていけず、不思議そうに出久を見上げていた。
「デク君~」
今度は別の声が飛んできた。
「あ、トガさん……」
「お待たせしました」
人混みの間から、帽子を被った少女が現れた。
手には菓子袋を二つ持っている。
「壊理ちゃん、見てください。リンゴ味のお菓子もあったんですよ」
「リンゴ?」
「はい。せっかくですし、これも買って帰りましょう」
トガはそう答えながら出久の隣まで来ると、何の躊躇もなくその腕へ自分の腕を絡ませた。
「……は?」
お茶子の目が再び点になった。