敵連合のアジトとして使われている、潰れたラブホテル。
その一階、薄暗いエントランスのソファに、麗日お茶子は座っていた。
ついさっきまでスーパーの制服を着て働いていたはずなのに、バイトを途中で抜け出して気づけばこんな場所まで来てしまっている。
壁には色褪せた装飾が残り、受付カウンターの奥には古い鍵箱や通信端末、誰のものとも知れない紙袋や空き缶が雑然と積まれていた。
営業当時の名残なのか、天井には妙に凝った照明がぶら下がっている。いくつかは切れているらしく、点いているものだけが中途半端に室内を照らしていた。
「……」
お茶子は正面を見た。
向かい側のソファに、緑谷出久が座っている。
スーパーにいた時の帽子と伊達眼鏡は外されていた。マスクもない。見慣れていたはずの緑色の髪と顔が、数か月ぶりにそのまま目の前にある。
ただし、服装は雄英の制服ではない。
当然だった。
彼はもう雄英の生徒ではなく、全国指名手配されているヴィランなのだから。
「……」
「……」
会話が続かない。
出久は膝の上で両手を組み、妙に姿勢よく座っていた。
明らかに気まずそうだった。
お茶子も気まずい。
何から話せばいいのか分からない。
スーパーで再会した時には、驚きの方が大きかった。
生きていた。
大阪にいた。
普通にリンゴジュースを買っていた。
知らない子どもと暮らしていた。
そしてトガヒミコと腕を組んでいた。
情報量が多すぎて、その場ではまともに考える余裕などなかった。
気づけばトガに、『せっかくだし来ます?』
と誘われ。
出久が、
『……話したいこともあるし』
などと言い。
さらに壊理まで、
『お姉さんも来る?』
と無邪気に尋ねてきた結果。
断るタイミングを完全に失ってしまった。
もちろん、普通に考えれば来ていい場所ではない。
敵連合のアジトなのだから。
自分はもうヒーロー科ではないとはいえ、だからといってヴィランの根城へ遊びに来ていい理由にはならない。
それでも。
出久がいた。
生きていた。
その事実だけで、足が止まらなかった。
「……えっと」
出久が先に口を開いた。
お茶子の肩が僅かに跳ねる。
「う、うん」
「……何か飲む?」
「え?」
「ジュースとか。コーヒーとか。ドリンクバーあるから」
「ラブホテルって……そう言うのあるんやね」
「え!? う、うん。そうみたい」
「……詳しいんだね」
また沈黙した。
出久が視線を逸らす。
お茶子も逸らした。
「……」
「……」
少し離れた場所では、5人の男女がこちらを見ていた。
受付カウンターの陰から顔だけ覗かせているコンプレスとスピナー。
ドリンクバーでオリジナルカクテルを作るトゥワイス。
その隣で腕を組んでいるマグネ。
さらにマグネの肩越しから、トガが半分ほど身を乗り出している。
「……何あれ」
マグネが小声で言った。
「お見合い?」
「違うでしょう」
コンプレスが即座に否定する。
「どう見ても尋問前の空気だよ」
「でも二人とも何も喋りませんねえ」
トガが不思議そうに首を傾げた。
「もっとこう、再会を喜んで抱きついたりしないんですか?」
「状況考えなさいよ、修羅場ってやつなの」
「修羅場って何だ!?」
トゥワイスがドリンクバーの前で声を上げた。
「だから声が大きいのよ」
「お前も十分でかいぞ」
スピナーが呆れたように口を挟む。
ひそひそ話しているつもりなのだろうが、古いエントランスは妙に音が響く。
少し離れている程度では、内容までほとんど筒抜けだった。
お茶子はそちらへちらりと視線を向けたものの、何も言わなかった。
今は、彼らに構っている場合ではない。
正面にいる出久へ視線を戻す。
「デク君」
「……うん」
「全部、説明して」
出久の表情が固まった。
「全部って……」
「全部」
「いや、その……何から?」
出久は露骨に困った顔をする。
お茶子はしばらく黙っていたが、やがて両手をテーブルへ置いた。
「デク君が何でこうなったんか。何で敵連合におるんか。神野で何があったんか。それより前から何してたんか。何で雄英に入ったんか。何で──」
言葉が詰まり、一度息を吸う。
「何で、私らに何も言わんかったんか」
「麗日さん……」
「全部!!」
ばん、とお茶子の両手がテーブルを叩いた。
古びた天板が大きく震え、その上に置かれていた灰皿が跳ねる。
遠巻きに見守っていた五人も、一斉に黙った。
出久は目を見開いたままお茶子を見る。
お茶子自身も、思った以上に大きな音が出たことへ少し驚いたらしい。
だが、手を引っ込めることはなかった。
「もう分からんままは嫌や」
声だけが少し小さくなる。
「ニュースで好き勝手言われて、学校でも誰もちゃんと分からんくて、先生らも何も教えてくれへんかった。デク君が何考えてたんかも、何であんなことしたんかも、私は何も知らんままやった」
出久は何も返さない。
「私……あの時、デク君を逃がした」
「うん」
「そのせいで雄英辞めることになった」
「……うん」
「でも、それでもええって思ってやったんよ」
お茶子の指先が僅かに震える。
「やのに、その助けた本人が何してたんかすら分からんって、おかしいやろ」
声に怒りは残っていた。
けれど、それ以上に疲れていた。
出久はしばらく俯いていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……分かった」
その返事に、お茶子の肩から僅かに力が抜ける。
「本当に全部?」
「全部」
出久はそう答えると、膝の上で組んでいた手をほどいた。
どこから話すべきなのか考えるように、自分の掌を見る。
「じゃあ……一番最初から」
「うん」
「僕、本当は無個性だったんだ」
お茶子が瞬きをした。
「……え?」
「生まれつき、個性がなかった」
「ちょ、待って」
早くも理解が追いつかなかった。
「デク君、個性あるやん」
「今はね」
「今はって……」
「雄英に入る前に、もらったんだ」
お茶子の眉が寄る。
出久は一度だけ目を閉じ、それから続けた。
「オール・フォー・ワンから」
空気が止まった。
遠巻きに見ていたスピナーすら目を丸くする。
「……そーなのか!?」
お茶子は彼らの声など聞こえていないようだった。
「……オール・フォー・ワン」
「神野におった、あの?」
「うん」
「……デク君、個性もらったん?」
「もらった」
お茶子は完全に言葉を失った。
雄英でずっと一緒だった。
訓練で何度も出久の個性を見た。
「どうして……」
「僕が欲しかったから」
「……」
出久は静かに言う。
「小さい頃からヒーローになりたかった。でも無個性じゃ無理だった。お医者さんにも無個性だって言われて、周りからも無理だって言われて、それでも諦められなくて」
昔を思い出すように、僅かに視線が落ちる。
「そんな時に、オール・フォー・ワンと会った」
「……続けて」
「個性を与えてくれた、その個性で雄英に入学した。でも、見返りとして内通者として活動する様に言われたんだ」
今度こそ、お茶子の顔から表情が消えた。
「雄英に……最初から?」
「うん」
「最初から、敵側やったん?」
「そうなる」
お茶子が額へ手を当てる。
「待って。ほんまに待って」
「うん」
「入試の時から?」
「入試の時はまだ……かな」
「そっか……いや、うん。わかった」
お茶子は長く息を吐いた。
怒るべきなのか、呆れるべきなのか、それすら分からない。
「じゃあ、USJは……」
「僕が直接場所を教えたわけじゃない。でも、雄英の情報は流してた」
「……」
「セキュリティを止めたのも僕」
お茶子が顔を上げた。
「何?」
「USJ襲撃の前に、雄英のセキュリティを一時的に停止させた」
「デク君が?」
「うん」
「あの時……学校にマスコミ入ってきたやろ」
「それも僕がやった」
「……」
お茶子は何も言えなかった。
あの頃、誰もが外部からの侵入だと思っていた。
雄英の警備網が突破されたこと自体が大問題になっていた。
その原因が、目の前の少年だった。
「次は……職場体験」
「まだあるん?」
「いっぱいある」
「……そか」
お茶子はソファへ深く座り直した。
もう少し構えなければ最後まで聞けない気がした。
出久も覚悟を決めたように息を吐く。
「保須でステインと会った」
「それは知ってる。飯田君を助けに行ったんやろ?」
「……うん。そして、ステインを殺した」
お茶子が止まった。
「……は?」
「ステインを殺した」
お茶子の声が掠れる。
「ステイン、死んだん?」
「うん」
「報道では……」
「消息不明、ヒーロー殺しは途切れたって報道されてるね」
「……何で?」
「まず、ステインは僕なんかよりずっと強かった、そして恐ろしかった。少しでも手を緩めれば殺される、誰かを傷つけられると思って滅茶苦茶に戦って……手加減なんか出来なかった」
「……」
「ごめん。言い訳みたいになっちゃった。僕が殺して、オール・フォー・ワンに死体の隠蔽をしてもらったんだ」
言い訳をしない。
自分がしたことを少しでも軽く見せようともしていない。
そのことが逆に、お茶子には堪えた。
「次は林間学校」
出久は続ける。
「襲撃するために、僕がGPSを持ち込んだ」
「……GPS」
「僕らの居場所を知らせるための発信器」
お茶子の顔が徐々に青ざめていく。
「あの襲撃……」
「僕がいた場所を敵連合に教えた。結果的には校長の仕掛けた罠で、僕らはまんまと引っ掛かってしまったんだけどね」
「それから、ラグドール」
出久がそこで僅かに言葉を止めた。
お茶子は嫌な予感しかしなかった。
「プッシーキャッツのラグドールを殺した」
お茶子は唇を開いたが、声が出なかった。
ワイルド・ワイルド・プッシーキャッツ。
林間合宿で世話になったプロヒーロー。
明るく、騒がしく、生徒みんなのサポートをしてくれた彼女は、確かにあれ以降表舞台には立っていない。
事務所発表では長期休養、しかし実際には。
「……ほんまに?」
「うん」
「事故とかやなくて?」
「僕が殺した」
「誰かに操られて?」
「違う」
「脅されて?」
「……違うよ」
出久はお茶子の目を見る。
「僕がやった。彼女の個性『サーチ』によって捕まるのを恐れて」
逃げ道を全部自分で塞いでいくようだった。
お茶子は膝の上で拳を握った。
爪が掌へ食い込む。
「……神野は」
「うん」
「神野で、デク君とオールマイトが戦ってたのは見た」
「僕はヴィラン側だった」
「それは……分かってる」
「オールマイトと、通形先輩に負けた」
「……」
「そこを麗日さんが助けてくれた」
お茶子の喉が僅かに動く。
忘れようとしても忘れられない。
傷だらけの出久。
その出久へ迫るヒーロー。
身体が勝手に動いた。
あの瞬間、自分は何が正しいのかなど考えていなかった。
ただ、出久が捕まるのが嫌だった。
「それで僕は逃げられた」
「……うん」
「麗日さんが助けてくれなかったら、たぶん今ここにはいない」
「……」
「ありがとう」
お茶子が顔を歪めた。
「今、そのタイミングでありがとう言うん?」
「でも本当だから」
「もっと早く言いや!」
「ご、ごめん!」
反射的に謝った出久に、お茶子は一瞬だけ昔の彼を見た気がした。
だが、それに浸る余裕はない。
「それで、神野の後は?」
「敵連合と一緒に逃げた」
「うん」
「その後もしばらく色々あって」
「色々禁止」
「……はい」
出久は少し姿勢を正した。
「今は?」
「死穢八斎會と協力関係にある」
「えーと……」
「指定敵団体っていう、所謂ヤクザだよ」
「……ヤクザの人達と何してんの?」
「薬の販売」
お茶子の目が細くなる。
「デク君」
「はい」
「その説明だけやと怖すぎるんやけど」
「個性ブースト剤とか、個性を一時的に使えなくする薬」
「……」
「八斎會から商品を預かって、僕らが関西で販路を広げてる」
「つまり」
「売人」
「自分で言うんや……」
「実際そうだから」
お茶子は頭を抱えたまま、しばらく動かなかった。
お茶子は両手で顔を覆い、一度深く息を吐く。
「無個性……オール・フォー・ワン……内通者……ステイン……ラグドール……ヤクザ……」
確認するように呟く。
「薬売ってる……」
「うん」
「そこだけ返事せんでええ」
「ごめん」
また素直に謝る。
お茶子は指の隙間から出久を見た。
昔と同じところもある。
謝る時の顔。
少し困ると視線を下げる癖。
説明しようとすると必要以上に細かくなるところ。
なのに、話している内容だけがあまりにも昔の緑谷出久から遠い。
「……でも」
お茶子はゆっくり手を下ろした。
頭の中で一つずつ整理していくうちに、別の疑問が浮かんでいた。
いや。
最初から、ずっと引っかかっていたことだった。
「デク君」
「うん」
「なんで教えてくれなかったの?」
出久が黙る。
「……」
「それ」
お茶子は真っ直ぐ彼を見る。
「一番分からん」
「……」
「内通者やったとか、オール・フォー・ワンに個性もらったとか、そりゃ簡単に言えることちゃうのは分かるよ」
実際、今聞かされただけでも頭が追いついていない。
「でも、私らずっと一緒におったやん」
「……うん」
「何かおかしいことあるなら、言ってくれても良かったやん」
出久の指が僅かに動いた。
「全部言えんでもええ。助けてって言うとか、怖いって言うとか、何かあるって匂わせるとか……なんでも良かったやん」
「麗日さん」
「私だけやないよ」
お茶子は被せる。
「飯田君も、轟君も、切島君も、みんなおった。先生らだっておった。オールマイトだって──」
そこで一瞬言葉に詰まる。
「……敵側におった人へ、こんなん言うの変かもしれんけど」
「ううん」
「なんで一人で抱えてたん?」
出久はすぐには答えなかった。
膝の上で組んでいた手を見つめる。
少し離れたところで聞き耳を立てていた敵連合の面々も、いつの間にか静かになっていた。
やがて出久が口を開く。
「……言えなかったんだ」
「何で?」
「正確には、言ったら駄目だった」
お茶子の眉が寄る。
「駄目?」
「うん」
出久は少し迷ってから、自分の胸元へ手を置いた。
「逆らえば母さんを殺すって脅された。それと、僕がオール・フォー・ワンから個性をもらった時、もう一つ……保険を掛けられたんだ」
「お母さんを……って、え? 保険?」
出久は胸元へ置いた指を軽く握る。
「裏切ったら、起爆する」
「……何が?」
「僕が」
お茶子が固まった。
「……は?」
「爆弾みたいなものを、個性で付与されてたんだ」
「ちょ、ちょっと待って」
先ほどから何度目か分からない言葉だった。
だが今度は、明らかに意味が違った。
「爆弾?」
「うん」
「身体の中に?」
「多分」
「多分!?」
「目で見えるものじゃないから。個性によるものだと思う」
「それ、今もあるん!?」
「あると思う」
「思う!?」
お茶子が勢いよく身を乗り出した。
出久は反射的に少し身体を引く。
「ちょ、麗日さん」
「いやいやいやいや!」
お茶子の顔から血の気が引いていた。
「何それ! なんでそんな大事なこと今まで言わんかったん!?」
「今まさに言ってるよ」
「そういう意味ちゃう!」
「ご、ごめん」
お茶子は完全に混乱していた。
「裏切ったら爆発って……どのくらい?」
「分からない」
「死ぬ?」
「多分」
「多分多いねん!」
「だって試したことないから!」
「試さんでええ!」
お茶子が即座に叫ぶ。
遠くでトゥワイスが、
「そりゃそうだ! 一回くらい試せ!」
と一人で騒ぎ、マグネに頭を叩かれていた。
だが、お茶子にはもうそちらを気にする余裕がなかった。
「じゃあ……」
お茶子の声が低くなる。
「デク君が何も言わんかったのって」
「うん」
「もし誰かに話したら、それが裏切り扱いされるかもしれんかったから?」
「そう」
「……」
お茶子は絶句した。
雄英で過ごしていた頃を思い出す。
何度も話した。
一緒に訓練した。
食堂で飯を食べた。
悩みを聞いたこともあった。
けれど、その間ずっと、出久は一言間違えれば死ぬかもしれない状態だった。
「……待って」
そこで、お茶子の表情が変わった。
ゆっくりと青ざめていく。
「デク君」
「今、それ喋ったやん」
お茶子がソファから半分立ち上がる。
「これ喋ったら──」
「大丈夫」
「何が!?」
「もう大丈夫みたい」
出久は落ち着いていた。
その落ち着きがお茶子を余計に慌てさせる。
「大丈夫みたいって何!?」
「話す前に分かるんだ」
「何が?」
「セーフかアウトか」
「……はい?」
お茶子が固まる。
出久は少し説明に困ったような顔をした。
「上手く言えないんだけど……直感みたいな感じ」
「何かをしようとした時に、これは大丈夫、これは駄目って分かるんだ」
お茶子は恐る恐る尋ねる。
「これは、セーフなの?」
「多分だけど」
出久は少し考えた。
「僕がもう、ヴィランとして完全に指名手配されてるからじゃないかな」
「……どういうこと?」
「僕が内通者だったって説明しても、もうオール・フォー・ワンにとって致命的な裏切りにはならない」
「……」
「雄英に潜り込んでる生徒じゃないからね。正体も割れてるし、ヴィランと繋がってたことも警察側にはほとんど分かってる」
出久は自分の胸元から手を離した。
「だから、過去の事情を話すくらいなら『裏切り』扱いにならないのかなって」
「かなって……」
「正確な条件は教えられてないから」
「……ほんま、めちゃくちゃやな」
「うん、ごめん」
「無個性から始まって、個性もらったと思ったら爆弾までついてきて、雄英入ったら内通者やって……」
「こうやって並べられると酷いね」
お茶子は呆れたように息を吐く。
その一方で、出久は何気ない顔のまま話を終えようとしていた。
ただし。
話していないことが、一つあった。
雄英にいた内通者は、自分だけではない。
青山優雅。
同じようにオール・フォー・ワンへ繋がりを持ち、別の形で利用されていたもう一人の生徒。
だが、その名を出久は口にしなかった。
説明の途中で何度か、そこへ繋がりかねない話題はあった。
それでも、すべて自分だけの話としてまとめた。
青山のことは言わない。
少なくとも、それは自分が勝手に話していい秘密ではなかった。
今のところ、それを口にしようと考えても、胸の奥にあの警告めいた感覚は走らない。
言おうと思えば、言える。
だからこそ、言わなかった。
爆弾に止められたからではない。
出久自身の意思で。
お茶子はそんなことなど知らず、もう一度深くソファへ沈み込んだ。
聞きたいことはまだいくらでもある。
けれど、さすがに一度に詰め込みすぎた。
どれか一つだけでも十分に重い話なのに、それが全部ひとりの人間へ繋がっている。
お茶子は額へ手を当てたまま、しばらく天井を見上げていた。
出久も何も言わない。
さすがに今は余計な説明を加えない方がいいと判断したのか、膝へ両手を置き、大人しく座っている。
そこへ。
「はいはい、お二人さん」
横から声がした。
お茶子が顔を上げる。
マグネが二つのグラスを持って立っていた。
「そろそろ喉渇いたでしょ?」
「あ……」
「結構長いこと喋ってたものねぇ」
片方のグラスを出久の前へ置き、もう片方をお茶子へ差し出す。
「はい。オレンジジュース」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
出久の方には炭酸飲料らしい。
細かな泡がグラスの内側を上っている。
「緑谷ちゃんにはこれ」
「ありがとうございます」
「ちゃんと飲みなさいよ。帰ってきてからろくに水分取ってないでしょ」
「……そういえば」
「そういえば、じゃないわよ」
マグネは腰へ手を当てた。
「取引行って、ヒーローと何かあって、帰ってきて寝て、起きたと思ったらリンゴジュース買いに出て、そのまま元クラスメイト連れて帰ってきて尋問されてんのよ?」
「はは……」
マグネはそれ以上は会話へ割り込まず、空になったトレーを抱えて離れていった。
少し離れたところで待っていたトガが、すぐにマグネへ寄っていく。
「どうでした?」
「さっきよりマシ」
「仲直りしました?」
「そこまでは知らないわよ」
声を潜めているつもりなのだろうが、やはり微妙に聞こえてくる。
お茶子はもう気にしないことにした。
グラスへ視線を落とす。
「……デク君」
「うん?」
「一個、聞いてええ?」
「うん」
お茶子はストローを指先で軽く回した。
氷が小さく鳴る。
「これから、どうするん?」
「これから?」
「うん」
「……大阪で?」
「そうやなくて」
お茶子は顔を上げた。
「もっと先」
出久が黙る。
「デク君、これからずっとヴィランとして生きていくつもりなの?」
出久はしばらく黙っていた。
答えに迷っているというより、どう言葉にすればいいのか考えているようだった。
グラスの中では炭酸の泡が絶えず浮かび、やがて水面で小さく弾けて消えていく。
お茶子は急かさなかった。
これまで聞かされた話とは、少し種類の違う質問だ。
過去に何をしたのかではなく、これからどうするのか。
今の出久が、自分の人生をどう考えているのか。
やがて、出久が口を開いた。
「……そのつもり」
「そっか」
お茶子は短く答えた。
けれど、出久はそこで話を終えなかった。
「というより……今は、それ以外まで考える余裕がないんだと思う」
「余裕?」
「うん」
出久はグラスを両手で包み、少し困ったように笑った。
「今、とにかく必死だから」
その言葉に、お茶子が僅かに眉を寄せる。
「必死って……」
「生活するのに」
「……生活」
「うん」
あまりにも現実的な言葉が出てきて、お茶子は一瞬だけ拍子抜けした。
出久は全国指名手配されているヴィランだ。
敵連合に所属し、指定敵団体と取引し、違法薬物を売っている。
そんな相手の口から出てきた悩みが「生活」だった。
「前まではオール・フォー・ワンが色々用意してくれてたんだけど、今はそういうわけにもいかないから」
お茶子の表情が僅かに曇る。
「オール・フォー・ワンのことも、まだあるんやね」
「あるよ」
出久は即答した。
「捕まってるけど、それで全部終わったわけじゃないから」
分からないことばかりだった。
神野で敗れ、収監されたからといって、オール・フォー・ワンという存在が出久の人生から消えたわけではない。
「あの人がこの先どうするつもりなのかも分からない。僕に何をさせたいのかも、今はほとんど分からない。だから今は、一個ずつ片付けてる感じかな」
「一個ずつ?」
「うん。今日食べるものが必要なら買う。お金が必要なら仕事する。取引があるなら行く。何か問題が起きたら、その時に考える」
随分と場当たり的だった。
けれど、お茶子には笑えなかった。
出久が何も考えていないからそうしているのではない。
考えなければならないことが多すぎて、遠い未来まで考える余力がないのだ。
お茶子はストローから口を離し、グラスをテーブルへ戻した。
氷がからりと鳴る。
今の出久について聞きたいことは、まだ山ほどあった。
オール・フォー・ワンとの関係も、敵連合での暮らしも、八斎會との取引も、これからどうするのかという話だって、掘り下げようと思えばいくらでも掘り下げられる。
けれど、ふと別のことが頭に浮かんだ。
「……そういや、あの子」
出久が一度瞬きをする。
「壊理ちゃん?」
「うん。その壊理ちゃんって子」
お茶子は少しだけ身を乗り出した。
「あの子、どうしたの?」
出久は少し考えてから答えた。
「多分、八斎會の誰かのお子さんだと思う。大阪に来る時、僕らが乗ってた車に隠れてて、着いてから気づいたんだ。それで成り行きでこっちに連れてきた」
「八斎會の子なん?」
「多分ね。ただ、本人が八斎會に戻るのをすごく怖がってるんだ。身体にも包帯が巻かれてたし、もしかしたら虐待されてるかもしれない。だから八斎會にはまだ連絡してない」
「……虐待?」
お茶子の表情が変わった。
「確証はないよ。でも、八斎會の話をすると怯えるし、戻りたくないって言ってる。何があったのか聞いても、あまり話したがらないんだ」
「そっか……」
お茶子はグラスを置き、少し考え込んだ。
スーパーで会った時の壊理を思い出す。
出久のそばからほとんど離れず、知らない自分を警戒しながらも、リンゴジュースを手にした時だけは年相応に嬉しそうにしていた。
「じゃあ、八斎會には壊理ちゃんがおること自体、言ってへんの?」
「うん。事情が分かるまでは言わないつもり」
「向こうから探されたりせえへん?」
「それは心配してる。でも、虐待されてるかもしれないのに確認もせず返す方が怖いから」
そこは迷っていないらしい。
お茶子はしばらく出久を見つめ、それから小さく息を吐いた。
「児童相談所とか……は、デク君からは相談できないか」
そこで、お茶子が何かを思いついたように顔を上げた。
「じゃあ私が通報してみよか?」
「え?」
「八斎會がある地域の相談所に」
出久が目を瞬かせる。
「麗日さんが?」
「うん。デク君らから連絡したら面倒なことになるんやろ? でも私は指名手配されとるわけやないし」
「それはそうだけど……」
「『八斎會ってところで、子どもが虐待されてるかもしれません』って相談するだけならできるやろ」
お茶子はそう言って、自分のスマートフォンを取り出した。
「……動いてくれるかな」
お茶子もそこは断言しなかった。
「住所までは分からんの?」
「正確な番地は知らない。でも八斎會の本部なら、警察には登録されてるはず」
「ほんなら組織名と、分かる範囲の場所を伝えればええか」
出久は考える。
正直、期待はできない。
相談所がどこまで調べてくれるのかも分からないし、相手は指定敵団体だ。
普通の家庭への虐待通報と同じようにはいかないだろう。
しかも、肝心の壊理はすでに八斎會から離れ、今は自分たちのところにいる。児童相談所が八斎會を調べたところで、壊理本人を見つけられるわけではない。
それでも。
「……お願いしていい?」
「うん! ……あった、ここかな」
表示された相談窓口を確認してから、電話番号を押す。
発信する直前、お茶子はふと指を止めた。
「デク君」
「何?」
「壊理ちゃんのこと、分かっとる範囲でもう一回教えて。余計なこと言わんように整理してから電話する」
「あ、うん」
出久もグラスを置く。
「名前は壊理。年齢は多分六歳くらい。八斎會の関係者だと思う。身体に包帯が巻かれてて、八斎會に戻るのを怖がってる。本人は詳しいことを話したがらない」
「それだけ?」
「今確実に言えるのは、それだけ」
「分かった」
お茶子は頷いた。
憶測を混ぜる必要はない。
それだけでも、子どもの安全確認を頼む理由にはなる。
「ほんなら……ダメ元でやってみよか」
「うん」
お茶子の親指が、通話ボタンを押した。