お茶子はいつものスーパーを出ると、従業員用の裏口で制服の上着を脱いだ。
「お疲れさまでしたー」
「お疲れさま」
店内に残る同僚へ軽く頭を下げ、鞄を肩へ掛ける。
今日の勤務は少し長かった。
昼過ぎからレジに入り、途中から品出しを手伝い、最後には倉庫整理まで回されたせいで足が重い。
それでも、家へ帰る方向とは違う道を選んだ。
「……」
夕方の大阪は、昼間より幾分か涼しくなっていた。
商店街を外れ、住宅地を抜ける。さらに古い工場や倉庫が並ぶ一帯まで来ると、歩いている人の数も目に見えて減っていった。
もう何度も通った道だった。
最初にここを歩いた時には、何度も周囲を確認していた。
誰かにつけられていないか。ヒーローはいないか。知り合いに見られていないか。
今でも警戒はしている。
ただ、それとは別に。
「今日もデク君おるんかな……」
口から漏れた言葉に、自分で気づいて、お茶子は足を止めかけた。
「……いやいや」
すぐに首を振る。
「浮かれすぎやろ、あたし」
彼らが犯罪から足を洗ったわけではないことも知っている。
八斎會と取引し、違法な薬を売って金を稼いでいるし、出久に至っては自分の口で人を殺したことまで認めていた。
そんな場所なら、普通は警察へ通報するべきだ。
それなのに自分は潜伏先を黙っていると約束し、今ではバイト帰りに遊びに行くような感覚でここへ向かっている。
「……あかんよなぁ」
歩きながら、お茶子は額へ手を当てた。
どう考えてもおかしい。
自分が通っているのは友達の家ではない。
全国指名手配されているヴィラン集団の潜伏先だ。
しかも、その連中が今も犯罪から足を洗ったわけではないことを知っている。
八斎會と取引し、違法な薬を売って金を稼いでいる。出久に至っては、自分の口で人を殺したことまで認めていた。
普通なら警察へ通報する。
それを自分はしていない。
むしろ潜伏先を黙っていると約束し、今ではバイト帰りに遊びに行くような感覚で向かっている。
「ダメだよね、こんな生活……」
自分でも分かっている。
分かっているのに、足は止まらなかった。
「……でも」
デク君、生きとったし。
言い訳のような言葉が頭に浮かぶ。
神野以来、ずっと消息が分からなかった。
生きているのかすら分からなかった少年が、今は大阪にいて、普通にご飯を食べて、眠って、時々笑っている。
それを知ってしまったら。
今さら、もう一度何も知らなかった頃へ戻ることはできなかった。
「……ほんま何やってんやろ、私」
お茶子は自嘲気味に笑った。
「そのうち普通に晩ご飯まで食べて帰りそうやわ」
すでに一度、マグネに夕食へ誘われていることは考えないことにした。
やがて、見慣れた建物が見えてくる。
潰れたラブホテル。
色褪せた看板と、雑草の伸びた駐車場。
外から見れば、とても人が暮らしているとは思えない。
「今日は壊理ちゃんに──」
何かお菓子でも買ってくればよかったかな。
そう思いながら駐車場へ入った、その時だった。
──ドンッ!!
「っ!?」
凄まじい音が建物の中から響いた。
お茶子の肩が跳ねる。
「な、何!?」
続けざまに、何か重いものが壁へ激突するような音。
ガシャン、とガラスか食器の割れる音まで聞こえた。
さっきまでのぼんやりした思考が一瞬で消える。
「まさか……!」
ヒーロー。
真っ先にそれを考えた。
とうとう場所が割れた。
警察か、プロヒーローが突入したのかもしれない。
もしそうなら。
「デク君……!」
気づけば走っていた。
駐車場を横切り、入口へ向かう。
普段なら自動で開くはずのガラス扉は、途中で引っかかって半分しか開いていなかった。
その隙間から中へ入ろうとして、お茶子は直前で足を止める。
今度はすぐ近くから轟音が響いた。
どん、と空気そのものが震える。
「っ……!」
反射的に身を縮め、扉の脇から恐る恐る中を覗く。
いつも見ていたエントランスは、見る影もなかった。
ソファが大きくずれ、低いテーブルは横倒しになっている。
床には割れたグラスや紙コップが散らばり、壁の一部には大きな亀裂まで走っていた。
そして、その中央。
二人の人間が向かい合っている。
「……引石さん?」
お茶子は目を見開いた。
見慣れた巨体が、巨大な棒磁石型のサポートアイテムを両手で構えている。
普段のお茶子が知るマグネとはまるで違った。
いつもは軽口を叩き、トガやトゥワイスを適当にあしらっている彼女が、今は腰を落とし、明確な殺気を正面の相手へ向けている。
その視線の先にいたのは、お茶子の知らない男だった。
歳は三十前後だろうか。
仕立ての良さそうな派手なスーツ。
白く整えられた髪。
特徴的な髭。
こんな状況でなければ、舞台役者か何かと勘違いしたかもしれない。
「誰……?」
その男──ジェントル・クリミナルが、片腕をゆったりと横へ振った。
直後。
マグネの巨大な磁石が、何もない空間へ叩きつけられる。
ばいんっ、と奇妙な音が響いた。
「なっ……!?」
磁石は確かに前方へ振り抜かれた。
ジェントルには届いていない。
だが、空中の何かへぶつかった瞬間、まるで巨大なゴム板を殴ったかのように勢いを押し返された。
「ちぃっ!」
マグネが歯を食いしばる。
反動を利用して磁石を引き戻すと、そのまま体勢を崩すことなく横へ踏み込んだ。
「随分と変な個性じゃない!」
「お褒めに預かり光栄だ!」
男は余裕すら感じさせる口調で答える。
その少し後ろでは、ピンク色の髪をした小柄な少女がカメラを構えていた。
「ジェントル! もう少し右! 彼女も入るように!」
「承知した、ラブラバ!」
「撮影……?」
お茶子は余計に混乱した。
ヒーローではない。
警察でもない。
どう見ても、この男もまともな側の人間ではなかった。
「ヴィラン同士で喧嘩しとる……?」
その結論へ辿り着いたところで、マグネが再び動いた。
巨大な磁石を低く構えたまま、一気に間合いを詰める。
今度は正面からではない。
ジェントルが何かを仕掛けたらしい空間を迂回するように斜めへ走り、側面から磁石を振り上げた。
「お引き取り願えないかしら!」
「そのお願いは受け入れかねる!」
ジェントルが地面を蹴る。
その足が空中の何もない場所へ触れた瞬間、身体が不自然な軌道で跳ね上がった。
「もー! 鬱陶しいわね!」
まるで空気そのものを踏み台にしたように、ジェントルがマグネの攻撃を飛び越える。
磁石が空を切り、そのまま床へ叩きつけられた。
轟音とともに床材が割れる。
「ちょこまかと……!」
「優雅さとは、時に身軽さを要求するものなのだよ!」
「うっさいわね!」
マグネが吐き捨てるように叫ぶと、床へ叩きつけた棒磁石をそのまま片手で引き戻した。
ジェントルは数メートル先へ着地し、乱れた襟元を整える。
目の前の空間には、先ほど作った弾性の壁がまだ残っているらしく、追撃を警戒するどころか余裕すら感じさせる態度だった。
「正面から力任せに振るうだけでは、このジェントルの柔らかな守りを破ることは──」
「誰が正面から殴るだけだって言ったのよ」
「……む?」
ジェントルの言葉が止まった。
マグネは棒磁石を肩へ担いだまま、空いている左手を前へ突き出していた。
その指先が、真っ直ぐジェントルへ向けられている。
瞬間、ジェントルの身体を青色のオーラが覆った。
「……?」
本人には何が起きたのか分からない。
痛みもなければ、身体の感覚にも変化はない。
ただ、少し離れた場所から見ていたお茶子には、マグネの顔つきが明らかに変わったことだけは分かった。
「何を──」
「遅いわよ」
マグネの親指が、棒磁石の柄に取り付けられたスイッチを押し込んだ。
ぶぉん、と低い駆動音が響く。
赤と青に塗り分けられた巨大な棒磁石の内部で何かが作動し、先端部分から耳障りなほど強い唸りが生まれた。
「な──っ!?」
ジェントルの身体が前へ引かれた。
本人の意思とは関係なく、両足が床から浮く。
「ジェントル!?」
ラブラバが悲鳴を上げる。
ジェントルは咄嗟に腕を振り、目の前の空気を弾性化しようとした。
普段なら、突然の攻撃であろうと空気へ触れさえすれば即座に盾を作れる。
しかし今回は、攻撃が飛んできたわけではない。
自分自身が、マグネへ向かって飛ばされている。
「これは……磁力か!」
「御名答!」
マグネが棒磁石を両手で握り直した。
個性によって付与された磁力と、サポートアイテムが発生させる強力な磁場。
二つが噛み合ったことで、ジェントルの身体は見えない綱にでも引っ張られたかのように猛烈な勢いでマグネへ吸い寄せられていく。
「くっ……!」
ジェントルが身体を捻った。
空気を弾性化させて軌道を変える。
そのつもりだったのだろう。
だが急激な加速に姿勢を崩され、空中で思うように腕が動かない。
「ちょっ、待──」
「人ん家で好き放題してくれた分、きっちり払ってもらうわよ」
マグネは引き寄せられてくるジェントルの軌道へ合わせて腰を落とした。
巨大な棒磁石を大きく後ろへ引く。
磁力はなおも働き続けていた。
ジェントルの身体が加速する。
マグネも踏み込む。
互いの距離が一気に消えた。
「復縁吸引──」
棒磁石が振り抜かれた。
「元鞘鎚!!」
──ゴッ!!
「ぶっ!?」
赤く塗られた先端が、ジェントルの顔面を真正面から捉えた。
避ける余裕などなかった。
磁力によって引き寄せられていたジェントル自身の速度と、マグネが振り抜いた棒磁石の重量が正面から噛み合い、凄まじい衝突音がエントランスへ響き渡る。
「ジェントルッ!!」
ラブラバの絶叫。
お茶子も思わず顔を引きつらせた。
「うわぁ……」
いくら何でも、今のは痛い。
そう思ったのは彼女だけではないらしい。
離れた場所から見ていたトゥワイスまで、自分の鼻を押さえていた。
「顔いったぞ顔! 男前になったな!」
肝心のジェントルから反応はなかった。
「……」
棒磁石へ顔面を押しつけられたまま、両腕がだらりと垂れている。
マグネが恐る恐る棒磁石を少し横へ動かしてみると、磁力に引かれたジェントルの身体もそのまま横へ揺れた。
右へ。
ぶらん。
左へ。
ぶらん。
「……あら?」
完全に力が抜けている。
「ジェントル?」
マグネが呼んでみる。
「……」
「ジェントル・クリミナルさん?」
「……」
返事はない。
つい数秒前まで朗々と演説していた男は、棒磁石へ吸いつけられたまま、ぐったりとしていた。
ラブラバの持っているカメラだけが、その無惨な姿をしっかり撮影し続けている。
「ジェントルぅぅぅぅぅ!!」
悲鳴がエントランスを揺らした。
マグネはその声に少しだけ顔をしかめながら、棒磁石へぶら下がっている男を見下ろした。
「……全く、はた迷惑な男だったわね」
マグネは呆れたように息を吐くと、棒磁石の柄へ親指を掛けた。
先ほど押し込んだものとは別のスイッチを切り替える。
ぶぅん、とエントランスに響いていた低い駆動音が徐々に弱まり、棒磁石の内部から伝わっていた振動も収まっていく。
それと同時に、ジェントルの身体を引き寄せ続けていた力が消えた。
「ほら、返すわよ」
マグネが棒磁石を僅かに傾ける。
それまで先端へ張り付くように引き寄せられていたジェントルの身体が、支えを失ってずるりと滑った。
そのまま床へ落ちる。
どさり、と鈍い音がした。
受け身を取る様子もなく、ジェントルは横向きになって床へ転がった。
「ジェントル!」
ラブラバがカメラを放り出した。
床へ落ちた機材が一度大きく揺れたものの、そんなことには目もくれずジェントルのもとへ駆け寄る。
「ジェントル! ジェントルってば!」
膝をつき、その肩へ両手を掛ける。
揺する。
「しっかりして! ねえ!」
「……」
「ジェントル!」
もう一度、少し強く揺する。
すると。
「……ぅ」
小さな呻き声が漏れた。
「ジェントル!」
ラブラバの顔がぱっと明るくなる。
ジェントルの眉が僅かに動き、ゆっくりと瞼が開いた。
「……ラブ……ラバ……」
「私よ!」
ラブラバは半ば泣きそうな顔で身を乗り出した。
「大丈夫!? 頭痛くない!? 鼻折れてない!? 髭が乱れてるわ!」
「落ち着きたまえ……」
ラブラバは何か言い返そうとしたが、ジェントルの顔を見た途端、その勢いがしぼんだ。
鼻の頭は赤く腫れ、いつも綺麗に整えている髭も片側だけ妙な方向へ曲がっている。
意識は戻ったものの、まだ頭が揺れているのか、視線も少し定まっていなかった。
「……ジェントル」
「心配はいらないよ、ラブラバ。少々、不覚を取っただけだ」
ラブラバは唇を噛み、ジェントルの頬へそっと手を添えた。
その表情から、先ほどまでカメラ越しに見せていた興奮は完全に消えている。
悔しさと心配、それから自分が何もできなかったことへの苛立ちが入り混じっていた。
ジェントルはそんな彼女を安心させるように、無理に口元を緩める。
「すまないね。君の前で、随分とみっともないところを見せてしまった」
「……そんなことないわ」
「いや。今日こそは、これまでとは比べものにならない大仕事を成し遂げるつもりだったのだが……どうやら少々、敵を見誤ったようだ」
ラブラバの目が揺れた。
「ジェントル……」
そして、ジェントルの服を掴んだまま、ゆっくりと顔を近づける。
「……?」
ジェントルが僅かに目を見開いた。
ラブラバの唇が、彼の耳元へ寄った。
「愛しているわ、ジェントル」
囁くような、小さな声だった。
けれど。
その言葉が発せられた瞬間、空気が変わった。
「……!」
入口から様子を窺っていたお茶子が、思わず身を強張らせる。
ジェントルの身体から、何かが膨れ上がった。
目に見える炎でも、雷でもない。ただ、それまで床へ座り込み、まともに立つことすら難しそうだった男の身体へ、一瞬にして異様な力が満ちたことだけは分かった。
俯いていた顔が上がる。
震えていた指が止まる。
焦点のぼやけていた瞳に、先ほどまでとはまるで違う鋭さが戻った。
「……ああ」
ジェントルの口元が持ち上がった。
「その愛、確かに受け取った」
少し離れたところで見ていたマグネは、二人のやり取りに露骨に顔をしかめた。
「……もう、そういうの余所でやってくれないかしら」
棒磁石を肩へ担ぎ直しながら歩き出す。
「悪いけど明確な襲撃な訳だし、拘束させてもらうわよ。ボスが帰ってくるまで大人しくしてなさい」
そこまでだった。
マグネの視界から、ジェントルが消えた。
「……え?」
ほんの一瞬前まで、床へ座り込んでいた。
確かにそこにいた。
なのに、次の瞬間には。
「失礼」
声が、すぐ目の前から聞こえた。
「──っ!?」
マグネが反応するより早く、ジェントルの身体が沈み込む。
蹴りが来る。
そう理解した時には、既に遅かった。
ジェントルの右脚が弧を描き、マグネの脇腹へまともに叩き込まれた。
──ドンッ!!
「がっ!?」
先ほどまでジェントルを一方的に押していたマグネが、まるでボールでも蹴られたかのように横へ吹き飛ばされた。
棒磁石が手から離れる。
ラブラバの個性──『愛』。
愛する相手へ、自らの想いを言葉として伝える。
それだけで対象の身体能力を一時的に飛躍させる個性だった。
そして、ラブラバが誰よりも愛している相手は、ジェントル・クリミナルただ一人。
彼女の想いが強ければ強いほど、その力も増す。
マグネの巨体が、一直線に壁へ向かって飛んでいく。
蹴りの威力は尋常ではなかった。あのまま激突すれば、頑丈なマグネでも無事では済まない。
「──っ!」
考えるより先に、お茶子の身体が動いた。
半開きになった自動ドアの隙間を抜け、エントランスへ飛び込む。鞄が肩からずり落ちたが、構っている暇はない。
「引石さん!」
「え──」
吹き飛ばされながら、マグネが声の方へ目を向ける。
その瞬間、お茶子は床を強く蹴った。
もうヒーロー科の生徒ではない。
それでも、雄英で何度も繰り返した動きまで忘れたわけではなかった。
落下する瓦礫を助ける訓練。
吹き飛ばされた仲間を救助する訓練。
目の前で誰かが危険に晒された時、どう動けばいいのか。
身体だけは、まだ覚えていた。
「間に合って……!」
お茶子が腕を伸ばす。
壁までは、もう数メートルもない。
飛んでくるマグネの身体へ横から飛びつくように近づき、その肩へ五本の指を触れさせた。
個性『無重力』の発動。
触れた瞬間、マグネの身体から重さが消えた。
「っ!?」
速度そのものは消えない。
だが、重さを失ったマグネの身体なら、お茶子の力でも軌道を変えられる。
お茶子は服を掴むと、自分の身体ごと横へ飛び込み、壁へ向かっていたマグネを強引に逸らした。
「こっち!」
「ちょ、お茶子ちゃん!? いつの間に!」
二人の身体が横へ流れた。
マグネの背中が壁へ届く寸前で軌道が逸れ、肩が軽く壁面を擦っただけで済む。
そのまま無重力状態の身体がふわりと浮き上がり、天井近くまで行きかけたところで、お茶子が慌てて服を掴んだ。
「今下ろします!」
お茶子は両手の指先を合わせた。
「解除!」
個性が切れる。
「ぐえっ」
重さを取り戻したマグネが、どすん、と床へ尻から落ちた。
「ご、ごめんなさい!」
「ふう……いいのよ、ありがとうねお茶子ちゃん」
そんな二人のやり取りを見て、エントランスの中央に立っていたジェントルは、明らかに面食らっていた。
「……む?」
つい先ほどまでいなかった少女がいる。
しかも、ただ飛び込んできただけではない。
自分の蹴りで吹き飛ばしたマグネへ追いつき、触れただけでその身体を浮かせ、壁への激突を防いだ。
「ジェントル、あの子神野の……!」
ラブラバも驚いたように声を上げる。
ジェントルはお茶子を観察した。
ヒーローコスチュームではない。学校の制服でもない。
黒いパンツに簡素なシャツ、その上にはスーパーの勤務帰りらしい薄手の上着を羽織っているだけだった。
足元も戦闘用の靴ではなく、ごく普通のスニーカーだ。
「君は……?」
「え」
突然話しかけられ、お茶子が振り返る。
ジェントルは先ほどマグネを蹴り飛ばした人物とは思えないほど穏やかに片手を上げた。
「もしや一般人かね?」
「……」
お茶子の顔が僅かに引きつる。
「まあ……一応」
お茶子は曖昧に答えた。
今の自分を一般人と呼んでいいのかは、かなり怪しかったが
「事情は知らないが、ここは危険だ」
ジェントルは少し真面目な表情になった。
「今まさに凶悪なヴィラン集団との戦闘中だ。君の個性は見事だが、一般市民が首を突っ込むべき状況ではない」
胸元へ片手を当て、大仰ながらも声音だけは真剣に続ける。
「悪いことは言わない。下がっていなさい」
下がるべきなのは分かっている。
今の自分はヒーローでもなければ、敵連合の一員でもない。
ここで戦う理由など、本来ならどこにもない。
それでも、床へ座り込んでいるマグネを一度見てから、お茶子はジェントルへ向き直った。
「……でも」
「む?」
「知り合い、やから」
ジェントルの眉が僅かに上がる。
「知り合い。それは少々、聞き捨てならない」
先ほどまでの穏やかな声音から、わずかに温度が落ちた。
ラブラバもジェントルの背後からお茶子を注意深く見ている。
神野事件に関わった少女。
映像で顔を見たことがあるのだろう。先ほどから何か言いたげにしていたが、今はカメラを拾い直し、そのレンズをお茶子へ向けていた。
「君がどういう経緯で彼らと関わっているのか、私は知らない」
ジェントルは一歩だけ前へ出る。
「かつて何があったのかもね」
「……」
「しかし」
スーツの裾を払うように片手を動かし、姿勢を正す。
ラブラバの『愛』によって強化された力は、まだ全身に残っている。
さっきまでとは立っているだけで圧が違った。
「もしも君も敵連合の一員として私の前に立ち塞がるというのであれば──」
ジェントルの目が細くなる。
「その時は、容赦はしない」
お茶子の肩が僅かに強張った。
脅しではない。
つい先ほど、マグネを一蹴した速度と威力を見ている。
その力が自分へ向けられれば、まともに受けられるはずがない。
それでも退く気にはなれなかった。
「私は──」
お茶子が口を開きかけた、その時だった。
背後から、自動ドアの駆動音が聞こえた。
ぎぎ、と古いモーターが軋む。
「……?」
お茶子が振り返る。
半開きになっていたガラス扉が、外側から押されるようにゆっくりと開いていく。
夕方の光を背に、一人の少年が立っていた。
「……あれ?」
聞き慣れた声だった。
片手には小さな鞄。
もう片方には、八斎會との取引で使っている黒いケースを持っている。
「デク君!」
お茶子が思わず声を上げた。
出久は中へ入ろうとして、そこで初めてエントランスの有様に気づいたらしい。
割れた床。ずれたソファ。散乱した紙コップ。壁際に転がる巨大な棒磁石。
そして、床へ座り込んでいるマグネ。
「……」
少し間が空いた。
「何があったんですか?」
驚いてはいる。
だが、声は妙に落ち着いていた。
「デク君、あの人が急に──」
お茶子が説明しようとする。
しかし出久は彼女の言葉を最後まで聞く前に、ジェントルへ視線を向けた。
派手なスーツと特徴的な髭。
その背後でカメラを構えている少女。
どちらも初めて見る顔だった。
「……誰?」
出久が小さく呟く。
「ボス、気を付けなさい!」
マグネが立ち上がりながら声を飛ばした。
「そいつ、突然ここに乗り込んできて撮影始めたのよ。しかも結構強いわ」
「私を紹介するなら、もう少し華々しくお願いしたいものだね」
ジェントルが胸元へ手を添える。
出久はその大仰な仕草を見ても、特に反応を示さなかった。
ただ一度お茶子を見て、それからジェントルを見る。
そして、二人の間へ歩いていった。
お茶子の前を通り過ぎ、そのまま彼女を背中へ隠すような位置で足を止める。
自然な動きだった。
構えるでも、威嚇するでもない。
それでも明確に、ジェントルとお茶子の間へ入っている。
ジェントルが僅かに目を細めた。
「君は……」
ジェントルが、目の前に割って入った少年を見つめる。
ヒーローコスチュームではない。特別な装備を身につけているわけでもなく、外見だけなら街中にいくらでもいそうな少年だった。
しかし、その顔には見覚えがあった。
神野事件以降、繰り返し報道されてきた指名手配犯。
敵連合と行動を共にしながら消息を絶ち、現在も警察とヒーロー双方から追われている少年。
出久はジェントルと向かい合ったまま、静かに答えた。
「緑谷出久です」
「……!」
ラブラバが息を呑む。
「ジェントル、その子!」
「ああ。分かっているとも」
ジェントルの表情から、それまでの芝居がかった余裕が少しだけ薄れた。
先ほどまで相手にしていたマグネも十分に危険な敵だった。
まともに一撃を受ければ、自分を気絶させるだけの力を持っている。
だが、緑谷出久という少年について世間に流れている情報は、それ以上に不穏だった。
神野でオールマイトと交戦し、その場から逃亡したヴィラン。
詳細な能力は不明。
敵連合との関係も、保有している個性も、公開されている情報には不可解な点が多い。
その本人が今、自分の目の前に立っている。
「なるほど。君が──」
ジェントルが何か言おうとしたところで、微かな音が響いた。
ぱき。
「……?」
ジェントルの視線が下がる。
出久の右手。
指先の皮膚が、僅かに盛り上がっていた。
ぱき、ぱき、と乾いた音が続く。
「デク君……」
背後のお茶子には見覚えがあった。
出久が戦う時に見せる変化。
先ほどまで何の変哲もなかった指先から、小さな白い骨片が浮かび上がってくる。
白い鱗が皮膚を押し上げるように形成され、それぞれが僅かに重なり合いながら指全体を覆っていく。
「おお、それは神野の……」
出久は答えなかった。
変化は止まらない。
指から手の甲へ。
手首を越え、前腕へ。
爬虫類の鱗にも似た白い骨片が次々と生まれ、隙間なく重なっていく。
左右の腕がほぼ同時に覆われる頃には、出久の身体の内側から骨同士が擦れ合うような硬い音が聞こえ始めていた。
ごき。
重い音とともに肩が盛り上がる。
「……!」
ジェントルが目を見開いた。
服の下で筋肉が膨張している。
決して大柄ではなかった少年の体格が、目の前で変わり始めた。
肩幅が広がり、胸板が厚くなる。
腕は一回りどころか二回りも太くなり、着ていた服が急激に膨らんだ身体へ引っ張られてはち切れんばかりだ。
「デク君……気を付けて」
お茶子は思わず一歩下がった。
変化の瞬間を間近で見るのは未だ慣れない。
数秒前まで普通に会話していた出久が、人間とはかけ離れた姿へ変わっていく。
骨格そのものが巨大化し、視線の高さが上がっていく。
元々はジェントルより小柄だったはずの少年が、今では逆に彼を見下ろすほどになっていた。
「……なるほど」
ジェントルはそう呟いた。
だが、その声音は先ほどまでとは違う。
強化された身体能力はまだ残っている。
ラブラバの『愛』によって、今の自分は普段とは比べものにならないほど強い。
先ほどマグネを一撃で吹き飛ばしたことが、その証明だった。
それなのに。
目の前で膨れ上がっていく少年を見ていると、本能が警告を発する。
これはまずい、と。
出久の全身を覆う骨の鱗が噛み合った。
ぎち、と硬質な音が鳴る。
白い装甲の隙間から覗く緑色の瞳が、唯一の人間らしさだった。
ジェントルは無意識に呼吸を浅くした。
映像では見たことがある。神野で撮影された不鮮明な映像の中で、緑谷出久が異形の姿へ変貌していたことは知っていた。
だが、画面越しと実物ではまるで違う。
目の前に立たれるだけで、その大きさと威圧感が嫌でも伝わってくる。
全身を覆う骨の鱗は装飾ではなく、見るからに分厚い。
腕一本取っても、自分の胴ほどの太さがある。
何より不気味なのは、その姿になった本人がひどく落ち着いていることだった。