全身を覆う骨の鱗。人間のものから大きく外れた四肢と、床へ影を落とす巨体。
口元から覗く歯も鋭く変形し、もはや外見だけならヴィランというより怪物と呼んだ方が近い。
それなのに、出久は吠えも威嚇もせず、静かにジェントルを見下ろしていた。
「……一つ、確認してもいいですか?」
低い声がエントランスに響いた。
「……!」
ジェントルの眉が動く。
先ほどまで聞いていた少年の声とは明らかに違う。
肥大化した喉や骨格そのものが変質した影響なのか、何重にも音が重なっているような太く低い声で、かすかな唸りまで混じっていた。
しかし、口調だけは変わらない。
丁寧で、妙に穏やかだった。
「確認……かね?」
「はい」
出久は軽く頷くと、ジェントルの背後にいるラブラバ、それから床へ転がったカメラへ順番に目を向けた。
「貴方は……ここが敵連合の施設だと分かった上で、襲撃に来た。そういうことで、合っていますか?」
「……?」
ジェントルは怪訝そうに眉を寄せた。
何を聞かれるのかと身構えていたのだろう。
だが、出久の口から出てきたのは、あまりにも当たり前の確認だった。
「無論、その通りだとも」
ジェントルは胸を張った。
「ここが悪名高き敵連合の潜伏先であることは、承知の上で足を運んでいる。偶然迷い込んだわけでも、相手を取り違えたわけでもない」
そこで言葉を切ると、不思議そうに首を傾げる。
「しかし、なぜそんな当たり前のことを聞くのかね?」
「確認しないといけないじゃないですか」
出久はそう答えながら、ゆっくりとジェントルへ歩き始めた。
骨に覆われた足が床を踏むたび、みし、と古い床材が軋む。
急ぐ様子はなく、構えらしい構えすら取っていない。
ただ正面から距離を縮めているだけなのに、ジェントルは無意識に半歩後ろへ下がっていた。
「間違って入ってきただけの人なら、怪我を負わせるわけにはいかないし……」
低く変質した声が、静かなエントランスを震わせる。
「もし殺しちゃったら、取り返しがつかないから」
「……」
ジェントルの表情から、わずかに余裕が消えた。
言葉だけを聞けば、何もおかしくはない。
相手が敵なのかどうかを確かめ、無関係な人間を傷つけないようにする。
それ自体はむしろ良識的な判断と言えるだろう。
しかし、それを口にしている存在が問題だった。
全身を骨の鱗で覆い、人間を容易く見下ろす巨体へ変貌した怪物が、地の底から響くような声で「間違って殺したくない」と言っている。
そして何より──その言葉は裏を返せば、相手が敵だと確認できた後なら話は別だということでもある。
「だから、聞いたんです」
出久がもう一歩踏み出した。
「貴方が、ちゃんと分かってここに来たのか」
ジェントルは答えなかった。
先ほどまでなら、ここで何か気の利いた台詞を返していただろう。
自らの正義を語り、カメラを意識して大仰に腕を広げていたはずだ。
だが今は、それができない。
目の前の少年から視線を外せなかった。
ジェントルはヴィランとして特別長い経験を持つわけではない。
それでも危険な相手と遭遇したことはあるし、ヒーローに追われた経験も一度や二度ではなかった。
だからこそ分かる。
これは理屈ではない。
身体が勝手に警告している。
近づけるな、と。
「ジェントル……?」
背後からラブラバの不安そうな声が届いた。
その声に応じる余裕すらなく、ジェントルは右手を持ち上げた。
「そこまでだ」
掌を前方へ向ける。
出久は止まらない。
「それ以上近づくのは、お勧めしない」
「そうですか」
返ってきたのは、それだけだった。
また一歩。
その瞬間、ジェントルの指先が目の前の空気を撫でた。
個性──『弾性』。
触れた物へ弾性を付与する能力。
固体である必要すらない。
ジェントルにとっては、そこに存在して触れることさえできれば、空気すら能力の対象となる。
何もないはずの空間が、ぐにゃりと歪んだ。
弾性を付与された透明な壁。
先ほどスピナーを弾き飛ばし、マグネの棒磁石を受け止めたものと同じ防壁だった。
ジェントルは続けて腕を振るった。
両手が目まぐるしく空中を走り、そのたびに出久との間に新たな弾性空気が形成されていく。
「これで──」
十分だ。
そう判断した直後、出久が動いた。
踏み出した足が床を砕く。
巨体が一気に加速し、数メートルあった距離が瞬く間に消えた。
全身を覆う骨の鱗が擦れ合い、低い音を立てながら、その右腕が大きく振り上げられる。
「──っ!」
ジェントルの身体が強張った。
速い。
あの巨体から想像していた速度ではない。
ラブラバの『愛』によって身体能力を強化されている今だからこそ目で追えたが、普段なら反応すら間に合わなかったかもしれない。
もっとも、正面から来るなら問題はない。
間には何重もの弾性空気がある。
殴りかかれば、最初の一層が拳を受け止め、その力を反発させる。
仮に一枚を押し切ったとしても、すぐ後ろには次の層が待っている。
あれほどの勢いで殴れば、その反動も相応のものになる。
「来たまえ!」
ジェントルが身構える。
出久の右拳が振り下ろされ──
寸前で止まった。
「……?」
拳は、ジェントルまで届いていない。
それどころか、弾性空気にも触れていなかった。
出久は腕を伸ばしかけた姿勢のまま、目の前の何もない空間を見つめている。
「……なんだこれ」
低く変質した声が漏れた。
ジェントルの眉がぴくりと動く。
出久は拳を引かない。
目線だけをゆっくり動かし、何もないはずの空間を追っていく。
「……」
ジェントルの背筋に、別種の寒気が走った。
見えている?
いや、そんなはずはない。
弾性を付与したところで空気そのものに色が付くわけではない。
形が明確に浮かび上がるわけでもなく、触れるか、何かをぶつけでもしなければ存在を把握することは難しい。
にもかかわらず、出久の視線は正確に防壁の位置を追っていた。
「デク君!」
背後から、お茶子の声が飛んだ。
「その人の個性、なんかトランポリンみたいな物を生成するよ!」
「トランポリン?」
出久が振り返った。
「うん! さっき引石さんが殴った時、何もないところで跳ね返されとった! 伊口君も、それで吹っ飛ばされて──」
「スピナーと呼べ!」
離れた場所からスピナーが抗議したが、お茶子は構わず続ける。
「空中にも作れるみたい! 見えへんから気ぃつけて!」
「なるほど……」
出久が再び前を向く。
ジェントルは無意識に口を閉ざした。
怪物の緑色の瞳が、自分ではなく、その手前へ向けられている。
「もしかして……」
出久が拳をゆっくり下ろした。
巨大な指先を持ち上げ、何もない空間を示す。
「今、僕とあなたの間にあるコレは、そのトランポリン? なんですか?」
「……」
出久は何もない空間を睨むように見つめたまま、ゆっくりと鼻から息を吸った。
個性──『五感強化』。
怪物化に伴って併用している複数の個性の一つで、視覚や聴覚だけでなく、嗅覚、触覚、平衡感覚に至るまで感覚器官全体を底上げする。
弾性を与えられた空気は透明だった。
だが、完全に周囲と同じではない。
空調から流れてくる風が、その場所だけ不自然に淀んでいる。
わずかな埃の流れも途中で逸れ、照明の光もほんの僅かに屈折していた。
出久の強化された感覚は、目では捉えられないはずのその違和感を拾っていた。
「……やっぱり、何かありますね」
「何?」
ジェントルが眉を寄せる。
その瞬間だった。
出久が横へ跳んだ。
「っ!?」
巨体からは想像できない速度で床を蹴り、真正面に重ねられていた弾性空気の範囲から一気に外れる。
「迂回するつもりかね! 安直な!」
ジェントルも即座に身体を捻った。
だが、出久はもう来ている。
床を砕きながら一歩踏み込み、肩を大きく引く。骨の鱗に覆われた右腕へ力が集中し、膨れ上がった筋肉が軋むような音を立てた。
「……っ!」
ジェントルは反射的に右手を振った。
出久との間にある空気へ触れる。
個性『弾性』。
透明な空気が一瞬で性質を変え、二人の間へ弾力を持つ防壁が形成された。
間に合った。
ただし、一枚だけ。
「弾けたまえ! ジェントリーリバウンド!」
ジェントルが叫ぶ。
出久の拳が、その弾性空気へ叩き込まれた。
──バォンッ!!
空気が爆ぜたような音がエントランスを揺らす。
目に見えない防壁が大きくへこんだ。
拳そのものはジェントルへ直接届いていない。
それでも。
「な──」
ジェントルの顔が引きつった。
弾性空気が受け止めた出久の拳は、止まらなかった。
限界まで押し込まれた透明な壁が歪み、その向こう側へ猛烈な圧力を伝える。
一枚では足りない。
先ほど何層も重ねたのは、そのためだった。
出久の拳が持つ運動エネルギーを一度で受け止めるには、弾性空気一枚ではあまりにも薄い。
「ぐっ──!」
ジェントルの両足が床から離れた。
弾性空気越しに伝わった衝撃が、そのまま身体を後方へ押し出す。
「ジェントルッ!」
ラブラバの悲鳴とほとんど同時に、ジェントルの身体が吹き飛んだ。
数メートルの距離を一気に飛ぶ。
背中から壁へ叩きつけられ、轟音とともに古びた内壁へ大きな亀裂が走った。
「がはっ……!」
肺の空気が強制的に吐き出される。
壁材が崩れ、細かな破片が肩や髪へ降りかかった。
だが、吹き飛ばされたのはジェントルだけではなかった。
「うわっ!?」
出久の巨体も、大きく後方へのけぞった。
拳を叩き込んだ瞬間、限界まで押し込まれた弾性空気が元の形へ戻ろうとし、その反発力をそのまま出久へ返していた。
右腕が強制的に押し戻される。
肩が開き、上半身が後方へ持っていかれた。
「デク君!」
お茶子が思わず声を上げる。
出久は二歩、三歩と後退した。
巨大な足が床を削る。
最後に右足を強く踏み込み、どうにか転倒だけは防いだものの、その衝撃で床材がばきりと割れた。
「……なるほど」
出久はのけぞった姿勢からゆっくり身体を起こした。
骨の鱗に覆われた右拳を開閉する。
損傷はない。
ただ、手首から肩までに独特の痺れが残っている。
「分厚いゴムを殴ったみたいだ。攻撃にも防御にも使えるいい個性ですね」
低く変質した声で呟く。
ジェントルは崩れた壁へ背中を預けながら、苦しそうに息を整えていた。
「……その理解で……概ね正しいとも……」
強がるように口元を持ち上げたが、声には明らかに余裕がなかった。
一方の出久は、右肩を一度大きく回す。
「でも、正面よりずっと薄かった気がする。発動時間で強度が変わるのかな、それとも……何回も発動させて重ねないと強度が出せないとか」
ジェントルの頬が引きつる。
出久はもう一度腰を落とした。
先ほどまでより僅かに姿勢が低い。
今度は、正面から受ければ反動が返ってくることも分かっている。
「色々見させてもらいますね」
そう言い終えるより早く、出久の姿がその場から消えた。
「──っ!?」
ジェントルが反射的に顔を上げた時には、出久はすでにエントランスの端まで移動していた。
右足を壁へ叩きつける。
古びた壁面が大きくへこみ、ひび割れが放射状に走った。次の瞬間、その反動を利用して巨体が斜め上方へ射出される。
天井へ着地。
間髪入れずに蹴る。
今度は反対側の壁へ。
床へ。柱へ。再び天井へ。
人間一人を容易く見下ろす巨体が、狭いエントランスの中を信じられない速度で跳ね回り始めた。
壁や床へ足が触れるたびに轟音が響き、コンクリート片と埃が舞い上がる。
身体を覆う骨の鱗が照明を反射し、その白い残像だけがジェントルの周囲を何度も横切っていった。
「速──」
お茶子が思わず目で追おうとするが、途中で諦めた。
雄英にいた頃の出久も決して鈍い方ではなかったが、今のそれはまるで別物だ。
巨大化した脚力に加え、強化された五感と平衡感覚によって、壁や天井すら普通の足場として利用している。
一方、ジェントルは壁際から身体を起こしながら必死に視線を巡らせていた。
「右──いや、上か!」
白い影が頭上を横切る。
すぐに振り返るが、そこにはもういない。
「後ろ!」
ラブラバの警告を受けて身体を捻る。
だが出久は攻撃してこなかった。
拳を振り抜ける位置まで入り込みながら、ジェントルが向き直るより早く別方向へ跳び、再び死角へ消えていく。
「なるほど……!」
ジェントルは額へ汗を浮かべながらも、思わず感嘆した。
「その巨体でありながら、なんという機動力だ!」
しかも先ほど一度だけ弾性空気へ触れただけで、その性質をかなり正確に推測している。
真正面に厚い防壁があるなら横へ回る。
横に張れば上へ。
上を警戒すれば、すぐ背後へ。
単純ながら、今の出久の身体能力でやられると恐ろしく厄介だった。
「君と速度で競うつもりはないよ少年!」
ジェントルは前方へ防壁を張ると、間髪入れずその内側へもう一層を重ねた。
さらに左右、背後、頭上へ次々と腕を伸ばし、足元まで含めて出久の侵入経路を塞いでいく
「どこから来るか分からないというのなら──」
ジェントルの両手が忙しなく動くたび、目には見えない防壁が幾重にも形成されていった。
可能な限り隙間を埋め、その外側へさらに二層、三層と重ねていく。
「全方位に何重にも貼るまでだ!」
ジェントルを中心として、目には見えない球状の防壁が完成しつつあった。
一枚なら力ずくで押し切れる。
しかし、真正面で見たように何層も重ねられれば話は別だ。
一枚目を押し込んだところで反発を受け、その後ろには二枚目がある。
さらに三枚目、四枚目と続けば、こちらの拳の勢いを殺されるだけでなく、返ってくる反動まで何度も受けることになる。
出久はそれでも動きを止めず、壁から壁へ跳びながらジェントルの周囲を回った。
「どこか……」
低い声が、移動するたび別方向から聞こえる。
「薄いところは……」
「ジェントル、完璧よ!」
ラブラバが嬉しそうに声を上げた。
「当然だとも!」
ジェントルは胸を張りながら、さらに手近な空気へ弾性を付与する。
「如何に素早かろうとも、攻撃するためには必ず私へ近づかなければならない! ならば私の周囲そのものを守ればよい!」
理屈としては正しい。
出久もそれは認めざるを得なかった。
「うーん……」
「どうしよう……」
力任せに全部まとめて殴るか。
だが先ほど一枚を殴っただけでもかなりの反動があった。何層あるか分からないものへ全力で拳を叩き込めば、ジェントルへ届く前に自分の腕を痛める可能性もある。
床ごと崩す方法も考えたが、この建物には仲間がいる。
壊理もいる。
さすがにホテルそのものを壊すわけにはいかない。
「……」
出久は跳び回りながらジェントルを見る。
ジェントルもこちらを警戒している。
両腕を構え、出久の動きへ合わせて目だけを忙しなく動かしていた。
その周囲には、何層もの弾性空気。
「……あれ?」
出久の動きが僅かに鈍った。
もう一周する。
ジェントルは動かない。
出久が右へ行けば顔を右へ向け、左へ移れば視線を左へ送る。
しかし。
足の位置は、さっきからまったく変わっていない。
「……」
出久は壁を蹴るのをやめた。
どん、と床へ着地する。
突然高速移動が止まり、エントランスへ静けさが戻った。
「む?」
ジェントルが訝しげに眉を寄せた。
出久は真正面から彼を見て、少し考えるように首を傾げる。
「どうしたのかね?」
「いや……」
出久はジェントルの足元を見る。
「それ……」
出久は巨大な人差し指を向けた。
「貴方も動けないんじゃないですか?」
「……」
ジェントルが黙った。
(し、しまった……!)
「……」
出久は真正面に立ったまま、ジェントルを包み込んでいる不可視の防壁へ視線を巡らせた。
「前も、横も、後ろも……上にもありますよね。個数に制限はほぼないみたいですね」
ジェントルは答えない。
先ほどまでなら得意げに解説していたかもしれないが、今は余計なことを喋れば喋るほど自分の首を絞める気がしてならなかった。
一方の出久は、攻撃を仕掛ける様子を見せなかった。
むしろ興味が別の方向へ移ったらしい。
巨体を少し屈め、弾性空気の一番外側と思われる場所へ顔を近づける。
「……少年」
「はい?」
「人を珍獣の檻でも見るように観察するのは、少々失礼ではないかね」
「ごめんなさい。でも戦闘中に人の個性を観察できる機会って少ないから」
「謝る気があるようには聞こえないな!」
出久は気にせず、今度はしゃがみ込んだ。
巨大化した身体では姿勢を低くしただけでもかなりの圧迫感があり、ジェントルからすれば怪物が透明な檻の外から覗き込んでいるような状況だった。
「これって、本人の意思で消せないんですか?」
「……」
ジェントルの眉が僅かに動く。
出久はその変化を見逃さなかった。
「それとも時間経過?」
「……」
「ずっと消えないなんてことはないですよね」
低く変質した声で淡々と続けながら、再び防壁へ目を向ける。
「もし永久に残るなら、街中で使った時すごく危ないし。目に見えない壁がずっと残ったら、車とか人とかぶつかっちゃいますよね」
「……」
「だから、どこかで解除されるはず」
ジェントルの額へ汗が浮かんだ。
「発動者が解除できるのか、それとも一定時間が経てば勝手に元へ戻るのか……」
「少年、戦闘中に相手の個性を研究する趣味でもあるのかね?」
「昔からこういうの好きなんです」
「そうかね……」
ジェントルは引きつった笑みを浮かべた。
出久はさらに考え込む。
「でも、本人がいつでも自由に消せるなら、もう一回位置を変えて貼り直せばいいですよね」
「……」
「しないってことは、今は消せない?」
出久は再び防壁を眺めた。
何層もある。
その一枚一枚がどれほどの時間維持されるのか。
新しく作ったものと最初に作ったものでは消える順番が違うのか。
破壊しなければならないのか、それとも放っておけば消えるのか。
「……試した方が早いかな」
「何をだね?」
ジェントルの顔が強張った。
視線の先には、少し離れた場所で成り行きを見守っていた敵連合の面々がいる。
その中から一人を見つけると、出久は巨大な手を軽く上げた。
「分倍河原さん」
「俺か! 俺じゃない!」
トゥワイスが自分を指差す。
「はい。ちょっと来てもらえますか?」
「何する気だ!?」
警戒するジェントルをよそに、トゥワイスは紙コップを近くのテーブルへ置いた。
「いいぜボス! 絶対嫌だ!」
結局どちらなのか分からない返事をしながら、トゥワイスが出久の横までやってくる。
「それで、何すりゃいい?」
「僕を何人か増やしてくれませんか?」
「任せろ!」
トゥワイスは勢いよく親指を立てると、巻尺を取り出した。
ジェントルは不可視の防壁の内側から、そのやり取りを訝しげに眺めている。
「……作る?」
「はい」
出久が答える横で、トゥワイスは慣れた手つきで巨体の各部を測り始めた。
「でかくなりすぎだろ緑谷少年! 測る場所多いぞ!」
「元の僕のデータじゃ駄目ですか?」
「今の状態を作るなら今の寸法がいる!」
「そうなんだ」
少し不安になったものの、トゥワイス本人は気にせず作業を続ける。
肩幅、腕の長さ、脚、胴回り。
怪物化した出久は通常時より遥かに巨大化しているため、それなりに時間はかかったが、やがて必要な寸法を取り終えた。
「よし!」
トゥワイスが床へ両手を向ける。
黒い泥のような物質が溢れ出し、人の形へ盛り上がった。
一体。
続けて、その隣にもう一体。
さらにもう一体。
数秒後には、元の姿をした緑谷出久が三人、エントランスへ立っていた。
お茶子が目を瞬かせる。
「状況は見ての通り、この個性で籠城している人を引きずり出す」
三人が頷いた直後。
ぱき。
乾いた音が、ほとんど同時に三方向から響いた。
ジェントルの顔から表情が消える。
「……まさか」
分身たちの指先から、白い骨片が浮かび上がった。
薄い骨の鱗が皮膚を覆い、手の甲から前腕へ、さらに肩へと広がっていく。
続いて身体そのものが膨張し始めた。骨格が軋み、筋肉が盛り上がる。
背が伸び、肩幅が広がり、腕が太くなる。
さらに『五感強化』をはじめとした複数の個性が次々と併用され、本物とほぼ同じ怪物じみた姿へ変貌していった。
数秒前まで普通の少年だった三体の分身が、今や全身を骨の鱗で覆う巨大な怪物となっている。
「……これは」
ジェントルの声が僅かに掠れた。
本物の出久を含め、同じ姿をした怪物が四体、自分を取り囲むように立っている。
お茶子はその光景を眺めながら、なんとも言えない顔になった。
「……夢に出そう」
「「「「ひどいな麗日さん」」」」
四方向から同時に低い声が返ってきた。
「もっと怖いわ!」
出久は気にせず、分身たちへ視線を向けた。
「さっき一枚殴った感じだと、一発ごとにかなり反動が返ってくる」
「何重にも重なってるだろうし、反動は骨折どころじゃすまないんじゃないかな?」
「だから僕ら分身って訳でしょう、薄情な本体だ」
「じゃあ僕からいくよ」
増やされた出久の分身が、順番に身動きの取れないジェントルを殴り始めた。
拳が弾性空気へ突き刺さった瞬間、何もないはずの空間が大きくへこむ。
──バァンッ!!
耳を打つ破裂音とともに、分身の腕が肩口まで押し込まれる。
だが、ジェントルが幾重にも重ねた防壁は一枚ではない。
最初の層が限界までたわんだ直後、その奥にある二枚目が受け止め、さらに押し込まれた力をまとめて外側へ返した。
「うおっ……!」
巨体が勢いよく後方へ弾き飛ばされる。
分身は両足で床を削りながら十数メートル近く吹き飛び、横倒しになっていたソファへ背中から突っ込んだ。
古いソファが潰れ、舞い上がった埃の中で骨の鱗に覆われた身体へ亀裂が走る。
「あ」
出久がそちらを見る。
ぱき、と乾いた音が続いた。
腕から肩へ、肩から胸へ。
亀裂が一気に広がると、一体目の分身は黒い泥のような物質へ崩れ、そのまま床へ溶けるように消えていった。
しかし、その間にも二体目はすでに動いていた。
「次、行きます」
「待ちたまえ! 少しくらい間を置いたらどうだね!?」
「その間に防壁増やされるから嫌だから……」
「ん、待てよ? 触れた場所にトランポリンを出すなら、外側から削れてもう内側に出せない今は本当に手も足も出ないんですか」
「……当然ノーコメントだとも」
「まあいいや」
低い声で答えながら、二体目が踏み込む。
ジェントルは反射的に腕を動かしかけた。
新しい弾性空気を追加するためだ。
だが遅い。
「二発目!」
拳が同じ場所へ叩き込まれた。
──ドォンッ!!
一度目より大きく、透明な防壁が歪む。
「ぐ……!」
ジェントルの身体まで僅かに揺れた。
何枚あるのかは分からない。それでも、先ほどと感触が違うことだけは出久にも分かった。
「一枚減ってる」
「みたいだね」
本物と三体目がほとんど同時に呟く。
「実況しないでくれたまえ!」
二体目へ猛烈な反発が返った。
今度は真後ろではなく斜め上。
怪物化した分身の身体が天井近くまで跳ね上げられ、そのまま柱へ激突する。
──バキッ!
柱の表面が砕けた。
同時に分身の身が崩れて溶けていく。
「うわ」
お茶子が顔をしかめた。
「これ、見た目がデク君やから余計嫌やな……」
残る分身は一体。
だが。
「分倍河原さん」
「分かってる!」
トゥワイスはすでに動いていた。
「追加だ! どんどん死んでいいぞ!」
足元から再び黒い物質が盛り上がる。
通常の姿をした新しい出久が形成されると、状況を確認する時間すら惜しむように複数の個性を同時発動した。
骨が皮膚を覆い、筋肉が膨れ、瞬く間に本物と同じ怪物へ変わる。
「……」
ジェントルが絶句した。
確かに二人減らした。
いや、正確には自分が倒したわけではない。自分の防壁へ全力で突っ込ませ、その反動で分身が耐久限界を迎えただけだ。
なのに、また増えた。
戦闘というより、もはや作業に近かった。
「これは……!」
ジェントルの額を汗が伝った。
「反則ではないかね!?」
「個性に反則も何もないでしょう」
本物の出久は少し離れたところで、防壁の状態を観察していた。
「それに、分身の耐久力は本物よりずっと低いです。一発殴るたびにほとんど消えてるから、結構効率悪いですよ」
「私には全くそう見えないのだが!?」
また一体が飛ぶ。
壁へ激突する直前に身体が崩れ、黒い泥となって床へ散った。
そしてその横では、トゥワイスが次の出久を作っている。
「……地獄だな」
スピナーがぼそりと呟く。
「攻城戦というより、人間破城槌だね」
コンプレスも似た感想を抱いたらしく、少し呆れながらその光景を眺めていた。
正面では出久の分身が次々と弾性空気へ突っ込み、そのたびにエントランス全体が揺れている。
ジェントルは完全に防御へ回っていた。
ラブラバの『愛』による強化が続いているとはいえ、それを活かして攻撃へ転じる余裕などない。
全方位へ展開した防壁が逆に自分自身を閉じ込め、その外側から出久たちが延々と殴り続けている。
「……」
コンプレスはふと視線を横へ動かした。
少し離れた場所に、ラブラバがいた。
先ほど放り出したカメラの近くで立ち尽くし、両手を胸元へ寄せている。
震えていた。
「ジェントル……」
視線はただ一人へ向けられている。
心配でたまらないのだろう。
ジェントルが一発受けるわけでもないのに、弾性空気へ拳がぶつかるたび肩を震わせ、そのたびに一歩近づきかけては立ち止まっている。
コンプレスはそんな少女を眺めた。
小柄で、戦闘力があるようにも見えない。
しかもジェントルがあれほど大切にしている相手。
こちらが彼女を捕まえれば、おそらく戦いは終わる。
少なくとも、ジェントルは攻撃を止めるだろう。
──この子を人質に。
そんな考えが、ほんの一瞬だけ頭を過ぎった。
「なんてのは、野暮か。緑谷君も普段我慢してる個性分析を楽しんでるみたいだし」
今のところそんなことをする必要もなさそうだった。
視線を戻す。
「七番!」
「行きます」
「待て少年! せめて番号にもう少し情緒を──」