──轟音が、エントランスを揺らし続けていた。
分身の拳が不可視の防壁へ深々と沈み込み、何層もの弾性空気がまとめて歪む。
限界まで押し込まれた直後、溜め込まれた力が一気に反転し、分身の巨体を真正面から弾き返した。
「うおっ……!」
分身は床を削りながら後方へ吹き飛び、横倒しになったソファへ背中から突っ込んだ。
衝撃で身体へ亀裂が走り、黒い泥のように崩れて消えていく。
だが、出久たちはそれを見届けるより早く動いていた。
「次いきます」
次の出久が踏み込み、同じ場所へ拳を叩き込む。
再び凄まじい破裂音が響き、弾性空気が大きくたわんだ。
今度は先ほどより深く押し込まれ、内側にいるジェントルの身体まで僅かに揺れる。
「なるほど、消えると言うより……元の状態に戻る? 徐々に弾性が消えていっている気がするな」
「だから本人を前に分析しないでくれたまえ!」
ジェントルが声を上げた直後、防壁から猛烈な反発が返る。
分身は斜め上へ吹き飛ばされ、天井近くの柱へ激突した。骨の鱗が砕け、その身体も耐久限界を迎えて崩れていく。
「次!」
トゥワイスはすでに新しい分身を作り始めていた。
「補充だ! どんどん行け! もう見てられねえ!」
黒い泥が床から盛り上がり、通常の出久の姿を形作る。
完成した分身はすぐに複数の個性を発動し、骨の鱗を全身へ纏いながら巨大化していった。
ジェントルが歯を食いしばる。
拳そのものは、まだ一度も彼へ届いていない。
それでも、最初は何重にも存在していた防壁が、確実に薄くなっていることは本人にも分かっていた。
しかも、自分は動けない。
少しでも移動しようとすれば、自ら張り巡らせた弾性空気へ身体が触れる。
解除されるまで待つにしても、その前に出久たちが防壁を削り切る方が早い。
ラブラバの『愛』による強化はまだ残っている。
本来なら、その力を使って出久と直接戦うこともできた。
だが、そのためにはまずここから出なければならない。
「……っ」
目の前では、次の出久がすでに構えている。
そのさらに後ろではトゥワイスが新しい分身を作り、本物の出久は腕を組みながら防壁の状態を観察していた。
「……ジェントル」
ラブラバが拳をぎゅっと握る。
先ほどまでのジェントルなら、どれほど追い詰められても笑っていた。
強敵を前にしてこそ大仰に振る舞い、カメラへ向かって自分の信念を語る。それが彼のやり方だった。
今も表情だけなら平静を装っている。
だが、違う。
額には汗が滲み、拳は強く握られている。何より、次の一撃が来るたびに身体が僅かに強張っていた。
自分の防壁が一枚ずつ消えていく。
逃げることもできない。
何体倒しても、同じ怪物がまた作られる。
いつ終わるのか分からない。
また拳が叩き込まれる。
──ドォンッ!!
「っ……!」
弾性空気が大きくへこんだ。
今までよりも遥かに深い。
残っている層が少なくなっている。
ジェントルの身体が後方へ押され、背中側の弾性空気へぶつかって前へ押し返された。
「ジェントル!」
ラブラバの呼吸が浅くなった。
もう見ていられなかった。
弾性空気のおかげで直接殴られてはいない。
それでも、その内側で一人閉じ込められ、次々と迫ってくる怪物を前にして震えているジェントルを見ていることなどできなかった。
「やめて!」
甲高い声が、エントランスへ響いた。
出久が手を止める。
「……?」
全員の視線がそちらへ向いた。
ラブラバが駆け出していた。
「ラブラバ!?」
ジェントルが目を見開く。
床へ転がったカメラも、敵連合の面々も、何も気にせず走る。
「ラブラバ、来てはいけない!」
ジェントルが叫ぶ。
「危険だ! 下がりたまえ!」
だが、ラブラバは止まらなかった。
分身の横を通り抜け、本物の出久の前まで来ると、勢いのままその場へ立ち止まった。
怪物化した出久を見上げる。
あまりにも大きかった。
近くで見れば、なおさら人間には見えない。
全身を覆う骨の鱗に、太く変形した四肢。鋭い牙の覗く口元から漏れる呼吸まで、獣の唸りのように低い。
ラブラバの脚が震えた。
「……もう」
声が掠れる。
両手を胸元で握り締め、涙を浮かべながら出久を見上げた。
「もうやめて!」
ラブラバの声が、ひび割れたエントランスに響いた。
出久は分身へ向けていた手を下ろし、目の前の少女を見る。
ラブラバは明らかに怯えていた。
足は震え、頬には涙が伝っている。
それでも逃げようとはせず、ジェントルを庇うように出久の前へ立っていた。
「ラブラバ、下がりたまえ!」
不可視の防壁の内側から、ジェントルが叫ぶ。
「これは私が始めたことだ! 君まで巻き込まれる必要は──」
「もういいの!」
ラブラバが振り返り、声を張り上げた。
「もう十分よ、ジェントル!」
「しかし──」
「私たちの負けよ!」
その一言に、ジェントルが息を呑んだ。
ラブラバはすぐに出久へ向き直ると、胸元で両手を強く握り締めた。
「投降するわ!」
声は震えている。それでも、今度ははっきりと言い切った。
「撮影もやめる! ここから逃げたりもしない! 私もジェントルも、もう戦わないから!」
出久は黙って聞いていた。
怪物化した顔では表情が読みにくい。ただ、緑色の瞳だけがじっとラブラバへ向けられている。
その沈黙が怖かったのだろう。
ラブラバはさらに一歩踏み込み、ほとんど縋るように続けた。
「だからお願い……!」
声が掠れる。
「ジェントルを殺さないで!」
「ラブラバ!」
ジェントルの顔色が変わった。
「そのような頼み方をする必要はない! 私はまだ──」
「黙ってて!」
「……はい」
再び素直に黙った。
少し離れたところでは、トゥワイスが腕を組んで頷いている。
「尻に敷いているな! 亭主関白だ!」
「お前は今黙ってろ」
スピナーが小声で制した。
お茶子も何も言わず、出久の様子を窺っていた。
正直なところ、自分も少し不安だった。
今の出久が本当にジェントルを殺すつもりだったのかは分からない。
だが、少なくとも先ほどまでの攻撃に遠慮がなかったのは確かだ。
しかも相手は、自分から敵連合のアジトへ乗り込んできたヴィラン。
出久からすれば、手加減する理由もほとんどない。
「……投降、ですか」
やがて出久が口を開いた。
低く変質した声が、床を這うように響く。
「ええ!」
ラブラバが勢いよく頷いた。
「本当に、もう何もしない?」
「しないわ!」
ラブラバは即答した。
出久はしばらく彼女を見下ろしていたが、やがて肩から力を抜いた。
「……まあ、いいですよ」
「……え?」
あまりにもあっさりとした返事に、ラブラバが涙を浮かべたまま目を瞬かせる。
「投降するっていうなら、これ以上戦う必要もないですし」
そう言って、出久はジェントルから離れた。
骨の鱗に覆われた巨体が遠ざかるにつれて、ラブラバの張り詰めていた表情が少しずつ崩れていく。
「分倍河原さん、もう増やさなくて大丈夫です」
トゥワイスが素直に両手を下ろした。
残っていた出久の分身たちも顔を見合わせると、複数の個性を解除していく。
全身を覆っていた骨の鱗が引っ込み、膨張していた筋肉と骨格が元へ戻ると、最後には普通の少年と変わらない姿になった。
「じゃあ僕らも消していいですよ」
「おう!」
トゥワイスが分身の一体を殴る。
「ちょ──」
言い終えるより先に、分身は黒い泥となって崩れ落ちた。
「ひどいや……」
残りの分身たちが何とも言えない顔でトゥワイスを見る。
その間にラブラバは踵を返していた。
「ジェントル!」
涙を拭うことすらせず、ジェントルの元へ駆けてい
「ラブラバ、待ちたまえ! まだ防壁が──」
「ジェントルぅ!」
「だから待──」
ラブラバが勢いよく飛びついた。
──ぼよん。
「きゃっ!?」
当然、ジェントルまで届くはずもない。
二人の間には、まだ何層もの弾性空気が残っている。
ラブラバの身体は見えない壁へ柔らかく受け止められ、そのまま軽く押し戻された。
それでもラブラバは離れなかった。
「ジェントルぅぅ……!」
弾性空気へ両腕を回す。
実際には何もない空間を抱き締めているだけなのだが、本人にとってはその向こうにいるジェントルへ抱きついているつもりなのだろう。
「うわああああん!」
「ラ、ラブラバ……」
「怖かったぁ! ジェントルが死んじゃうかと思ったぁ!」
ジェントルが言葉を失う。
「怖かったよぉぉぉ!」
ラブラバはとうとう人目も憚らず、わんわんと泣き始めた。
透明な防壁へ頬を押しつけ、両腕を精一杯広げて抱き締める。
その向こうではジェントルも困ったように眉を下げながら、ラブラバと同じ場所へ掌を当てた。
当然、手と手は触れない。
何層もの弾性空気に隔てられているため、二人の間にはかなりの距離がある。
「すまなかった、ラブラバ」
「ジェントルの馬鹿ぁ!」
「ああ」
「馬鹿馬鹿馬鹿!」
「返す言葉もないとも……」
その光景を、敵連合の面々は黙って眺めていた。
つい先ほどまで殺伐とした戦闘が繰り広げられていたはずなのに、今や完全に空気が変わっている。
お茶子など、いつの間にか少し潤んだ目で二人を見ていた。
「なんだか、僕が悪い事したみたいな気分だな」
出久は複数の個性を順番に解除していく。
まず全身を覆っていた骨の鱗が変化を始めた。
重なり合っていた白い骨片が根元から少しずつ身体へ沈み込み、鋭く伸びていた爪や牙も縮んでいく。
それに続いて肥大化していた筋肉が収縮し、人間離れしていた肩幅や腕の太さも元へ戻っていった。
ばき、ぱき、と骨格が鳴る。
床へ大きな影を落としていた巨体が、徐々に縮んでいく。
最後に顔を覆っていた骨の鱗が消えた。
「ふぅ……」
出久が息を吐く。
その声も、先ほどまでの地の底から響くような低音ではない。
いつもの少年の声だった。
ほんの数秒前までそこにいた怪物の姿は完全に消え、緑色の髪をした少年が残る。
「切島君みたいに、これにも名前つけようかな。必殺技だ、ヒーローみたい」
首を左右へ倒しながら肩を回す。
複数の個性を同時に維持する負担は小さくない。戦闘そのものより、むしろこちらの方が身体に堪えていた。
出久は近くに残っていたソファへ向かった。
先ほど分身が突っ込んだものとは別の、まだ無事なソファだ。
「はああ」
どさりと腰を下ろす。
背もたれへ身体を預け、疲れを逃がすように息を吐いた。
その姿だけを見れば、もう先ほどの怪物と同一人物には見えない。
もっとも、ジェントルを見る目から警戒まで消えたわけではなかった。
「ジェントルぅ……」
「よしよし。もう大丈夫だとも」
ラブラバはまだ泣いている。
ジェントルも弾性空気の内側から懸命に慰めているが、肝心の防壁が邪魔をして直接触れることすらできない。
出久はその様子を眺めながら、ソファの肘掛けへ頬杖をついた。
「それ、あとどれくらいで消えるんですか?」
「……」
ジェントルが黙る。
「言いたくないならいいですけど」
出久は気にした様子もなく続けた。
「待ちますから」
「……随分と余裕だね、少年」
「だって、もう戦わないんでしょう?」
ジェントルがラブラバを見る。
ラブラバは涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、何度も頷いた。
それから、しばらく誰も動かなかった。
エントランスには戦闘の名残がそのまま残っている。
ひび割れた壁、ずれたソファ、床に散らばった破片。
その中央で、ジェントルだけが自分で作った不可視の防壁に囲まれ、ラブラバはその外側へ張りつくように座っていた。
出久はソファに深く腰掛けたまま、時折そちらへ視線を向けるだけだった。
お茶子は倒れていたテーブルを起こし、マグネは脇腹をさすりながら棒磁石型のサポートアイテムを回収している。
スピナーは崩れた壁を見て露骨に嫌そうな顔をし、トゥワイスはいつの間にか新しい紙コップを手にしていた。
やがて。
「……あ」
ラブラバが顔を上げた。
ジェントルとの間へ押しつけていた両手が、ほんの僅かに前へ進んだ。
「ジェントル」
「む?」
二人が同時に見つめる。
先ほどまで確かにそこにあった弾性空気が、徐々に元の性質へ戻り始めていた。
目には見えないため変化そのものは分かりにくいが、ラブラバがそっと掌を押し込むと、もう強く跳ね返されることはない。
数分もすると、最後まで残っていた防壁も失われた。
ラブラバが恐る恐る前へ手を伸ばす。
今度は止まらない。
「ジェントル!」
「おっと」
勢いよく飛び込んできたラブラバを、ジェントルが抱き留めた。
「ジェントルぅ……!」
「ああ。今度こそ本当に触れられるね」
ラブラバはそのまま胸元へ顔を埋めた。
出久はその様子をソファから眺めていたが、しばらくして軽く手を上げる。
「終わりました?」
「……」
ジェントルの肩が僅かに強張った。
ラブラバも顔を上げる。
「じゃあ、こっちに来てもらえますか」
穏やかな声だった。
だからこそ、ジェントルには断る余地などないことがよく分かった。
「……承知した」
ラブラバの肩へ手を置き、二人で出久の方へ向かう。
自分たちは、敵連合の潜伏先を突き止め、撮影機材を持ち込み、真正面から襲撃した。
そして敗北した。
それだけだ。
ヴィランの世界で、その後に何が待っているか。想像するのは難しくない。
敗者に選択権などない。
まして相手は、世間で恐れられる敵連合だ。
出久の前まで来ると、ジェントルは足を止めた。
ラブラバもその隣へ並ぶ。
ソファに座っている出久を見下ろす形になったが、不思議と優位に立っている感覚など少しもなかった。
「……」
「……」
出久は何も言わない。
ジェントルは一度息を吸った。
あれほどカメラの前では堂々と喋れた口が、今はひどく重かった。
「……すまなかった」
まず、頭を下げた。
いつもの大仰な一礼ではない。
ただ素直な謝罪だった。
「この場所へ勝手に踏み入り、君たちを撮影し、その上戦闘まで仕掛けた。言い訳をするつもりはない」
ラブラバが不安そうにジェントルの横顔を見る。
「私が始めたことだ。ラブラバは私についてきただけに過ぎない」
「ジェントル!」
「事実だよ」
ジェントルはラブラバを見ず、そのまま出久へ視線を戻した。
「責任を取れと言われれば、受け入れるつもりだ」
出久はジェントルの言葉を聞いてもしばらく返事をせず、二人を交互に見たあと、荒れ果てたエントランスへ視線を巡らせた。
床材はいくつも割れ、壁には大きな亀裂が走っている。
テーブルやソファも一部は使い物にならず、入口の自動ドアに至ってはフレームごと歪んでいた。
建物そのものが崩れるほどではないにせよ、元の状態へ戻そうとすれば相応の金がかかるだろう。
さらに少し離れた場所では、スピナーが背中をさすりながら座り込み、マグネもジェントルに蹴られた脇腹を気にしている。
「まあ、咎めなしとはいきませんからね」
ようやく出久が口を開くと、ジェントルは神妙に頷いた。
「……無論だ。先ほども言った通り、私に可能な償いであれば──」
「まず、ホテルの修理費ですよね」
出久はソファから立ち上がることもなく、指を折りながら数え始めた。
「壁と床、入口の自動ドア、それに家具も何個か駄目になってる。あとは伊口君と引石さんの治療費、それから迷惑料も含めて……」
少し考え、さらりと続ける。
「そうだな。全部で一千万円くらい払ってもらいましょうか」
「……」
ジェントルが固まった。
ラブラバも目を丸くし、出久とジェントルを交互に見る。
「……少年」
「はい?」
「今、なんと?」
「一千万円くらいです」
「聞き間違いではなかったか……」
ジェントルの顔から見る見る血の気が引いていった。
「いや、待ちたまえ。確かに私が壊した物について責任を取るべきなのは理解している。しかし、一千万円だぞ!? そんな額を即座に用意できる人間が世の中にどれほどいると思っているのかね!」
「ジェントル……」
ラブラバが心配そうに袖を掴む。
ジェントルは額を押さえた。
ヴィラン活動で巨額の利益を得ているわけではなく、撮影や生活に必要な金の大半はアルバイトで賄っている。
義賊を気取って悪徳企業や店へ乗り込むことはあっても、そこで奪った金を懐へ入れて豪遊しているわけでもない。
そもそも犯罪動画という性質上、動画サイトから安定した収益を得ることすら難しかった。
「……少年」
ジェントルは苦しそうに息を吐く。
「申し訳ないが、その金額は払えない」
出久は黙っていた。
「壊した設備については弁償する。治療費についても、もちろん可能な限り負担しよう。しかし一千万円となると、私の手持ちでは到底──」
「払うんですよ」
ジェントルの言葉が止まった。
出久の声は、それまでと何も変わっていなかった。
怒鳴りもしなければ、威嚇するように身を乗り出すこともない。ただソファへ座ったまま、当たり前のことを説明するような調子で続ける。
「払えないから終わり、にはならないですよね」
「……」
「だって、壊したのは貴方たちでしょう?」
出久は周囲を示した。
「勝手にここへ入ってきて、伊口君を吹き飛ばして、引石さんを蹴って、ホテルもこんなにした。それなら、弁償してもらわないと」
「それについては……返す言葉もない」
「じゃあ、払ってください」
あまりにも普通の口調だった。
ジェントルは反論しかけたものの、その言葉を呑み込んだ。
筋そのものは通っている。問題なのは、その請求額が自分には到底用意できないということだった。
「……もし」
喉がひどく乾いていた。
「もし、どうしても用意できないと言ったら?」
出久は答えなかった。
ただジェントルを見た。
「……」
怒っているわけではない。眉を寄せてもいなければ、笑っているわけでもない。
脅迫めいた言葉を口にすることもなく、返事を待っているだけだった。
それなのに、ジェントルはその目を見続けることができなかった。
つい先ほどまで目の前にいた怪物を思い出す。
全身を骨の鱗で覆い、人間離れした巨体となった少年。ラ
ブラバの『愛』で強化された自分を力で押し返し、こちらが全方位へ防壁を展開すれば、今度は自分自身を何体も複製して力任せに削り始めた。
あれほどの力を見せた人間が、今は何の感情も読み取れない目でこちらを見ている。
ジェントルは先に視線を落とした。
床に見えるのは、出久の靴だった。
ごく普通の少年の足元でしかない。それでも顔を上げようという気にはならなかった。
「……」
額から流れた冷や汗が頬を伝い、顎先から床へ落ちる。
「ジェントル……?」
ラブラバが不安そうに袖を引いた。
返事をする余裕はなかった。
頭の中では必死に金策を考えていた。
撮影機材を売る。衣装も処分する。アルバイトを増やし、必要なら多少危険な仕事だって引き受ける。
それでも一千万円に届くまで、いったい何年かかるのか。
その間の生活費はどうする。
ラブラバまで働かせるわけにはいかない。
動画活動も続けられなくなる。
考えれば考えるほど、結論だけがはっきりしていった。
払える当てなどない。
それでも出久は急かさなかった。
怒鳴りもせず、条件を変えることもなく、ただジェントルが答えるのを待っている。
怒鳴られた方が、まだ分かりやすかった。
殴りかかられるなら、身構えることもできる。
だが、この少年は何もしない。
ただ自分の返事を待っている。
そこでジェントルは、嫌でも理解させられた。
自分はこれまで、ヴィランを一種の舞台装置として扱っていた。自分の名を後世に残すための手段として。
派手な衣装を着て、カメラの前で名乗りを上げ、世間の悪を暴く現代の義賊を演じる。
危険なことをしている自覚はあったし、ヒーローに追われれば逃げる覚悟もしていた。
だが、裏社会へ足を踏み入れるということは、それだけではない。
世の中には、自分より遥かに危険な人間がいる。
そうした相手へ自分から喧嘩を売れば、動画の終わりに格好良く逃げて終わり、とはならない。
責任を取れと言われれば、取らされる。
自分が望む形でなくとも。
「ジェントル」
「わ、私にも生活がある。貯金はもちろん全て返済に充てる、家財も売り売り払う、だが……そんな大金を用意なんて」
出久はまだ同じ姿勢でこちらを見ていた。
「ジェントル、どうして僕が貴方の生活とか、貯金の事を考えないといけないんですか?」
声音さえ変わらない。
「払ってくれますよね、ジェントル・クリミナル」
その一言でジェントルの中に残っていた抵抗が完全に折れた。
「……分かった」
「え?」
出久が聞き返す。
ジェントルは唇を震わせ、両手を床へついた。
額からは滝のように汗が流れている。
払う方法など何一つ思いつかない。明日から何をすればいいのかも、何年かかるのかも分からない。
それでも、この場で「無理だ」ともう一度答える勇気だけはなかった。
「分かった!!」
突然の大声がエントランスに響き渡った。
「必ず払う!」
「……本当に?」
「払うとも! 一千万円だろう!? 必ず払う!」
「あ、はい」
出久が少しだけ目を丸くする。
「ジェントル!」
ラブラバが慌てて駆け寄った。
「待って、本当にそんなお金どこから──」
「払う!」
「でもジェントル!」
「払うんだ!」
出久は笑っていた。
つい先ほどまで自分を震え上がらせていた底知れない瞳も今は鳴りを潜め、話が無事にまとまったことを心から喜んでいるような、ごく普通の少年の笑顔を浮かべている。
「いや、一時はどうなるかと思いました。払えないって言い張られたら、僕の方も困りますから。でも、払ってくれるならそれで解決ですね」
「……」
満足そうに頷く出久を前にしても、ジェントルは返事をすることができなかった。
まだ心臓が早鐘を打っている。全身から噴き出した汗でシャツは肌に張りつき、両腕にもろくに力が入らない。
一千万円を必ず払うと宣言してしまったものの、現実問題としてそんな大金をどうやって用意すればいいのか。
撮影機材をすべて売り払い、衣装も手放して動画活動をやめ、アルバイトを増やしたところで到底足りない。
生活費まで限界まで削ったとしても、一千万円という金額が現実的になるわけではなかった。
先ほど恐怖に押されて口走った約束が、今になって途方もない重さとなって肩へ圧し掛かってくる。
「ジェントル……」
ラブラバが心配そうに背中を撫でる。
「大丈夫? やっぱり一千万円なんて……」
「いや……約束したのだ。払うとも。必ず……」
そう答えるしかなかった。もう一度、目の前の少年へ向かって「やはり無理だ」と告げる勇気など、今のジェントルには残っていない。
そんな彼の様子をしばらく眺めてから、出久は何でもないことのように首を傾げた。
「でも、一括じゃなくて大丈夫ですよ?」
「…………何?」
ジェントルの動きが止まり、恐る恐る顔を上げる。
「……今、何と?」
「だから、分割で大丈夫です。さすがに一千万円をすぐ用意しろって言っても無理でしょう? そんな大金、普通に働いてたらすぐには作れませんし」
「分割で……いいのかね?」
「もちろん。毎月いくら払うかはあとで相談しましょう。無理して生活できなくなったら、こっちとしても困りますから」
その言葉を理解した瞬間、ジェントルの全身から一気に力が抜けた。
「はぁぁぁぁぁ……!」
「ジェントル!?」
危うく床へ突っ伏しかけた身体をラブラバに支えられながら、ジェントルは深く長い息を吐いた。
総額そのものは変わらないし、一千万円という途方もない金額を支払わなければならない事実も消えてはいない。
それでも、今すぐ全額を用意しろという話でなければ状況はまるで違う。
毎月少しずつ返済していけば、何年かかるかは分からないにせよ、少なくとも完全に不可能な話ではなくなる。
「よ、よかった……本当に……よかった……」
思わず漏れた本音に、ラブラバも胸を撫で下ろした。
「もう、ジェントル! さっき本当に死にそうな顔してたんだから!」
「すまない、ラブラバ……だが、これなら何とか……」
「ですよね」
出久が笑顔で頷いたため、ジェントルもようやく引きつっていた口元を僅かに緩めた。
敵連合へ自ら乗り込み、喧嘩を売った代償として一千万円を背負うことになったのだから、あまりにも高すぎる授業料ではある。
それでも生きて帰ることができ、ラブラバも無事で、時間さえかければ償うこともできる。
最悪の事態だけは避けられた。
そう思ったところで、出久が何かを思い出したように口を開いた。
「あ、それと」
ジェントルの肩がびくりと動く。
「……まだ何かあるのかね?」
「大したことじゃないですよ。僕の方から仕事を振ることがあるかもしれないので、その時は快く引き受けてくださいね」
「仕事……というのは?」
「まだ決めてません。僕らだけじゃ人手が足りない時とか、ジェントルの個性が役に立ちそうな時とか。その時になったら連絡します」
ジェントルは顎へ手を当てた。
考えてみれば、悪い話ではない。むしろ一千万円もの支払いを背負った今となっては、ありがたい申し出ですらあった。
敵連合から仕事を回してもらい、その報酬を返済へ充てられるのであれば願ってもない。
「もちろん、仕事をしてもらった分は返済額から引きますよ」
「それならば……確かに助かる」
「でしょう?」
出久はにこにこと笑っていた。
「ただ……」
ジェントルはそこまで考えることもなく、僅かな迷いを見せながら口を開いた。
「少年。一つだけ確認しておきたい」
「何ですか?」
「私は確かにヴィランだ。今さら法を犯すことそのものについて綺麗事を言うつもりはない。しかし、無関係な人々を傷つけるような仕事や、私の美学に反するような犯罪まで請け負うつもりは──」
「断れると思ってるんですか?」
ジェントルの言葉が途切れた。
出久は笑ったままだった。
声にも態度にも威圧するような変化はなく、つい先ほどまで仕事を紹介すると説明していた時とまったく同じ調子である。
「……少年?」
「だって、困るじゃないですか。こっちが必要だから仕事をお願いするのに、断られたら」
「それは……」
「もちろん、無茶なことばっかり頼むつもりはありませんよ。ジェントルの個性が向いている仕事を選びますし、働いた分はちゃんと返済から引きます。だから安心してください」
安心してください、と言われたにもかかわらず、ジェントルの背筋を冷たいものが伝った。
つい先ほどまで心を満たしていた安堵に、初めて小さな違和感が混じる。
一千万円という到底支払えない金額を突きつけられ、恐怖に耐えきれず支払いを約束したところで、突然分割払いを認められた。そして安心した直後、今度は断る事の出来ない仕事を振ると言う。
ジェントルは恐る恐る出久の顔を見た。
少年は先ほどと何一つ変わらない笑顔を浮かべているというのに、その奥にある緑色の瞳を見た途端、喉が小さく鳴った。
──まさか、最初から。
そこまで考えた瞬間、ジェントルは思考を止めた。
「ジェントル?」
「っ……」
名前を呼ばれただけで肩が跳ねた。
「どうしました?」
「いや……何でもないとも」
確かめることはできなかった。
「……分かった。仕事をいただけるのであれば、喜んで引き受けよう」
「よかった! 話が早くて助かります」
出久の笑顔がさらに明るくなる。
「よかったね、ジェントル! これなら返済も早く終わるかもしれないよ!」
「……まったくだとも」
ジェントルはそう答えながら、もう一度だけ出久を見た。
命は助かり、一千万円は分割払いで構わず、そのうえ返済を早めるための仕事まで紹介してもらえる。
条件だけを並べれば温情と言ってもいいほどなのに、先ほどまで胸を満たしていた安堵は、いつの間にかほとんど消えていた。
出久はすでに話が終わったとでもいうようにソファの背もたれへ身体を預け、何事もなかったように寛いでいる。
その横顔には悪意らしい悪意など欠片もなく、それがかえってジェントルには恐ろしかった。
「……ジェントル?」
「何でもないとも、ラブラバ」
ジェントルは心配そうに見上げてくるラブラバへ笑い返した。
それでも、一千万円という数字がいつの間にか一本の長い鎖へ姿を変え、その端をソファで笑っている少年にしっかり握られているような感覚だけは、どうしても拭うことができなかった。