数日後の午後。
敵連合のアジトから少し離れた住宅街の一角に、小さな公園があった。
滑り台とブランコ、それから砂場が一つ。
遊具はどれも年季が入っていて、塗装の剥げた柵の向こうには低い集合住宅が並んでいる。
休日でもないため子供の数はそれほど多くなく、幼い子を連れた母親が何組かいる程度だった。
その砂場の脇に、出久は腰掛けていた。
「それ、お城?」
「ううん、アジトだよ。デクさんのホテルなの」
しゃがみ込んだ壊理が、黄色いプラスチックのスコップで砂を掘っている。
今日の壊理は普段より少し大きめの帽子を被っていた。
額から生えた角を隠すためで、髪も帽子の中へなるべく押し込んである。
もっとも、変装が必要なのは壊理より出久の方だった。
黒いキャップを深く被り、髪の大半を隠している。
伊達眼鏡を掛け、口元には白いマスク。
服も気を遣い、何の特徴もない灰色のパーカーにジーンズを組み合わせていた。
それでも知っている人間が見れば気づく可能性はある。
全国指名手配されている以上、本来なら人目のある場所へ出るべきではないのだろう。
ただ、壊理をいつまでもホテルの中だけに閉じ込めておくわけにもいかなかった。
「デクさん」
「なに?」
「これ」
壊理が差し出したのは、砂の詰まった小さなバケツだった。
「ひっくりかえして」
「はいはい」
出久は受け取り、砂場の中央へ逆さに置く。
軽く底を叩いてからバケツを持ち上げると、円柱形に固まった砂が残った。
そんなやり取りをしながら、出久も砂場へしゃがみ込んだ。
最初は周囲を怖がっていた壊理も、最近では少しずつ外へ出たがるようになっている。
人が多い場所はまだ苦手らしいが、これくらいの小さな公園なら問題ないようだった。
出久が二つ目の砂山を作ろうとした時、背後から聞き慣れた声が飛んできた。
「デク君、壊理ちゃん。こんにちは」
出久が振り返る。
「あ」
公園の入口に、お茶子が立っていた。
スーパーの勤務を終えたばかりなのだろう。
いつもの鞄を肩から提げ、薄手の上着を羽織っている。
少し疲れた様子こそあるものの、こちらへ向けた表情は明るかった。
「麗日さん」
「おちゃこさん!」
壊理の反応は早かった。
持っていたスコップを砂場へ置くと、立ち上がってお茶子のところまで駆けていく。
「わっ」
飛びつかれそうになり、お茶子が慌てて鞄を横へ避けた。
「壊理ちゃん、元気やった?」
「うん!」
「そっかそっか」
お茶子は笑いながら壊理の頭を撫で、それから改めて出久を見る。
「今日は公園なんだね」
「うん。ずっとホテルの中も可哀想だし、たまにはと思って。それに、あそこは教育に悪いしね」
「なるほどなあ」
お茶子が少しだけ周囲を見回す。
「でもデク君、その格好めっちゃ怪しいよ」
「そんなに?」
「変装ならヒミコちゃんに任せればよかったのに、それデク君チョイスやろ」
出久が苦笑する。
壊理はそんな二人の会話など気にしていなかった。
「おちゃこさん、いっしょにあそぼ」
「ええよ! 砂場遊びなんて何年振りやろ」
「うん!」
壊理がお茶子の手を引き、砂場へ戻っていく。
お茶子は鞄をベンチの脇へ置くと、そのまましゃがみ込んだ。
スカートでも仕事着でもなく動きやすい格好をしているため、特に気にする様子もなく両手で砂を集め始める。
「これはお城かな? この枝は……連合のみんなかな?」
「ううん、デクさんのアジトだよ。これはスピナーさんで、たまにこっそり変なテレビ見てるの」
「……そか」
お茶子は何とも言えない顔をしながら、壊理が指差した枝を見つめた。
砂山の上には、長さも太さもばらばらな枝が何本も突き刺さっている。
それぞれが敵連合の誰かを表しているらしく、壊理は一本ずつ指を差しながら説明を始めた。
「これはトガさん。これはマグネさんで、これはコンプレスさん」
「へえ。じゃあデク君は?」
「これ」
壊理が示したのは、砂山の中央へ立てられた一番太い枝だった。
「でかっ」
「ボスだから」
お茶子は笑いを堪えるように口元を押さえた。
「デク君、ちゃんとボスしとるんやね」
「壊理ちゃんが勝手に言ってるだけだよ」
「でもみんなデクさんのいうこときくよ」
「ほら」
「いや、それは……」
出久が言い返そうとした、その時だった。
ふと顔を上げる。
公園の端。
先ほどから何となく視界の隅に入っていた二人の女性が、こちらを見ていた。
幼い子供を遊ばせている母親らしく、一人はベビーカーの横に立ち、もう一人は滑り台の近くにいる子供を気にしながら話している。
ただし、その会話の合間に何度もこちらへ目を向けていた。
「……」
出久の表情が僅かに変わった。
一人が何かを囁き、もう一人がこちらを確認する。
その後、すぐに顔を寄せ合って小声で話し始めた。
「……まずいかな」
出久は無意識に帽子のつばへ触れた。
変装が甘かったのかもしれない。
帽子、眼鏡、マスク。
普段とはかなり印象を変えているつもりではあったが、所詮は素人の変装だ。
髪を完全に隠しているわけでもなく、体格や声まで変わっているわけでもない。
顔写真は何度も報道されているだろうし、少しでも似ていると思われれば、じっと確認されてもおかしくはなかった。
こんな事なら面倒くさがらずに、トガに変装を頼めばよかった。
「デク君?」
お茶子の声に、出久が視線を戻す。
「どうしたん?」
「いや……」
再び公園の端を見る。
女性たちはまだこちらを見ていた。
今度は片方がスマートフォンを取り出している。
それを見て、出久の警戒心が一気に強まった。
「壊理ちゃん、そろそろ戻ろうか」
「え?」
壊理が露骨に残念そうな顔をした。
「もう?」
「うん。今日はこのくらいにしよう」
「でも、まだアジトできてないよ」
「続きはまた今度にしよう。明日でも来られるから」
「やくそく?」
「約束。今度はもう少し長く遊ぼう」
出久がそう言うと、壊理はまだ名残惜しそうに作りかけの砂山を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「……うん」
「ごめんね」
出久は壊理の頭を撫でながら立ち上がり、もう一度だけ公園の端へ視線を向けた。
やはり二人の女性はこちらを気にしている。
スマートフォンを手にした方は画面とこちらを交互に見比べており、もう一人も何かを確かめるように何度も顔を上げていた。
偶然とは思わない方がいい。
「麗日さんも一緒にくる?」
「うん。今日はもうバイト終わっとるし、そうしよっかな」
お茶子は特に疑問を挟まず、ベンチの横に置いていた鞄を肩へ掛けた。
三人は公園を出た。
普段なら大通りを使った方がホテルまで早いのだが、今日は人通りの少ない住宅街を選び、なるべく目立たない道を進んでいく。
出久は何度も後ろを振り返り、誰かがついてきていないか確認した。
「どうしたの?」
「ちょっとね。もしかしたら、僕だって気づかれたかもしれない」
「デク君、有名人やもんなあ」
「嬉しくない方のね」
出久が苦笑する。
お茶子も笑った。
ただ、その口元がほんの僅かに弧を描いたことには、出久も壊理も気づかなかった。
幸い、追ってくる者はいなかった。
それでも出久は念のため遠回りし、人通りの少ない裏道をいくつか経由してからホテルへ向かった。
途中で壊理が疲れたと言い出したため背負い、最後の数百メートルは普段よりかなり速い足取りで進む。
ホテルが見えてきても気を抜かない。
周囲を確認し、誰もこちらを見ていないことを確かめてから敷地へ入り、そのまま三人揃って建物の中へ滑り込んだ。
「ふう……」
扉が閉じたところで、出久はようやく息を吐いた。
「さすがに大丈夫かな」
「誰もついてこんかったね」
「うん。でも、しばらくあの公園は避けた方がいいかも」
背中から壊理を下ろす。
壊理はまだ遊び足りなさそうだったが、ホテルへ戻ってきたことで気持ちを切り替えたのか、帽子を脱ぎながらエントランスへ向かった。
その後ろを追った出久は、そこで足を止める。
「……何してるんですか?」
エントランスのソファに、スピナーとマグネがいた。
座っているというより、二人揃ってテーブルへ身を乗り出している。
その中央にはノートパソコンが一台置かれていた。
「だから、ここ! ここアンタでしょ!」
「分かってる! つーか俺が吹っ飛ばされてるところ何度も再生すんな!」
「だって面白いんだもの」
「面白くねえ!」
二人とも画面に食い入るように見入っており、出久たちが戻ってきたことにも気づいていない。
出久が怪訝そうに近づく。
「伊口君?」
「ん?」
名前を呼ばれ、ようやくスピナーが振り返った。
出久を認めた途端、その表情が変わる。
「おい緑谷! ちょうどいい、これを見ろ!」
「え?」
「いいから来い!」
スピナーが手招きする。
随分と興奮しているらしい。
出久は帽子と伊達眼鏡を外しながら近づき、お茶子と壊理もその後ろからついていった。
「何ですか?」
「これだよ!」
スピナーがノートパソコンを出久の方へ向けた。
画面には動画サイトが表示されている。
「再生するぞ」
スピナーが動画を最初まで戻し、再生ボタンを押す。
数秒後。
『親愛なる視聴者諸君!』
スピーカーから聞き覚えのある芝居がかった声が響いた。
「……あれ?」
出久が目を瞬かせる。
画面いっぱいに映っていたのは、特徴的な髭を生やした男。
ジェントル・クリミナルだった。
『本日、私ジェントル・クリミナルが訪れたのは──』
その背後には見覚えのあるホテルが映っている。
それも現在のように壁や床が壊れていない、数日前の姿だった。
「これ……」
「そうよ」
マグネが腕を組む。
「あの二人が襲ってきた時の映像」
出久は画面へ顔を近づけた。
間違いない。
ジェントルがホテルへ乗り込んできた時、ラブラバが抱えていたカメラから撮影された映像だった。
あの時、ラブラバは戦闘の最中も可能な限りカメラを回し続けていた。
途中で床へ転がった後も録画自体は続いていたらしく、映像には傾いたアングルから戦闘の様子が収められている。
「なんでこれがネットに?」
「だから怒ってんだよ!」
スピナーがテーブルを叩いた。
「あいつ! 見逃してやったのにこんな動画を!」
画面の中では、ちょうどスピナーがジェントルへ飛びかかったところだった。
ジェントルが腕を振る。
次の瞬間、空気へ弾性を与えられたスピナーが派手に弾き飛ばされ、壁へ叩きつけられた。
「……」
「……」
「なんだよ! 俺が吹っ飛ぶシーンはどうでもいい!」
スピナーが再びテーブルを叩いた。
「俺たちはあいつらを殺さなかったんだぞ! ホテルぶっ壊されても、金払うって話で済ませて帰してやった! なのに数日後にはこれだ! どうせ金も払わないつもりだぜ!」
スピナーは苛立ちを隠そうともせず、ノートパソコンの画面を指で叩いた。
「最初から踏み倒す気だったんじゃねえのか!? 見つけ出してとっちめてやろうぜ!」
「落ち着きなさいよ。壊理ちゃんが見てるのよ」
マグネが宥めるように言うものの、こちらも機嫌がいいわけではない。
自分がジェントルに蹴り飛ばされる場面まで公開されているのだから当然だった。
その背後で、お茶子は口元へ手を添えていた。
表向きは困惑しているように見える。だが、伏せた顔の下では唇の端が僅かに持ち上がっていた。
ちゃんと広まっている。
公園で主婦たちから向けられていた視線の理由も、これでほぼ間違いない。
自分が投稿した動画が想像以上に早く拡散され、顔まで知られるようになったのだろう。
敵連合と一緒にいる自分。
ヴィランとなった出久の隣に立っている自分。
それを今度こそ世間に隠しようのない形で見せられた。
その事実に、胸の奥が妙に軽くなる。
「……うちにも見せて?」
お茶子は何も知らないような顔を作り、スピナーの肩越しにノートパソコンを覗き込んだ。
「お前もばっちり映ってるからな」
「えー、嫌やなあ。どんな風に映っとるん?」
白々しく眉を下げながら、画面へ顔を近づける。
別に確認する必要などなかった。
自分が編集した動画だ。どの場面が残っているかくらい覚えている。
そして、壊理が映った数秒間だけは確実に切った。
そこだけは絶対に残さなかった。
壊理は関係ない。
世間から何を言われても、自分や出久ならまだいい。しかし、あの子まで巻き込むつもりはなかった。
「ここから先だ」
スピナーが再生位置を進める。
「ほら、マグ姐が──」
画面の中でジェントルとマグネが距離を取っている。
お茶子は何気ない顔で見ていた。
次に自分が映る。
その少し前、本来なら、編集で数秒分だけ映像が飛ぶはずだった。
お茶子は無意識に、その瞬間を待つ。
だが、映像は途切れなかった。
「……」
お茶子の笑みが消える。
マグネが横へ動いたことで、カメラの向こう側が一瞬だけ広く映った。
コンプレスに庇われるようにして立つ、白い髪の小さな女の子。
「……え?」
ほんの一瞬だけ声が漏れた。
画面の端に、壊理がいた。
不安そうな顔で戦闘を見つめ、タブレットを胸へ抱えている。その額には特徴的な角まで確認できた。
お茶子の表情が完全に凍りつく。
「……なんで?」
お茶子は思わず画面へ顔を近づけた。
壊理が映ったこと自体も問題だったが、それ以前におかしい。
自分が投稿した動画なら、そもそもこの場面は存在しないはずだった。
「ちょっと待って」
スピナーの返事も待たず、お茶子はマウスへ手を伸ばした。
「お、おい?」
「ごめん、ちょっとだけ」
再生を止めると、画面を上へスクロールする。
動画のタイトル、その下に表示された投稿者名へ視線を移したところで、お茶子の指が止まった。
「……これ」
見覚えがない。
表示されているのは、人名らしい意味すら持たないアルファベットと数字の羅列だった。
『annnag』
そんな、適当に作ったとしか思えない名前。
「誰……?」
スピナーも覗き込む。
お茶子は画面を指差した。
「これ、ジェントルのアカウントじゃないやんね?」
「……あ?」
スピナーの顔から怒りが一度引いた。
ジェントル・クリミナルの動画を以前から見ていた壊理のため、彼のアカウント自体はこのホテルでも何度か開かれている。
特徴的なアイコンも名前も、少なくともこんな無機質な文字列ではなかった。
「確かに違うわね」
マグネも身を乗り出した。
「ジェントル・クリミナルって、そのまんまの名前だったでしょう?」
「だったはずだ。あの野郎、自己主張だけは激しいからな」
スピナーが眉を寄せ、投稿者名をクリックする。
開かれたチャンネルには、ほとんど何もなかった。
登録者数はごく僅か。
過去の投稿もない。
プロフィール画像は初期設定のままで、自己紹介欄も空白だった。
そして、この動画だけが数日前に突然投稿されている。
「……捨てアカ?」
お茶子が呟く。
「たぶんな」
お茶子の喉が小さく鳴った。
自分でもジェントルでもない。
お茶子が自宅で動画を投稿したアカウントは、昔から使っている自分のものだ。
登録名もアイコンも、こんな文字列ではない。
しかも、自分が投稿したのは壊理の場面を削除した編集済みの動画。
「……じゃあ」
誰が?
お茶子は無意識に唇を噛んだ。
SDカードは自分が持ち帰った。
少なくとも、あのカメラに入っていた記録媒体は抜き取ったはずだ。それなのに、元の映像を持つ誰かがいる。
コピー?
撮影中に別の場所へ保存されていた?
それとも──
お茶子は画面の隅に映る壊理を見つめた。
その時だった。
入口の自動ドアが、ぎぎ、と重い音を立てて開いた。
「こんにちは諸君!」
朗々とした声がエントランスへ響く。
「──あ?」
スピナーがものすごい勢いで振り返った。
入口には、大きな袋を片手に提げたジェントル・クリミナルが立っていた。
数日前の惨敗など忘れたかのように胸を張り、今日は髭もきっちり整っている。
その隣にはラブラバもいて、こちらは少し疲れた顔をしながら小さな鞄を抱えていた。
「約束通り参ったとも!」
ジェントルは片手を大きく広げた。
「ひとまず現金化できるものは現金化した! 機材の一部、不要な衣装、家に眠っていた秘蔵の茶葉まで売却し──」
持っていた袋を掲げる。
「一度目の支払いに参った!」
「……」
エントランスに満ちていた張り詰めた空気など知る由もなく、ジェントルは上機嫌に袋を掲げていた。
「まだ総額から見れば微々たるものではあるが、千里の道も一歩から! まずは誠意を形として示すことが肝要だと考えてね!」
「ジェントル、ちょっと待って」
ラブラバが隣から小声で袖を引いた。
ようやく室内の様子がおかしいことに気づいたらしく、ノートパソコンを囲んでいる面々を見回す。
「なんか……空気変じゃないかしら?」
「む?」
ジェントルもそこで初めて異変を察した。
スピナーは立ち上がったまま自分を睨みつけ、マグネも腕を組んでいる。
出久は怒っているようには見えないが、こちらを静かに観察していた。
そして、その少し後ろ。
お茶子だけはジェントルではなく、ラブラバを見ていた。
正確には──彼女が肩から提げているカメラバッグを。
「……ラブラバ」
「え?」
呼ばれたラブラバが振り向く。
次の瞬間、お茶子が動いた。
「ねえ!」
真正面にいたジェントルの肩を両手で押し退け、その脇を抜ける。
予想もしていなかった勢いにジェントルがたたらを踏み、危うく持っていた袋まで落としかけた。
「な、何をするのだね!?」
だが、お茶子は聞いていなかった。
そのままラブラバの目の前まで詰め寄ると、両肩をがしっと掴んだ。
「ひっ!?」
ラブラバの身体が強張る。
先ほどまで見せていた穏やかな雰囲気は、お茶子から完全に消えていた。
「あのカメラ!」
「え?」
「この前使っとったカメラ! データって、貴方が持ってるん!?」
「え、ええ?」
「お茶子ちゃん?」
マグネも目を丸くする。
お茶子は構わず、ラブラバの肩を掴んだままさらに顔を近づけた。
「撮った動画! あれって他にも保存されるん!? パソコンとか、ネットとか、自動でどっかに送られたりするん!?」
「ちょ、ちょっと待って! 何の話!?」
「答えて!」
声がエントランスへ鋭く響いた。
ラブラバの顔が完全に怯えたものへ変わる。
数日前、怪物のような姿になった出久たちに囲まれた時とは種類が違うものの、今のお茶子の必死さも十分に怖かった。
「お願い、教えて! あのカメラのデータ、どこにあるん!?」
「S、SDカードよ!」
ラブラバがほとんど悲鳴のように答えた。
お茶子の指へ力が入る。
「SDカードだけ?」
「そうよ! あのカメラは基本的に全部SDカードへ保存してる! 自動でクラウドに上げる設定なんてしてないし、撮影中にどこかへ送信したりもしてないわ!」
「じゃあ、そのSDカードは!?」
「ないの!」
ラブラバは肩を掴まれたまま、怯え切った顔で必死に続ける。
「帰ってから確認したら、なくなってたの! カメラを開けたらSDカードが入ってなくて……ジェントルにも言ったわ!」
「うむ」
ジェントルが困惑しながら頷いた。
「確かに帰宅後、ラブラバからその話は聞いている。戦闘中にどこかで外れたのではないかと考えていたのだが……」
「嘘やない?」
「ほ、本当よ!」
ラブラバの目に涙が浮かび始める。
「本当! あたしだって困ったのよ! あの日の映像、ほとんど全部なくなったんだから!」
「バックアップは?」
「ない!」
「コピーは!?」
「してないわ! だって帰ってすぐ確認した時にはもうなかったのよ!」
お茶子は彼女の目をじっと見つめた。
嘘をついているようには見えない。
少なくともラブラバ本人は、本気で怯え、本気で説明している。
あのSDカードを抜き取ったのは自分。
持ち帰ったのも自分。
パソコンへ接続し、編集したのも自分。
なら、今ネット上に公開されている無編集版はどこから出た?
「麗日さん?」
出久の声がした。
お茶子が弾かれたように振り返る。
「……帰る」
「え?」
「ごめん、デク君! うち帰る!」
ラブラバから手を離した。
「きゃっ」
突然解放され、ラブラバが一歩よろめく。すぐにジェントルが肩を抱いた。
「ラブラバ、大丈夫かね?」
「う、うん……」
お茶子はもう二人を見ていなかった。
鞄を掴み、ホテルの入口へ走る。
「麗日さん!」
出久の制止にも足を止めず、歪んだ自動ドアの隙間を抜けて外へ飛び出した。
駐車場を駆け抜ける。
頭の中では、同じことばかりがぐるぐる回っていた。
「なんで……なんで……!」
走りながらスマートフォンを取り出す。
自分が投稿した動画はどうなっているのか確認したかったが、指が震えてまともに操作できない。
駅まで走り、改札を抜ける。
ちょうどホームへ滑り込んできた電車へ駆け込み、閉まりかけた扉の間をどうにか抜けた。
「はっ……はぁ……」
車内へ入ったところで、ようやく立ち止まる。
夕方にはまだ少し早い時間だったが、座席は半分ほど埋まっていた。
お茶子は空いている席にも座らず、ドアの脇へ立ったまま外を見る。
景色が流れる。
それがひどく遅く感じた。
「……早く」
一駅。
また一駅。
普段なら大して気にもしない移動時間が、今日は異常なほど長い。
胸騒ぎだけがどんどん大きくなっていく。
目的の駅へ着くと、お茶子は電車を飛び出した。
階段を駆け下り、改札を抜け、そのまま住宅街へ向かう。
ようやく見慣れた古いアパートが見えた。
階段を二段飛ばしで上がる。
玄関扉そのものに、大きな変化はない。
鍵も壊されていない。
しかし、室内の方から妙に冷たい空気が流れている気がした。
「……まさか」
扉を開けた。
「……!」
最初に気づいたのは、風だった。
部屋の奥から吹き込んでいる。
カーテンが不規則に揺れ、床に散らばっていた紙が何枚か舞っていた。
「え……」
靴も脱がずに上がり込む。
そして、窓を見た。
「……嘘」
ガラスが割れていた。
窓の一部が大きく欠け、細かな破片が床へ散らばっている。
誰かが侵入した。
その事実を理解した瞬間、お茶子は机へ走った。
「パソコン……!」
ノートパソコン自体はある。
机の上から動かされてもいない。
画面は閉じられ、電源も落ちていた。
だが。
USBポートへ差し込んでいたはずのカードリーダーがない。
「……誰が」
割れた窓から入り込む風にカーテンが揺れ、床へ散らばった紙片がかさかさと音を立てていた。
お茶子は机に両手をついたまま、何もないUSBポートを見つめていた。
金目の物が持ち去られた様子もない。それなのに、カードリーダーとSDカードだけが消えている。
そして、その中に入っていた無編集の映像が、知らないアカウントからネットへ投稿されていた。
「……なんの為に」
偶然この部屋へ入った空き巣が、古いノートパソコンにも金品にも手をつけず、たまたまSDカードだけを盗むはずがない。
犯人は最初からあのカードを狙っていた。そして中身を確認したうえで、壊理まで映った無編集版をわざわざ公開した。
自分がラブラバのカメラからSDカードを抜き取ったところを見られていたのか。
それとも、ホテルからここまで後をつけられていたのか。
どちらにしても気味が悪い。
お茶子は自分の腕を抱くようにして、ゆっくりと部屋を見回した。
いつもと同じ散らかった部屋だったはずなのに、今はあらゆる場所に誰かの痕跡が残っているような気がする。
その時だった。
──カチャ。
「……っ!」
背後から、小さな金属音がした。
お茶子の身体が跳ねる。
「誰!?」
反射的に振り返り、腰を落とす。
個性を使えるよう右手を前へ出したまま、お茶子は玄関を睨んだ。
開いた扉の向こうに、一人の女が立っていた。
長く流れるバイカラーの髪。
気怠げな瞳は、じっとお茶子を見つめている。
その顔には見覚えがあった。
ニュースで、雄英でヒーローを目指していた頃に見た資料で。
プロヒーローとして活動している姿を、何度も目にしている。
「……え」
お茶子の喉から、掠れた声が漏れた。
「レディ……ナガン?」
女──レディ・ナガンは答えなかった。
まるで知り合いの家へでも立ち寄ったような気軽さで室内へ入り、後ろ手に扉を閉める。
その右手で、何かを弄んでいた。
親指で弾き、人差し指と中指で挟む。
黒い、小さな板。
「……!」
お茶子の目が大きく見開かれた。
SDカード、自分が持ち帰ったものだった。
「それ……!」
「これ?」
ナガンは指先に挟んだカードを持ち上げた
視線を向け、表裏をくるりと返す。
「すごいよね、最近の機械って」
場違いなほど穏やかな声だった。
「こんな薄っぺらいのに、何ギガも入れられるんでしょ?」
ナガンはしばらくSDカードを眺めていた。
親指の腹で縁を撫で、表裏を返す。
お茶子はその動きを警戒しながら見つめていたが、カードを取り返そうとはしなかった。
目の前にいるのは、全盛を過ぎたとはいえトップクラスのプロヒーローだ。
下手に動けばどうなるかくらい、雄英で教育を受けたお茶子にも分かる。
ナガンはそんな緊張など気にも留めず、やがて小さく息を吐いた。
「迷ったんだよね」
ナガンはSDカードを弄ぶ手を止め、お茶子へ目を向けた。
「殺した方がいいのか、放っておいた方がいいのか」
「……え?」
あまりにも平然と告げられたため、意味を理解するまで一拍遅れた。
殺す。
確かにそう言った。
お茶子の身体が強張る。
「AFOからは、かき乱せるだけかき乱せって言われてたからさ。緑谷出久を休ませず、落ち着かせず、常に敵を作らせ試練を与えろって」
ナガンは肩を竦めた。
「ずいぶん雑な注文だと思わない?」
「AFO……」
オール・フォー・ワン。
目の前のプロヒーローがその男の指示で動いているという事実が、お茶子の中に残っていた僅かな期待を消し去った。
この人は助けに来たわけではない。
自分を保護しに来たわけでもない。
それどころか──
「でもさ」
ナガンの言葉が続いた。
「君も面白そうなことしてたから、乗っからせてもらったよ」
親指が動く。
SDカードが弾かれた。
「あっ」
黒い小片がくるくると回転しながら宙を飛び、お茶子は反射的に両手を差し出した。危うく取り落としかけながらも、どうにか掌で受け止める。
カードに傷はない。
間違いなく、ラブラバのカメラから自分が抜き取ったものだった。
「返すよ。もう必要ないから」
「……」
お茶子はSDカードを握ったまま、ナガンを見つめた。
どう返せばいいのか分からなかった。
目の前の女は、自分を殺すかどうか迷っていたと平然と言い放ったばかりだというのに、その態度には殺気も緊張もない。まるで少し面倒な仕事の方針を決めかねているだけのようだった。
ナガンはそんなお茶子の表情をしばらく眺めたあと、ふっと肩から力を抜いた。
「まあ決めたよ、君をどうするか」
その言葉に、お茶子の指が僅かに強張った。
だがナガンは銃口を向けることも、腕を変形させることもなかった。むしろ困ったように眉を下げ、割れた窓の方へ目を向ける。
「私個人としては、君は殺したくない」
「……」
「別に情が湧いたとか、そういう綺麗な話じゃないけどね。ただ、見てて思ったんだよ。君をここで消すより、そのまま好きに動いてもらった方が面白そうだって」
ナガンはそこで一度言葉を切り、お茶子の手の中にあるSDカードを指した。
「だから、君のプランで行かせてもらうことにするよ」
「うちの……プラン?」
「そう、動画投稿なんて今時だよね。ちょっと弄らせてもらったけど」
ナガンは窓際へ歩きながら、何気ない調子で続けた。
「あの壊理ちゃんって子。死穢八斎會組長の孫娘みたいなんだよね」
お茶子が目を瞬かせた。
「孫……?」
「そう」
ナガンは割れた窓の枠へ手を掛けた。
「少なくとも表向きの身元はそうなってる。今は行方不明扱いで、連中はずっと探してる」
お茶子の頭に、ホテルで過ごす壊理の姿が浮かぶ。
出久の後ろをついて歩き、トガと遊び、マグネに髪を整えてもらい、今日も公園で砂遊びをしていた少女。
「……聞いたことなかった」
「緑谷出久も知らなかったんじゃないかな? もしかしたら薄々気付いていたかもしれないけど」
ナガンは特に意外そうでもなかった。
「ただね、どうもそれだけじゃなさそうなんだよ」
「……それだけじゃない?」
「私も少し調べたんだけど、八斎會の動きが普通じゃない」
ナガンの表情から、先ほどまでの気怠げな軽さが少しだけ薄れた。
「組長の孫娘が行方不明になった。それだけなら、必死に探す理由としては十分だよ。でも、あそこまで人も金も使って、警察に目を付けられる危険まで冒して探し回るかなって」
「……」
「しかも一部の連中は、女の子を取り戻せっていうより、何か重要な物を奪われたみたいな動き方をしてる」
ナガンは軽く首を傾けた。
「血筋なのか、個性なのか、身体そのものなのか。あるいは全然別の何かなのか。そこまでは私にも掴めなかった」
「……」
「でもまあ」
ナガンは窓枠へ片足を掛けた。
「何にせよ、これで八斎會は壊理ちゃんが敵連合と一緒にいるって知った」
「……!」
お茶子の顔色が変わる。
「動画……!」
「もう消しても遅いよ。コピーもされてるし、切り抜きも出回ってる」
「そんな……」
「それに、場所までは映像だけじゃ特定できなくても、八斎會なら自前で探すでしょうね。相手は大阪に地盤を持ってる組織だし」
ナガンは窓の外へ視線を向けた。
「死ぬ気で取り戻しに来るよ」
「……壊理ちゃんを?」
「うん」
軽い返事だった。
だが、その内容だけは軽くない。
お茶子の掌の中で、SDカードが軋みそうなほど強く握られる。
「なんで……そんなこと」
「言ったでしょ」
ナガンが振り返った。
「出久君を休ませないため」
「……」
「今までの敵が片付いたら、次の敵が来る。何か守るものができたら、それを狙われる。安心できる場所を作ったら、そこに火種を投げ込む」
感情の薄い声音だった。
「AFOが望んでるのは、たぶんそういうこと」
「……最低」
「そうだね」
ナガンはあっさり同意した。
お茶子は一瞬、何も言えなくなった。
「おっと、そろそろ行くね。麗日お茶子」
「ちょ! 待っ──」
ナガンが窓枠を蹴った。
身体が外へ滑り出し、次の瞬間には姿が消える。
お茶子は慌てて窓まで走った。
「ナガン!」
下を見る。
だが、すでにそこには誰もいない。
割れた窓から冷たい風だけが吹き込み、カーテンを大きく揺らしていた。