お茶子がホテルを飛び出してから、ほんの数秒。
エントランスには、妙な沈黙だけが残った。
「……」
出久は開いたままの自動ドアを見つめていた。
その横では、ラブラバがジェントルの腕に庇われるように立ち、マグネとスピナーは何が起きたのか分からない顔をしている。
壊理もまた、お茶子が突然走り去った方向を不安そうに見つめていた。
「麗日さん……」
お茶子が今どんな気持ちなのか、少しだけ想像できてしまう。
出久自身もそうだった。
世間に名前が知れ渡り、ヒーロー側へ戻る道を失い、敵連合の人間として見られるようになった。
一度そうなれば、以前までの生活には簡単には戻れない。
公園で向けられていた視線も、お茶子へ向けられていたのだとしたら。
「……」
出久は唇を結んだ。
自分だけで十分だった。
自分がそうなったからといって、お茶子まで同じ目に遭う必要はない。
むしろ、あの頃の自分を知っている人間には、出来るだけ普通に暮らしてほしいと思っていた。
「ちょっと行ってきます」
出久は帽子を被り直し、自動ドアへ向かった。
その時だった。
ぎぎ、と。
歪んだ自動ドアが、引っかかるような音を立てながら開いていく。
出久は帽子のつばに掛けていた手を止めた。
お茶子が戻ってきたのかと思ったが、違う。
最初に入ってきたのは、がっしりとした体格の男だった。
剃り上げた頭。太い首。
服の上からでも分かるほど発達した筋肉。
歩き方には妙な軽さがあるのに、一歩ごとに床が軋むような圧がある。
その後ろから、白い衣装を身に着けた細身の男が続く。
顔の大半を布とマスクで隠し、露出している目元だけが静かに室内を見回していた。
最後に入ってきたのは眼鏡を掛けた男だった。
他の二人と比べれば体格は普通で、物腰も穏やかに見える。
ただ、その視線には人の反応を一つ残らず拾おうとするような鋭さがあった。
「……」
出久の足が止まる。
見覚えがあった。直接話したことこそないが、八斎會へ出入りするようになってから、オーバーホールの近くに立つ彼らの姿を何度か見ている。
若頭直属の実働部隊──鉄砲玉八斎衆。
「……乱波さん」
出久が先頭の男を見た。
乱波肩動。
戦うことそのものを好み、八斎衆の中でも特に近接戦闘に秀でている男だった。
続いて、その後ろ。
「天蓋さんと……音本さんまで」
天蓋壁慈。
音本真。
三人とも、オーバーホールの護衛についているところを見たことがある。
ホテルの中にいたマグネたちも、出久の反応からただの客ではないと察したらしい。
スピナーが眉を寄せる。
「知り合いか?」
「ええ、八斎會の方です」
出久はそう言いながら、三人の顔を順番に見た。
乱波肩動、天蓋壁慈、音本真。
八斎會の人間がホテルを訪ねてくること自体は、それほど不自然ではない。
出久たちはこれまでにもオーバーホールと何度か接触し、取引も行っている。
だが、今日に限っては話が違った。
つい先ほど、ネット上で例の動画を確認したばかりだ。
そこには壊理が映っていた。
そして、その直後に現れたのが八斎衆。
それも、若頭であるオーバーホールの直属として動く三人である。
偶然で済ませられるはずがない。
「……」
出久は壊理を振り返らないまま、考える。
壊理を迎えに来た。
おそらく、それ以外にない。
同じ結論に至ったのは出久だけではなかったらしい。
「壊理ちゃん」
いつの間にか近くまで来ていたコンプレスが、小さな声で呼んだ。
壊理が顔を上げる。
「こっち来な」
「……うん」
コンプレスはそっと壊理の肩へ手を添えた。
そのままソファと柱の陰へ誘導し、入口から直接姿が見えない位置へ隠す。
「ふむ……」
音本は眼鏡の位置を直しながら、出久の顔を静かに観察していた。
音本の様子を見る限り、もはや確認するまでもなかった。
動画に映っていた少女──壊理がこのホテルにいると、三人はほぼ確信している。
「緑谷出久」
音本が一歩だけ前へ出た。
「今、世間に出回っている動画については把握しているな?」
「長旅で疲れたんじゃないですか? ゆっくり座ってはなしませんか。その動画についても、誤解があるみたいで色々話しましょう」
「とぼけるな、長居するつもりはない」
出久の目が僅かに細くなる。
やはり、それか。
「ジェントル・クリミナルの動画なら、さっき見ました」
「なら話が早い」
音本はそう言うと、上着のポケットからスマートフォンを取り出した。
数度画面を操作してから出久へ向ける。
表示されているのは、先ほどスピナーたちと見ていたものと同じ動画だった。
再生位置も決まっている。
マグネがジェントルと対峙し、その向こう側に白い髪の少女が一瞬だけ映り込んだ場面。
「この少女」
音本の指先が画面を軽く叩いた。
「どこにいる?」
出久は画面に映る壊理を一瞥した。
やはり、それが目的だった。
だが、ここで正直に答える理由はない。
相手が壊理を探していることは明らかで、本人も八斎會をひどく恐れている。
事情も分からないまま居場所を教えるなど論外だった。
適当に誤魔化して、まずは隙を見つける。
そう決めて、出久は肩の力を抜いた。
「その子なら──」
知らない。
動画にたまたま映り込んだだけで、自分たちとは関係ない。
そう答えるつもりだった。
「八斎會から借りた車に紛れ込んでました」
「……」
出久自身が固まった。
スピナーが横から出久を見る。
「おい!?」
「それで、そのまま連れてきて、今はこのホテルで匿ってます」
「……は? ちょっと緑谷ちゃん!」
マグネの口からも間の抜けた声が漏れた。
出久の目が見開かれる。
違う。
こんなことを言うつもりではなかった。
なのに、口が止まらない。
「本人は八斎會に戻りたくないみたいです。理由は詳しく聞いてませんけど、八斎會の名前を出すだけでも怖がりますし、オーバーホールのことも──」
そこまで喋って、ようやく出久は両手で自分の口を覆った。
「……っ!」
エントランスが静まり返る。
自分が何を喋ったのか理解した途端、背中に冷たいものが走った。
全部だ。
壊理を見つけた経緯。現在の居場所。匿っている事実。
聞かれてもいないことまで、すらすらと。
「はっは! お前、全部喋ってんじゃねえか!」
「乱波さん」
天蓋が窘める。
「笑っている場合ではありません」
出久は口を塞いだまま、音本を睨んだ。
音本だけが笑っていない。
眼鏡の奥から、静かにこちらを観察している。
「……なるほど」
音本が小さく呟いた。
「やはり若頭の予想通りでしたか」
その言葉で、出久の頭が急速に回り始める。
おかしい。
自分は嘘をつこうとした。
少なくとも、頭の中でははっきりと「知らない」と答えるつもりだった。
それなのに口から出たのは、正反対の事実。
緊張して口を滑らせた?
あり得ない。
一言ならまだしも、車に紛れ込んでいたところから、ホテルで匿っていることまで一息に喋ってしまった。
そして、目の前にいるのは八斎衆。
個性持ちの実働部隊。
「……個性か」
口を塞いだまま、出久が低く呟いた。
音本の眉が僅かに動く。
それだけで十分だった。
音本真の個性はおそらく、相手に真実を喋らせる類の個性。
質問に対して嘘をつけなくなるのか、それとも本人が隠そうとしている情報まで強制的に吐かせるのか。
発動条件も有効範囲も分からないが、少なくとも音本からの問いかけには迂闊に答えない方がいい。
「チッ……」
出久は小さく舌打ちした。
「すみません。完全にやられました」
出久は音本から目を離さなかった。
「多分、嘘をつけなくするような個性です。僕は知らないって答えるつもりだったのに、勝手に本当のことを喋らされました」
「はぁ?」
スピナーの顔が険しくなる。
「じゃあ、こいつと話すだけで──」
「条件が分からないから、僕以外はなるべく喋らないでください」
「分かったわ」
マグネが短く答えた。
音本は訂正も肯定もしない。
ただ、必要な情報はすでに得たとでもいうように眼鏡を押し上げた。
「ともあれ、確認は取れました」
「……」
「壊理さんはこのホテルにいる。そして、あなた方が匿っている」
音本の視線が出久の後方へ向く。
コンプレスが壊理を隠している柱の陰へ。
それを見た出久が僅かに重心を落とした。
「それが分かったから何です?」
「我々の目的は最初から一つです」
音本が答える。
「壊理さんを連れて帰る」
柱の陰で、小さく息を呑む音がした。
「……やだ」
微かな声だった。
それでも、エントランスが静まり返っていたため全員の耳に届いた。
「帰りたくない……」
コンプレスが黙って壊理の前へ身体を入れる。
出久の表情が変わった。
「本人が嫌だって言ってますけど」
「残念ながら、本人の意思は関係ありません」
音本は淡々としていた。
「我々は若から壊理さんを連れ戻すよう命じられている。それを果たすだけです」
「だったら、こっちも答えは決まってます」
出久は一歩も退かなかった。
「渡しません」
短い言葉だった。
それを聞いて、乱波の口元が大きく吊り上がる。
「おっ」
嬉しそうな声が漏れた。
「そう来なくちゃなあ」
乱波は首を左右へ傾け、骨を鳴らすと、続けて右肩を大きく回した。
さらに左肩。分厚い腕が動くたび、衣服の下で筋肉が盛り上がる。
「いやあ、安心したぜ」
乱波が一歩前へ出た。
出久たちとの距離が縮まる。
「素直にガキ渡されちまったら、俺の出番ねえだろ?」
拳と拳を打ち合わせる。
鈍い音がエントランスに響いた。
「緑谷、お前とは一回やり合ってみたかったんだ!」
乱波は獰猛に笑った。
「頑張って抵抗してくれよなあ」
拳を構える。
「すぐ終わっちまったら、つまんねえからよ!」
その瞬間、出久は理解した。
もう話し合いでは終わらない。
何を言おうと、乱波は戦う気だ。
こちらも壊理を渡すつもりはない。
衝突は避けられない。
「迫さん、壊理ちゃんを連れて逃げるんだ」
壊理が柱の陰から顔を出した。
「やだ! デクさんも──」
「迫さん!」
「分かってる!」
コンプレスが壊理を抱き上げた。
壊理が手を伸ばす。
しかしコンプレスは止まらず、そのままエントランスの奥へ向かって走り出した。
当然、八斎衆も動く。
「行かせませんよ」
出久の声と同時に、身体の内側でいくつもの個性が立ち上がる。
まず変化したのは皮膚だった。
手の甲から白い突起が浮かび、硬質な音を立てながら指先、前腕、肩へと広がっていく。
薄い骨片のようだったものは次第に厚みを増し、一枚一枚が重なる鱗となって全身を覆っていった。
続いて骨格が軋む。
肩幅が大きく広がり、背骨が伸び、四肢が人間の比率から外れていく。
服の下では筋肉が急速に膨張し、腕は丸太のように太く、脚も床を踏み抜きかねないほど巨大になった。
さらに爪が伸び、歯も鋭く変形する。
ぱき、ばき、と耳障りな音が連続した。
数秒前までそこにいた少年の面影が、見る間に薄れていく。
唯一変わらない、緑色の瞳で三人を見下ろした。
「……おお」
乱波の足が止まった。
止まったのは警戒したからではない。
見惚れていた。
「っはははは!」
乱波が堪えきれないように笑った。
「いいじゃねえか!」
両拳を打ち合わせる。
「それだよ、それ! ニュースで見た時から、ずっと楽しみにしてたんだ!」
巨大化した出久を前にしているというのに、怯えるどころか目を輝かせている。
「手ぇ出すなよ!」
乱波は天蓋と音本へ振り返りもせず叫んだ。
「こいつは俺がやる!」
「乱波!」
音本の鋭い声が飛ぶ。
「本来の目的を忘れるな!」
「ああ?」
「我々は喧嘩をしに来たわけではない。壊理さんを回収するために来たんだ!」
「分かってるって!」
「分かっている人間の発言ではない!」
乱波は鬱陶しそうに首を回した。
「こいつ倒しゃ、その先に行けるだろうが」
「その間に逃げられたら意味がないと言っている!」
音本はそれ以上乱波と言い争うことをやめると、すぐに視線をその向こうへ移した。
コンプレスはすでに壊理を抱え、エントランス奥の通路へ入りかけている。
このまま乱波に出久を任せて追えば、まだ間に合う。
「天蓋、乱波は任せる。私は壊理さんを追う」
「ああ? 勝手にしろ!」
乱波が露骨に不満そうな声を上げたが、音本は取り合わなかった。
上着の内側へ右手を入れ、黒い拳銃を抜く。
音本は銃口を出久へ向けることなく、そのまま横へ回り込もうとした。
目的は最初から壊理であり、出久と正面から戦う必要はない。
乱波が足止めしている間に少女を回収できれば、それで仕事は終わる。
だが。
「どこ行く気だよ」
音本の進路へ、スピナーとマグネが滑り込んだ。
「そこを退け」
「嫌だね」
スピナーは動かなかった。
サバイバルナイフを抜き、音本に向けて突き付ける。
「壊理は俺たちのところにいる。本人が帰りたくねえって言ってんのに、無理矢理連れて帰るってのはあんまりじゃねえか」
別方向からマグネも前へ出た。
「それに、アンタ一人で追いかけられると思ってる?」
棒磁石型のサポートアイテムを肩へ担ぎ、スピナーとは反対側から道を塞ぐ。
「緑谷ちゃんがあっちを止めるなら、こっちはアタシたちが相手してあげるわ」
「愚かな……」
出久は一瞬だけそちらへ目を向けた。
音本の個性は厄介だ。
質問へ答えれば、また何を喋らされるか分からない。そのうえ拳銃まで持っている。
だが。
「伊口君、引石さん!」
「分かってる!」
「任せなさい!」
二人の返事を聞き、出久はそれ以上そちらを気にするのをやめた。
「……お願いします」
低い声でそう言うと、身体ごと向き直る。
残るのは乱波と天蓋。
乱波は待ってましたとばかりに拳を構えていたが、天蓋はその半歩後ろで静かにこちらを見ている。
「やっと俺の番かよ」
乱波が歯を見せる。
「緑谷! さっさと来い!」
「言われなくても」
出久は乱波の体勢を観察した。
明らかな近接戦闘型。
それも、見たところ武器は持っていない。
拳だけで来るつもりらしい。
接近戦は出久としても望むところだった。
巨体が沈む。
次の瞬間、床が砕けた。
「──っ!」
乱波の目が見開かれる。
出久の身体が一気に間合いを潰した。
巨体からは想像できない加速。
強化された脚力で床を踏み抜き、数メートルあった距離をほとんど一足で消し飛ばす。
「ははっ!」
だが乱波は退かなかった。
むしろ嬉しそうに踏み込む。
「そう来なくちゃな!」
拳を引く。
出久も右腕を振りかぶった。
今の自分の力がどれほど通用するのかは分からない。
乱波が八斎衆の中でも武闘派として知られている以上、普通の人間と同じ感覚で殴れば済む相手ではないだろう。
だからこそ、最初から遠慮する理由もない。
「っ……!」
骨の鱗に覆われた拳が、真正面から乱波へ放たれた。
拳圧だけで空気が押し退けられる。
乱波の顔面へ届く、その直前。
──ゴンッ!!
「……!?」
出久の拳が止まった。
乱波には届いていない。
何もなかったはずの二人の間に、半透明の何かが出現していた。
淡く半透明の膜。
それが乱波と天蓋を包むように半球状へ広がっている。
出久の拳は、その表面へ深々と押しつけられていた。
「なんだ、これ……!」
腕へ強烈な反動が返る。
ジェントルの弾性空気とは違う。
あちらは拳を受け止めながら大きくたわみ、押し込んだ力を反発させてきた。
今、拳を阻んでいるものには、ほとんど撓みがない。
見た目は薄い膜にしか見えないのに、まるで分厚いコンクリートの壁を殴ったような感触だった。
「おい、天蓋!」
半透明のドームの内側から、乱波が声を張り上げた。
天蓋は出久へ向けていた視線を動かさない。
「これ解除しろ!」
乱波が拳でバリアの内側を叩く。
ごん、ごん、と鈍い音が響いた。
「せっかく向こうから殴りに来てんだぞ! 無粋なことするんじゃねえ!」
「なぜ私と貴方が組まされているか理解してください。貴方は一度戦いに熱中すると、周りが見えなくなってしまいます」
言い争う二人を前に、出久は拳を構えたまま動かなかった。
むしろ数歩、ゆっくりと後退する。
乱波がそれに気づく。
「あ? おい緑谷、何下がってんだ!」
「……なるほど」
出久は答えず、半透明のドームを観察した。
先ほど殴った右拳を開閉する。
痛みはほとんどない。
骨の鱗にも目立った損傷はなかったが、それはこちらの防御力が高いからだ。
手応えは明確だった。
出久は改めてドームの表面を見る。
攻撃を受け止めた箇所にひびはない。それどころか、歪んだ様子さえなかった。
先ほどの一撃にはかなりの力を込めた。
それを正面から受けて、無傷。
「……すごいな」
思わず声が漏れる。
出久がこれまで戦った相手の中で、似たような防御手段を持っていた人間が一人いる。
ジェントル・クリミナル。
彼の『弾性』によって作られた空気の壁も、非常に厄介だった。
何もない空間そのものが強力な障害物となり、こちらの攻撃を受け止める。
それどころか、力任せに殴れば殴るほど反動まで返ってくる。
あれを正面から突破するのは容易ではなかった。
「ジェントルと同じくらい……いや」
単純な防御力だけなら、こちらの方が上かもしれない。
出久は目を細めた。
もちろん、一度殴っただけでは断定できない。
それでも、少なくとも出久の一撃を真正面から無傷で止める程度には強固だ。
出久がそう考えた、その直後だった。
半透明のドームが、何の前触れもなく消えた。
「──え?」
出久が目を見開く。
天蓋が個性を解除した。
そう理解した時には、もう遅かった。
「おらあ!!」
乱波の巨体が、一気に懐へ潜り込んでいた。
バリアが消える瞬間を待っていたのか、それとも天蓋が出久の注意を防壁へ引きつけていることを利用したのか。
いずれにせよ、出久が一瞬だけ状況の変化を認識するために生じた隙を、乱波は完璧に突いた。
最初の拳が、出久の脇腹へ突き刺さる。
──ドゴッ!!
「ぐっ……!」
身体がくの字に折れた。
全身を覆う骨の鱗が衝撃を受け止めたが、その内側まで重い振動が貫いてくる。
だが、それで終わらない。
乱波の両腕が霞んだ。
「おらおらおらおらァ!!」
機関銃。
出久の頭に浮かんだのは、その言葉だった。
一発一発を目で追う暇すらない。
胸、腹、肩、脇腹。乱波は出久が体勢を立て直す隙を与えず、至近距離から拳を叩き込み続ける。
──ドドドドドドドッ!!
連続した打撃音が、一つの轟音へ変わる。
「っ、ぐ……!」
出久は両腕を上げて防御しようとした。
その腕へ拳が集中する。
一発目で骨の鱗が軋んだ。
二発目で表面に亀裂が入る。
三発、四発、五発。
びしびしと白い装甲へ亀裂が広がり、次の瞬間には破片が弾け飛んだ。
「──っ!?」
出久の目が見開かれる。
骨の鱗が砕けた。
これまで刃物や鈍器を受けても簡単には傷つかなかった硬質な外殻が、乱波の拳によって真正面から破壊されている。
鉄板を重ねたような防御力がある。
少なくとも出久自身は、そう認識していた。
だが乱波の拳は、その硬さを力で上回っていた。
「はははははっ!」
乱波は笑っている。
「硬えな、お前!」
拳を叩き込みながら、本当に嬉しそうに叫ぶ。
「いいじゃねえか! 殴り甲斐がある!」
「この……!」
出久が反撃しようと右腕を振る。
しかし、肩を引いた瞬間に顎へ拳が突き上げられた。
──ガンッ!
頭が跳ね上がる。
続けざまに腹へ二発。
胸へ三発。
最後に、乱波が一歩深く踏み込んだ。
「吹っ飛べ!」
右拳。
今までの連打とは違う。
腰を捻り、肩を入れ、全身の力を一発へまとめた拳が出久の胸板へ叩き込まれた。
──バギィッ!!
胸部を覆っていた骨の鱗がまとめて砕けた。
「がっ……!」
出久の巨体が床から浮く。
数メートルを一直線に吹き飛び、エントランスに残されていた長椅子を巻き込みながら壁へ激突した。
──ドォンッ!!
内壁が大きくへこみ、亀裂が放射状に広がる。
天井から粉塵が落ちた。
「緑谷!」
スピナーが思わず振り返る。
「こっちは……いい!」
出久は崩れた壁へ背中を預けたまま声を張った。
壁へ叩きつけられた出久は、しばらくその場から動かなかった。
胸から腕にかけて走る鈍痛を確かめながら、ゆっくりと息を吸う。
乱波の連打を受けた箇所では、砕けた骨の鱗の隙間から赤く腫れた皮膚が覗き、床には白い破片がいくつも散らばっていた。
もっとも、それも長くは続かない。
露出した皮膚の下が盛り上がり、細かな骨片が次々と押し出されてくる。
最初は薄い板のようだったそれらが互いに重なり合い、欠けた部分を埋めるように成長していった。
「……痛たた」
胸元を押さえながら、出久は壁から身体を起こす。
再生そのものは順調だった。
壊された鱗を作り直すだけなら、それほど時間はかからない。
ただし乱波の拳によって内部へ伝わった衝撃までは消えず、脇腹や胸の奥にはまだ重い痛みが残っている。
出久は目の前の二人を見た。
前には乱波。
その後ろには天蓋。
乱波一人なら、まだ分かりやすい。近づいて殴る。
恐ろしく単純な戦い方ではあるが、その単純さを圧倒的な速度と威力で成立させている。
一方、天蓋は真正面から戦う必要すらない。
乱波が攻める間は後方に控え、必要な瞬間だけあの強固な防壁を展開すればいい。
こちらが攻撃すれば防ぐ。
防壁に意識を向ければ、解除した瞬間に乱波が飛び込んでくる。
だからといって天蓋から潰そうとすれば、乱波が黙って見ているはずもない。
「……このコンビの相手、骨が折れるな」
出久は再生しつつある前腕を眺めながら呟いた。
「ああ?」
乱波が嬉しそうに首を傾ける。
「もう弱音か? まだ始まったばっかだろ!」
「そういう意味じゃないですよ」
出久は肩を回し、胸の鱗が十分に再生したことを確認してから改めて腰を落とした。
時間を稼ぐだけなら、倒す必要はない。
コンプレスが壊理を連れて十分な距離まで逃げるまで、ここで二人を足止めできればいい。
だが、その時間がどれほど必要なのか分からない。
ホテルの裏口から出ても、八斎會側が別働隊を用意している可能性はある。
そもそも音本もスピナーとマグネを突破しようとしているのだから、こちらが乱波と天蓋だけを見ていれば済むとは限らなかった。
なら、可能ならば二人をここで無力化した方がいい。
しかし。
「……どうしようか」
出久の視線が天蓋へ向かう。
あのバリアを突破する方法がまだ見えていない。
ジェントルの弾性空気なら、時間経過で消えるという制約があった。
分身を大量にぶつければ削り切ることもできた。
だが天蓋の防壁がどういう仕組みなのかは分からない。
先ほど一度殴っただけでは、情報があまりにも少ない。
しかも今回は、じっくり観察している時間もない。
「おい緑谷!」
乱波が待ちきれないように拳を打ち鳴らした。
「考え事は終わったか!?」
「もう少し待ってもらえません?」
「焦らすんじゃねえよ! 嫌だ!」
「ですよね」
乱波の脚へ力が入る。
来る。
そう判断した出久が両腕を構えた、その時だった。
「緑谷少年!」
場違いなほど朗々とした声が、横から響いた。
「……え?」
出久が思わず顔を向ける。
そこにいたのは、ジェントルだった。
いつの間にかラブラバの前から離れ、出久へと歩み寄ってくる。
返済の為に訪れただけだったはずの男が、まるで舞台へ上がる役者のような足取りで戦場の真ん中へ進み出てきた。
「ジェントル?」
ラブラバも驚いたらしい。
「ちょっと、何してるの!?」
「ラブラバ」
ジェントルは振り返らない。
「ここは少しだけ、私に格好をつけさせてくれたまえ」
「はぁ!?」
そのまま出久の前まで来る。
怪物化した出久と比べれば、体格差はあまりにも大きい。
それでもジェントルは怯むことなく、その巨体を庇うように一歩前へ出た。
右手を胸へ添え、大仰に一礼する。
「緑谷少年!」
顔を上げる。
「ここは私に任せていただけないだろうか!」
「……ジェントル」
出久は目を瞬かせた。
乱波も動きを止めていた。
「誰だお前?」
ジェントルが即座に反応する。
「私を知らないとは、さては最近インターネットを見ていないな!?」
「知らねえよ」
「私はジェントル・クリミナル!」
「知らねえって」
ジェントルの顔が一瞬だけ引きつる。
それでも、すぐに乱波へ向き直った。
「ともかくだ!」
両腕を広げる。
「君が守ろうとしている少女を、本人の意思を無視して連れ去ろうというのなら──」
ジェントルの指先が、目の前の空気へ触れた。
僅かに空間が歪む。
「現代の義賊、ジェントル・クリミナルとして、そのような無法を捨て置く訳にはいかない!」