ジェントルが大仰に両腕を広げた。
天蓋の目が細くなる。
乱波と殴り合っていた出久とは違い、目の前へ現れた男の能力は分からない。
先ほどまで戦闘へ参加していなかったこともあり、八斎會側からすれば完全な未知数だった。
「待て」
「ああ?」
乱波が拳を構えたまま振り返る。
だが、天蓋は返事を待たなかった。
片手を胸元で立て、個性を発動させる。
――ブゥン。
低い振動音とともに、空間が歪んだ。
乱波と天蓋を中心として、淡い半透明の膜が瞬く間に広がっていく。
床から立ち上がったそれは二人の頭上で滑らかに湾曲し、先ほど出久の拳を完全に受け止めたものと同じ、半球状のドームを形成した。
「む?」
ジェントルが足を止める。
透明に近い防壁を興味深そうに眺め、すぐにその向こうにいる天蓋へ視線を向けた。
「なるほど。先ほど緑谷少年の拳を受け止めたのは君の個性だったのか」
反対に、乱波は見るからに不機嫌になった。
「おい!」
振り返るなり、天蓋のバリアを拳で殴りつける。
――ドンッ!
強烈な拳を受けても、半透明の膜は僅かにも揺れない。
「また余計なことをしやがって!」
乱波は構わず内側から何度も叩いた。
「解除しろ、天蓋! せっかく向こうから出てきてくれたんだぞ!」
「何者かも、どのような個性を持っているのかも分からない相手だ。警戒するのは当然でしょう」
「知るか!」
乱波はジェントルを指差した。
「俺はこいつともやるぞ! 緑谷もまだ終わってねえし、面白そうなのがもう一人出てきたんだ! こんなところに閉じ込めてんじゃねえ!」
「お前を守っているのではない。勝手に飛び出して状況を悪化させないためだ」
「同じだろうが!」
「まったく違う……」
即答され、乱波のこめかみに青筋が浮かんだ。
「……仲がいいですね」
少し離れたところで出久が呟いた。
「どこを見てそう思った!?」
乱波が即座に怒鳴る。
もっとも、出久にとっては冗談を言っているだけでもなかった。
この二人は性格こそまるで噛み合っていないが、戦闘では恐ろしく相性がいい。
乱波は防御など考えず、相手を殴ることだけに集中する。その危うさを、天蓋の強固な防壁が補っている。
先ほど自分がまともに連打を受けたのも、この組み合わせに意識を乱されたからだった。
今も天蓋は、新しく現れたジェントルの能力を知らない以上、まず防御を固めて様子を見るという極めて妥当な判断をしている。
乱波本人だけが、その妥当さを心底迷惑がっているのだが。
「天蓋! もういいだろ、さっさと解除しろ!」
「駄目だ」
「何でだよ!」
「先ほどから説明している。相手の個性も分からない状態で、貴方を好き勝手に動かすわけにはいかない」
「だから戦りゃ分かるだろうが!」
「その考え方をやめろと言っている、このケンカ狂め」
「うるせえ!」
再び乱波の拳がバリアを叩く。
外から攻撃されているわけでもないのに、内側から絶え間なく轟音が響いている。
それでも防壁にはひび一つ入らず、天蓋も解除する気配を見せない。
出久はその様子を眺めてから、隣にいるジェントルへ視線を移した。
「ジェントル」
「何かね、緑谷少年」
出久はゆっくりと歩み寄り、ジェントルの傍へ立つ。
怪物化したままの出久と並ぶと、ジェントルとの体格差はかなりのものだった。
出久が少し身体を屈め、声を抑える。
「あの防壁を突破する手立てがあるんですか?」
「……」
ジェントルはすぐには答えなかった。
半透明のドームへ目を向ける。
先ほど出久の拳を真正面から受け止めても、表面には傷一つつかなかった防壁だ。
出久自身、力任せに破壊するのは難しいと判断している。
それなのに、ジェントルは先ほどから妙に落ち着いていた。
「僕が殴った感じだと、相当硬いですよ」
「ああ。見ていたとも」
「多分、普通に攻撃しても――」
「緑谷少年」
ジェントルが小さく手を上げ、出久の言葉を遮った。
そして、乱波たちに聞こえないよう一歩だけ出久へ近づく。
「少し耳を貸してくれたまえ」
「?」
出久が身を屈める。
ジェントルは口元を片手で隠すと、声を潜めた。
「私の指示する場所を、全力で殴ってくれるかね」
「……え?」
思わず出久がジェントルを見る。
ジェントルは何事もなかったように防壁へ向き直っていた。
「全力って……あのバリアをですか?」
「いや」
小さく否定する。
「私が指示した場所だ」
妙な言い方だった。
出久は眉を寄せる。
何か考えがある。
それだけは間違いなさそうだった。
「分かりました。合図してください」
「うむ。君ならそう言ってくれると思っていたとも」
ジェントルは満足そうに頷くと、それ以上は何も説明しなかった。
そんな二人の様子を、半透明のドームの内側から乱波が眺めている。
先ほどまで散々バリアを叩いていた男は、いつの間にか拳を止めていた。
出久とジェントルが顔を寄せ、こちらに聞こえない声で何事か相談している。
その光景を見て、乱波の口元がゆっくりと吊り上がった。
「へっ……」
太い首を傾ける。
「何だよ。ずいぶん楽しそうに相談してんじゃねえか」
右肩を大きく回し、続いて左肩。筋肉の盛り上がった腕を振るたび、関節がごきごきと鳴った。
「良い策は思いついたんだろうな!」
声には警戒よりも期待が滲んでいた。
出久が何を企んでいるのか。
ジェントルがどんな個性を持っているのか。
乱波にとって、そんなことはどうでもいい。
むしろ何か策があるというのなら、その方が面白いとでも言いたげだった。
「さっきみてえに簡単に吹っ飛んでくれんなよ、緑谷! そっちのヒゲもだ! やるならとびっきりのやつ持ってこい!」
天蓋が低い声で制する。
「無駄に煽るんじゃない」
「ああ? せっかく何かやろうとしてんだぞ。待ってやるのが礼儀だろうが」
乱波は吐き捨てると、再び目の前の防壁へ向き直った。
「だったら――」
拳を握る。
「おい天蓋! これ解除しやがれ!」
内側から殴りつけられた防壁が鈍い音を立てた。
「俺が直接確かめてやる!」
「断る」
「何でだよ!」
「今まさに、あの二人が何かを企んでいるからだ」
天蓋は当然のように拒絶した。
出久の攻撃力については、すでに一度見ている。
真正面から防壁を殴っただけで、破壊こそされなかったものの、決して侮れる威力ではない。
そこへ能力不明のジェントルが加わった。
しかも二人は、こちらに聞こえないよう明らかに何らかの打ち合わせをしていた。
この状況でわざわざ防壁を解き、乱波を自由にする理由など天蓋にはなかった。
乱波が舌打ちする。
天蓋はそんな相棒を無視し、ジェントルだけを見ていた。
先ほどまで出久の傍にいた男が、こちらへ身体を向けている。
「……」
何をする。
天蓋の警戒が一段階上がる。
ジェントルは腕を下ろしたまま、自然体で立っていた。
構えらしい構えはない。
ただ、こちらを見ている。
「さて」
ジェントルが帽子のつばへ指を掛けた。
「それでは始めようか」
次の瞬間、駆け出した。
「!」
天蓋が僅かに目を見開く。
ジェントルは一直線にドームへ向かってくる。
「おおっ!」
対照的に、乱波が嬉しそうな声を上げた。
「来た来た!」
反射的に拳を構えるが、当然、その前には天蓋の防壁がある。
「おい天蓋! 邪魔だ!」
天蓋は防壁を維持したまま、その動きを慎重に追った。
突進してくるなら、そのまま防壁へぶつかるだけだ。
緑谷出久の拳すら止めた壁である。
ジェントルがどれほどの身体能力を持っているにせよ、正面から突破されるとは考えにくい。
それでも天蓋は油断しなかった。
出久との相談が引っかかる。
ジェントルだけがこちらへ走り、肝心の出久はその場に残っている。
怪物化した巨体を僅かに沈めてはいるが、まだ攻撃する様子はない。
ならば、この男の突進そのものが狙いではない。
「何を――」
天蓋が呟いた、その時。
ジェントルの速度が落ちた。
ドームまで、あと僅か。
このままなら数歩で防壁へ衝突するという位置で、ジェントルは大きく踏み込むと、身体を低く沈めた。
「あん?」
乱波が眉を上げる。
向かった先は半透明の膜ではない。
その手前。ドームの際にある、何の変哲もないホテルの床だった。
ジェントルの指がタイルへ触れる。
瞬間。
床が歪んだ。
「……!」
天蓋の目が見開かれる。
硬いはずのタイルが、まるで分厚いゴムの膜へ変わったかのように、ジェントルの手を中心としてぐにゃりと沈み込んだ。
亀裂が入ったのでも、割れたのでもない
材質そのものが、あり得ない動きをしている。
ジェントルの指先が、弾性を与えた床の一点を示す。
「緑谷少年!」
「はい!」
出久はすでに構えていた。
大きく開いた両脚で床を踏みしめ、腰を落とす。
再生を終えた右腕を限界まで引き絞ると、肩から拳までを覆う骨の鱗が互いに擦れ、ぎちぎちと硬質な音を立てた。
狙う場所は分かっている。
「今だ!」
ジェントルが叫んだ。
同時に、出久が全身を捻った。
「――っ!!」
踏み込みとともに腰を回し、肩を前へ押し出す。
個性『剛躯』と『筋骨発条化』によって得た膂力を余すことなく乗せた拳が振り下ろされ、ジェントルの指し示した床へ真正面から叩き込まれた。
――ズドォンッ!!
轟音がエントランスを揺らした。
だが、床は砕けなかった。
出久の拳が触れた瞬間、硬いタイルであるはずの床が大きく沈み込んだのだ。
「うわっ……!」
出久自身が驚くほど深く拳が沈む。
まるで巨大なゴム板を殴りつけたように、床面がすり鉢状にたわんでいく。
衝撃は一点で止まらず、ジェントルが弾性を与えた範囲全体へ瞬く間に伝播した。
そして――反発する。
――バァンッ!!
沈み込んでいた床が、一気に跳ね上がった。
床そのものが巨大な波となった。
最初は出久の拳を中心とした小さな隆起だったものが、猛烈な勢いで周囲へ広がっていく。
タイルの継ぎ目も、床材の硬さも関係ない。
ホテルのエントランスそのものが巨大なゴム膜へ変わったかのように上下し、波打ちながらドームへ迫った。
「なっ――」
天蓋が息を呑む。
衝撃の波は半透明のドームへぶつかることなく、その下へ潜り込む。
天蓋の個性が生み出しているのは、あくまで外部からの攻撃を阻む防壁だ。
その内側にある床まで固定しているわけではない。
「おいおい!」
乱波が足元を見る。
次の瞬間。
乱波と天蓋が立っていた床が、大きく隆起した。
「うおっ!?」
「くっ……!」
二人の身体が同時に宙へ放り出される。
殴り合いなら、乱波はどれほど速い攻撃にも反応する。
だが、足場そのものが跳ね上がるなど想定していなかった。
「ははっ! 何だこりゃあ!」
乱波は楽しそうだったが、天蓋にそんな余裕はない。
「――っ!」
空中で体勢を立て直そうとする。
しかし足場を失ったうえ、予想外の方向から強烈に突き上げられたことで集中が乱れた。
半透明のドームが揺らぎ、防壁そのものが消失した。
「消えた!」
先ほどまであれほど強固だったドームが、跡形もなく消えている。
出久は拳を床から引き抜くと、すぐさま顔を上げた。
乱波と天蓋はまだ空中にいる。
天蓋は突然失われた足場に対応できず、両腕を広げて姿勢を戻そうとしていた。
その隣では乱波も宙を舞っているが、こちらはまるで動揺していない。それどころか、防壁が消えたことに気づくなり嬉しそうに笑った。
「やっと消えやがった!」
空中で身体を捻り、出久へ向き直る。
「緑谷ァ!」
拳を構えた。
足場がなくとも関係ないらしい。
乱波の意識からは、すでに天蓋もジェントルも消えている。
目の前にいる出久を殴る。
ただそれだけだった。
「今度は邪魔入らねえぞ!」
「……そうですね」
出久は静かに立ち上がった。
そして、乱波と同じように両拳を構える。
「さっきは一方的にやられましたけど――」
肩を落とし、両腕から余計な力を抜いた。
身体の内側で、別の個性を強く意識する。
『筋骨発条化』。
筋肉や骨格を発条のように変質させ、収縮と解放によって爆発的な運動を生み出す個性。
先ほど床を殴った際にも使用したが、あれは一撃へ最大限の力を乗せるための使い方だった。
しかし、この個性の利点はそれだけではない。
発条は、縮めれば戻る。
そして戻った直後、再び縮められる。
右肩が沈む。
肘が引かれ、前腕が僅かに縮むように変形した。
左腕も同じ。
骨の鱗の下で筋繊維が猛烈な勢いで収縮し、腕全体が限界まで圧縮されていく。
「連打なら――」
出久の緑色の瞳が乱波を捉えた。
「僕も自信があるんですよ」
「あ?」
乱波の笑みが深くなる。
「いいじゃねえか!」
落下するままに両腕を引く。
「やってみろォ!!」
出久の右腕が弾けた。
「っ!?」
乱波の顔面へ拳が突き刺さる。
首が大きく仰け反った。
だが乱波も即座に右拳を返す。
「おらァ!」
出久の頬を狙った拳。
その軌道へ、左拳が割り込んだ。
――ガンッ!!
拳同士が激突する。
乱波の腕が弾かれた。
「なっ――」
驚く暇など与えない。
一発目を放ち切った出久の右腕は、すでに次の動作へ入っていた。
伸び切った筋肉が収縮する。
肘が引き戻される。
発条が縮む。
そして、解放。
二発目が腹へ突き刺さる。間髪入れず左腕も収縮し、解放された拳が胸を打ち抜いた。
右、左、右、左。
『筋骨発条化』による強制的な収縮が、本来なら必要になる「拳を引く」という予備動作さえ補っていく。
「――っ!」
乱波の目が見開かれた。
出久の両腕が霞む。
怪物化によって大幅に増した筋力と、『筋骨発条化』による高速の収縮と解放。
その二つを重ねた出久の連打は、一発ごとの重さまで尋常ではない。
――ドドドドドドドドッ!!
拳が乱波の全身へ殺到した。
「ぐっ……!」
乱波の身体が打撃のたびに揺さぶられる。
「はっ……ははっ!」
それでも乱波は笑った。
「いいぞ、緑谷ァ!!」
空中で強引に腰を捻る。
乱波の十八番である連打。
真正面から打ち返すつもりだった。
「おらおらおらァ!!」
だが。
「……!」
乱波の表情が変わった。
拳に力が乗らない。
当然だった。
どれほど腕を速く振ろうと、どれほど強靭な筋肉を持っていようと、今の乱波には踏ん張るための足場がない。
腰を回せば、その反動で自分の身体まで逆方向へ回転してしまう。
一方、出久には床がある。
巨大な脚で床を踏み締め、下半身から生み出した力を腰、背中、肩へと伝え、そのすべてを拳へ乗せられる。
乱波の拳が出久へ伸びる。
出久は僅かに頭を傾け、その一撃を頬の横へ流した。踏ん張りの利かない状態では、乱波ほどの膂力をもってしても拳の軌道を修正しきれない。
その隙へ、出久の右拳が突き刺さる。
「がっ……!」
腹を打ち抜かれ、乱波の身体がさらに浮いた。
続けて左。
胸。
右。
肩。
もう一度左。
脇腹。
――ドドドドドッ!!
空中で乱波の巨体が何度も跳ねる。
それでも乱波は腕を振り回した。
殴られるたびに身体の向きが変わり、狙いが逸れても、なお出久へ拳を届かせようとする。
口元から血を散らしながら、乱波が笑う。
「そうでなくちゃ……面白くねえ!」
「本当に頑丈ですね……!」
出久は連打を止めない。
乱波の身体が拳を受けるたびに後方へ押されていく。
出久もそれを追って前へ踏み込み、間合いを維持する。
そして乱波が押し込まれていく先には、同じく宙へ放り出された天蓋がいた。
「乱波!」
天蓋もようやく空中で姿勢を立て直し、着地へ備えようとしていた。
しかし乱波の巨体がこちらへ押し込まれてくることに気づき、目を見開く。
「っ、待――」
「おおおおっ!!」
乱波が吠えた。
出久の連打を受けながらも無理やり腕を振り抜き、最後の一発を返そうとする。
その瞬間、出久は両腕の動きを止めた。
「――っ!」
腰を落とす。
右腕を大きく引く。
骨の鱗の下で筋肉が圧縮され、肘から肩にかけて異様なほど膨れ上がった。
『筋骨発条化』を、今度は連打ではなく一撃へ集中させる。
乱波もそれを見た。
「いいねえ……!」
嬉しそうに笑う。
「来いよォ!!」
「じゃあ――」
出久の脚が床を踏み砕いた。
「遠慮なく!」
圧縮された右腕が解放される。
――ズドォンッ!!
拳が乱波の胸板へ真正面から叩き込まれた。
「がっ――!」
乱波の巨体が弾丸のように後方へ吹き飛ぶ。
その進行方向にいた天蓋が、避ける暇もなく巻き込まれた。
「な――」
乱波の背中が天蓋へ激突する。
「ぐっ!?」
二人の身体が絡むようにして吹き飛んだ。
ホテルの壁へ同時に叩きつけられる。
衝撃で内壁が大きく陥没し、放射状の亀裂が一気に広がった。
天井から埃が降り注ぎ、壁材の破片が床へぱらぱらと落ちていく。
乱波が前、天蓋がその後ろ。
結果として天蓋は乱波の巨体と壁との間へ挟まれる形になっていた。
「ぐ……っ」
天蓋が呻く。
「お、おい……乱波……重い……!」
「はっ……はは……!」
対して乱波は、まだ笑っていた。
胸元の衣服は破れ、その下には赤黒い痣が浮かんでいる。
口の端から血も流れていた。
それでも。
「いい……!」
壁へ背中を預けたまま、拳を握る。
「いいぞ、緑谷……!」
足へ力を入れた。
「まだやれる……!」
「嘘でしょ……」
出久が思わず呟いた。
あれだけ殴った。
しかも最後は全力に近い一撃を叩き込み、そのまま壁へ激突させた。
普通なら立ち上がるどころではない。
だが乱波は、膝を震わせながらも身体を起こそうとしている。
乱波は壁から背中を剥がそうと、ぐっと脚へ力を込めた。
その後ろでは天蓋が押し潰されるような体勢になっているというのに、本人はまるで気にしていない。
むしろ出久との殴り合いを続けられることへの期待ばかりが先に立っているらしく、血の滲んだ口元にはまだ笑みが残っていた。
「緑谷! 次だ! 今度は――」
「失礼」
乱波が壁を蹴ろうとした瞬間、ジェントルがその前へ片手を差し出した。
指先が空をなぞる。
乱波の顔のすぐ前で、何もない空間が僅かに揺らいだ。
「――あ?」
一歩踏み出した乱波の額が、見えない何かへ触れる。
ぼよん、と身体が押し戻された。
「またこれか!」
「その通り。そして──ジェントリー・サンドイッチ」
ジェントルは落ち着いた様子で、さらに指を動かした。
乱波の目の前に、弾性を与えられた空気が重ねられていく。
先ほどのように周囲を囲うためではない。今回は、乱波と天蓋を壁へ押しつけるように、真正面へ何層もの弾性空気を密集させていた。
「ちょっ――待て!」
乱波が拳を突き出す。
最初の一層が大きく沈み込んだ。
しかし、そのすぐ後ろには二層目がある。
一層目を押し込んだ拳が二層目へ触れ、さらに三層目、四層目と続く。
「ぬおおおおっ!」
乱波が力任せに押す。
幾重もの弾性空気が同時にへこみ、その全てが乱波の力を受け止めた。
次の瞬間、一斉に反発する。
「ぐおっ!?」
乱波の巨体が押し返され、背中から壁へ叩きつけられた。
「ぐっ……!」
当然、その後ろにいる天蓋も巻き込まれる。
「乱波……! だから押すな……!」
揉める二人を尻目に、ジェントルはさらに空気へ触れた。
また一層。
さらに一層。
透明であるため目には見えないが、乱波の身体は少しずつ壁側へ押し込まれていく。
「おいヒゲ!」
「ジェントル・クリミナルだとも」
「何でもいい! これどけろ!」
「残念ながら聞けない相談だ」
ジェントルが髭を撫でる。
「この野郎!」
乱波が再び暴れようとする。
そのたびに何重もの弾性空気が身体を押し返し、後ろからは天蓋の抗議が飛ぶ。
少なくとも、すぐに抜け出せる状態ではない。
これならしばらく放置できる。
出久はそう判断すると、そこでようやく後方へ目を向けた。
音本の姿が視界に入る。
「――ふんっ!」
マグネが棒磁石型のサポートアイテムを横薙ぎに振り抜いていた。
――ゴッ!!
「ぐっ!」
音本の身体が横向きに弾き飛ばされる。
拳銃を握っていた手が大きく跳ね、銃口が天井へ向いた。
引き金が引かれることはなく、音本はそのままソファを巻き込みながら床を滑っていく。
「引石さん!」
出久が声を上げた。
「こっちは大丈夫よ!」
マグネが振り返る。
多少息は上がっているものの、目立った怪我はない。
服に埃がつき、頬に小さな擦り傷がある程度で、動きにも問題はなさそうだった。
だが、その隣。
「……伊口君?」
出久の声が僅かに低くなった。
「なんだよ」
スピナーが不機嫌そうに答える。
ひどい顔だった。
左目の周囲が大きく腫れ、頬も赤黒く変色している。
唇の端は切れて血が滲み、鼻から流れた血を手の甲で乱雑に拭った跡まで残っていた。
「……大丈夫ですか?」
「見りゃ分かるだろ」
スピナーが苛立ったように答えた。
その直後、腫れた頬に響いたらしく顔をしかめる。
「全然大丈夫じゃない……」
「うるせえ!」
マグネが肩を竦めた。
「この子が正面から突っ込んでくれたおかげで戦いやすかったわ。名誉の勲章ね」
「いらねえよ、そんな勲章……」
スピナーが腫れ上がった頬を押さえながら吐き捨てる。
出久は苦笑しかけたが、すぐに表情を引き締めた。
ここで長居する理由はない。
乱波と天蓋はジェントルが抑え込んでいる。音本もマグネの一撃を受けて倒れており、すぐに追ってくる様子はない。
何より、先に壊理を連れて脱出したコンプレスとの距離をこれ以上開けるべきではなかった。
「迫さんを追いかけよう」
出久はエントランスの出口へ視線を向けた。
「壊理ちゃんを連れたまま一人にしておくのは危険です。それに八斎會の増援が来るかもしれない。できるだけ早く合流した方がいい」
「そうね。こっちは片付いたし、いつまでもここにいる必要はないわ」
マグネが棒磁石型のサポートアイテムを肩へ担ぐ。
スピナーも頷き、落としていたナイフを拾い上げた。
「トガさんと分倍河原さんにはホテルには戻らず、別の場所で待ち合わせするように伝えておいてください」
「分かった。じゃあ――」
スピナーが懐へ手を伸ばした。
その瞬間だった。
――ピシッ。
小さな音がした。
「……?」
出久が振り返る。
ジェントルが乱波たちを押さえつけている壁のさらに上――天井近くに、細い線が走っている。
亀裂だった。
「……おい」
スピナーも気づいた。
一本だった亀裂が、枝分かれする。
ピシッ。
ピシピシッ。
壁を走り、柱へ伸び、天井へ食い込んでいく。
ジェントルが顔を上げた。
「これは……」
乱波さえ、暴れるのを止めた。
「……チッ、相変わらず遠慮なしだな」
――ズズン……。
足元から、重い振動が突き上げてきた。
「うわっ!?」
スピナーがよろめく。
天井の照明が激しく揺れ、壁際に置かれていた装飾品が次々と床へ落下した。
窓ガラスがびりびりと震え、ひび割れた壁から白い粉塵が噴き出す。
建物そのものが軋んでいる。
「全員、外へ!」
出久が叫んだ直後、轟音が響いた。
――バキィッ!!
エントランスを支えていた太い柱の一本に亀裂が走る。
コンクリートの表面が弾け飛び、その内部から鉄筋が露出した。
天井の一部が数センチ沈み、それまで辛うじて保たれていた建物全体の均衡が崩れ始める。
「な、何よこれ!?」
「分からない! とにかく出るぞ!」
スピナーが出口へ駆け出そうとする。
だが、数歩も進めなかった。
――ゴゴゴゴゴゴゴゴ……!
先ほどとは比較にならない地響きがホテル全体を包み込んだ。
床が傾く。
「っ!」
出久は咄嗟に踏ん張った。
エントランスの奥側が沈んでいる。
柱が一本、また一本と折れ、支えを失った上階の重量が一気に下へ掛かり始めていた。
「まずい……!」
出久は傾いていく床を踏みしめながら周囲を見回した。
出口まではそう遠くない。
だが、すでに天井の各所からコンクリート片が降り始め、正面玄関へ続く経路にも巨大な亀裂が走っている。
このまま全員で走ったところで、崩落より先に外へ出られる保証はなかった。
特にスピナーは先ほどの戦闘でかなり消耗している。
顔を何度も殴られた影響もあるのか、揺れる床へ足を取られるたびに動きが鈍っていた。
「伊口君!」
「分かってる! 走って――」
言い終えるより早く、天井から轟音が響いた。
巨大な梁が落ちてくる。
「危ない!」
出久が腕を振るった。
――ドゴォッ!!
骨の鱗に覆われた拳が梁を横から打ち抜き、落下軌道を強引に逸らす。
数トンはあろうかというコンクリート塊が出久たちのすぐ横へ激突し、床を突き破った。
「きゃあっ!?」
悲鳴を上げたのはマグネではない。
彼女の傍にいたラブラバだった。
小柄な身体が揺れに耐え切れず尻餅をつき、そのすぐ横ではジェントルが咄嗟に手を伸ばしている。
「ラブラバ!」
「ジェントル!」
互いの手が届く。
ジェントルがラブラバを引き寄せたところへ、再び床が大きく傾いた。
ホテル全体が沈んでいる。
もはや一部の崩落ではなく、建物そのものが自重を支えられなくなっていた。
「ジェントル!」
出久が叫ぶ。
「ラブラバさんを離さないでください!個性で援護をお願いします!」
「無論だとも!」
「引石さん、伊口君もこっちへ!」
「え?」
マグネが振り返った時には、出久がすぐ目の前まで来ていた。
怪物化した巨体が腰を落とす。
そして。
「ちょっと失礼します!」
「ちょっ――」
返事を待たず、出久は右腕でマグネとスピナーをまとめて抱え込んだ。
「うおっ!?」
「きゃっ!」
二人の身体が軽々と床から浮く。
続けて左腕を伸ばし、ラブラバを抱えていたジェントルごと掬い上げた。
「むおっ!?」
「わわわっ!」
ジェントルとラブラバも出久の胸元へ収まる。
怪物化した出久だからこそできる芸当だった。
大柄なジェントルを含む四人を両腕と胸でまとめて抱え、それでもなお身体を動かせるだけの膂力がある。
「しっかり掴まってて!」
出久が床を睨む。
瞬間。
脚の発条を解放した。
――ドォンッ!!
足元の床が爆発した。
「うわあああっ!?」
スピナーの絶叫が響く。
出久の巨体が弾丸のように射出された。
床を走ったのではない。
一度の跳躍でエントランスを横断する。
マグネが反射的に出久の腕へしがみつき、ジェントルは片腕でラブラバを抱えながら、もう片方の手で帽子を押さえた。
「うおおおおおっ!?」
スピナーの悲鳴が響く。
「舌を噛むよ! 黙ってて!」
出口が猛烈な勢いで迫ってきた。
だが同時に、頭上から聞こえていた崩壊音も一気に大きくなる。
天井を走っていた亀裂が繋がった。
それまで辛うじて形を保っていた巨大な天井が、自重に耐え切れず沈み込む。
「緑谷少年、上だ!」
「分かってます!」
出久が視線だけを上へ向けた。
出口までは、あと十数メートル。
その手前へ、天井が落ちる。
巨大なコンクリート塊が崩れ、鉄骨を巻き込みながら正面玄関を塞ごうとしていた。
このままでは間に合わない。
「ジェントル!」
「任せたまえ!」
ジェントルが出久の腕の中から片手を伸ばす。
落下してくる瓦礫へ触れる必要はない。
狙ったのは、その手前にある空気。
「――ジェントル・リバウンド!」
指先が宙を薙ぐ。
瞬間、出久たちの頭上にあった空気が歪んだ。
落下してきたコンクリート塊が見えない弾性膜へ激突する。
――ボォンッ!!
瓦礫が跳ねた。
完全には押し返せない。
それでも落下速度を鈍らせるには十分だった。
その僅かな猶予を縫って、出久は正面玄関へ飛ぶ。
ガラス扉はすでに砕け、残っているのは歪んだフレームだけ。その向こうには夜の街が広がっていた。
「抜ける!」
出久の身体が正面玄関を通過した。
――直後。
背後から、今までとは比較にならない音がした。
――ゴォォォォォォォォンッ!!
「――っ!」
ホテルが崩れた。
一階部分が完全に押し潰され、その上へ巨大な建物が丸ごと沈み込む。
崩壊によって押し出された空気が爆風となって出久たちを襲った。
「ぐっ!」
出久の身体が前へ押し出される。
それだけではない。
大量の瓦礫が背後から飛来してきた。
拳大のコンクリート片。
砕けたガラス。
木材。
金属片。
大小様々な破片が散弾のように飛んでくる。
出久はそのまま身体を丸め、自分の背中をホテル側へ向ける。
――ガガガガガッ!!
瓦礫が背中へ叩きつけられた。
骨の鱗とコンクリートがぶつかり、硬質な音が連続する。
「緑谷少年!」
「大、丈夫……です!」
背中へ衝撃が走る。
鱗が何枚か欠けた。
だが、怪物化した肉体そのものを深く傷つけるほどではない。
それより問題なのは着地だった。
崩壊による爆風まで加わったことで、出久たちは当初の想定より遥かに遠くへ飛ばされている。
道路が迫る。
「みんな、衝撃に備えて!」
「どう備えろってんだよ!?」
「ジェントル!」
「承知した!」
ジェントルが即座に地面へ手を向けた。
指先が触れるより先に、出久の足がアスファルトへ届く。
同時にジェントルの個性が発動した。
硬い道路が、ぐにゃりと沈んだ。
――ボォンッ!!
「うわっ!?」
全員の身体が一度跳ね上がる。
出久はすぐさま脚を伸ばして着地し、今度は『筋骨発条化』で衝撃を吸収した。
膝を深く曲げる。
足首、膝、股関節へ順番に負荷を逃がし、それでも殺し切れなかった勢いを前方への数歩へ変える。
靴底がアスファルトを削る。
「ぐっ……!」
最後の一歩を強く踏み込み、ようやく止まった。
その直後、背後から猛烈な粉塵が押し寄せてきた。
「ジェントル!」
「任せたまえ!」
ジェントルが出久の腕の中から指を伸ばし、背後の空気へ弾性を与える。
押し寄せてきた粉塵と細かな瓦礫は見えない壁へ衝突し、出久たちを避けるように左右へ流れていった。
それでも完全には防げず、白い粉塵が辺りを覆った。
しばらく、誰も何も言えなかった。
聞こえるのは、瓦礫が崩れる音だけ。
出久は四人を抱えたまま、その場に立っていた。
やがて粉塵が薄くなる。
ゆっくりと振り返った。
「……」
ホテルは、消えていた。
正確には、建物としての形を失っていた。
つい数十秒前まで何階もの高さを誇っていた建物が、自らの足元へ崩れ落ち、巨大な瓦礫の山へ変わっている。
辛うじて残っている外壁も大きく傾き、そこから断続的に破片が落ちていた。