──その頃。
ホテルから数駅離れた商店街を、トガとトゥワイスが並んで歩いていた。
二人の手には、それぞれ大きな買い物袋がぶら下がっている。
片方には日用品や飲み物が詰め込まれ、もう片方からは色とりどりの菓子袋が覗いていた。
「買いすぎましたかね?」
トガが自分の袋を覗き込みながら首を傾げる。
「全然足りねえ! 腹が千切れるぜ!」
少し前までの敵連合なら、こうして何も考えずに買い物をする余裕などなかった。食費一つ取っても節約が必要で、必要なものがあればその都度財布の中身と相談するのが当たり前だった。
だが、今は事情が違う。
八斎會との関係が始まってから、敵連合には定期的に仕事が回されるようになった。
薬の密売と、大阪に存在する八斎會支部の護衛。
言ってしまえば下請けだったが、その代わり報酬は悪くない。
少なくとも、食費や日用品を買うたびに財布の残高を気にするような生活からは抜け出していた。
「壊理ちゃん、リンゴ大好きですもんね」
トガが袋の上の方に入っていたリンゴを一つ取り出す
「好きだな! 食えたもんじゃねえ!」
「この前も二個食べてました」
「食いすぎじゃねえか?」
「成長期ですから」
トガはりんごを袋へ戻した。
その周りにはチョコレート、飴、ビスケット、ポテトチップス。それに小さなゼリーやプリンまで入っている。
半分ほどは壊理のために選んだものだった。
最初の頃は何が好きなのか分からなかったため、適当に子供が好みそうなものを買って帰っていた。
それを繰り返すうちに、壊理が甘すぎるものはあまり食べないこと、果物ならりんごを特に好むこと、菓子なら小さなビスケットをよく手に取ることなどが分かってきた。
今では買い物へ出るたび、誰かしらが壊理用のものを一つ二つ袋へ放り込むのが当たり前になっている。
「今日もいるのか? 雄英の女生徒!」
トゥワイスが唐突に尋ねた。
「お茶子ちゃんですか?」
トガはくすくす笑いながら、買い物袋を持ち直した。
「今日はバイトだって言ってましたけど、終わったら来るかもしれませんね。壊理ちゃんも喜びますし」
「最近よくいるよな、あいつ。俺たちの仲間になったのか?」
「どうなんでしょうねえ」
楽しそうに答えながら、トガは大通りへ続く交差点の手前で進路を変えた。
敵連合の潜伏先が世間に知られているわけではないとはいえ、二人とも指名手配されている身だ。
買い物の帰りにわざわざ人通りの多い場所を歩く必要はない。
商店街を離れると、古い倉庫や小さな工場が並ぶ裏通りへ入った。
夕方前ということもあり、人影はほとんどない。
道路脇には使われていない自転車が放置され、閉じたシャッターの前を風に飛ばされたビニール袋が転がっている。
ホテルまでは、もうそれほど遠くない。
建物の隙間から、上階部分が見え始めていた。
「あ、見えてきました」
トガが顔を上げる。
「帰ったらリンゴ切ってあげましょう。あとプリンも──」
そこで言葉が止まった。
「……?」
トゥワイスも足を止める。
遠くに見えるホテルが、おかしい。
最初は目の錯覚かと思った。
建物全体が、僅かに傾いている。
「……仁君」
「見えてるぜ」
珍しく、即座に肯定だけが返ってきた。
二人はその場に立ち尽くしたまま、ホテルを見つめる。
次の瞬間。
──ゴゴゴゴゴ……。
低い音が、地面の奥から響いてきた。
「え?」
トガの目が見開かれる。
ホテルの上階が、ゆっくりと横へ動いた。
倒れるのとは違う。
建物そのものを巨大な手で掴み、上下から反対方向へ捻っているかのように、外壁の輪郭が歪んでいく。
窓枠が傾き、何枚ものガラスが一斉に割れた。
遠くからでも分かるほど大量の破片が光を反射しながら落下する。
「なんだ……あれ」
トゥワイスの手から買い物袋が僅かに下がった。
──バキッ。
乾いた破壊音。
続いて、それより遥かに重い音が響く。
──バギィィィッ!!
一本ではない。
内部の柱か、それとも建物を支える梁か。
複数の構造材が耐えきれず折れたような音が連続した。
ホテルの中央部分が沈む。
「ちょっと……」
トガから笑みが消える。
建物の側面へ巨大な亀裂が走った。
一階から上階へ。
斜めに伸びた裂け目が見る間に広がり、外壁の一部が剥がれ落ちる。
次いでホテル全体が大きく傾いた。
「おいおいおい!」
トゥワイスが声を張り上げる。
「倒れるぞ!」
──ドォォォォン!!
爆発にも似た轟音が街へ響き渡る。
ホテルが崩れた。
まず上階が下へ落ち、続いて支えを失った外壁が内側へ倒れ込む。
屋根が砕け、窓が弾け、何階分もの床がまとめて押し潰されながら瓦礫へ変わっていった。
大量の粉塵が噴き上がる。
灰色の煙が周囲の建物より高く舞い上がり、今までホテルがあった場所を完全に覆い隠した。
地面まで震えた。
数百メートル離れているにもかかわらず、二人の足元へ振動が伝わってくる。
「……」
「……」
トガもトゥワイスも動かなかった。
つい先ほどまで、帰れば壊理がいると思っていた。
スピナーやマグネがいて、コンプレスがいて、出久もいる。
買ってきた菓子を広げ、くだらない話をしながら夕方を過ごすはずだった。
その場所が今、目の前で消えた。
「……ホテル」
トガが呟いた。
粉塵の向こうに、建物らしい形はもう残っていない。
その瞬間、トゥワイスが我に返った。
「襲撃か!?」
「──!」
トガも弾かれたように顔を上げる。
「みんな!」
二人は同時に駆け出した。
トガの袋からリンゴが一つ飛び出し、道路を転がっていったが、振り返る者はいなかった。
「デク君! 壊理ちゃん!」
「やばいやばい! みんなは無事か!? 全滅か!?」
人気のない通りを全力で走る。
倒壊したホテルへ近づくにつれ、粉塵の臭いが鼻につくようになり、遠くから人々の騒ぐ声も聞こえ始めた。
だが、この辺りにはまだ人影が少ない。
角を一つ曲がれば、ホテルまで一直線。
「急いで──」
トガが角を曲がった。
その直後、足を止めた。
「……あ?」
後ろから来たトゥワイスも急停止する。
「何止まってんだ! 走れ!」
そう怒鳴りかけて、彼も前方を見る。
道の中央に三人の男が立っていた。
偶然通りかかった人間ではない。
こちらを待っていた。
そうとしか思えない位置取りだった。
一人目は口元だけを覆うペストマスクをつけた、金髪・細身で四白眼の男。
二人目は、目元に穴をあけた袋で顔を覆い、ひもで首元に縛った案山子のような風貌の男。
最後に立つのは、彫りの深い顔にスキンヘッドの男。
トガの瞳から、一瞬で普段の軽さが消えた。
「……八斎會」
何度か見たことがある。
仕事を受けるため八斎會の拠点へ顔を出した際、オーバーホールの周辺や地下施設で見かけた男たちだ。
鉄砲玉八斎衆。
窃野トウヤ。
多部空満。
宝生結。
「何で……」
トガの視線が三人の顔を順番に滑る。
その向こうでは、ついさっきまで自分たちの居場所だったホテルが灰色の粉塵に包まれ、崩れた瓦礫の一部が今なお遅れて落下していた。
偶然ではない。
八斎會の実働部隊が、よりにもよってホテルへ続く一本道を塞いでいる。
しかもこちらが戻ってくる時刻をある程度把握していたような立ち位置だった。
トガの表情から、いつもの軽い笑みが完全に消えた。
「……どいてください」
低い声で告げる。
しかし、三人は動かなかった。
むしろ先頭にいた窃野が、待ってましたとばかりに口元を歪める。
「よう、敵連合」
金髪の下に覗く四白眼が、トガとトゥワイスを交互に見た。
「悪いんだが──」
片手を軽く上げる。
「ここは通せねーなー」
声音には謝罪の色など微塵もない。
完全な挑発だった。
「……」
トゥワイスが一歩前へ出る。
「通せねえ? 道交法違反だぞ! 殺すぞ!」
「仁君」
トガが片腕を伸ばし、制した。
目は窃野から離さない。
トガの手から、買い物袋が落ちた。
アスファルトへ着地した拍子に袋が傾き、中からリンゴが二つ転がり出す。続いてビスケットの箱や小さな菓子袋が道路へ散らばった。
そのどれも、壊理のために買ったものだった。
「壊理ちゃんを取り戻しに来たんですね」
窃野は答えない。
ただ、にやにやと笑っている。
その沈黙が肯定と同じだった。
「へえ」
トガも笑った。
だが、いつもの無邪気な笑みではない。
「そうなんですね」
右手が上着の内側へ入る。
取り出したのは、細長い筒状の器具だった。
注射器。
ただし医療用とは似ても似つかない。
先端には鋭い針が伸び、透明な筒の後方からは細いチューブが続いている。
トガが血液を採取するために使用する、彼女専用の凶器だった。
左手にも同じものを一本抜く。
両手へ逆手に構え、腰を低く落とした。
トガは両手の注射器を構えたまま、三人の八斎衆を見据えた。
正面から突破する。
考えるまでもなかった。
ホテルでは何が起きているのか分からない。
建物はすでに崩れ、出久たちが無事なのか、壊理がまだそこにいるのかさえ分からない以上、ここで時間を浪費する理由は一つもなかった。
「仁君」
「何だ!」
トゥワイスが身構える。
トガは視線を前へ向けたまま、口元だけを僅かに吊り上げた。
「私を、ありったけ増やしてください」
一瞬、トゥワイスが黙った。
次いで。
「やるんだな!いいぜ、任せろ!」
両手を大きく広げる。
トガは返事を聞き終えるより早く地面を蹴った。
「──行きますよ」
細い身体が一気に加速する。
「おっ」
窃野の笑みが深くなった。
「やる気満々じゃねえか」
対するトゥワイスはその場に残り、両手を前へ突き出した。
黒い泥が地面へ落ちる。
ぶくぶくと膨らみ、人の形を作り始めた。
ほんの数秒で、一人目のトガが立ち上がる。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい!」
本物のトガを追うように、分身が走り出した。
だが、一体で終わるはずもない。
「次!」
トゥワイスの足元から、再び黒い泥が盛り上がる。
次々と同じ顔、同じ服装、同じ体格の少女が作り出されていく。
完成した分身は誰一人として立ち止まらない。
生まれた瞬間から状況を理解しているかのように地面を蹴り、本物のトガの背中を追った。
「わあ、いっぱいです」
「もっと増やせますね」
「壊理ちゃんのところ行きましょう」
「邪魔する人は刺しましょう」
同じ声がいくつも重なる。
「気持ち悪ぃな……」
窃野が僅かに顔をしかめた。
だが、その表情から余裕までは消えていない。
窃野が一歩下がり、迫ってくるトガの群れを見渡した。
「ったく、面倒くせえ個性だな」
どれが本物なのか判別できない。それどころか、今この瞬間にも後方ではトゥワイスが新たな複製を作り続けており、放っておけば数で押し潰されかねない。
だが、その隣にいた宝生は慌てなかった。
「俺がやる」
低く呟き、スキンヘッドの男、宝生が一歩前へ出る。
その身体に変化が起きた。
肩から胸にかけて、皮膚の表面がぼこりと盛り上がる。
次の瞬間、そこから結晶のようなものが一斉に突き出した。
「……?」
先頭を走っていたトガが僅かに目を細める。
透明に近いもの、深い青を帯びたもの、赤や紫の光を反射するものまで、色とりどりの鉱石が宝生の身体から次々と生成されていく。
ただの岩ではない。
光を受けるたびに眩く輝き、宝石をそのまま巨大化させたような結晶だった。
それらが肩、腕、胸、背中を覆い、見る間に分厚い装甲を形成していく。
「わあ」
トガの一人が思わず声を漏らした。
宝生は完全に結晶を纏い終えると、右腕を大きく引いた。
腕そのものが一回り以上太くなっている。拳の表面まで宝石質の岩石に覆われ、まるで巨大な槌のようだった。
「邪魔だ」
そして、その拳を振り抜く。
狙われたのは先頭を走っていたトガ。
──ブォンッ!
重い風切り音が鳴った。
「おっと」
しかしトガは止まらない。
拳が頬を砕く寸前、身体を大きく沈めた。
髪の先を掠めるほどの距離を宝生の拳が通過し、そのまま上体を捻る。
ひらり、と。
まるで踊るような動きだった。
宝生の脇を抜ける。
「何──」
振り返ろうとした宝生の視界へ、別のトガが飛び込んできた。
「こんにちは!」
「チッ!」
今度は左腕を振るう。
結晶に覆われた拳がトガの胴体へ直撃した。
──ゴシャッ!
「きゃっ」
分身の身体が道路を転がる。
肩から胸に大きな亀裂が入り、そのまま黒い泥へ崩れ始めた。
「一人!」
だが、すぐ後ろから三人来る。
「増えすぎだ!」
宝生が苛立たしげに吠え、両腕を大きく振り回した。
拳をまともに受けた分身は一撃で崩れる。
だが、それでいい。
トガたちは最初から宝生を倒すことなど考えていなかった。
「横、失礼しますね」
「──!」
宝生が気づいた時には、一人のトガがすでにその横を抜けている。
本物か、分身か。
判断する時間はなかった。
少女の身体が、窃野と多部のちょうど間へ落ちる。
両腕はすでに開いていた。
二本の注射器が、それぞれ別の相手へ向いている。
「──っ!」
窃野が身を引こうとする。
だが、遅い。
右手の注射器が首筋へ突き刺さった。
「いっ──!」
ほぼ同時。
左手が多部へ伸びる。
多部は避けなかった。
そもそも何をされるのか理解していないらしく、袋の穴から覗く目を瞬かせただけだった。
注射針が肩口へ沈む。
「……?」
「ちう、ちう」
トガの指が器具を操作した。
透明なチューブの中へ赤い液体が走る。
「てめっ……!」
窃野が反射的に腕を振るう。
トガは注射器を抜くと同時に身体を反らし、その手を躱した。
もう一方の手も多部から引き抜く。
二本の注射器。
どちらにも、十分な量の血が入っていた。
血を抜き取ったトガは、二本の注射器を手にしたまま人波の中へ下がった。
その動きに合わせるように、後方から新たな分身が一斉に殺到する。
「どれが本物でしょう?」
同じ顔、同じ声、同じ服装の少女たちが左右から押し寄せ、三人を取り囲んだ。
「チッ、調子に乗りやがって!」
窃野が腕を振るう。
一人のトガが身を引き、代わりに別のトガがその脇を抜けた。
「宝生! 右だ!」
「分かってる!」
宝生が振り向きざまに拳を叩き込む。
結晶に覆われた拳が分身の肩を捉え、身体ごと道路へ吹き飛ばした。
黒い泥へ崩れていく姿を確認する暇もなく、別方向から二人、さらに背後から三人が距離を詰めてくる。
「多部! 後ろ!」
多部が振り返る。
飛びついてきたトガへ大きく口を開けて迫り、少女が慌てて後方へ跳ぶ。
その隙に窃野が横から蹴りを放ち、別の一人を巻き込むように転倒させた。
先ほどまで三人が並んで道を塞いでいた形は、もう残っていない。
完全な乱戦だった。
数の上では圧倒的にトガ側が多い。
八斎衆の三人も個々の能力では分身を上回っているものの、四方八方から同じ少女が飛び込んでくる状況では、一人ずつ確実に処理していくしかなかった。
「離れすぎんな!」
窃野が叫ぶ。
「囲まれたら面倒だ! 三人で固まれ!」
「あぁ」
宝生が答え、近くにいたトガ二人をまとめて薙ぎ払う。
──ガッ!
「わっ」
直撃を受けたトガが崩れる。
すぐに宝生は窃野の位置を探した。
「窃野!」
「ここだ!」
声は左後方。
宝生は分身を肩で押し退け、声のした方向へ後退する。
背中に人の感触が触れた。
「よし」
窃野と背中合わせになった。
これなら少なくとも背後を警戒する必要はない。
「多部は!?」
「多分向こうだ!」
「離れんなって言っただろ!」
宝生が正面へ拳を振るう。
飛び込んできたトガが慌てて身を反らしたものの、肩を掠められ、そのまま回転しながら吹き飛んだ。
「キリがねえ!」
「トゥワイスを先に──」
背後の窃野が言いかけた。
その声を聞いて、宝生が僅かに眉を寄せる。
何かが違う。
ほんの些細な違和感だった。
だが、乱戦の最中にそれを確かめる余裕はない。
「おい、窃──」
振り返ろうとした瞬間。
耳元へ冷たいものが触れた。
「……?」
宝生の身体が止まる。
背後にいる窃野の手には、いつの間にか細い注射器が握られていた。
「残念でした」
聞こえてきた声は、窃野のものではない。
宝生が反応するより早く、針が耳の奥へ突き込まれた。
針は耳孔を抜け、その奥まで深々と突き進んだ。
宝生の身体が一度だけ大きく強張り、それきり動かなくなる。
次いで、結晶に覆われた巨体から力が抜けた。
「……」
宝生は何が起きたのか理解することもできないまま、その場へ崩れ落ちた。
身体を覆っていた煌びやかな結晶が次々と砕け、路面へ散らばっていく。
「宝生?」
少し離れていた窃野本人が声を上げた。
「おい、何して──」
そこで言葉が止まった。
倒れた宝生の背後に、自分が立っていた。
自分の姿をした何かが。
「……は?」
偽物の窃野が振り返る。
口元を覆うペストマスクも、金髪も、四白眼も本物と寸分違わない。
だが、その目だけが楽しそうに細められていた。
「ざーんねん、ハズレェ」
次の瞬間、その輪郭が崩れ始める。
溶けるように色を失い、四白眼も、口元を覆っていたペストマスクも形を変えていく。数秒もしないうちに、そこに立っていたのは窃野ではなく、裸のトガだった。
恥ずかしそうに落ちていた制服で前を隠し、キャッと舌を出す。
「てめぇ……!」
窃野の顔から完全に余裕が消えた。
宝生は倒れたまま動かない。身体を覆っていた結晶もほとんど消え、路面には砕けた鉱石だけが散らばっている。
仲間を一人、目の前でやられた。
しかも、自分の姿を利用されて。
「トガァ!」
窃野が怒鳴り、真正面から走り出した。
もはや先ほどまでの軽口も、周囲の状況を確認する余裕もない。群がってくる分身を腕で押し退けながら、本物と思しきトガへ一直線に向かっていく。
「殺してやる!」
「わあ、怖い」
トガは後退しなかった。
むしろ楽しそうに注射器を構え直す。
ただし、その視線は窃野ではなく──一瞬だけ、その背後へ向いた。
「……?」
窃野は気づかない。
周囲を埋め尽くしていたトガの分身たちに紛れ、いつの間にか一人の男が背後まで近づいていた。
トゥワイスだった。
複製を生み出し続ける役目を一度止め、乱戦に紛れて大きく迂回していたらしい。
その手には、道路脇に転がっていたコンクリートブロックの欠片が握られている。
「おい」
「──あ?」
窃野が振り返る。
遅かった。
「トガちゃんの裸見て! 鼻息荒くしてんじゃねぇ!」
トゥワイスが両手でブロック片を頭に振り下ろした。
──ゴッ!
「がっ……!」
鈍い音とともに窃野の身体が大きく揺れる。
足が止まり、頭を押さえようとしたところへ、二撃目が叩き込まれた。
「花も恥じらう乙女の肌だぞ! 淫売だ!」
──ゴッ!
「ぐ……!」
さらに一撃。
窃野の膝が折れる。
額から流れた血が頬を伝い、ペストマスクの縁を赤く染めた。
「や、やめ……殺さ──」
「うるせえ!」
トゥワイスが最後にもう一度ブロックを振り下ろす。
窃野の身体から完全に力が抜けた。
そのまま前のめりに倒れ、アスファルトへ横たわる。
トゥワイスは荒い息を吐きながら、手にしていたブロック片を放り捨てた。
「よーし、あと一人だな」
「……」
少し離れた場所に立っていた多部が、呆然と口を開けていた。
目元だけが開いた布袋の向こうから、倒れた宝生を見る。
次に窃野。
ほんの短い時間だった。
三人で道を塞いでいたはずなのに、気づけば自分だけが残されている。
「……宝生?」
返事はない。
「窃野?」
こちらも動かない。
周囲では、まだ十人以上のトガが取り囲むように立っている。
多部はしばらく呆然としていた。
だが。
「う……」
肩が震えた。
「うおおおおおお!!」
突然叫び声を上げる。
「来ました!」
「来るぞ! 逃げろ!」
トガたちが一斉に身構えた。
多部は頭から突っ込むような勢いで走り出す。
誰を狙っているのかさえ分からない。ただ残った相手へ向かい、真正面から突破しようとしていた。
その口が大きく開く。
先頭のトガが身を翻そうとする。
だが、その必要はなかった。
「──おっと」
聞き慣れた声が、多部のすぐ後ろから聞こえた。
「……?」
多部が振り返る。
いつからいたのか。
シルクハットを被った男が、その背後へ立っていた。
「コンプレス!」
トゥワイスの顔がぱっと明るくなる。
コンプレスは帽子のつばを押さえながら、もう片方の手を多部の背中へ伸ばしていた。
「大人しくしてもらおうか」
コンプレスの指先が触れる。
次の瞬間。
多部の巨体が、消えた。
「……え?」
本人が何かを理解する間すらない。
人一人分あった身体が一瞬で圧縮され、コンプレスの掌へ小さな球体が転がり落ちる。
ビー玉ほどの大きさ。
その表面には、多部を閉じ込めたことを示す独特の模様が浮かんでいた。
「はい、確保」
コンプレスはそれを親指と人差し指で摘まみ上げた。
「おお!」
トゥワイスが駆け寄る。
「コンプレス!」
トゥワイスが駆け寄る。
「生きてたのか! 死んだと思ったぞ!」
「縁起でもないことを言うな」
コンプレスは呆れたように返しながら、指先で多部を封じた球体を転がした。
その様子を見ていたトガも、すぐに駆け寄ってくる。
「おっと……! 服を着てくれトガちゃん。おじさんドギマギしちゃうぜ」
勢いよく詰め寄られ、コンプレスが僅かに身を引く。
トガは周囲に残っていた自分の分身にも、倒れている窃野や宝生にも目を向けなかった。
「ホテルで何があったのですか!?」
声が鋭い。
「デク君は!? 壊理ちゃんは!? 」
「落ち着けって」
「落ち着けません!」
トガは即座に言い返した。
少し先へ視線を向ければ、さっきまで自分たちが暮らしていたホテルは完全に崩れ落ちている。
まだ粉塵が濃く漂い、時折、瓦礫の山から何かが崩れる音まで聞こえていた。
「あんなの見て落ち着けるわけないじゃないですか!」
「全滅したのか!? 全員ピンピンしてるのか!?」
「どっちなんですか!」
二人から同時に問い詰められ、コンプレスは小さく息を吐いた。
「八斎會が壊理ちゃんを取り戻しに来た、ホテルじゃ緑谷君達が戦ってたが……」
コンプレスはそこで、崩れたホテルの方へ顔を向けた。
数百メートル先。 建物だったものは、もう巨大な瓦礫の山でしかない。
灰色の粉塵が夕方の光を遮り、その向こうの景色まで薄く霞ませていた。
「とにかく一旦離れよう。こういう時のために緊急の待ち合わせ場所を決めてたろ? そこに向かおうか」