トガたち四人は、倒壊したホテルからかなり離れた場所まで移動していた。
表通りは避け、人目の少ない路地をいくつも抜けていく。
途中でトガはいつもの帽子と伊達メガネを身につけ、コンプレスとどこかから持ってきた上着を羽織った。トゥワイスも普段より口数が少なく、何度か後ろを振り返りながら歩いている。
壊理はコンプレスに手を引かれていた。
ホテルから逃げ出した時についたのだろう。服や髪には薄く埃が積もり、頬にも灰色の汚れが残っている。
「……デクさん、大丈夫?」
何度目か分からない問いだった。
「大丈夫だって」
コンプレスは歩調を合わせながら答える。
「緑谷君は丈夫だからな。あれくらいじゃどうにもならねえよ」
「でも、ホテル……」
「大丈夫、大丈夫」
壊理が俯くと、トガは隣へ寄ってそっと頭を撫でた。
「デク君なら来ますよ」
「……ほんと?」
「はい。絶対です」
根拠があるわけではない。
だが、トガは迷わず言い切った。
やがて四人は、人通りもほとんどない古びた商店街へ入った。
アーケードの屋根にはところどころ錆が浮き、何枚もの看板が色褪せている。
営業している店もまばらで、八百屋と小さなクリーニング店、それから古びた喫茶店が細々と灯りを点けている程度だった。
それ以外の大半はシャッターを下ろしたままだ。
「ここだ」
コンプレスが足を止める。
商店街のさらに奥。
両隣の店が完全に閉店している一角に、何の看板も残っていない店舗があった。
灰色のシャッターには錆が浮き、下部には古いチラシが何枚も貼りついている。
「ほんとにここか!?」
トゥワイスが辺りを見回した。
「廃墟じゃねえか! 落ち着くぜぇ」
「緊急避難場所に回す金があるなら、最初からあっちの修繕費に回してるさ」
コンプレスがシャッター脇へしゃがみ込む。
錆びついた小さな蓋を開けると、その中から鍵を取り出した。
「こういう時のために、何ヶ所か決めておいたろ」
「ちゃんと覚えてましたよ」
トガが答える。
「仁君は忘れてましたけど」
そんなやり取りをしている間に、コンプレスが南京錠を外した。
シャッターの下端へ両手を掛ける。
「よっと」
ガラガラガラ、と。
商店街に大きな金属音が響いた。
「うるさっ」
「仕方ないだろ。何ヶ月も開けてないんだから」
シャッターが半分ほど持ち上がったところで、コンプレスが身体を屈めて中へ入る。
「ほら、入った入った。あんまり目立つなよ」
トガが先に壊理の背中を押した。
「どうぞ」
「……うん」
壊理が中へ入り、続いてトゥワイスとトガも潜り込む。
最後にコンプレスがシャッターを下ろした。
途端に外の光が細くなり、薄暗い室内に静けさが戻った。
「うわ……」
トガが鼻を押さえる。
「埃っぽいです」
「緊急用だからな」
店舗の中は、文字通り何もなかった。
元は何かの小売店だったらしい。
壁際には古びた棚が数台残されているものの、商品は一つもない。
奥には小さな事務室とトイレらしき扉があり、床の隅には段ボール箱が積まれている。
そして中央には、どこから拾ってきたのか分からない椅子が数脚。
どれも埃だらけだった。
「……」
トゥワイスが座面を払うと、ぶわっと舞い上がった埃が薄暗い店内に広がった。
「げほっ、げほっ!」
「だから言っただろ、緊急用だって」
コンプレスも咳き込みながら手で埃を払い、奥へ視線を向けた。
「確か、電気はまだ生きてたはずなんだが……」
壁際を探りながら進み、事務室らしき扉を開ける。
中も似たような有様だったが、壁の上部には古びた分電盤が残っていた。
「これか」
蓋を開ける。
いくつか並んだスイッチのうち、主電源だけが落とされている。
「さて、ちゃんと動いてくれよ」
コンプレスがブレーカーを押し上げた。
──カチン。
一拍遅れて、店内のどこかで低い唸りが響く。
次の瞬間。
ぱっ、と天井の蛍光灯が点いた。
「わ」
壊理が顔を上げる。
数本ある蛍光灯のうち、一つは完全に切れており、もう一つは不規則に明滅している。
それでも、先ほどまでシャッターの隙間から差し込む僅かな光しかなかった店内は、一気に見渡せる程度には明るくなった。
「おお、生きてた」
コンプレスが少しだけ安心したように息を吐く。
「水道も使えるかもしれないな。後で確認しよう」
「電気代は誰が払ってるんです?」
トガが天井を見上げながら尋ねる。
「細かいことを気にするな」
「盗電だ! 合法だな!」
「仁君、どっちですか」
いつもならもう少し続きそうなやり取りだったが、今日は誰も笑わなかった。
明るくなったことで、改めて店内の荒れ具合がよく分かる。
床には薄く埃が積もり、椅子も棚も白っぽく汚れていた。壁紙は一部が剥がれ、奥の隅には小さな蜘蛛の巣まで張っている。
壊理は座る場所を探すように、椅子を見回していた。
コンプレスがそれに気づく。
「ああ、ちょっと待ちな」
ポケットを探り、折り畳んだハンカチを取り出した。
元は白かったのだろうが、何度か使われているのか少しくたびれている。それでも椅子の埃よりは遥かにましだった。
コンプレスは比較的汚れの少ない椅子を選び、まず袖で座面を何度か払った。
細かな埃が舞う。
「げほっ……ったく」
さらに手のひらで残った汚れを落とし、その上へハンカチを広げた。
「ほら、壊理ちゃん」
「……いいの?」
「いいさ。こんな椅子にそのまま座ったら服が真っ白になっちまう」
壊理は少し迷ってから、言われた通りに腰を下ろした。
小さな身体には大きすぎる椅子で、足が床まで届かない。靴先が宙に浮き、所在なさげに揺れた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
コンプレスは帽子のつばを軽く上げた。
トガとトゥワイスもそれぞれ適当な椅子を見つけ、埃を払って腰掛ける。
コンプレス自身は座らなかった。
しばらく店の中を歩き、シャッターの隙間から外を確認する。
商店街には特に変化はない。遠くで自転車のベルが鳴り、どこかの店からラジオらしき音が微かに聞こえる程度だ。
ホテルの倒壊騒ぎはここまでは届いていないらしい。
「……」
コンプレスはシャッターから離れ、腕時計を見る。
逃げ始めてから、それなりに時間は経っている。
緑谷たちがホテルに残った時点から考えれば、もっと長く感じた。
待つしかない。
そう分かっていても、何もしない時間というのはひどく長く感じられた。
トガは椅子に座ったまま何度もスマートフォンの画面を確認している。圏外ではない。だが、出久からもスピナーからもマグネからも連絡は入っていなかった。
トゥワイスも最初こそ落ち着きなく立ったり座ったりを繰り返していたが、やがて入口近くの壁へ背中を預け、腕を組んだまま黙り込んでいる。
壊理だけは、コンプレスが用意した椅子に大人しく腰掛けていた。
ただ、その視線はずっとシャッターへ向けられていた。
誰かが来るたびに、そこが開く。
そう信じているようだった。
「……」
蛍光灯が、じじ、と微かな音を立てる。
商店街の外からは時折、通り過ぎる自転車の音や遠くの話し声が聞こえてきた。だが、そのどれも店の前では止まらない。
コンプレスは腕時計を見る。
ホテルから脱出できたとしても、その後どう動いたかは分からない。警察やヒーローが集まっていれば、まっすぐここへ来ることも難しいだろう。
ましてや八斎會がまだ周辺にいるなら、なおさらだ。
「……デクさん」
壊理が小さく呟いた。
トガが何か声をかけようとした、その時だった。
──ガシャ。
「……!」
四人の視線が一斉に入口へ向く。
シャッターが動いた。
完全には下ろしていなかったため、床との間には僅かな隙間が残っていた。その下端が、外側からゆっくりと持ち上がっていく。
──ガシャガシャ……。
錆びついた金属が擦れ、耳障りな音が店内へ響く。
「来た!」
トゥワイスがぱっと顔を上げた。
「来たぜ! 緑谷少年達だ!」
壁から身体を離し、嬉しそうに入口へ向かう。
壊理も椅子から腰を浮かせた。
「デクさん?」
「ちょっと待て」
コンプレスだけは動かなかった。
むしろ声を低くし、片手を上げて三人を制する。
シャッターの開き方がおかしい。
こちらの場所を知っている仲間なら、もう少し急いで開けてもいいはずだった。それなのに、外にいる者は中の様子を窺うように、少しずつ、慎重に持ち上げている。
「トゥワイス、下がれ」
「あ?」
「いいから」
コンプレスの声に、トゥワイスの足が止まった。
シャッターは膝ほどの高さまで開いている。
シャッターの向こうに、まず一人分の黒い靴が見えた。その隣にも、もう一人。
「……」
トガの表情が変わる。
見覚えのある靴だった。
次いで、二人の人物が身体を屈めて店内へ入ってくる。
最初の男が立ち上がった。
白いシャツに黒いネクタイ、黒いジャケット。そして口元には、特徴的なペストマスク。
「……え?」
トゥワイスの声が止まった。
男は店内へ入った途端、露骨に眉を寄せた。
「汚いな」
神経質そうな目が、床に積もった埃を見下ろす。
靴底へ何か付着したことすら不快なのか、ほんの僅かに足を浮かせて確認してから、ゆっくりと顔を上げた。
死穢八斎會若頭。
オーバーホール。本名、治斎廻。
「よくこんな所で寛げるな」
「……」
トガが立ち上がった。
それとほぼ同時に、壊理の身体が凍りついた。
椅子から立ちかけていた少女の顔から血の気が引く。
「……あ」
掠れた声が漏れた。
治崎の後ろから、もう一人の男が入ってくる。
白いフードと、ペストマスクで頭部全体を覆った大柄な青年。
若頭補佐。
クロノスタシス。本名、玄野針。
「手間取らせやがってチンピラめ……」
玄野は店内を一通り見回した。
「我々にも伝えていない隠れ家を用意していたのは良かったが、詰めが甘かったな」
玄野の言葉に、コンプレスの目が細くなる。
「詰めが甘い、ねえ」
帽子のつばへ指を掛けたまま、治崎と玄野を交互に見る。
「その言い方だと、まるで最初から俺たちがここへ来るって分かってたみたいじゃないか」
「候補を潰しただけだ」
玄野は短く答えた。
「お前らが大阪で使っている物件、金の流れ、以前立ち寄った場所。全部調べれば、逃げ込めそうな場所なんてそう多くない」
「随分と熱心なことで」
「仕事だからな」
平然と返す玄野とは対照的に、トガは一言も発しなかった。
治崎を見ている。正確には、その手を。
個性『オーバーホール』。
触れたものを分解し、再構築する。
人間相手なら、直接触れられた時点で何が起きるか分からない。
八斎會に出入りしている間、何度かその力について耳にしたことがあった。
詳しい仕組みまでは知らなくても、まともに触れ合っていい相手ではないことくらい理解している。
まして今、治崎の視線の先にいるのは壊理だ。
「……」
トガの右手が、ゆっくりと上着の内側へ滑り込む。
「──まぁ待て」
「っ?」
治崎は構えていなかった。
手袋を嵌めた両手も下ろしたまま。
玄野に攻撃を命じるでもなく、ただ面倒そうにトガを見ている。
「そんなに殺気立つな」
「……」
「こっちも、ここでお前らと殺し合うつもりはない」
トガは完全には警戒を解かなかった。
上着へ差し込んだ手も、そのままだ。
「ホテル壊して、みんなを襲っておいて?」
「俺が壊したわけじゃない」
「八斎會の人が来たんですよね?」
「ああ」
治崎は否定しなかった。
「そこについては、色々とすれ違いがあったようだ」
「すれ違い?」
トゥワイスが鼻で笑う。
「ホテル一軒潰しておいてすれ違いかよ! 仲直りできそうだな!」
治崎はトゥワイスの言葉を無視し、店内を一度見回した。
コンプレス。
トゥワイス。
トガ。
最後に壊理。
少女は椅子の後ろへ回り込み、背凭れを両手で掴んでいた。
顔は青ざめ、身体も僅かに震えている。
それを見ても治崎は声色を変えなかった。
「俺たちは、敵連合との関係を切るつもりはない」
「……は?」
トガが眉を寄せる。
「むしろ逆だ。今後も協力関係は続けたいと思っている」
思いもよらない言葉だったらしい。
トゥワイスが目を瞬かせる。
「協力?」
「お前らには仕事を回した。こっちは人手を補えた。互いに得はあったはずだ」
「だから何です?」
トガの声音には棘が残っている。
「こんなことしておいて、また仲良くしましょうって?」
「だから、すれ違いだと言っている」
治崎はわずかに眉を寄せた。
「そもそも、俺たちは敵連合そのものを潰しに来たわけじゃない」
「なら何しに来たんだよ」
コンプレスが問う。
答えは分かっている。
それでも、あえて聞いた。
治崎の視線が、壊理へ向いた。
「その子だ」
壊理の肩がびくりと震える。
「壊理を返してくれれば、それでいい」
「……」
「それだけだ」
治崎の言葉は穏やかだった。
威圧する様子もない。
脅しもしない。
コンプレスが腕を組む。
「本人が帰りたくないって言ってんだぜ」
「子供の一時的な感情だ」
治崎は即答した。
トガの目が鋭くなる。
「壊理ちゃん、あなたを見ただけで震えてますけど」
「慣れない環境に長く置かれたせいだろう」
「……」
「それに」
治崎はそこで一度言葉を切った。
僅かに息を吐き、これまでより少しだけ説明するような調子になる。
「お前らは、関係のない話だ。家庭の事情というやつだよ」
トガは答えない。
コンプレスも黙っている。
実際、その通りだった。
壊理が八斎會の車へ紛れ込んでいたこと。
八斎會を恐れていること。
彼らが知っているのはその程度だ。
なぜ壊理が八斎會にいたのか。
治崎とどういう関係なのか。
そこまで詳しく聞いたことはない。
本人が話したがらなかったこともある。
治崎はそんな反応を見て、やはり知らなかったかとでも言うように続けた。
「その子は、うちの親父……八斎會組長のご令嬢だ。親父が寝たきりになってからは組で預かっている」
治崎は淡々と続けた。
「確かに俺と血のつながりはない、だが親父にとっては家族だ。勝手にいなくなったなら、連れ戻すのは当然だろ」
「……」
「それだけの話だ」
治崎は手袋の皺を直しながら続ける。
「敵連合に喧嘩を売りたいわけじゃない。お前らを潰したいわけでもない。これまでの仕事も、今後も必要なら回す」
声音はどこまでも冷静だった。
「だから壊理を返せ」
トガは動かなかった。
「返してくれれば、今回の件はそれで終わりにする」
「……本気で言ってるんですか?」
「ああ」
「仲間が襲われてます」
「こちらも何人かやられている」
「ホテルまでなくなりましたけど」
「元はうちの管理する物件だ、とはいえ代わりの拠点はもちろん用意する」
トガは何も答えなかった。
治崎の提示した条件は単純だった。
壊理を返せば争いは終わり、これまで通り仕事も回され、潰されたホテルの代わりまで用意される。
敵連合の損得だけを考えれば、むしろ悪くない条件だった。
だが、トガはゆっくりと後ろを振り返った。
壊理がいた。
椅子の背後に隠れるように立ったまま、先ほどから一歩も動いていない。
「壊理ちゃん」
声を掛けても反応がない。
壊理は椅子の背後に隠れたまま、両手で背凭れを握り締めていた。
細い指は白くなるほど力が入り、肩も上がったまま動かない。
ホテルが崩れた時でさえコンプレスの手を握って走り、ここへ来てからも出久を心配して何度もシャッターを見ていた少女が、治崎の姿を目にしてからは完全に固まっている。
「壊理ちゃん」
もう一度呼ぶ。
「……」
返事はなかったが、僅かに顔が上がる。
目が合った。
その瞳を見た瞬間、トガの中で何かが決まった。
何かに耐えている顔だった。
声を出せばいけない。
動けばいけない。
逆らえば何かが起こる。
そんなことを身体そのものへ刻み込まれているような、異様な固まり方だった。
トガは壊理から視線を外し、治崎へ向き直った。
「……無理ですね」
「何?」
「返せません」
治崎の眉が僅かに動く。
「今の説明を聞いていなかったのか?」
「聞きましたよ」
トガは笑った。
けれど、その目は一切笑っていない。
トガは右手を上着の内側へ差し込む。
するり、と引き抜かれた手には注射器型の凶器が握られていた。
透明な筒から細いチューブが伸び、先端の針が蛍光灯の光を鈍く反射する。
続けて左手にも一本。
逆手に構える。
「家族のところに帰れるなら、もっと嬉しそうな顔すると思うんです」
「トガ」
玄野の声が低くなる。
「その物騒な物をしまえ」
「嫌です」
即答だった。
「壊理ちゃんが帰りたいって言うなら考えます。でも、あんな顔してる子をはいどうぞって渡すのは──」
トガが僅かに腰を落とした。
「私、嫌です」
それを合図にしたように、背後で椅子が擦れる音が響いた。
トゥワイスが立ち上がった。
「そういうことだ!」
トガの横へ並ぶ。
「子供を怖がらせる奴は最低だ!」
コンプレスも肩を竦めると、壊理を庇うように立つ。
治崎は壊理を庇って並ぶ三人をしばらく黙って眺めたが、怒りを見せることもなく、小さく息を吐いただけだった。
「……そうか。なら仕方ない」
手袋をはめた右手をわずかに持ち上げる。
「交渉決裂だ」
その一言を合図に、玄野が動いた。
「トガ!」
コンプレスの警告とほぼ同時に、白いフードの奥から髪の一部が異様な速度で射出される。
いや、髪と呼ぶにはあまりにも硬質だった。
長く伸びた一本が、巨大な時計の長針のように細く鋭く尖っている。
──シュッ!
「!」
トガは反射的に身体を捻った。
完全には避けきれない。
時計針のような髪が脇腹を掠め、その先端が僅かに皮膚へ突き刺さった。
「いっ……!」
傷は浅く、痛みも大したことはない。
トガはすぐさま後方へ跳んで距離を取ろうとしたが──身体が動かなかった。
「……え?」
正確には、動いている。ただ、異常なほど遅い。
「な……に……これ……」
自分では全力で動いているつもりなのに、身体が水飴の中へ沈められたように進まない。
右手に握った注射器を構え直すだけで、何秒も掛かる。
瞬きをする瞼さえ、ゆっくりと降りていく。
「トガちゃん!?」
トゥワイスが目を剥いた。
トガは必死に顔を動かそうとした。
「に……げ……」
だが声さえ遅い。
玄野が伸ばしていた髪を元へ戻す。
その横で、治崎が静かに腰を落とした。
「お前らは厄介だ」
トゥワイスとコンプレスが同時に身構える。
治崎は二人ではなく、床へ視線を落としていた。
「敵連合は曲者揃いだ。潜入、攪乱、偽装、増殖……正面から相手にするには面倒な個性ばかり持っている」
手袋を脱ぎ、右手を嫌そうに床へ伸ばす。
「だが──」
掌が、埃の積もった床へ触れた。
「正面戦闘ができる面子が少ないのが弱みだな」
「っ、離れろ!」
コンプレスが叫んだ。
次の瞬間。
治崎の掌の下から床が崩れた。爆発したのではない。
板材も、その下のコンクリートも一瞬で細かな欠片へ分解され、何十年分もの風化を一度に受けたように塵へ変わっていく。
その崩壊は治崎を中心に蜘蛛の巣状へ広がり、トゥワイスの足元まで瞬く間に達した。
「うおっ!?」
トゥワイスの足元が抜けた。
咄嗟に後ろへ跳ぶが、着地点もすぐさま崩れ始める。
「待て待て待て! 床がなくなるぞ!」
「トゥワイス、こっちだ!」
コンプレスが近くの棚へ飛び乗った。
だが、その棚を支えていた床まで崩れる。
床から柱へ、柱から壁へと分解が伝播していく。
壁材が細かな粒となって剥離し、ざらざらと音を立てながら崩れ落ちている。
「マジかよ、店ごと……!」
コンプレスが目を見開いた。
治崎の個性が触れた床を起点に、構造物そのものが次々と分解されている。
店内を形作っていたものが、区別なく塵へ変わっていく。
「トガちゃん!」
トゥワイスが振り返る。
トガはまだ遅い。
クロノスタシスの個性の影響を受けた身体では、崩れていく足元から逃げることすら満足にできない。
「に……げ……て……」
「置いてけるか!」
トゥワイスが手を伸ばす。
その瞬間、足元がさらに沈んだ。
「うわっ!」
身体が傾く。
コンプレスも反射的にトゥワイスの腕を掴んだ。
「足元見ろ!」
「見てるよ! 何もねえ!」
崩れる足場へトゥワイスとコンプレスの意識が逸れた、その一瞬を玄野は見逃さなかった。
「壊理ちゃん!」
コンプレスが顔を上げた時には、白い影がすでに少女の横へ滑り込んでいる。
玄野は椅子へしがみつく壊理を片腕で抱え上げ、そのまま崩壊の外へ後退した。
「や……!」
その瞬間だけ、壊理が声を上げた。
「やだ!」
「壊理ちゃん!」
トガが叫ぼうとする。
だが、その声すら異様に遅い。
「や……め……」
右腕を伸ばす。
指先は玄野へ向かっている。
それでも届かない。
玄野は壊理を片腕で抱えたまま、崩れていない床を選んで後退する。
「放して!」
壊理が暴れた。
小さな拳で玄野の胸を叩く。
「デクさん! トガさん!」
玄野は腕へ力を込めた。
「いや! 帰りたくない!」
オーバーホールは右手を床から離した。
同時に、新たな分解の広がりが止まる。
もっとも、すでに店内は半壊していた。
床の一部は大きく陥没し、壁も何枚か失われている。
天井も傾き、剥き出しになった梁が嫌な音を立てていた。
「玄野」
「ああ」
治崎が踵を返す。
「行くぞ」
「待て!」
コンプレスが崩れた棚を蹴り、二人を追おうとする。
その前へ天井材が落ちた。
──ドンッ!
「くっ!」
思わず足が止まる。
トゥワイスも別方向から回り込もうとしたが、床の穴が行く手を塞いでいた。
玄野が壊理を抱えたままシャッターへ向かう。
「いやぁ!」
壊理が手を伸ばす。
その向こうにいるトガへ。
「トガさん!」
「壊……理……ちゃ……」
トガも必死に手を伸ばす。
だが、両者の距離は縮まらない。
玄野がシャッターを潜り、治崎もその後へ続く。
「デクさん!!」
壊理の叫びだけを残して、二人の姿は商店街の向こうへ消えた。
「待てぇ!!」
トゥワイスが叫び、崩れかけたシャッターへ飛びつく。
しかし、その頭上で梁が大きく軋んだ。
「トゥワイス、下がれ!」
コンプレスが強引に襟を掴む。
直後。
──ズドンッ!
天井の一部が落下した。
大量の埃が舞い上がり、入口が一瞬で見えなくなる。
「くそっ!」
トゥワイスが暴れる。
「離せ! 追うぞ!」
「今行ったら生き埋めだ!」
「壊理ちゃん連れてかれたんだぞ!」
「分かってる!」
コンプレスも怒鳴り返した。
その声に、トゥワイスが一瞬だけ動きを止める。
コンプレスは粉塵の向こうを睨んでいた。
壊理が連れ去られた方向を。
「……分かってるさ」