半ば潰れたシャッターの隙間から、トゥワイスが転がるように飛び出した。
「っは……! はぁ、はぁ……!」
勢い余って道路へ両手をつき、そのまま四つん這いになる。
肺いっぱいに吸い込んだ空気には粉塵の臭いが混じっていたが、それでも崩れかけた店内よりは遥かにましだった。
すぐ後ろから、コンプレスがトガを抱えるようにして出てくる。
「トゥワイス……手ぇ貸せ!」
「お、おう!」
トゥワイスが慌てて立ち上がり、トガの腕を取った。
クロノスタシスの個性を受けた身体は、まだ満足に動かない。
足を前へ出すだけでもひどく時間がかかり、ほとんど二人に引きずられるような格好でシャッターを潜り抜ける。
三人が道路へ出た直後、背後から凄まじい破砕音が響いた。
──ドガァンッ!
「うおっ!?」
トゥワイスがトガを抱えたまま振り返る。
店の奥で天井の一部が崩れ落ち、粉塵が開いたシャッターから勢いよく噴き出していた。
外壁にも大きな亀裂が走り、看板のなくなった正面部分が僅かに道路側へ傾く。
「離れろ! まだ崩れる!」
コンプレスに急かされ、三人はさらに道路の反対側まで退いた。
そこで、ようやく限界が来た。
「はぁ……っ、はぁ……!」
コンプレスは道路脇のガードレールへ手をつき、大きく肩を上下させた。
シルクハットは逃げる途中でずれ、服も粉塵まみれになっている。
トゥワイスもその隣へ座り込んだ。
「死ぬ……マジで死ぬ……!」
三人とも、息も絶え絶えだった。
誰も無事に脱出できたことを喜ばなかった。
呼吸が少し落ち着いたところで、自然と同じ方向へ顔が向く。
商店街の奥。
オーバーホールとクロノスタシスが消えていった方向だった。
「……」
もう姿は見えない。
古びたアーケードの下には、何事かとこちらを窺う人間が何人かいるだけだった。左右へ分かれる路地も、その先の大通りもここからは見通せない。
今すぐ追わなければならない。
それは三人とも分かっていたが、彼らが何処に行ったのかすら分からない。まだ大阪にいるのか、もう東京へと帰っているのか。
商店街を抜けた先には細い路地がいくつも枝分かれし、大通りへ出れば車も使える。何より、こちらはクロノスタシスの個性と店の崩壊から逃れるだけで精一杯だった。
「クソッ……!」
トゥワイスがアスファルトを拳で叩いた。
「追うぞ! まだ間に合う!」
「待て、トゥワイス」
コンプレスが荒い呼吸の合間に制する。
「待てるかよ! 壊理ちゃんが──」
「行き先も分からないまま走ってどうする。あいつらが車を用意してたら、とっくに商店街を出てる」
「行き先なんて決まってるだろ!? 東京の奴らの事務所だ!!」
「だから、まず──」
そこまで言いかけた時だった。
「──みんな!」
遠くから声が飛んできた。
三人が同時に顔を上げる。
古びたアーケードの向こう、通りの奥から何人もの人影がこちらへ走ってくる。
先頭にいる少年を認めた瞬間、トガの表情が変わった。
「……デク君」
緑谷出久だった。
ホテルの倒壊に巻き込まれたためか、服も髪も埃まみれで、ところどころに擦り傷がある。
それでも大きな怪我をしている様子はなく、しっかりとした足取りでこちらへ駆けてくる。
その後ろにはスピナーとマグネ。さらにジェントルとラブラバも続いていた。
「トガちゃん!」
マグネが声を張る。
「無事だったのね! ホテルはひどい有様よ、こっちは──」
マグネが何かに気づき、口を閉ざす。
出久も同時に足を止める。
「……え?」
出久の口から掠れた声が漏れる。
建物は半ば崩れかけていた。
正面のシャッターは大きく歪み、上部から外れかけて斜めに垂れ下がっている。外壁は端から細かく崩れ、一部内部が剥き出しになっていた。
店内に残されていた棚や椅子も瓦礫の下へ埋まり、天井から垂れ下がった蛍光灯が、切れかけた電線の先で頼りなく揺れている。
ホテルに続いて、また。
出久の表情から、再会できた安堵が消えた。
「まさか……」
辺りを見渡す。
トガがいる。
道路に膝をつき、まだ身体が思うように動かないのか、片手を地面についている。
トゥワイスもいる。
コンプレスもいた。
ホテルで別れる直前、壊理を連れて逃げてくれた男が、確かにそこにいる。
なら──
「……」
出久の視線が素早く周囲を巡った。
どこにもいない。
「……壊理ちゃん?」
誰も答えなかった。
「おい……」
スピナーも気づいた。
走ってきた勢いのままトガたちへ近づこうとしていた足が、途中で止まる。
「壊理は?」
「……」
「一緒だったんだろ?」
スピナーの問いにも、すぐには返事がなかった。
トガは俯いたまま唇を噛み、トゥワイスは何か言おうとして、結局口を閉ざす。
二人に代わって、コンプレスが帽子のつばへ手を掛けた。
「……すまない」
普段なら芝居がかった仕草の一つでも添える男が、今は顔を上げようともしなかった。
「八斎會に、壊理ちゃんを攫われちまった」
「……」
出久は黙った。
マグネが息を呑み、ラブラバもジェントルの服の裾を掴む。スピナーは何かを堪えるように歯を食いしばった。
「俺が連れて逃げたんだ。ホテルから出るところまでは上手くいった。ここまで来て、後はお前たちを待つだけだったんだが……」
コンプレスの声が沈む。
「オーバーホールとその側近に見つかった。壊理ちゃんを渡せと言われて、断った。それで店ごと崩されて、その隙に……」
「俺たち三人もいたのにな!」
トゥワイスが吐き捨てるように割り込んだ。
「目の前で持ってかれた! クソの役にも立たなかった!」
「仁君……」
出久はしゃがみ込み、トガの様子を確かめた。
脇腹に浅い傷はあるものの、出血はほとんどなく、身体の動きもすでに戻っている
続いてトゥワイスを見る。埃まみれではあるが、大きな怪我はなさそうだった。コンプレスも同様だ。
店が半壊するほどの攻撃を受けたことを考えれば、三人とも奇跡的と言っていいほど軽傷だった。
「……よし」
出久が立ち上がった。
その声が思いのほか普段と変わらなかったため、トガが顔を上げる。
「デク君?」
出久は少しだけ考え込んだ。
時間にすれば、ほんの数秒だった。
治崎とクロノスタシスがここを離れてから、どれほど経ったのか。
向こうの目的は壊理だった以上、奪還した後まで敵連合を相手にする理由は薄い。
なら、向かう先は八斎會の拠点である可能性が高い。
「すぐ追いかけよう」
「……え?」
コンプレスが顔を上げた。
出久はすでにスマートフォンを取り出していた。
「ここで話してる時間がもったいない。八斎會が壊理ちゃんを連れて戻るなら、行き先はある程度絞れる」
出久はスマートフォンの地図を開きながら、商店街の出口へ視線を向けた。
「今からなら、まだ追いつけるかもしれない。車って無事かな?」
「ちょっと待ちなさい」
マグネの声が、その場の空気を止めた。
出久が振り返る。
「追いかけるのはいいわ。でも、その前にちゃんと考えなさい」
マグネは腰に手を当て、出久を正面から見据えた。普段の軽い調子はなく、その顔は険しい。
「壊理ちゃんを助けたいって気持ちはよく分かるわ。なんだかんだ長く一緒にいたんだもの、情が移るのも当然よ。あたしだって、あの子をこのまま八斎會に渡しておけばいいなんて思ってない」
「だったら──」
「でもね」
出久が口を挟むより先に、マグネが遮った。
「リスクをしっかり考えたの?」
出久の言葉が止まる。
マグネは半壊した店舗を指差した。
「これ見なさいよ。ホテルを潰されて、こっちもこの有様。トガちゃんたち三人がいて、壊理ちゃんを守れなかった。しかも八斎會の本拠地に戻られたら、今度はこんな人数じゃ済まないわ」
出久は否定できなかった。
鉄砲玉八斎衆はまだ全員を倒せた訳ではない。
ホテルで戦った者だけでも、一人一人が厄介な個性を持っていた。そこへオーバーホールとクロノスタシスまで加わる。
まして本拠地なら、それ以外の構成員が何人いるのかも分からない。
「八斎會は敵連合みたいな寄せ集めじゃないの。仮にも長年続いてる指定敵団体よ。拠点もある、人もいる、金もある。あたしたちは向こうの人数も、建物の構造も、どんな個性持ちが待ってるのかも分からない」
マグネはそこで一度言葉を切り、出久のスマートフォンへ目を向けた。
「そんな状態で『壊理ちゃんを取り返そう』って乗り込むのは、作戦じゃないわ。ただの殴り込みよ」
マグネは出久の顔をじっと見た。
「で?」
「……?」
「そこまで分かってて、それでも追いかけるって言うんでしょう?」
「はい」
出久は迷わず頷いた。
その返事に、マグネが小さく息を吐く。
「だったら聞くけど──何か作戦があるんでしょうね?」
問いかけに、その場の全員の視線が出久へ集まった。
トガも、トゥワイスも、コンプレスも黙っている。スピナーも腕を組み、ジェントルとラブラバも返事を待っていた。
マグネの指摘は正しい。
それでも、出久の答えは変わらなかったない。
「ありますよ」
出久が答えた。
「……あるの?」
「正確には、作戦そのものはこれから考えます。でも──」
そこで、出久の口元が僅かに持ち上がった。
先ほどまでの焦りとは違う。
何かを思いついた時の、昔から変わらない笑みだった。
「アテならあります」
マグネが眉を上げる。
「アテ?」
「はい」
出久はスマートフォンを握り直した。
八斎會へ正面から乗り込むには、自分たちだけでは足りない。
それなら、足りないものを借りればいい。
「いるでしょう?」
ニヤリと笑う。
「困ってる人を放って置けない人達が」
──
──その頃、東京。
都心の一角に建つオールマイト事務所では、大阪で起きている騒動など知る由もなく、いつもと変わらない時間が流れていた。
壁一面の大きな窓から夕暮れの光が差し込み、整然と並べられたデスクを橙色に染めている。
所属する事務員が行き交う中、その一角で一人の少年がパソコンへ向かっていた。
「えーっと……被疑者三名を確保。負傷者なし。器物損壊は……」
キーボードを叩く手が止まる。
「電柱一本、道路標識二本、コンビニの看板が一枚。あと駐車してた自転車が……七台?」
画面の横に置いたメモを確認し、通形ミリオは困ったように眉を下げた。
「うーん。これは僕が壊したわけじゃないんだけどね」
雄英高校ヒーロー科三年、通形ミリオ。
現在、オールマイト事務所でインターン活動中の高校生である。
──というのが、書類上の肩書だった。
実態は少々異なる。
数か月前に発生した神野区での大規模ヴィラン事件──後に世間から『神野の悪夢』と呼ばれるようになったあの一件で、ミリオはオールマイトと共に最前線へ立った。
日本中がその戦いを見ていた。
現役高校生が、トップヒーローすら容易に踏み込めない戦場でオールマイトと肩を並べた。
その事実は瞬く間に報道され、通形ミリオという名前はヒーロー業界のみならず一般にも広く知られることになった。
当然、その後もただの高校生として扱われるはずがなかった。
雄英と事務所側の監督下という条件こそあるものの、今では通常の巡回からヴィラン犯罪への対応、現場での救助活動まで、プロヒーローとほとんど変わらない仕事を任されている。
インターンという肩書のまま、本職同然に働いているのが現状だった。
今日もそうだ。
午後の巡回中、宝石店へ押し入った三人組のヴィランと遭遇。近くにいたヒーローと連携して避難誘導を行いながら、そのまま全員を確保した。
「どうして報告書って、ヴィランを捕まえるより時間がかかるのかな」
ミリオは椅子の背凭れに身体を預け、両腕を頭上へ伸ばした。
戦闘そのものに要した時間は数分にも満たない。
犯人三人を無力化し、店員と客を避難させ、警察へ引き渡すところまでは滞りなく終わったというのに、その後の書類仕事にはもう一時間近く費やしている。
「世の中って不思議だね」
「不思議でも何でもないですよ。通形君が必要のないところまで詳しく書くからでしょう」
向かいのデスクから事務員が呆れたように返した。
「そうかな?」
「そうです。『犯人Aが非常に威勢のいい掛け声とともに突進』なんて、報告書には必要ありません」
「でも、すごい勢いだったんだよね!」
「『しかし壁を透過した僕には当然当たりませんでした』もいりません」
きっぱり言い切られ、ミリオは困ったように笑った。
「難しいなあ、報告書」
戦う方がよほど簡単だ。少なくとも敵が目の前にいれば、何をすべきかは分かる。
相手の個性を見極め、周囲の安全を確保し、被害が出る前に止めればいい。
だが報告書には、そうした直感が通用しない。
「じゃあ、ここを削って……『抵抗する被疑者を制圧』っと。これでどうかな?」
「それで十分です」
少し残念そうにしながらも、ミリオは指摘された箇所を次々と修正していった。
その時だった。
「──っ」
喉の奥に、突然ざらつくような違和感が走った。
「ごほっ……!」
ミリオの手が止まる。
「ごほっ、ごほっ……!」
咳は一度では収まらなかった。
口元を手で覆い、身体を折るようにして何度も咳き込む。
胸の奥に何かが引っ掛かったような感覚があり、息を吸うたびに喉が刺激された。
「通形君?」
先ほどまで報告書に口を出していた事務員が顔を上げる。
「大丈夫ですか?」
「ごほっ……うん、大丈夫!」
ミリオは咳の合間に顔を上げると、心配はいらないと示すように親指を立てた。
「この通り!」
「この通りって、かなり咳き込んでましたけど」
「ちょっとむせただけだよ。ほら、もう平気!」
いつもの笑顔を浮かべてみせる。
実際、咳はすぐに治まった。胸の違和感も消え、呼吸にも問題はない。
ただ、最近こういうことが増えていた。
最初は軽い倦怠感だけだった。
朝起きた時に妙に身体が重かったり、巡回から帰った後、以前なら何ともなかった程度の運動で強い疲労を覚えたりする。
「もう歳なのかなぁ」
「華の10代が何を言ってるんですか」
ミリオは苦笑しつつ、 何気なく頬を掻こうとして、指先が止まる。
「……ん?」
右の頬に妙な感触があった。
爪で引っ掻いたような傷とは違う。
指先でなぞってみると、皮膚の表面に細い溝のようなものが走っている。
ミリオはデスクの端に置かれていた小さな鏡を手に取った。
「なんだ、これ?」
右頬に、傷があった。
いつついたのか覚えていない。
頬骨の辺りから下へ向かって細い線が伸び、途中で二つに枝分かれしている。
血は出ておらず、痛みもない。
ただ、その形が妙だった。
切り傷というより──陶器やガラスに入った、ヒビ割れのように見える。
「今日の戦闘で怪我したんじゃないですか?」
「うーん……」
ミリオは指先で傷をなぞった。
痛くない。
押しても何ともない。
「そんな攻撃、受けてないはずなんだけどなあ」
鏡の中の自分と睨めっこするように、ミリオは頬の傷を眺めた。
改めて見ても、やはり妙だった。表面を擦った傷なら赤みや腫れがあってもよさそうなものだが、そういったものはない。ただ皮膚に細い亀裂だけが走っている。
「うーん……」
疲れているせいで、知らないうちにどこかへぶつけたのだろうか。
そんなことを考えながら指先で傷をなぞっていた、その時だった。
──プルルルルルッ!
事務所の電話が鳴った。
「はい、オールマイト事務所です」
近くにいた事務員が受話器を取る。
珍しいことではない。
事件の照会や警察からの連絡、取材の問い合わせまで、この事務所には一日中様々な電話が掛かってくる。
ミリオも気にせず、鏡へ視線を戻そうとした。
ところが。
──プルルルルッ!
別の電話が鳴る。
「はい、こちらオールマイト事務所──え?」
さらに。
──プルルルルルッ!
「はい! 少々お待ちください!」
ほとんど間を置かず、今度は奥のデスク。
その直後には隣の電話まで鳴り始めた。
「……?」
ミリオが鏡から顔を上げる。
さっきまで落ち着いていた事務所の空気が、一変していた。
「警察からです!」
「こっちは公安から!」
「映像、確認できますか!?」
椅子を引く音が重なり、事務員たちが慌ただしく立ち上がる。
誰かが書類の束を抱えて奥の部屋へ走り、別の事務員がスマートフォン片手に大型モニターの電源を入れた。
──プルルルルルッ!
電話は止まらない。
一台が切れれば、すぐ別の回線が鳴る。
先ほどまでミリオに報告書の書き方を教えていた事務員も、別の電話を取った。
「はい、オールマイト事務所です! ……はい。はい……え?」
その顔色が変わる。
「なにを馬鹿な事を……」
事務員がメモを取りながら、早口で何度も確認する。
「八斎會……って、あの指定敵組織の?」
受話器を置くなり、立ち上がった。
「どうしました?」
ミリオも鏡を机へ置いた。
返事はない。
というより、誰もが自分の仕事で手一杯になっている。
「映像出ます!」
正面の大型モニターが切り替わる。
ニュース番組ではない。
どうやらネット上へ投稿された映像らしく、縦長の動画が画面中央に表示されていた。
周囲には大量のコメントが猛烈な速さで流れている。
映像はまだ再生されていない。
しかし、サムネイルを見た瞬間。
「……あれ?」
そこへ、事務所の奥から一人の職員が駆けてきた。
「通形君! 大変だ!」
血相を変えている。
「何があったんですか?」
ミリオが立ち上がる。
職員は一度息を整えようとしたが、それすら待てないように言葉を吐き出した。
「襲撃予告だ!」
「……襲撃?」
「あの緑谷出久が!」
その名前に、ミリオの目が見開かれる。
事務所の電話は今も鳴り続けている。
「緑谷君が……?」
「ああ!」
職員が大型モニターを指差した。
「死穢八斎會への襲撃を予告する動画を上げた!」
ミリオはゆっくりと画面へ顔を向けた。
表示されているのは、間違いなく緑谷出久だった。
職員が再生ボタンを押した。
大型モニターいっぱいに、動画が表示される。
画質は妙に良かった。
手持ち撮影らしく僅かに揺れてはいるものの、照明も音声もきちんと調整されている。
背景には古びたコンクリート壁と、半分ほど閉まったシャッターらしきものが映っていた。
そして、その中央に出久が立っている。
「……」
ミリオは思わず画面へ身を乗り出した。
間違いない。
緑谷出久だった。
ニュースで何度も使われてきた映像より少し髪が伸びている。
服装もヒーロー科にいた頃とは当然違い、くたびれたパーカーに黒いズボンという簡素なものだった。
ただ、その表情には見覚えがあった。
少し困ったように眉を下げ、カメラを意識しすぎて視線が定まっていない。
「えー……」
動画の中で、出久が口を開く。
そこで一度止まった。
カメラの向こう側へ視線をずらす。
「もう始まってます?」
『始まってる始まってる。そのまま続けろ』
撮影者らしき男の声が入った。
「あ、はい」
出久が慌ててカメラへ向き直る。
事務所内に何とも言えない沈黙が流れた。
「……襲撃予告なんですよね、これ」
事務員の一人が呟く。
「たぶん……」
ミリオも困惑気味に答えた。
少なくとも、世間一般が思い浮かべる襲撃予告とはかなり雰囲気が違う。
出久はカメラの前で一度咳払いすると、改めて口を開いた。
「緑谷出久です」
本人確認だけは非常に簡潔だった。
「この動画を撮ってもらったのは、ちょっと伝えておきたいことがあったからで……」
また視線が泳ぐ。
「こういうの初めてなので、何から言えばいいのか……」
『襲撃するって言えばいいだろ』
「あ、そうですね」
「誰なんだ、撮ってる奴……」
ミリオの近くにいた職員が額へ手を当てた。
事務員の一人が別の端末を操作している。
「投稿元、分かりました」
「誰だ?」
「ええと……ヴィラン名『ジェントル・クリミナル』」
「知らないな」
「あ、俺見てるよ」
「ヴィランなのか?」
「一応、指名手配歴があります。店舗への無断侵入、業務妨害、立入禁止区域での配信、ヒーローへのつきまとい……」
「迷惑配信者じゃないか」
「何で緑谷君がそんな人のチャンネルに……」
ミリオの疑問へ答える者はいなかった。
画面の中では、ようやく出久が本題に入ろうとしていた。
「それじゃあ……」
一度息を吸う。
「僕は、死穢八斎會を襲撃することにしました」
今度こそ、事務所全体が静まり返った。
電話の音だけが響く。
あまりにも淡々と言った。
今日の夕食を決めたと報告するのと大差ない口調だった。
だが、内容は洒落にならない。
死穢八斎會。
長年活動している指定敵団体。
近年こそ勢力を落としているとはいえ、複数の構成員と拠点を抱える組織犯罪集団である。
そこへ、現在全国指名手配中の緑谷出久が襲撃を宣言した。
「理由は……」
出久がそこで止まった。
「……」
出久はそこで口を閉ざし、少し首を傾げた。
どう見ても、その場で理由を考えている。
『何でもいいだろ。抗争とか、裏切られたとか』
「それだと色々説明しないといけなくなりません?」
『じゃあ適当にぼかせ』
「うーん……」
数秒悩んだ末、出久は再び正面を向いた。
「理由は……えーと」
間。
「方向性の違いです」
「バンドの解散か!」
事務所のどこかから思わず突っ込みが飛んだ。
ミリオも目を瞬かせる。
動画のコメント欄は、とっくに凄まじい速度で流れていた。
冗談半分の反応と、本気で事態を危険視する反応が入り混じっている。
出久本人はそれを知らない。
「それで……日時なんですけど」
また止まる。
事務員たちも一斉に静かになり、何人かがメモを取る。
出久は少し上を見た。
「日時は……」
考える。
そして。
「今夜」
ミリオの目が僅かに見開かれる。
「うん、今夜です」
確認するようにもう一度頷いた。
「以上です」
出久はぺこりと頭を下げた。
そのまま一歩下がる。
「……」
ところが映像はまだ続いている。
出久もそれに気づいたらしい。
カメラへ近づく。
画面いっぱいに顔が映る。
「……まだ撮ってる?」
小声だった。
『撮ってる』
「えっ」
そこで映像が唐突に切れた。
黒い画面だけが残る。
職員が頭を抱えた。
「相手、場所の特定できてるのか!?」
「公安へ確認中です!」
「今夜って何時だ!」
「本人が決めてません!」
「なんで襲撃予告した本人が一番ふわっとしてるんだ!」
再び事務所内が騒然となる。
電話が鳴り、職員が走り、各所から情報が飛び交う。
その中でミリオだけは、大型モニターに残った黒い画面をじっと見ていた。
「……緑谷君」
頬に走る奇妙な亀裂のことなど、もう頭から消えていた。