翌日。
雄英高校一年A組の教室は、朝から妙に騒がしかった。
「マジでビビったわ昨日!」
「除籍とか心臓に悪すぎだろ!」
「合理的虚偽ってなんだよ!」
あちこちで愚痴と笑い声が飛び交っている。昨日の体力測定と相澤の“除籍宣言”は、完全にクラス全体の話題になっていた。
その中で、出久は自分の席に座ったまま、小さく顔を顰める。
「……っ」
右腕が痛む。
治癒は受けた。骨折も筋断裂も治っている。だが、“槍骨”最大解放の反動は完全には抜け切っていなかった。
骨の奥が軋むような鈍痛。神経が焼けるみたいな痺れ。
出久は、無意識に右腕を擦った。
すると。
「大丈夫?」
不意に、明るい声が降ってきた。
「ひゃっ!?」
出久の肩が跳ねる。勢いよく顔を上げると、そこには丸顔に柔らかな茶色の髪、ふわりとした雰囲気の少女が立っていた。
麗日お茶子だった。
「お、お、おおお、おはよう!!」
出久の声が裏返る。
麗日は目をぱちくりさせたあと、くすっと笑った。
「なんでそんな驚くん?」
「い、いや、その……!」
出久は視線を泳がせる。
近い。
女子が近い。
しかも笑いかけられている。
人生経験に乏しい元・無個性男子高校生の脳は、一瞬で処理限界を迎えていた。
「えっと……その、麗日さん……」
「うん?」
「ち、近い……」
「へ?」
麗日がきょとんとする。そして自分がかなり机へ身を乗り出していたことに気づき、「あ、ごめんごめん!」と慌てて少し下がった。
「いやー、昨日すごかったから気になって!」
「……っ」
出久の身体が僅かに強張る。
昨日。
巨大骨槍。爆発じみた投擲。爆豪の怒声。
あまり思い出したくない。
だが、麗日は全く別の方向で目を輝かせていた。
「ビックリした!」
両手をぶんぶん振りながら続ける。
「すっごい個性だね! 腕、大丈夫? 入試の時も助けてくれた時、ボロボロになってたよね」
「ぁ、ぁぅ……」
出久は顔を真っ赤にした。
褒められている。
真正面から。
しかも女子に。
脳が処理しきれない。
「そ、そんな、大した事ないっていうか……!」
「いや大した事あるよ!?」
麗日は即座に否定した。
「私、思わず“うわぁ……”って声出たもん!」
きらきらした目。
悪意も打算もない、純粋な賞賛。
それが逆に、出久には眩しすぎた。
「そ、それに!」
麗日が少し声を潜める。
「聞いた? 除籍のやつ!」
出久の肩がびくりと震えた。
「……え」
「嘘なんやって!」
教室のあちこちでも、同じ話題が出ている。
「合理的虚偽? とかなんとか!」
「脅した方が本気出すから、とか!」
「いやぁもう、めちゃくちゃ怖かったよねー!」
あはは、と麗日は笑う。
だが、出久は笑えなかった。
「……」
除籍は嘘。
その言葉だけなら、安心していいはずだった。
普通なら。
『君の場合は事情が違うけどねぇ』
AFOの声が蘇る。
出久の指先が、小さく震えた。
「……どうしたの?」
麗日の声で、出久ははっと我に返る。
「へぁっ!?」
また変な声が出た。
麗日は少し困ったように笑う。
「大丈夫? 急に顔色悪くなったけど……」
「だ、大丈夫! です!」
反射的に答えた勢いが強すぎて、椅子がガタンと鳴った。周囲の数人がちらりとこちらを見る。
出久は、さらに赤くなる。
「ご、ごめんなさい……!」
「だからなんで謝るの!?」
麗日が吹き出す。
ころころとした笑い声だった。それを聞いているだけで、胸の奥が少しだけ軽くなる気がした。
「そうだ!」
不意に、麗日がぽん、と手を打つ。
「自己紹介の続きしよ!」
「え?」
「昨日、途中で終わっちゃってたよね?」
確かにそうだった。
麗日はにこっと笑う。
「改めて、私、麗日お茶子! 昨日も言ったけど!」
「う、うん……」
出久は小さく頷いた。
「えっと、僕は……」
「緑谷……」
そこで麗日が少し考えるように首を傾げる。
「デク君! だよね? 名前!」
その瞬間、出久の表情が僅かに固まった。
「……ぁ」
デク。
幼い頃から呼ばれてきた名前。
いや、名前ですらない。
“出来損ない”。
“役立たず”。
そういう意味を込めて、爆豪がつけた呼び名だった。
出久が返答に詰まった、その時。
「待ちたまえ!!」
教室へ、聞き慣れた大声が響いた。びしっ、と勢いよく腕が振られる。
飯田天哉だった。
「今の話は聞き捨てならんぞ、麗日君!!」
「へっ!?」
麗日がびくっと肩を跳ねさせる。
飯田は真剣そのものの顔で、ずいっと前へ出た。
「“デク”というのは、昨日爆豪君が使用していた呼称だろう!?」
「え? う、うん?」
「しかも話の流れから察するに、あれは侮蔑的意味合いを含むあだ名ではないのか!?」
飯田の眼鏡がキラリと光る。
「本名を差し置いてそのような呼称を使用するのは、極めて配慮に欠ける行為だ!!」
「ええっ!? い、いや! そういう訳じゃ……」
麗日が慌てて両手を振る。
「なんていうか、その、響きが!」
「響き?」
飯田が眉を寄せる。
麗日は、うんうんと頷いた。
「デクってさ」
一拍。
「“頑張れ!!”って感じで、なんか好きだ私」
悪意なんて、欠片もない声だった。
蔑称としてではなく、笑い者としてでもなく、本当に自然に、前向きな響きとして。
デク。
ずっと嫌だった名前。
爆豪に怒鳴られるたび、胸へ突き刺さった呼び名。
出来損ない。役立たず。無価値。
そういう意味でしかなかったはずなのに。
今、目の前の少女は、それをまるで応援の言葉みたいに笑った。
飯田は腕を組みながら、なおも難しい顔をしていた。
「むぅ……しかし、侮辱的由来の呼称を肯定的へ転換するというのは——」
「デクです」
即答だった。
「え?」
麗日がぱちぱちと瞬きをする。
出久は、顔を真っ赤にしたまま勢いよく頭を下げた。
「ぼ、僕はデクです!!」
飯田が固まる。
「いいのか!?」
飯田が驚愕したように身を乗り出した。
出久は真っ赤な顔のまま、しどろもどろに頷く。
「は、はい……! なんか、その……!」
上手く言葉にならない。
でも。
“頑張れ”みたいだと。
そう言われた瞬間、嫌だったはずの名前が少しだけ違って聞こえた。
「よろしくね、デク君!」
麗日がにこっと笑う。
「は、はいっ!」
出久の顔は、もはや耳まで真っ赤だった。
その時だった。
ガラリ。
突然、教室の扉が勢いよく開いた。
空気が一変する。
「わたしが——」
低く、よく通る声。
反射的に、教室中の視線が扉へ向いた。
そして。
「——普通にドアから来た!!」
ドンッ!!
まるで効果音そのものみたいな勢いで、一人の男が教室へ踏み込んできた。
圧倒的な体格。
星条旗を思わせる派手なスーツ。
そして、誰もが知っている笑顔。
「「「オールマイトォォォォ!?!?」」」
教室が爆発した。
歓声。悲鳴。椅子が倒れる音。
上鳴が口を開けたまま固まり、切島が「本物!?」と叫び、峰田が涙目になっている。飯田ですら目を見開いていた。
「な、ナンバーワンヒーロー……!」
オールマイト。
平和の象徴。現役最強。誰もが憧れる、最高のヒーロー。
その本人が、今、教室の中に立っている。
圧。
存在感だけで空気が変わった。
立っているだけなのに、まるで太陽みたいだった。
その中で。
「お、お、お、おおおおお……!!」
出久だけは、明らかに反応が違った。
椅子から半分立ち上がり、目をこれ以上ないくらい見開いている。呼吸が止まりそうだった。
本物だった。
雑誌や映像で何度も見てきた、あのオールマイトが、今、教室の中に立っている。
子供の頃から分析ノートへ記録を書き込み続けた“憧れそのもの”が、現実として目の前にいた。
「本物だぁぁぁぁぁ……!!」
出久の目が、キラッキラに輝いていた。
さっきまでの陰も不安も、一瞬だけ吹き飛んでいる。
「シルバーエイジ版コスチューム!? いや違う、これは初期デザインをベースに現代向けへ調整したタイプ!? 肩部シルエットとグローブ形状が——」
麗日は目を丸くしながら、半分感心したように出久を見ていた。
「デク君、ほんとにオールマイト好きなんやね……」
その言葉に、出久は我に返る。
「す、好きっていうか、人生の目標というか、研究対象というか、いや研究対象って言うと失礼かもしれないけど、でも全盛期の活動記録と救助効率と戦闘時の被害抑制率を比較すると——」
「落ち着きたまえ緑谷君!」
飯田が両手を振る。
その騒ぎを前に、オールマイトは豪快に笑った。
「ハッハッハッ! 元気があって実に良い!」
その声だけで、教室の空気がさらに熱くなる。
オールマイトは教壇の前へ立つと、大きく胸を張った。
「少年少女らよ!」
一年A組の全員が、自然と姿勢を正す。
「私は、今年度からここ雄英高校に赴任したオールマイトだ! 担当科目はヒーロー学ね」
教室が、再び爆発した。
「赴任!?」
「マジで先生なの!?」
「ニュースになってた!?」
「いや聞いてねぇぞ!」
騒然となるのも当然だった。
ナンバーワンヒーローが、雄英の教師として教壇に立っている。
それはただの有名人登場ではない。
“平和の象徴”が、自分たちを教えるという意味だった。
出久は、完全に固まっていた。
「……教師」
ぽつり、と呟く。
「オールマイトが……雄英の……教師……?」
知らなかった。
何も聞いていない。
雑誌にも、ニュースにも、ヒーロー情報サイトにも、そんな情報は出ていなかった。もし出ていたなら、自分が見逃すはずがない。
つまり、極秘。
雄英内部でも、直前まで伏せられていた可能性が高い。
「うわ……うわぁ……」
出久の目が、ますます輝く。
「すごい……すごいすごいすごい……!」
右腕の痛みも、AFOの声も、身体に刻まれた鎖も、その瞬間だけは遠くなった。
目の前にいるのは、オールマイト。
子供の頃から憧れ続けたヒーロー。
その人が、これから自分たちの教師になる。
出久の胸は、抑えきれない興奮でいっぱいになっていた。
オールマイトは、白い歯を光らせる。
「少年少女らよ、よろしく!」
大きな声。
大きな笑顔。
教室の中にいるだけで、空間そのものが明るくなる。
出久は思わず、背筋を伸ばした。
「よ、よろしくお願いします……!」
オールマイトは、教室を見渡しながら満足そうに頷く。
「よろしい!」
バンッ、と教卓を叩いた。
「では早速授業を行おう!」
その瞬間、教室の空気がさらに引き締まる。
授業。
つまり、プロヒーロー・オールマイトによる実践授業。
生徒たちの目が、一斉に輝いた。
「今日行うのは——」
オールマイトが、大きく腕を振り上げる。
「屋内戦闘訓練だ!!」
「「「おおおおおっ!!」」」
歓声が爆発した。
切島が拳を握り締める。
「キタァァ!! ヒーローっぽい!!」
「戦闘訓練!?」
上鳴もテンションを爆上げしている。峰田は「コスチュームって事!?」と無駄に興奮していた。
飯田ですら珍しく、高揚を隠せていない。
「実戦形式訓練……! ついにヒーロー教育らしくなってきたな!」
麗日もぱっと顔を明るくする。
「うわー! 楽しみ!!」
その声を聞きながら、出久も思わず胸が高鳴った。
ヒーローコスチューム。
実戦訓練。
オールマイト指導。
子供の頃、ノートへ何度も書いた“雄英ヒーロー科”そのものだった。
だが、胸の奥では、別の感情も小さく蠢いている。
『今から君へ新しい個性を与える』
昨夜。
地下施設。
AFOの声。
右腕の奥が、鈍く疼いた。
「……っ」
出久は小さく息を呑む。
しかし、その思考を吹き飛ばすように、オールマイトが大声で続けた。
「ヒーローの基礎は、“ヴィランとの戦闘”にある!」
教壇を指で叩く。
「そして、敵は屋外で待ってくれるとは限らない!」
一拍。
「狭所! 閉鎖空間! 市街地! 屋内災害現場!」
ドンッ、と拳を打ち鳴らす。
「様々な環境下で戦えることこそ、プロヒーローに必要な資質なのだ!」
説得力が違った。
現役最強ヒーロー。幾度も死線を越えてきた男の言葉。
生徒たちは完全に引き込まれている。
オールマイトはニッと笑った。
「では諸君!」
ビシィッ、と指を突きつける。
「用意してきた“アレ”へ着替えてもらおう!!」
一瞬の静寂。
そして。
「「「ヒーローコスチューム!!」」」
教室が、また爆発した。
数十分後。
雄英高校訓練施設。
巨大な自動ドアが開き、その先へ生徒たちが次々と姿を現した。
ヒーローコスチューム姿で。
「うおおおおおっ!!」
切島が叫ぶ。
「マジでヒーローっぽい!!」
「いやもうヒーローだろこれ!」
上鳴もテンションが高い。
色鮮やかなコスチューム。機能性重視の装備。それぞれの個性と思想が現れた、未来のヒーローの姿。
飯田は装甲付きのエンジン対応スーツ。
麗日は宇宙服を思わせる軽量デザイン。
爆豪は巨大な籠手付きの戦闘装備。
そして。
「……」
出久は、自分の姿を見下ろした。
黒を基調としたボディスーツ。
骨格補助用の固定装甲。
特に右腕部は分厚く補強され、“槍骨”使用時の反動を抑えるためのフレームが内蔵されている。脇腹から肩口へかけて走る硬質プレートも、骨生成時の身体負荷を前提に設計されたものだった。
機能性。実戦性。生存性。
まるで“戦うための道具”だ。
「……」
出久は、少しだけ目を伏せる。
嫌いではない。
合理的だとも思う。
AFOの施設で叩き込まれた知識から考えても、この設計は正しい。
“槍骨”は危険だ。
使用者自身を傷つける個性。だからこそ、身体保護と出力制御を最優先する必要がある。
分かっている。
全部。
でも。
「……ヒーロー、っぽくないな」
ぽつりと、誰にも聞こえないくらい小さく呟いた。
視線が、そっと頭部へ向く。
そこだけは、少し違っていた。
マスク。
口元へ笑顔のラインを模したデザイン。
そして頭部からは、二つの突起が突き出している。
オールマイトを思わせる意匠。
子供の頃、ノートへ何度も描いた“憧れのヒーロー”。
せめてもの抵抗だった。
あるいは、諦め切れなかった夢の残骸。
「おっ!」
突然、大きな声が降ってきた。
出久がびくりと肩を震わせる。
「みんなのコスチューム、かっこいいねぇ!」
オールマイトだった。
巨体のまま生徒たちの間を歩き、一人一人のコスチュームを楽しそうに見て回っている。
「機能性と個性の両立! 素晴らしい!」
切島が嬉しそうに胸を張り、麗日は「えへへ」と照れ笑いを浮かべていた。
そして、オールマイトの視線が出久で止まる。
「おや?」
ぱちり、と青い目が瞬いた。
次の瞬間。
「少年!」
ズシン、と大股で近寄ってくる。
「私のフォロワーかな!?」
「へっ」
出久の思考が止まった。
オールマイトは、出久の頭部デザインを見て豪快に笑った。
「この触覚! そしてスマイルライン!」
ビシッ、と指差す。
「リスペクトありがとう!!」
バンッ!!
勢いよく肩を叩かれた。
「ぶへっ!!」
出久の身体が前につんのめる。オールマイトのパワーは、加減していても重かった。
「ハッハッハッ! 若者の憧れを向けられるというのは嬉しいものだね!」
「ぁ、ぁ、あの、その、ぼ、僕は……!!」
出久の顔が一瞬で真っ赤になる。
脳が処理限界だった。
オールマイト本人。
本物。
その本人から、リスペクトありがとうと言われた。
「お、お、お、オールマイトを参考にしたっていうか、いやその、違くはないんですけど、でも僕なんかが真似するのは恐れ多いっていうか——」
「うんうん!」
オールマイトは楽しそうに頷いている。
「良いじゃないか!」
ニカッ、と笑う。
「憧れを持つことは、ヒーローにとって大事な第一歩だ!」
「——っ」
その言葉に、出久の胸が小さく痛んだ。
憧れ。
自分は、まだそれを持っていていいのか。
AFOの駒になりながら。脅されながら。個性を与えられながら。
それでも、目の前の男を見ていると。
どうしても。
憧れを、捨て切れなかった。