出久は崩れた外壁を踏み越え、そのまま八斎會の屋敷へ飛び込んだ。
背後では怒号と破砕音が途切れることなく響いている。
トゥワイスが生み出した複製が庭を埋め、そこへ機動隊とヒーロー、八斎會の構成員まで入り乱れたことで、もはや誰が誰を追っているのか外からでは判別できないほどの混戦になっていた。
「緑谷を追え!」
「そいつ偽物だ!」
「警察は出てけ!」
「邪魔すんな!」
様々な声が重なり、その合間を縫うように何かが壁へ叩きつけられる音が響く。
出久は一度だけ振り返った。
庭では自分と同じ白い巨体が三体ほど暴れ回っている。
一体は機動隊の盾を掴んで押し返し、もう一体はヒーローから逃げるように塀沿いを走り、残る一体は八斎會の組員数人を相手にしていた。
あれなら、しばらくは本物を追う余裕などない。
「お願いします、分倍河原さん」
誰に聞かせるでもなく呟き、出久は前を向いた。
屋敷の内部も惨憺たる有様だった。
先ほどワゴン車が突っ込んだ影響で玄関付近は半ば崩壊し、廊下には折れた柱や砕けた壁材が散乱している。爆発による黒煙もまだ完全には抜けておらず、焦げた木材と燃料の臭いが鼻についた。
出久は瓦礫を跨ぎ、奥へ続く廊下へ足を踏み入れる。
外観こそ古い日本家屋だったが、内部は想像以上に広い。
長い廊下が左右へ伸び、その途中からさらに何本もの通路が枝分かれしている。
襖や木製の扉が規則性なく並び、ところどころには比較的新しい防火扉や監視設備まで増設されていた。
「……広いな」
ラブラバが見せてくれた監視映像では、敷地内に複数の建物が存在していた。
闇雲に探していたのでは間に合わない。
出久は廊下の中央で足を止めた。
個性──『五感強化』
普段からほぼ自動で発動している個性の一つに、意識を集中する。
途端に、世界から入ってくる情報量が跳ね上がった。
耳へ届いていた音が細分化される。
庭で鳴る怒号。盾と鉄パイプがぶつかる甲高い音。誰かが壁へ叩きつけられる鈍い衝撃。ヒーローの個性によるものらしい爆発音。その向こうではパトカーのサイレンが鳴り続け、さらに上空からは報道ヘリのローター音まで聞こえてくる。
あまりにも騒がしい。
「……壊理ちゃん」
意識して探す。
壊理の小さな声でも、軽い足音でも、泣き声でもいい。何か一つ拾えれば方向を絞れるはずだった。
しかし。
──ドォン!
庭から大きな破砕音が響いた。
「うるさっ……」
出久が僅かに顔をしかめる。
強化された聴覚にとって、今の庭は最悪だった。
何十人もの人間が同時に叫び、走り、戦っている。
その音が壁や廊下を伝って屋敷中へ反響し、細かな物音をことごとく押し潰していた。
「耳郎さんみたいな聴力特化だったらな……」
かつてのクラスメイトを思い出すが、意味のない事だ。
出久は鼻からゆっくりと息を吸い込み、今度は嗅覚へ意識を集中させた。
焦げた木材と燃料、舞い上がった埃、畳、人間の汗、それに微かな血の臭い。
普段なら一つ一つを嗅ぎ分けられるほど鋭敏な嗅覚も、今は屋敷の内外から流れ込んでくる臭気が多すぎて役に立たない。
壊理の匂いを覚えていないわけではなかった。
ホテルでは何日も一緒に過ごした。抱き上げたこともある。
だから近くにいれば分かるはずなのだが、八斎會の構成員が慌ただしく行き来した屋敷には無数の人間の臭いが残り、そこへ先ほどの爆発による煙まで混ざっている。
「……駄目か」
視覚にも意識を向け、廊下を見渡す。
床についた靴跡、擦れた壁、埃の乱れ。何かを引きずった痕跡や、壊理が通ったと分かるものがないか探してみるが、こちらも同じだった。
外の騒ぎに対応するため大勢の組員が走り回ったせいで、廊下には新しい靴跡がいくつも重なっている。
まして壊理はクロノスタシスに袋へ入れられて運ばれている。本人の足跡が残っている可能性は低い。
「……仕方ない」
出久は顔を上げた。
正面には廊下が続き、少し先で左右へ分岐している。
途中にはいくつもの扉が並んでおり、その先にも同じような構造が続いているらしい。
本当なら五感強化で位置を絞りたかった。
しかし、できないなら方法は一つしかない。
「しらみ潰しに探そう」
時間はかかる。
それでも、壊理を見つけないまま帰るという選択肢はなかった。
まずは目につく部屋を片端から確認し、何もなければ次の区画へ進む。
八斎會の構成員を見つけたら場所を聞き出してもいい。地下への入口らしきものがあれば最優先で確認する。
方針を決めた出久は、右手にある最初の扉へ向かおうとした。
その時だった。
──タン。
足が止まった。
「……?」
出久の耳が僅かに動く。
庭では相変わらず戦闘が続いている。
怒号、衝撃音、サイレン、何かが砕ける音。それらが幾重にも重なり、屋敷全体を震わせていた。
その中に。
──タン、タン。
軽い足音が混じっていた。
出久は動かなかった。
強化された聴覚が、無意識のうちにその音だけを拾い上げていく。
床を踏む時間が短く、着地してから次の一歩へ移るまでが異様に速い。
廊下を走っているはずなのに足運びに無駄がなく、まるで地面を蹴るたび身体が前へ弾かれているようだった。
「……参ったな」
出久の顔から表情が消えた。
──タンッ。
近づいてくる。
出久は前を向いたまま固まった。
額から一筋、汗が流れる。
「……いやいや」
聞き間違いであってほしかったが、五感強化は残酷なほど正確にその足音を拾っていた。
──タンッ、タンッ。
軽く、速い。
それでいて一歩ごとに床板へ伝わる力が妙に大きい。
あの独特な走り方を、出久は知っている。
忘れるはずがない。
「……この辺、あの人の管轄じゃないはずなのに」
冷や汗が一気に噴き出した。
庭から追ってきたヒーローなら、まだ他にいくらでも候補があったはずだ。
よりにもよって。
よりにもよって、この足音。
出久の後ろで、足音が止まった。
静かになったことで、逆に存在感が増したように感じられた。
出久は振り返らない。
振り返りたくない。
五感強化によって背後に人間がいることは分かっている。
それどころか呼吸の間隔や、僅かな衣擦れまで聞こえてしまう。
逃げるか。
そんな考えが頭を過ぎる。
だが、相手が予想通りなら背中を向けて走るのは悪手もいいところだった。
「──おいコラ、骨野郎」
「…………」
聞き間違いであってほしかった声が、背後からはっきりと聞こえた。
出久は目を閉じた。
五感強化など使わなくても分かる距離から、明確に自分へ向けて声をかけられている。
「聞こえてんだろ。いつまで背中向けてやがる」
「……はい」
出久は観念した。
ゆっくりと振り返る。
そこにいたのは、予想通りの人物だった。
褐色の肌に、鍛え抜かれた長身。
白いレオタード型のコスチュームから伸びる脚は人間離れした筋肉に覆われ、頭上には特徴的な長い兎耳が立っている。
ラビットヒーロー。
ミルコ。
国内トップクラスのプロヒーローが、十メートルほど離れた廊下の中央に立っていた。
「…………」
出久は背筋を反射的に伸ばしかけ、慌てて止める。
危ない。
もう少しで直立して頭を下げるところだった。
かつて職場体験で世話になった相手を前にして、身体に染みついた習慣が勝手に出ようとしている。
今の自分はヒーロー科の生徒ではない、全国指名手配中のヴィランである。
対するミルコは、自分を捕まえるために突入してきたプロヒーローだ。
ここで「お久しぶりです!」などと元気よく頭を下げるのは、いくらなんでもおかしい。
出久は中途半端に伸びた背筋をどうにか元へ戻し、できるだけ平静を装った。
「……ご無沙汰してます」
「ああ」
ミルコはあっさり返した。
ただし、再会を懐かしむような声音ではなかった。
ぴくり、と長い耳が動く。
そして──タン、タン、と。
ミルコはその場で床を軽く踏み鳴らした。
強く踏み込んでいるわけでもないのに、一歩ごとに古い床板が低く軋む。
苛立ちを隠す気など最初からないらしく、腕を組んだまま出久を睨みつけ、その額にはうっすらと青筋まで浮かんでいた。
「……あの」
「神野の件、ニュースで見たぜ」
出久が何か言うより先に、ミルコが切り出した。
その言葉に、出久の表情がわずかに固まる。
「……はい」
「随分派手にやったみてえじゃねえか。街ぶっ壊して、ヒーローと殴り合って、挙げ句に全国指名手配か」
「それについては……まあ……」
出久は言葉を濁した。
説明しようと思えば、いくらでもできる。
神野で何があったのか。
どうして自分があの場所にいたのか。
なぜ今、敵連合と行動を共にしているのか。
だが、それを一から説明して納得してもらえる状況ではない。
何より、目の前のミルコが聞きたいのはそんな事情ではないらしかった。
「気に入らねえことなら山ほどある」
タン。
一歩。
「雄英辞めたことも」
タン。
また一歩。
「ヴィラン側についてることも」
さらに距離が縮まる。
「今こうしてヤクザの屋敷に車で突っ込んで、外を戦場にしてることもだ」
「けどな」
ミルコのこめかみに、くっきりと青筋が浮かんだ。
「その中でも一番ムカついたのは──」
「……」
出久は一歩、後ろへ下がった。
完全に反射だった。
白い鱗に覆われ、人間だった頃とは比較にならない巨体を得た今の出久が、目の前の女性一人を相手に後退する。
自分でも情けないとは思う。
だが、身体が勝手に動いた。
「あのAFOとかいう──」
声が一段低くなる。
「キンタマ野郎が、テメェの師匠ってことになってたことだ!!」
「えっ」
出久には、それしか言えなかった。
床が爆ぜた。
──バンッ!!
ミルコの姿が消える。
個性『五感強化』によって常人を遥かに上回る動体視力を持つ出久でさえ、一瞬遅れた。
見えたのは、踏み込みによって床板が沈み込む瞬間だけ。
次にはもう、ミルコが目の前にいた。
「ちょ──」
出久が腕を上げるより早い。
身体を捻る。
鍛え抜かれた下半身のすべてが一つの動作へ連動し、脚が鞭のように振り抜かれる。
ハイキック。
狙いは、真正面。
出久の頭だった。
──ゴッ!!
「ぐっ!?」
爪先が脳天を捉えた。
白い鱗と骨質の装甲に覆われてなお、その衝撃は完全には殺せない。
出久の巨体が横へ吹き飛んだ。
数百キロはあろう身体が、まるで重量を失ったかのように廊下を横切る。
──ドガァン!!
壁へ激突した。
木製の柱が折れ、土壁がまとめて砕ける。
出久の背中を中心に大きな亀裂が走り、そのまま身体の半分ほどが壁へめり込んだ。
天井から埃が降り注ぐ。
「いっ……!」
視界が一瞬白く染まった。
脳が頭蓋の中で揺さぶられたような感覚。
出久は壁へ埋まったまま、何度か目を瞬かせる。
痛みそのものは耐えられる。骨が折れた感覚もないし、頭蓋を覆う鱗と骨質の装甲も無事だ。
それでも、真正面から脳天へ叩き込まれた衝撃までは消せず、頭の奥がじんじんと痺れていた。
砕けた土壁から身体を引き抜こうとした、その時。
「寝てんじゃねえぞ、骨野郎」
廊下の向こうでミルコが首を鳴らした。
先ほどまで浮かべていた怒気は消えていない。
むしろ一発蹴り飛ばしたことで、ようやく身体が温まったとでも言いたげだった。
「テメェがどんな事情でヴィランになったか知らねえし、今さら説教して戻るとも思ってねえ。だが──」
ミルコがゆっくりと歩き出す。
タン、と床を踏むたび、兎耳が小さく揺れた。
「昔ちょっとでも面倒見たガキが、あんなクソ野郎を師匠扱いしてんのは気に食わねえ」
「だから、それは──」
「うるせえ」
ばっさり切られる。
ミルコは肩を回しながら距離を詰めてきた。
「根性、叩き直してやるよ」
「……」
出久は数秒だけ黙った。
話し合いは無理だ。
そもそもミルコ相手に言葉でどうにかしようと考えた時点で間違っていた気もする。
昔から彼女は、納得できないことがあればまず自分の脚で確かめる人間だった。
出久は壁に片手をついた。
「それ、逃がしてくれる気は──」
「ねえ」
「ですよね」
返事を聞く前から分かっていた。
出久は壁から身体を引き抜き、崩れ落ちる土壁を肩で押し退けながら立ち上がった。
二メートルを優に超える白い巨体が廊下を塞ぎ、踏み出した足の下で古い床板が軋む。
白い鱗の下で、筋肉が蠢く。
個性──『筋骨発条化』。
脚部の筋繊維が異様な密度で収縮し、骨格そのものがしなやかな発条のように撓んだ。
膝を落とし、腰を沈め、全身を圧縮する。
ミシッ、と床が鳴る。
筋肉と骨に蓄えられていく反動が、限界近くまで膨れ上がった。
ミルコの目がわずかに細くなる。
「来いよ、それがお前の今の最大威力か?」
次の瞬間、蓄積した力を一気に解放した。
──バァン!!
出久の足元が爆ぜた。
床板がまとめて砕け、その巨体が砲弾のように廊下を駆け抜ける。
「っ!」
単純な突進。
だが速度も質量も尋常ではない。
白い巨体が空気を押し退け、廊下の襖が風圧だけで次々と外れた。
普通の人間なら正面から掠っただけで背骨が砕け散る。
出久は両腕を前へ出した。
捕まえればいい。
一瞬でも動きを止め、そのまま壁を突き破って外へ押し出す。倒す必要はない。
壊理を探す時間さえ作れれば十分だった。
「遅ぇ!」
ミルコの姿が、出久の正面から消えた。
「──っ!?」
真正面にいたはずだった。
しかし接触の直前、ミルコは右足を床へ突き刺すように踏み込み、その反動だけで真横へ跳んでいた。
白い巨体がミルコの鼻先を通過する。
「しまっ──」
止まれない。
筋骨発条化で得た加速が大きすぎた。
出久は慌てて足を踏み込み、床を削りながら身体を捻る。
畳と床板がめくれ、廊下へ長い爪痕のような跡が走った。
その瞬間。
五感強化が背後の気配を捉えた。
「──!」
出久が顔を上げる。
ミルコは跳んでいた。
天井すれすれまで身体を持ち上げ、空中で大きく腰を捻る。
右脚が高く掲げられる。
その動きを、出久は知っていた。
職場体験で何度も見た。
実戦でも目の当たりにした。
「ちょっと待──」
「待つかよ!」
ミルコの脚が振り下ろされる。
単なる踵落としではない。
跳躍で得た落下速度。
腰の回転。
兎の脚力。
その全てを一点へ集中させる、ミルコの必殺技。
「
──ドゴォォォン!!
踵が出久の頭頂部へ叩き込まれた。
「がっ──!」
衝撃が頭から背骨へ突き抜ける。
筋骨発条化で張り詰めていた脚が耐えきれず折れ曲がり、出久の膝が床へ落ちた。
それでも終わらない。
ミルコは身体ごと出久を押し潰すように蹴り抜いた。
──バキバキバキッ!!
床が陥没する。
出久の巨体が床板を突き破り、その下の梁までまとめてへし折った。
一階の床を突き破っても落下は止まらなかった。
床下には想像以上に深い空間があり、そのさらに下を塞いでいたコンクリート天井まで出久の巨体が突き破る。
「うわっ──!」
視界が一瞬、暗闇に包まれた。
木材と埃、それにコンクリート片まで混ざって落ちてくる。
出久は咄嗟に両腕で頭を庇ったが、落下そのものを止める余裕はなかった。
──ズガァァン!!
背中から硬い床へ叩きつけられる。
「ぐっ……!」
今度の床は抜けなかった。
コンクリートだった。
鈍い衝撃が背中から胸へ抜け、肺の空気が一気に押し出される。
床面には大きな亀裂が走り、出久の巨体を中心に細かな破片が跳ねた。
数秒、息ができなかった。
「っ……は……」
ようやく空気を吸い込みながら、出久は仰向けのまま目を開く。
暗い。
先ほどまでの木造家屋とは明らかに雰囲気が違っていた。
頭上には自分が落ちてきた大穴が開き、その向こうに一階の照明が見えている。
そこから差し込む僅かな光と、壁際に等間隔で設置された古びた蛍光灯だけが地下を照らしていた。
蛍光灯は半分ほどしか点いていない。
青白い光がちらつくたび、細長い通路が闇の奥へ浮かび上がる。
「……地下?」
出久は片肘をつき、辺りを見回した。
壁は打ちっぱなしのコンクリート。
床も同じ。
上階の和風建築とはまるで繋がらない、無機質な造りだった。
通路の左右には金属製の扉が並び、そのいくつかには電子錠らしき装置まで取り付けられている。
「こんなの、上からじゃ分からないはずだ……」
地下全体が後から増設されたのかもしれない。
出久がそこまで考えた時、頭上から小さく砂埃が落ちてきた。
──タンッ。
人影が穴から飛び降りてくる。
十数メートル近い高さがあるにもかかわらず、着地音は驚くほど軽かった。
両脚を曲げて衝撃を殺し、ほとんど姿勢を崩すことなく立ち上がる。
ミルコだ。
「逃げんなよ、骨野郎」
「逃げたわけじゃないですよ……蹴り落としたのミルコじゃないですか」
出久は頭を押さえながら起き上がった。
とはいえ、完全に立ち上がるまでには少し時間が掛かった。
さすがに二発続けて頭を狙われたのは効いている。
頭蓋そのものに損傷はなくても、中身を揺らされる感覚までは防げない
ミルコはそんな出久の様子を値踏みするように眺めてから、鼻で笑った。
「図体でかくなって、気も大きくなったみてぇだがよ」
「……」
「正直言って」
ミルコが一歩、近づく。
「今のお前じゃ、トップヒーロー相手には逆立ちしたって勝てねえ。何でか分かるか?」
「……経験の差、ですか?」
出久は頭を押さえたまま答えた。
それが一番分かりやすい理由に思えた。
ミルコは自分より遥かに長く実戦へ身を置き、数え切れないほどのヴィランと戦ってきたトップヒーローだ。攻撃を仕掛ける間合いも、相手の動きを読む能力も、危険を察知して身体を動かす反射も、その積み重ねによって磨かれている。
先ほどの攻防を思い返しても、出久の突進そのものは遅くなかったはずだった。
それでもミルコは直前まで引きつけて難なく回避し、そのまま反撃へ繋げている。
だからこそ出た答えだったのだが、ミルコは少しだけ眉を上げた。
「惜しいな、正確に言うなら──個性への理解度の差だ」
ミルコは腰へ手を当て、青白い蛍光灯の下で出久を見上げた。
「経験も技術も大事だ。実戦に出りゃ嫌でも身につくもんはあるし、修羅場くぐった数だけ動きも洗練される。けど、それだけじゃトップまでは行けねえ」
ミルコは右脚を軽く上げると、足首を回した。
「骨野郎。お前、個性伸ばし何か月サボってる?」
「……」
出久が黙る。
「だろうな」
呆れたように鼻を鳴らされた。
出久は目を逸らした。
雄英にいた頃は、毎日のように個性の訓練をしていた。授業だけではない。
筋力トレーニング、持久力強化、出力調整、発動時間の計測。
少しでも使い方を改善できそうならノートへ書き込み、翌日には試していた。
だが雄英を離れてからは事情が変わった。
実戦には出ている。むしろ以前より遥かに多い。
戦う回数だけなら、学生時代とは比較にならない。
それゆえ出久自身、感覚としては「使い続けている」と認識していた。
しかし、ミルコが言っているのはそういうことではなかった。
「個性は身体機能の延長だ」
ミルコが自分の太腿を軽く叩く。
「腕動かすのと同じ。走るのと同じ。使えば勝手に完成するようなもんじゃねえ。限界超えて、工夫して、努力して、理解する。その上で身体に叩き込むのが、個性伸ばしだ」
出久は黙って聞いていた。
「実戦積んでりゃ強くなる? んなわけあるか。実戦だけやってトレーニングをサボってりゃ、どんどん鈍っていく」
ミルコは出久を見上げたまま、しばらく黙っていた。
先ほどまでの苛立ちとは少し違う。戦う相手を見る目ではなく、職場体験の頃、出久の癖を観察していた頃のそれに近かった。
「で、さっき突進する時に使ってた個性、あれは何てやつなんだ?」
出久は一瞬だけ目を瞬かせた。
「『筋骨発条化』って個性です」
「筋骨……発条化?」
「はい。筋肉と骨格をバネみたいに変化させて、縮めた分だけ反動を蓄えられます。さっきみたいに脚へ溜めれば瞬間的な加速に使えますし、腕に使えば打撃の威力も上げられます」
「なるほどな」
ミルコは顎へ手を添えた。
ミルコは胡散臭そうに眉を寄せたものの、それ以上は追及せず、今度は出久の全身へ視線を巡らせる。
二メートルを優に超える巨体。
白い鱗に覆われた腕と胸部。その隙間から覗く筋肉も、かつて彼女の元へ職場体験に来ていた頃とは比べものにならないほど膨れ上がっている。
「じゃあ、そっちは?」
ミルコが出久の腕を指差した。
「デカくなったのも別の個性か?」
「これは『剛躯』という個性で、効果はその名の通りですね」
「面倒くせえ身体してんな、お前」
「はい……」
素直に同意すると、ミルコは少しだけ呆れた顔をした。
それから一歩近づき、出久の前腕を眺める。
「この白いのも個性なんだろ?」
「はい」
「鱗……にしちゃ妙だな」
ミルコは目を細めた。
出久の腕を覆う白い装甲は、魚や爬虫類の鱗のように一枚一枚が薄く重なっているわけではない。厚く硬質で、場所によっては互いに噛み合うように連結している。
肘や肩の周辺には鋭い突起まで伸び、むしろ生体装甲と呼んだ方が近い形状だった。
「『槍骨』と『スケイルメイル』という個性を組み合わせています。骨の鱗……って感じですね」
ミルコは「骨の鱗」という言葉を聞くと、出久の腕から肩、胸部へと改めて視線を走らせた。
「個性を何個も何個もねえ……」
ミルコはしばらく考え込むように黙ったあと、ふと出久の顔を見上げた。
「その鱗も骨なら、発条化の範疇だったりするんじゃねえのか?」
「……え?」
あまりにも何気ない口調だった。
だからこそ、出久はすぐには意味を理解できなかった。
筋骨発条化は、筋肉と骨格を発条のように変質させる個性だ。
これまで出久が使ってきた対象は、あくまで自分の身体を支える筋肉と骨──腕、脚、脊柱、肩周りといった内部組織に限られている。
だが、槍骨によって形成された外骨格もまた、自分自身の骨組織から作られている。
「……あ」
声が漏れた。
ミルコが眉を上げる。
出久は自分の右腕へ視線を落とした。
白い鱗。
皮膚の表面を覆う、何枚もの硬質な骨板。
これまでずっと、防具としてしか見ていなかった。
攻撃を受け止めるためのもの。
刃や弾丸から身を守るための装甲であり、槍骨を組み合わせればその一部を突出させて攻撃にも転用できる。
しかし、骨であることに変わりはない。
「……筋骨発条化って、別に体内の骨だけを対象にする個性じゃ……」
出久の声が次第に小さくなる。
そんな制限を確認したことがあっただろうか。
使い始めた時から「筋肉と骨をバネにする個性」と認識し、人体の骨格へ使うことしか考えていなかった。それが最も自然で、最も分かりやすかったからだ。
だが、今の自分には人間だった頃には存在しなかった骨がある。
身体の外側へ形成された骨の鱗。
出久は右腕を持ち上げ、鱗の一枚へ意識を集中した。
筋骨発条化。
普段なら内部へ向けて流す感覚を、今度は外へ──皮膚を越え、その表面を覆っている骨板へ伸ばしてみる。
「……」
微かに。
本当に微かにだが。
白い鱗が軋んだ。
硬いはずの骨板が、ほんの僅かに撓んだような気がした。
「……あ」
もう一度、同じ声が漏れた。
今度は先ほどとは違った。
頭の中で何かが繋がった。
今まで別々に並んでいた情報が、一つの線で結ばれていく。
槍骨で骨を作る。
スケイルメイルで、それを鱗状の外骨格として配置する。
その骨に筋骨発条化を適用する。
もし外骨格そのものを発条へ変えられるなら、どうなる。
出久の緑色の瞳が大きく見開かれた。
防御だけではない。
肘や肩から伸びる槍骨を発条化できれば、突き出す速度そのものを上げられる。
脚部の鱗まで連動させれば、内部の骨格だけを発条化するより遥かに大きな反発力を得られるかもしれない。
あるいは全身の外骨格を一度に圧縮できれば──。
「これ……もしかして」
ぞくり、とした。
恐怖ではない。
かつて新しい個性の使い方を思いついた時、何度も味わった感覚だった。
頭の中で可能性が次々と枝分かれしていく。
どうして今まで気づかなかったのか。
個性が増えすぎたせいで、一つ一つを独立した能力として整理することに慣れすぎていた。
筋骨発条化は加速用。
槍骨は攻撃用。
スケイルメイルは防御用。
無意識のうちに役割を決め、それぞれを別の道具として扱っていた。
だが全部、自分の身体だ。
「ミルコ、これ──」
「おし!」
「え?」
出久が顔を上げる。
ミルコは満足そうに笑っていた。
「分かったみてえだな」
「はい。たぶんですけど、これなら──」
「じゃあ座学はしまいだ」
「……はい?」
嫌な予感がした。
ミルコが一歩下がり、腰を落とす。
長い兎耳が、ぴんと立った。
「ちょっと待ってください!」
出久の顔が引きつる。
「今、かなり重要なところで──」
「だからだよ」
ミルコが獰猛に笑った。
「思いついたなら試せ」
「ここで!?」
「実戦が一番手っ取り早ぇ!」
「さっき実戦だけじゃ駄目って言ってたじゃないですか!」
「トレーニングと実戦は別腹だ!」
「理屈が!」
最後まで言えなかった。
ミルコの姿が沈む。
「そもそも!」
次の瞬間には、地下通路のコンクリート床が弾けた。
「あたしはお前を捕まえに来たんだぜ!」
──バンッ!!
「うわっ!」
今度は出久も五感強化で最初から動きを追っていた。
蹴りが来る。
「っ!」
出久は両腕を顔の前へ構えた。
白い鱗が密集し、前腕を覆う骨板がさらに厚くなる。
その表面へ、筋骨発条化を流す。
今までなら絶対に意識しなかった場所へ。
「動け……!」
骨の鱗が軋み、僅かに撓む。
そこへ、ミルコの右脚が叩き込まれた。
──ドゴッ!!
「ぐっ!」
凄まじい衝撃だった。
出久の巨体が後方へ滑り、両脚がコンクリートを削る。
だが──吹き飛ばされなかった。
「……!」
出久自身が一番驚いた。
前腕へ叩き込まれた衝撃が、いつもと違う。
鱗で受け止めたところまではいつもと同じだったが、今回は衝撃が消えていない。
撓んだ骨板の内部に、圧縮された発条のような力が確かに残っていた。
「お」
ミルコの口角が上がった。
「できてんじゃねえか」
「これ……!」
出久は腕を見る暇もなく、反射的に右拳を握った。
前腕の骨板に溜まっている力を、どうすればいい。
考えるより先に、身体が答えを出した。
解放する。
──バンッ!!
白い鱗が一斉に元の形へ戻った。
その反動が腕全体へ伝わり、出久の右拳が弾かれるように前へ出る。
「うおっ!?」
自分でも予想していなかった速度だった。
拳がミルコへ迫る。
「甘ぇ!」
ミルコは笑った。
頭を僅かに傾けるだけで拳を躱し、そのまま出久の懐へ潜り込む。
「発想は悪くねえ!」
左脚が跳ね上がった。
「ちょ──」
──ゴッ!!
蹴りが出久の顎を真正面から打ち抜いた。
白い巨体がその場で浮き上がる。
「がっ!?」
「ほら次!」
着地するより先にミルコが追ってくる。
出久は必死に両腕を構えながら、今しがた初めて成功したばかりの感覚をもう一度探した。
次の蹴りが迫る中、出久の思考は久しく忘れていた速度で回り始めていた。
どう受ける。どこへ流す。何と組み合わせる。
──雄英にいた頃のように、ただ個性の可能性だけを追いかけながら。