ミルコの左脚が、ほとんど間を置かずに飛んできた。
出久は反射的に両腕を交差させる。
前腕を覆う白い鱗へ意識を集中し、先ほど掴んだばかりの感覚を逃さないよう、筋骨発条化を外骨格へ流し込んだ。
硬質な骨板が微かに撓む。
直後、蹴りが叩き込まれた。
──ドゴッ!!
「ぐっ……!」
両腕ごと上半身を持っていかれ、出久の巨体がコンクリート床を数メートル滑った。
足裏が床面を削り、細かな破片が左右へ跳ねる。
だが、倒れない。
前腕に走った衝撃は鱗を砕くことなく、その内部へ押し込まれていた。
発条化した骨板が限界まで撓み、元へ戻ろうとする力を抱え込んでいる。
「……まだ!」
出久は歯を食いしばり、反発を解放しようとする。
しかし、それより早くミルコが踏み込んだ。
「一発受けただけで考え込んでんじゃねえ!」
低い姿勢から右脚が跳ね上がる。
今度は脇腹。
出久は腕を戻す余裕がないと判断し、身体を捻った。腰から脇腹へかけて並ぶ白い骨鱗を意識し、そこへ筋骨発条化を流し込む。
間に合え。
そう念じた瞬間、鱗の感触が変わった。
硬いだけだった装甲が、ほんの僅かにしなる。
──バゴンッ!!
「うっ……!」
ミルコの脛が脇腹へ食い込んだ。
まともに受ければ身体ごと横へ吹き飛ばされる威力だったが、今回は違った。
鱗が衝撃に合わせて沈み込み、力の一部を受け止める。
それでも完全には殺せない。
出久は数歩よろめいたものの、どうにか踏みとどまった。
「おっ」
ミルコの目が光る。
「今のはさっきよりマシじゃねえか」
その言葉を褒め言葉として受け取る余裕はなかった。
出久は脇腹に残る鈍い衝撃を確かめながら、すぐに後ろへ跳んだ。
脚部の骨格へ筋骨発条化を掛け、溜め込んだ反発を小さく解放する。
全力で踏み込めばまた直線的な動きになる。今度は距離を取ることだけを目的に、最低限の出力で床を蹴った。
白い巨体が一気に数メートル後退し、ミルコとの間にようやく間合いが生まれる。
「はっ……!」
息を吐きながら構え直す。
ミルコは追ってこなかった。
少し離れたところで腰を落とし、楽しそうにこちらを見ている。
あえて考える時間を与えているのか、それとも単に次の動きを観察しているのか。
どちらにせよ、出久にとってはありがたかった。
右腕を確認する。
前腕を覆う骨鱗は割れていない。脇腹の鱗も同様だった。
発条化そのものは、間違いなく機能している。
むしろ想像していた以上だった。
これまで硬さだけで衝撃を受け止めていた骨鱗が、発条化によって変形を許容するようになったことで、単純な防御性能は明らかに上がっている。
さらに、受け止めた力の一部を保存して別の動作へ繋げられる可能性まである。
方向性が正しいことは、理屈ではなく身体の感覚として分かった。
「……でも」
出久はミルコから目を逸らさないまま、小さく呟いた。
使えていない。
正確には、使うのが間に合わない。
攻撃を五感強化で認識し、狙われた場所を判断してから、そこへ意識を集中させて筋骨発条化を適用する。
ここまでの工程を踏んで、ようやく防御が成立する。
「チッ、頭でっかちめ」
ミルコの肩がわずかに沈んだ。
右へ来る。
出久は蹴りが放たれるより先に前腕の骨鱗へ筋骨発条化を流し込み、硬質な骨板をわずかに撓ませた。
直後、予想した通りの軌道で右脚が飛んでくる。
──パァン!
「っ!」
衝撃は軽かった。
これまで巨体をまとめて吹き飛ばしてきた蹴りとは違い、表面を叩く程度の威力しかない。
発条化した鱗はほとんど余裕を残したまま衝撃を受け止め、その反発力を内部へ蓄えた。
読めた。
そう確信した直後、今度は反対側から左脚が飛んできた。
出久は首を傾けて頬を狙った蹴りを避ける。
ところがミルコは空振りした脚を大きく引き戻さず、その着地と同時に軸を入れ替え、右の爪先を出久の脇腹へ叩き込んできた。
──パンッ!
「くっ……!」
さらに腿、肩、胸と狙いが移る。
ミルコは一撃で倒そうとしていなかった。
腰を大きく回すことも、跳躍することもなく、短い踏み込みと細かな重心移動だけで左右の脚を絶え間なく送り込んでくる。
その様子は蹴りというより、ボクサーが距離を測りながら繰り出すジャブに近い。
威力そのものは耐えられる。
問題は、その速さだった。
出久は五感強化でミルコの肩や腰、軸足の変化を拾い、次に狙われる場所を予測しては骨鱗へ発条化を掛けていった。
先ほどまで攻撃を見てから対応していた時とは違い、何度かは蹴りが届く前に防御を完成させることができている。
確実に進歩している。
そのはずなのに、ミルコの表情は険しくなる一方だった。
「まだ頭が凝り固まってんのか!?」
「えっ!?」
怒鳴り声と同時に三発の蹴りが飛んできた。
肩への一撃は受けられたが、続く脇腹への蹴りには発条化が間に合わず、最後のローキックで巨体が僅かによろめく。
出久はすぐに姿勢を戻したものの、何を指摘されたのか分からなかった。
「いや、でも今のはさっきより──」
「鱗を発条にできた、攻撃も少し読めるようになった。だから何だ!」
ミルコは答えを待たず、また左右の蹴りを繰り出した。
出久は反射的に両腕を動かしながら受ける。
前腕を撓ませ、肩を守り、次に腹部へ発条化を移す。その一連の対応を見ながら、ミルコは苛立ったように舌打ちした。
「お前、さっきから新しい使い方を覚えたくせに、やってることは何も変わってねえじゃねえか!」
「何もって……!」
「攻撃が来たら鱗で守る。隙ができたらそのデカい身体で殴る。距離が開いたら発条で突っ込む。ずっとそればっかりだろうが!」
言われて、出久は一瞬だけ言葉に詰まった。
確かにそうだった。
筋骨発条化を骨鱗へ適用するという新しい発想を得た。
しかし、その用途として最初に考えたのは防御性能の向上であり、そこから蓄えた力を拳へ回すことだった。
結局、既存の戦い方を強化したにすぎない。
だが、それの何が悪いのか。
「この身体なら、それが一番──」
「そこだよ!」
ミルコの蹴りが前腕へぶつかり、発条化した鱗が大きく撓んだ。
「そのバケモンみたいな姿は、お前が個性併用のために生み出した形態なんだろ!」
出久は蹴りの衝撃を受け流しながら後退する。
「いつまでそのバケモンに拘ってやがる!?」
「……何を言って」
「身体デカくして、骨を鎧にして、イカつくなって。それを維持したまま全部の個性を使おうとしてる。何でだ?」
ミルコは攻撃を続けながら問いかける。
出久には、その質問の意味がすぐには理解できなかった。
「何でって……この方が強いからですよ!」
「本当にそうか?」
「少なくとも普通の身体よりは!」
「じゃあ聞くが、その図体のせいであたしの蹴りについていけてねえのはどうする?」
「それは僕の練度が──」
「何でも練度のせいにすんな!」
鋭い横蹴りを、出久は両腕で受け止めた。
鱗が撓み、衝撃を吸収する。
今の防御は上手くいった。発条化のタイミングも悪くない。
それでもミルコは納得しなかった。
「デカけりゃ重くなる。重けりゃ小回りは利かなくなる。鎧を厚くすりゃ守りは固くなるが、その分動きは鈍る。そんな当たり前のこと、お前なら分かってんだろ!」
「でも、その欠点を他の個性で補えば──」
「補えてんのか!? 実際によお!」
今の姿は『剛躯』によって基礎となる肉体を大型化し、その上へ『槍骨』と『スケイルメイル』による外骨格を形成することで成立している。
そこへ『五感強化』や『筋骨発条化』を重ね、複数の個性を同時に運用する。
これは現時点での、最高効率の戦い方のはずだった。
「ほら、また考え込んだ!」
ミルコが一気に間合いを詰める。
出久は咄嗟に腕を上げたが、ミルコはその防御を見て途中で軌道を変えた。
蹴りは腕ではなく膝の外側へ入り、巨体の重心が崩れる。
「ぐっ……!」
「個性が十個あったら十個全部使わなきゃ損か!?」
反対側から腹部へ一撃。
「百個あったら百個か!?」
「そんなことは──!」
「あたしは一つで、お前より強い! たとえ百個あったとしても、お前より強くなれる自信がある!」
ミルコの足が床を踏み抜くほど強く沈んだ。
今までの軽い蹴りとは違う。
出久は五感強化で踏み込みを捉え、両腕を交差させた。
同時に前腕だけでなく、胸部や肩まで含めた広い範囲の骨鱗を発条化させる。
受け止められる。
先ほどより上手く使えている。
だからこそ、真正面から防御を選んだ。
「なんでか分かるか、骨野郎」
ミルコが腰を捻る。
右脚が振り抜かれた。
──ドゴォォン!!
「がっ……!」
発条化した鱗が一斉に沈み込んだ。
衝撃の一部は確かに吸収できた。
それでも完全に受け止められる威力ではなく、両腕が胸元まで押し込まれ、そのまま出久の巨体が床から浮き上がる。
数百キロの身体が地下通路を吹き飛んだ。
背中から床へ落ち、一度大きく跳ねてからコンクリートの上を滑っていく。
骨鱗が床を削る耳障りな音が長く続き、数十メートル近く離れたところでようやく止まった。
「っ……痛……」
出久は呻きながら片腕を床についた。
身体そのものには大きな損傷はない。
だが、ミルコの言葉が妙に頭へ残っていた。
ゆっくり顔を上げる。
ミルコは追撃してこなかった。
通路の向こうに立ち、こちらを見ている。
先ほどまであれほど激しく蹴りを浴びせていたというのに、構えさえ解いていた。
「……骨野郎」
呼びかける声も、それまでとは少し違っていた。
「その姿が悪いって言ってんじゃねえぞ。頑丈だし、力もある。相手をビビらせるにも便利だろうよ」
ミルコはそこで一度言葉を切り、白い異形となった出久を改めて眺めた。
「けど、それは手段だろ」
「……」
「お前が自分で作った戦うための形だ。だったら状況に合わせて変えりゃいいし、いらねえなら捨てりゃいい。それなのに、お前は最初から最後までその姿を守ることを前提にしてやがる」
出久は自分の腕へ目を落とした。
分厚い前腕。
何層にも重なる白い骨鱗。
指先から伸びる爪。
肩から突き出した骨。
かつての自分とは似ても似つかない怪物がそこにいた。
「僕は……この方が強いから……」
「だから、それを誰が決めたんだよ」
出久は答えられなかった。
理屈なら説明できる。
剛躯による筋力と耐久力の上昇率も、スケイルメイルによる防御力も、槍骨との併用による攻撃性能も分かっている。
総合的な戦闘能力だけを見れば、今の方が遥かに高い。
けれど、ミルコが聞いているのは数値の話ではない。
なぜ、この姿でなければならないと思っているのか。
そこを問われている。
ミルコはしばらく何も言わなかった。
やがて、その表情から苛立ちが薄れていく。
「お前のオリジンは、そんなバケモンなのか?」
「……え?」
出久の目が僅かに見開かれた。
オリジン。
久しく意識していなかった言葉だった。
「別に見た目の話をしてるわけじゃねえ。異形型なんざ世の中いくらでもいるし、強くなるために身体変える個性だって珍しくねえ。あたしが言ってんのは、お前がその姿に何を求めてるかだ」
ミルコは数歩だけ近づいた。
もう戦うための歩き方ではない。
「お前、自分は恐ろしい怪物じゃなきゃいけねえって、どっかで思い込んでるんじゃねえのか?」
「そんなこと……」
反射的に否定しかけた声が途中で止まった。
ミルコはそれを追及しなかった。
ただ出久を見ていた。
怒っているようには見えなかった。普段なら獲物を前にしたように吊り上がっている口元も、今は僅かに下がっている。
出久には、その表情が少しだけ悲しそうに見えた。
「怖がられなきゃならねえ。舐められちゃならねえ。傷つけられねえくらい頑丈じゃなきゃならねえ。誰にも負けねえくらい強くなきゃならねえ……そんなことばっか考えて、この姿を作ったんじゃねえのか?」
出久は何も言えなかった。
否定したいのに、思い当たることが多すぎた。
より大きく。
より頑丈に。
より恐ろしく。
敵が自分を見ただけで警戒するように。近づくことを躊躇するように。簡単には傷つけられない存在になるように。
それらはすべて、必要だから選んだはずだった。
しかし、いつから必要になったのか。
何のために必要だったのか。
そこまで遡ろうとすると、胸の奥に妙な息苦しさが生まれた。
ミルコはそんな出久を見つめたまま、静かに問いかけた。
「なあ、緑谷」
骨野郎ではなかった。
その呼び方だけで、出久は顔を上げた。
「お前は何になりたかったんだよ」
その問いを受けたまま、出久はしばらく動かなかった。
薄暗い地下通路に、遠くから響く戦闘音だけが伝わってくる。
上階ではまだ敵連合の複製とヒーロー、警察、八斎會が入り乱れているのだろう。
鈍い衝撃が天井を震わせ、時折、細かな埃がぱらぱらと落ちてきた。
それでも今の出久には、不思議なほど遠い音に感じられた。
「僕は……」
何になりたかったのか。
答えなら、知っている。
ずっと昔から知っていたはずだった。
幼い頃、テレビの向こうで笑っていた一人の男。災害現場へ飛び込み、どれだけ絶望的な状況でも人々を安心させるように笑いながら、必ず誰かを助けていた。
怖がられる存在ではなかった。
誰よりも強いのに、その姿を見た人間が最初に抱くのは恐怖ではない。
安心だった。
「僕は──」
口にしようとした、その時だった。
「遅ぇ!」
「え?」
ミルコの姿が視界から消えた。
考える時間を与えてくれるものだと、どこかで思っていた。
甘かった。
次の瞬間には、左から蹴りが飛んでくる。
「うわっ!」
出久は咄嗟に腕を上げた。前腕の骨鱗へ筋骨発条化を流し込むが、発動が僅かに遅れる。
──バゴンッ!
半端に撓んだ骨板ごと腕を押し込まれ、巨体が横へ流れた。
「ちょっと! 今いいところだったじゃないですか!」
「知るか! 戦ってる最中に人生相談始めんな!」
「聞いたのミルコですよね!?」
「考えながら戦え!」
無茶苦茶だった。
しかし反論している暇さえない。
ミルコは一度踏み込んだ勢いを殺さず、右、左、右と細かな蹴りを連続して打ち込んでくる。
頭、肩、腹、腿。狙いが絶えず変わるうえ、途中で軌道まで変更されるため、出久は五感強化を最大限働かせても防御に追われた。
その最中にも、先ほどの言葉が頭から離れない。
──その姿は手段だろ。
──いつまでそのバケモンに拘ってやがる。
──お前は何になりたかったんだよ。
「っ……!」
左肩へ蹴り。
出久は骨鱗を撓ませて受ける。
続いて右脇腹。
今度は間に合わず、まともに食らった。
「ぐっ!」
身体が揺れる。
大きい。
今さらながら、それを強烈に意識した。
二メートルを優に超える身長。異様に発達した筋肉。全身を覆う分厚い外骨格。
確かに強い。単純な腕力も耐久力も、人間だった頃とは比較にならない。
だが、ミルコのような相手を前にすると、その全てが長所とは限らない。
狙われる面積が大きい。
方向転換が遅い。
何より、身体を動かすたびに余計な質量まで一緒に振り回している。
これまでなら、それをさらに別の個性で補おうとしていた。
もっと筋力を増やす。
もっと発条を強くする。
もっと硬い骨を作る。
足し算ばかりだった。
「……違う」
ミルコのローキックを受けながら、出久が呟く。
「増やすだけじゃ……」
出久は一歩下がった。
ミルコはすぐ追ってくる。
「そうじゃなくて……必要な分だけにすればいい」
頬へ爪先が掠る。
だが、出久はもうミルコだけを見てはいなかった。
自分の身体へ意識を向ける。
まず、『剛躯』。
これまで限界近くまで引き出していた出力を落としていく。
筋肉が軋んだ。
二メートルを超えていた巨躯が、ほんの僅かに縮む。肩幅が狭まり、膨れ上がっていた胸部や腕から不要な厚みが削ぎ落とされていった。
単純に弱くするのではない。
密度を保ったまま、圧縮する。
同じ量の力を、より小さな器へ収めるように。
「でも実際筋繊維を圧縮なんて出来ない。不要な筋肉と、必要な筋肉を選び取って……骨格もそうだ、全部の骨が太く長い必要はない……」
出久は自分でも確かめるようにブツブツと呟いた。
そこでミルコの蹴りが飛んできた。
これまでなら前腕で受けるしかなかった軌道。
しかし今度は、上体を僅かに引くだけで爪先が鼻先を通過した。
「……!」
避けられた。
出久が驚いている間に、ミルコが笑う。
「ぼさっとすんな!」
追撃の回し蹴り。
今度は受ける。
だが、骨鱗も変える。
これまでのように分厚い板を何層も重ねる必要はない。
硬さだけを追求するから重くなる。筋骨発条化を使えるなら、薄くても衝撃を撓ませて吸収できる。
白い外骨格が動いた。
肩を覆っていた巨大な骨板が縮み、互いに噛み合うように再配置されていく。
隙間を埋めながら厚みを減らし、身体の動きを妨げない形へ変化する。
蹴りが当たった。
──バンッ!
白い骨板が沈み、その衝撃を吸収する。
出久の身体は半歩動いただけだった。
「『スケイルメイル』は鱗の鎧を作る個性、解釈を広げるんだ。鱗の形状もサイズも、イメージでどうにもなる。どうにでもなるなら……」
ブツブツと呟き続け、自分の世界に入る出久。
ミルコの攻撃は止まらない。
だから出久も、戦いながら変えるしかなかった。
腹部の装甲を削る。
胸部の骨を薄くする。
腕の巨大な突起は必要ない。槍骨は出したい時に出せばいい。
指先の爪も短くする。
脚も同じだった。
膨れ上がった筋肉を無理に維持するのではなく、必要な力を内部へ押し込める。
発条化できる骨格を最大限活かすなら、筋肉そのものの巨大さに頼る必要はない。
大きく。
硬く。
恐ろしく。
そう考えて作り上げた身体から、一つずつ余計なものが消えていく。
それでも弱くなった感覚はなかった。
むしろ逆だった。
身体が軽い。
ミルコの蹴りへ反応した瞬間、それまで僅かに存在していた「身体が追いついてこない」感覚が薄れている。
右から来た蹴りを半歩で躱す。
着地と同時に骨格が反発し、ほとんど間を置かず姿勢が整った。
「……五感強化は骨の鱗にも適用されるのかな、されるはずだ。触覚を研ぎ澄ませて、鎧を感覚器官に延長して……」
今まで複数の個性を同時に使うとは、全部を全力で発動することだと思っていた。
違う。
必要な時に、必要な量だけ。
互いの欠点を力づくで埋めるのではなく、最初から噛み合う形へ組み直す。
それが併用なのだ。
「いい面構えになってきたじゃねえか!」
ミルコが正面から踏み込む。
今度の蹴りは速い。
出久は逃げなかった。
胸部を覆う骨装甲へ筋骨発条化を常時薄く流しておく。
攻撃を受けてから発動するのではない。全身の外骨格そのものを、最初からしなやかな発条として形成する。
白い骨が細かく動いた。
出久の中で、そのイメージが変わる。
魚や爬虫類のような鱗ではなく──鎧。
身体に密着し、動きを妨げず、それでいて必要な場所だけを確実に守るもの。
ミルコの踵が胸へ突き刺さる。
骨の鎧が沈み、力を受ける。
溜める。
そして──返す。
──バンッ!
「おっ!」
反発を利用して身体を後ろへ逃がしたことで、ミルコの蹴りが初めて完全には届かなかった。
出久は着地する。
以前より明らかに低くなった視線に、自分でも違和感があった。
もう二メートルを超えてはいない。
人間より一回り大きい程度。
それでも肩や胸には十分な厚みがあり、筋肉は密度を失っていない。
全身を覆う白い骨装甲も、先ほどまでの禍々しい鱗とは違っていた。
細かな骨板が筋肉の流れに沿って並び、関節部には可動を妨げない隙間が設けられている。
必要な場所を守りながら、身体の輪郭そのものは以前よりずっと人に近い。
出久は自分の両手を見る。
何になりたかった。
その問いが、また浮かんだ。
答えはある。
怪物ではない。
敵に恐れられる何かでもない。
もっと昔。
何も持っていなかった頃から。
自分がなりたかったもの。
「人を……」
ミルコが踏み込む。
出久は今度こそ、その動きを最後まで見た。
「助ける」
身体を捻る。
蹴りが頬の横を通過する。
「ヒーローに」
初めて、ミルコの側面へ回れた。
ミルコの目が僅かに見開かれる。
出久は攻撃しなかった。
まだ完成していない。
外見がどうこうという話ではない。
自分がこの身体をどう認識するか。
そこまで決めなければいけない気がした。
白い骨装甲がさらに動く。
肩に残っていた鋭すぎる突起が丸みを帯び、胸部の装甲が中央から左右へ流れるような形へ変わる。
腰や脚の骨板も、人間の動きを邪魔しない配置へ収束していった。
人喰いの怪物を想像して作った身体ではない。
誰かが見上げた時に、恐怖より先に「助かった」と思える姿。
強いから怖いのではなく。
強いから安心できる。
その原点にある姿を、出久は嫌というほど覚えている。
「……やっぱり」
口元が僅かに緩んだ。
頭部にも骨が伸び始める。
こめかみ付近から、二本。
最初は前方へ向かっていたそれを、出久は意識的に上へ曲げた。
オールマイトのあの特徴的な二本の前髪。
幼い頃から、何度真似したか分からないシルエット。
その意匠を、白い骨の鎧へ取り込む。
「あ?」
少し離れたところで、ミルコが妙な顔をした。
「その頭の何だ?」
「リスペクトです」
「誰のだよ」
「オールマイトの」
「ああ……」
ミルコは納得しかけた。
だが、出久は二本の突起を少し触って考え込む。
「……でも、せっかくだから」
二本の角度を僅かに外へ開いた。
まっすぐ上ではない。
左右へ少し広がりながら伸びる。
遠目なら、長い耳にも見える形。
出久はミルコを見た。
「こっちはミルコへのリスペクトです」
「あー?」
ミルコは眉をひそめ、頭の上に伸びた二本の骨角と出久の顔を交互に見た。
「……テメェ、あたしをナメてんのか?」
「違いますよ!」
「兎耳=あたしってか!?」
怒鳴り返しながらも、ミルコの口元は僅かに緩んでいた。
出久はそれ以上余計なことを言わず、静かに腰を落とす。
先ほどまでとは、構えからして違っていた。
巨大な拳を前へ突き出し、圧倒的な質量で相手を押し潰そうとする形ではない。
左足を僅かに前へ出し、重心を両脚の中央へ置く。肩から力を抜き、右拳は顎の近く、左手は少し前方へ。
雄英生だった頃に繰り返し叩き込まれた、ごく基本的な戦闘姿勢だった。
その身体を覆う白い外骨格も、もはや先ほどまでの異形とは別物に見える。
胸部から腹部へ連なる骨板は筋肉の動きを邪魔しないよう細かく分割され、肩や肘、膝には必要最小限の厚みだけが残されている。
全身の輪郭は依然として常人より一回り大きかったが、人喰いの怪物を思わせる禍々しい突起や爪はほとんど消えていた。
代わりにあるのは、身体の形へ沿って組み上げられた白い鎧。
頭部から伸びる二本の突起まで含めれば、その姿はヴィランというより、むしろ──ヒーローのコスチュームに近かった。
ミルコもそれに気づいたらしい。
視線を頭から足元までゆっくり往復させたあと、鼻で短く笑う。
「……似合ってんじゃね」
出久は拳を握った。
骨鎧の内側で、筋骨発条化を発動する。
今までのように脚だけではない。
身体を構成する骨という骨、そして外骨格に同時に発条としての性質を与えていく。
白い装甲が一斉に微かな軋みを上げた。
もっとも、すべてを限界まで圧縮するわけではない。
脚へ七割。
腕へ二割。
必要な場所へ必要なだけ力を溜め、移動の最中にも配分を変えられるよう、あえて余裕を残しておく。
自分の身体が、一つの巨大な発条ではなく、無数の小さな発条の集合体になっていく感覚があった。
ミルコが口角を吊り上げる。
右手を軽く曲げ、指先だけで自分へ向かって招いた。
「来いよ」
短い一言。
出久の表情から笑みが消えた。
五感強化がミルコを捉える。
出久の右足が僅かに沈んだ。
次の瞬間。
──バンッ!!
床が爆ぜた。
白い残像が地下通路を駆け抜けた。
「──!」
ミルコの目が見開かれた。
速い。
単純な最高速度だけなら、先ほどの全力突進と大差ないかもしれない。
しかし質が違う。
直線を突っ走るだけだった出久が、今は踏み込みの途中で細かく身体の向きを調整している。
右。
左。
ほんの僅かに軌道を揺らしながら迫ってくる。
ミルコが一瞬、どちらへ避けるべきか判断する。
その間に出久はさらに一歩踏み込んだ。
距離が消える。
「速ぇ……」
ミルコが笑った。
その顔が間近まで迫る。
出久は左肩を僅かに前へ出した。
右拳を引く。
肩、肘、手首。
そこへ繋がる骨鎧が同時に収縮する。
さらに踏み込んだ右脚から骨盤、脊柱を通じて伝わってきた反発まで上半身へ乗せる。
全身を連動させ拳を打つ。
ただそれだけ。
──ドンッ!!
拳がミルコの顔面へ叩き込まれた。
「──っ!」
出久の拳に、確かな感触が返ってくる。
頬骨。
そこを覆う皮膚。
首へ抜ける衝撃。
全部分かった。
ミルコの顔が横へ弾かれ、その身体が床から浮き上がる。
「えっ」
出久の口から間抜けな声が漏れた。
当たった。
いや──当たりすぎた。
ミルコなら避けられたはずだった。
直前まで彼女の身体は動ける状態だった。
五感強化で見ていたからこそ分かる。
踏み込む余裕もあった。
首を振るだけでも避けられた。
腕で受けてもよかった。
なのに。
「なんで……」
疑問を口にする間にも、ミルコの身体は後方へ一直線に飛んでいく。
──ドガァァン!!
数十メートル先の地下通路の壁へ背中から叩きつけられた。
コンクリートが爆ぜた。
壁面を中心に亀裂が蜘蛛の巣状へ広がり、大きな破片が周囲へ飛び散る。
ミルコの身体はそのまま壁へ深くめり込み、頭上から砂埃が一気に降り注いだ。
衝撃で蛍光灯が何本か明滅する。
一本が外れ、床へ落ちて砕けた。
出久は拳を振り抜いた姿勢のまま、壁にめり込んだミルコを見つめている。
五感強化が拾う情報に、致命的な異常はない。
呼吸はある。
心拍も乱れてはいるものの、止まりそうな気配はない。
それでも、今の一撃を彼女が意図的に受けたらしいという事実が、どうにも引っかかった。
「ミルコ……?」
出久が一歩踏み出した。
その時、壁の亀裂の奥で人影が動いた。
ミルコは背中をコンクリートに預けたまま、ゆっくりと顔を上げる。
鼻から一筋の赤い血が流れ、上唇を伝っていた。
「……あー」
気の抜けた声を漏らしながら、片手を軽く上げる。
「?」
「降参」
あまりにあっさりした言葉だった。
出久が目を瞬かせる。
ミルコは鼻血を拭おうともせず、上げた手をひらひらと振った。
「あたしの負けだ」
「……はい?」
「好き勝手、どこへでも行きやがれ」
「いやいやいやいや!」
出久は一気に駆け寄った。
先ほどまで互いに殴る蹴るを繰り返していたとは思えない勢いでミルコの前へしゃがみ込み、その顔を覗き込む。
「なんで避けなかったんですか!」
「あー?」
「避けられましたよね!? 僕、ちゃんと見てましたよ! 踏み込む余裕もありましたし、重心だって残ってたし、首だけでも躱せたはずです!」
「うるせえな」
「それに!」
出久はさらに詰め寄る。
「そもそも、なんで僕を鍛えるみたいなことしてるんですか!」
ミルコの目が僅かに動いた。
「僕、今ヴィランですよ! 全国指名手配されてて、今日だって八斎會に車で突っ込んで、警察とヒーロー相手に逃げ回ってる側です!」
「自覚あんなら少しは反省しろ」
「してます! そこじゃなくて!」
思わず声が大きくなる。
「なんで捕まえに来た相手に、個性の使い方教えて、戦い方まで直して、それで最後にわざと殴られるんですか!」
筋が通らない。
ミルコが本気で自分を逮捕するつもりなら、先ほどの時点で十分できたはずだ。
最初のハイキック。
踵半月輪。
その後の連撃。
どの段階でも、出久は一方的に押されていた。
にもかかわらずミルコは止めを刺すどころか、出久の欠点を指摘し、筋骨発条化の応用に気づかせ、戦闘形態そのものまで見直させた。
そして最後には、明らかに避けられた拳を正面から受けた。
「どういうつもりなんですか」
出久はミルコを見つめた。
ミルコは答えなかった。
「ミルコ?」
それでも反応はない。
代わりに、壁へ背を預けたまま顔を上へ向けた。
視線の先にあるのは、打ちっぱなしのコンクリート天井だった。
地下通路の蛍光灯が白く滲み、その光をミルコはぼんやりと見ている。
「……冬のインターン」
「え?」
「当たり前みたいに、お前が来ると思ってたんだ」
出久の言葉が止まった。
ミルコは天井を見上げたまま続ける。
「職場体験ん時、うちに来ただろ」
「……はい」
「あん時は職場体験で期間も短かったし、こっちも別に弟子取るつもりなんかなかった。後進育成なんざ柄じゃねえと思ってたしな」
それは出久にも分かる。
ミルコは基本的に単独行動を好むヒーローだった。
サイドキックを何人も従えて後進を育成することに熱心な人物でもない。
ミルコが片膝を立てる。
「でも、お前となら面白おかしくヒーローやれると思ったんだよ」
その言葉だけが、妙に静かな地下通路へ残った。
上では今も戦闘が続いている。
遠くから怒号が聞こえる。
何かが崩れる低い音もする。
それなのに出久には、目の前の声だけがやけにはっきりと聞こえていた。
「ミルコ……」
「だからよ」
ミルコが上げたままだった手を動かした。
その掌が、目元を覆う。
鼻から血を流し、壁にめり込んだまま。
それでも、顔だけは見せないように。
「お前がヴィランになっちまって」
言葉が一度途切れた。
出久の喉が僅かに詰まる。
ミルコは天井を向いたまま、目元を手で覆っていた。
「一緒にヒーローやれなくて、寂しいよ」
それ以上は何も続かなかった。
「……緑谷」
名前を呼んだあとも、ミルコはしばらく手を下ろさなかった。
普段の彼女なら、こんなふうに言葉を探すことなどほとんどない。
気に入らなければ殴り、迷えば自分の脚で確かめ、納得したらそれで終わり。それがミルコというヒーローだった。
だからこそ、次に出てきた言葉はひどく彼女らしくなかった。
「……ダメ元で聞くけどよ」
出久が僅かに顔を上げる。
ミルコは目元を隠したまま、わずかに顔を逸らした。
「出頭するつもり、ねえか?」
「……」
返事はなかった。
それでもミルコは続ける。
「今ここで、全部投げ出して警察に行けって言ってんじゃねえ。お前にも事情があんだろうし、神野で何やったのかも、あたしはニュースで知ってる程度だ。敵連合とつるんで、今日ここまでやらかしてんだから、全部なかったことにできるなんて言う気もねえ」
壁へ預けていた背中を少しずらし、楽な姿勢を取り直す。
「無実にはできねえよ。たぶん、どれだけ事情を並べても罪に問われるもんはある。逃げ回って、ヒーローと殴り合って、警察の制止も振り切ってる」
ミルコは小さく息を吐いた。
「けど、なんとかしてやる」
出久の目が揺れた。
「公安にも多少は顔が利く。警察にもヒーロー委員会にも、知ってる奴くらいいる。あたしが全部どうにかできるなんて馬鹿なことは言わねえけど、お前が自分から出て、知ってること全部話して、ちゃんと罪を償うってんなら……口利くくらいはしてやる」
「ミルコ……」
「AFOのことも、敵連合のことも、お前が持ってる個性のことも、事情全部洗ってもらってよ。何年掛かるか知らねえけど」
そこでようやく、目元を覆っていた指が僅かに緩んだ。
「またヒーローやれるところまで、持ってけるかもしれねえ」
出久の呼吸が止まった。
ミルコは言いながら、自分でも無茶を言っていることくらい分かっているようだった。
全国指名手配犯。
複数のヒーローとの交戦。
神野での大規模戦闘。
敵連合との行動。
さらに今夜は八斎會本部への襲撃予告をネット上へ公開し、警察車両から逃走した末、建物へ車両ごと突入している。
どこをどう切り取っても、「少し謹慎して復帰すればいい」で済む話ではない。
それでも。
「ヒーロー免許だって取り直しゃいいだろ。雄英に戻れねえなら、別の道探しゃいい。表で活動できるまで時間掛かるなら、裏方から始めたっていい」
言葉が途切れない。
まるで一度止まったら、二度と口にできなくなるとでも思っているかのようだった。
「お前、個性だけ見りゃとんでもねえ戦力なんだからよ。使い方覚えりゃ、救える奴だって山ほどいる。今日だって……」
ミルコがそこで僅かに言葉を詰まらせる。
「誰か助けに来たんだろ」
出久は何も言わなかった
「だったら、まだ全部終わってねえ」
ミルコは手で顔を隠したまま、低く続けた。
「今なら、まだ間に合うかもしれねえ。何とかしてやる。あたしが頭下げるの嫌いなの知ってんだろ。それでも必要なら下げてやる。公安だろうが委員会だろうが警察だろうが、話くらいつけてやる」
「……」
「だから」
声が僅かに弱くなった。
「戻ってこいよ、緑谷」
地下通路に沈黙が落ちた。
出久は何も言えなかった。
断る理由なら、いくらでも思いつく。
AFOとの関係。
敵連合との繋がり。
自分の身体に積み重ねられた無数の個性。
今さらヒーロー社会へ戻ったところで、周囲が受け入れてくれる保証などない。
何より、自分にはまだ終わらせていないことがある。
壊理を連れ戻す。
それだけではない。
ここまで来る過程で関わった人間たちを置き去りにして、自分だけ「やり直します」と出頭することが、本当に正しいのかも分からなかった。
それらを一つずつ説明しようとすれば、言葉はいくらでも出てくるはずだった。
だが。
「……」
何も出なかった。
出久は俯いたまま、拳を握る。
白い骨の鎧が僅かに軋んだ。
ミルコは急かさなかった。
数秒か、十数秒。
遠くで何かが崩れる音がした。
上階の戦闘がまだ続いていることを思い出させるように、天井から細かな埃が落ちてくる。
それでも出久は答えられない。
やがてミルコが、大きく息を吐いた。
「……分かったよ」
出久が顔を上げる。
ミルコはまだ目元を隠していた。
「もういい」
「ミルコ」
「答えられねえなら、それが答えだ」
責めるような声音ではなかった。
むしろ、少しだけ諦めたような響きがあった。
「さっさと行け」
ミルコは鼻血の跡を袖で乱暴に拭う。
「なんか……誰か助けたい奴がいるんだろ」
その一言に、出久の表情が変わった。
壊理。
袋へ押し込められ、この屋敷へ連れ戻された小さな少女。
今どこにいるのか分からない。
オーバーホールも見つかっていない。
自分がここで立ち止まっている間にも、状況は動いている。
「……はい」
今度の返事は、迷わなかった。
「なら行け」
ミルコが片手を雑に振る。
「次会った時は捕まえる」
「……はい」
それから膝へ手を置き、ゆっくり立ち上がる。
白い鎧が蛍光灯の光を反射した。
先ほどまでの禍々しい怪物ではない。
細身に整えられた身体へ沿うように組み上げられた骨装甲。頭上には、オールマイトとミルコを意識した二本の突起が伸びている。
その姿を、ミルコは指の隙間から一瞬だけ見た。
「次会うまでに、マシな名前考えとけ」
「名前?」
「形態名だよ。ヒーローなら必殺技に名前をつけるもんだろ。ダセえ名前つけんなよ」
「いや、でも……」
「ウサギの名前を入れろ、あたしをリスペクトしてんなら外すんじゃねぇ」
「えぇ……」
そこで会話が途切れた。
出久はミルコを見た。
言いたいことは山ほどあった。
ありがとう。
ごめんなさい。
本当は戻りたい。
でも今は戻れない。
いつかまた。
どれも、今この場で口にすると薄っぺらくなる気がした。
だから出久は、昔と同じことをした。
両脚を揃えて背筋を伸ばす。
つい先ほど廊下で再会した時には、必死に抑え込んだ動作だった。
今度は止めなかった。
腰を深く折る。
「お世話になりました!!」
大きな声が地下通路いっぱいに響いた。
ミルコの肩が僅かに動いた。
「……うるせえ」
小さな返事だった。
出久は頭を上げる。
ミルコは相変わらず顔を隠していた。
それ以上は何も言わず、出久は踵を返した。
五感強化を広げる。
地下へ落ちたことで、先ほどまで屋敷全体を覆っていた戦闘音がいくらか遠ざかっている。
コンクリートの壁が上階の騒音を遮っているため、地上よりは遥かに音を拾いやすい。
出久は白い鎧の脚へ筋骨発条化を薄く流した。
「行ってきます」
今度は小さく、返事を期待せずに呟く。
そのまま床を蹴った。
──タンッ!
以前の巨体では考えられないほど軽い音だけを残し、白い姿が地下通路の奥へ駆けていく。
右へ曲がり、暗闇の向こうへ消えるまで、ほんの数秒だった。
あとに残ったのは、砕けた壁と蛍光灯、そして一人座り込んだミルコだけ。
足音が完全に聞こえなくなってから、ミルコはようやく目元を覆っていた手を少しだけ下ろした。
「……あー」
掠れた声で悪態をつく。
「ガキの面倒なんてもう二度と見ねえ」
誰に聞かせるでもなく吐き捨てると、再び掌で顔を覆った。