その頃、地下のさらに奥。
地上の喧騒から隔てられた一室で、オーバーホール──治崎廻は、苛立たしげに脚を揺らしていた。
一定の間隔で靴底が床を叩く。
カツ、カツ、カツ。
普段の彼を知る者なら、それだけで相当に追い詰められていると分かっただろう。
治崎は潔癖だった。
自分の計画も、組織の運営も、人間関係すらも、可能な限り秩序立っていることを好む。
余計なものを嫌い、予定外を嫌い、何より自分の手の届かないところで状況が動くことを嫌った。
今夜は、そのすべてが最悪の形で重なっている。
机の上には複数の携帯端末と無線機が並べられていたが、まともな情報はほとんど入ってこない。
『正門側、突破されました!』
『違う、そいつは分身だ! 本物を探せ!』
『警察まで中に──』
『こっちにも緑谷がいるぞ!』
『何人いるんだよ!?』
途切れ途切れに飛び込んでくる声は、報告というより悲鳴に近かった。
治崎の眉間に皺が寄る。
「……どいつもこいつも」
吐き捨てるような声だった。
机の上の無線機へ手を伸ばしかけ、やめる。
何を指示する。
誰に指示する。
上ではすでに命令系統そのものが崩れ始めている。
緑谷出久と敵連合が正面から乗り込んできただけでも十分に異常だった。
それだけならまだ、八斎會の戦力を集中させて押し返せたかもしれない。
しかし、そこへ警察とプロヒーローまで雪崩れ込んだ。
「まだ見つからねえのか」
治崎が低く言う。
壁際に立っていた男が答えようとするより早く、無線機からまた別の声が飛んだ。
『地下に侵入者! いや、待て、床が──』
轟音と共に通信が途切れた。
「地下?」
目だけが鋭く動く。
ここまで来るのか。
地下の存在そのものは、外部から簡単に把握できるようなものではない。
入口も複数に分け、組の中でも限られた人間しか全体構造を知らない
偶然か。
それとも最初から狙っているのか。
後者だとすれば、なおさら面倒だった。
部屋の隅で、小さな音がした。
治崎の視線がそちらへ向く。
壊理がいた。
床へ座らされ、両手首と足首をそれぞれ拘束されている。
大きめの衣服に包まれた小さな身体はさらに小さく見え、膝を寄せるようにして俯いていた。
白い髪が頬へかかり、その奥から覗く目は怯え切っている。
屋敷へ戻されてから、ほとんど声を出していない。
泣き叫ぶこともない。
逃げようと暴れることもない。
「……どいつもこいつも」
壊理の肩が僅かに震える。
治崎は立ち上がりかけた。
「廻」
横から声が掛かる。
クロノスタシスこと玄野針。
治崎の古くからの側近であり、今なおこの状況で平静を保っている数少ない人間だった。
「……何だ」
治崎が睨む。
玄野はその視線を正面から受けた。
「もう上は限界です」
治崎の目つきがさらに険しくなる。
だが、玄野は引かなかった。
「報告聞いてるでしょう。正門も外壁も突破されて、警察とヒーローが敷地内に入っていやす。組員は敵連合とやり合ってる奴もいれば、警察に押さえられてる奴もいる始末でさあ」
「だから何だ」
「地下まで来られたら終わりです」
玄野が言い切る。
「ここを押さえられたら、研究設備も、薬も、全部見つかる。それ以上に──」
視線だけを壊理へ向けた。
「壊理さんを奪われる」
治崎の指先が僅かに動いた。
玄野は一歩近づく。
「壊理さんを連れて逃げましょうや」
治崎は黙ったままだが、玄野は続けた。
「まだ地下の退避経路が使えます。北側の旧搬入口から抜ければ、警察の包囲線の外まで繋がってる。あそこは組の中でも知ってる奴が少ない。今なら間に合います」
玄野の口調は変わらない。
「俺に、ここを捨てろと?」
玄野の声に初めて僅かな強さが混じった。
「屋敷なんざ後で取り戻せばいい。金も設備もまた作りゃいい。構成員だって、生きてりゃ集め直せる。でも廻と壊理さんをここで失ったら、組はお終いです」
しばらく、誰も喋らなかった。
遠くから重い振動が伝わってくる。
地下の壁が僅かに震え、天井から細かな埃が落ちた。
戦闘は近づいている。
治崎もそれを理解していた。
理解しているからこそ、苛立っていた。
本来なら、こんな状況にはならなかった。
緑谷出久。
あのガキ一人が、すべてを狂わせた。
仕事を与えたにも関わらず壊理を連れ去り、挙げ句の果てに襲撃予告まで出して警察とヒーローを呼び寄せた。
正面から殴り込むなど、まともな人間なら考えない。
それなのに結果だけ見れば、八斎會の本部は内部から崩壊しかけている。
治崎はしばらく黙っていた。
机の上では、途切れ途切れの無線がまだ鳴っている。
誰かの怒鳴り声、破砕音、意味を成さない報告。そのどれもが、もはや状況を把握する役に立ってはいなかった。
やがて治崎は椅子から立ち上がる。
「……玄野」
「へい」
「壊理を連れて来い」
玄野が僅かに目を細めた。
「へい」
治崎は机の上に置かれていた携帯端末を手に取った。
「俺は親父を運ぶ準備をする」
「分かりやした」
決断した以上、動きは早かった。
玄野は部屋の隅に座らされている壊理へ近づき、治崎は出口へ向かう。
この屋敷そのものは捨てられる。
研究設備も金も、最悪の場合は作り直せばいい。
だが、親父だけは置いていけない。
壊理も同様だった。
その二人と治崎さえいれば、まだ立て直せる。
「北側の退避路を使う。途中で誰かいたら──」
治崎が扉へ手を伸ばす。
「邪魔なら殺せ」
「へい」
玄野が壊理の拘束された身体を抱え上げようと腰を落とした。
壊理は抵抗しない。
ただ、俯いたまま小さく身体を強張らせている。
治崎の指がドアノブへ触れる。
その瞬間だった。
──ガチャ。
「……?」
治崎の手が止まった。
まだ触れただけだ。
回していない。
なのに、ノブが向こう側から動いた。
玄野も顔を上げる。
次の瞬間、金属製の扉が外から押し開けられた。
「っ──」
治崎が即座に一歩下がる。
扉の向こうから、一人の男が入ってきた。
背が高い鍛え上げられた身体を白を基調としたヒーローコスチュームが包み、肩幅も胸板も学生とは思えないほどがっしりしている。
頬にはヒビ割れのような独特な傷跡が刻まれていた。
治崎の目が僅かに細くなる。
見覚えがある。
直接話したことはない。だが、八斎會の周辺で活動するヒーローについては当然調べているし、最近この近辺でヒーローインターンを行っている雄英生についても情報は入っていた。
雄英高校ヒーロー科三年。
通形ミリオ。
ヒーロー名──ルミリオン。
「……」
治崎は反射的に半歩退いた。
ほんの僅かな動きだった。
その一歩でミリオとの間に距離を作り、同時に右手の手袋を脱ぐ。
いつでも床へ触れられるよう、指先をわずかに下げた。
玄野も同じ人物に気づいたらしい。
壊理へ伸ばしかけていた手を止めると、何気ない動作を装いながら治崎の側へ身体を寄せる。
一方、部屋へ入ってきたミリオは、治崎たちの警戒とは対照的に明らかに戸惑っていた。
「……あれ?」
まず治崎を見る。
次に玄野。
最後に、部屋の隅にいる壊理へ視線が移った。
もっとも、薄暗い室内と治崎たちの位置関係のせいで、壊理の手足が拘束されているところまではすぐに見えなかったらしい。
「勝手に入ってしまいすみません!」
ミリオが先に頭を下げた。
「……」
治崎は何も答えない。
ミリオは後ろを振り返った。
「上がかなり危険な状態になってて、僕も人を探しながらここまで来たんですけど……まさか普通に人がいるとは思わなくて」
治崎の眉間が僅かに動いた。
どうやらこちらを探して地下へ来たわけではない。
それなら、まだ状況は最悪ではない。
「いえいえ、ご苦労様です」
治崎が平静な声で答える。
厄介だ。
しかし同時に好都合でもある。
ミリオの目的は自分でも壊理でもない。
堂々と襲撃予告を行った緑谷出久だ。
ならば、ここで余計な疑念を抱かせなければいい。
ミリオはそこで、ようやく治崎の服装と顔を改めて確認した。
「……あ、もしかして」
少し考えるように目を細める。
「貴方、八斎會の……若頭の方ですよね?」
治崎の身体が僅かに強張る。
だが、ミリオの表情に敵意はなかった。
「ええ」
治崎は即座に頷いた。
「若頭の治崎廻という者です」
「ああ、やっぱり!」
ミリオが納得したように頷く。
「だったらちょうどよかったです」
ミリオが一歩近づく。
治崎は同じだけ距離を取った。
「……何がです?」
「ここはかなり危険です」
ミリオは真剣な表情になった。
「上ではヴィランと警察の人たちが戦ってますし、建物自体もかなり壊れてるみたいで、この地下もいつ崩れるか分かりません」
そう言いながら、ミリオは周囲を確認する。
「それに緑谷出久もこの辺りにいる可能性があります」
ミリオが右手を差し出す。
「僕と一緒に避難していただけますか?」
「……」
治崎は差し出された手を見る。
まっすぐだった。
疑っている様子はない。
純粋に、この場に取り残された人間を保護しようとしている。
厄介極まりない。
だが、ここで拒絶の仕方を誤れば疑われる。
治崎は一瞬で頭を切り替えた。
仮面の下で呼吸を整える。
そして。
「お気遣い、ありがとうございます」
声色が変わった。
先ほどまでの苛立ちは完全に消え、穏やかな笑みすら浮かんでいる。
「我々は独自に避難しますので、お構いなく」
ミリオの手が宙に残る。
「独自に?」
「ええ」
治崎はにこやかな表情を崩さない。
「ここは我々の本部です。当然、非常時に備えた避難経路も把握しています。外部の方に案内していただくより、自分たちで移動した方が安全でしょう」
「……そういう事でしたら」
ミリオは差し出していた手をゆっくり引いた。
納得した、という顔ではない。
むしろ、治崎の態度に違和感を覚えているようだった。
これだけ上が荒れている。
建物そのものが損壊し、警察とヴィランが入り乱れ、地下にまで侵入者が現れている。
そんな状況で、目の前にヒーローが現れたというのに、助けを求めるどころか頑なに同行を拒む。
しかも相手は一般人ではない。
八斎會の若頭。
自分たちの縄張りだから避難経路を把握している、という説明自体に不自然な点はない。
だが、だからといってこの状況でヒーローの保護を拒否する理由として十分かと言われれば、どこか引っかかる。
「……」
だが。
無理矢理連れ出すわけにもいかない。
治崎たちは現時点でミリオに対して何か違法行為をしているわけではないし、避難を拒否する自由そのものはある。
「分かりました」
ミリオは一度頷いた。
「ただ、できるだけ早く避難してください。上は本当に危険です」
「ええ、承知しています」
治崎は穏やかに答える。
「ご忠告、感謝します」
治崎が軽く頭を下げる。
その横では、玄野も何も言わずに立っていた。
ミリオは最後まで残る違和感を振り切れないまま、扉へ身体を向けた。
緑谷を探さなければならない。
今の騒ぎを引き起こした張本人であり、複数の個性を持つ危険なヴィランでもある。
分身が屋敷の各所に出現しているせいで本物の位置は掴めていないが、地下にまで入り込んでいる可能性は十分にあった。
ここで時間を使っている場合ではない。
そう自分に言い聞かせ、ミリオが一歩踏み出したところで、背後から衣擦れの音が聞こえた。
「……っ」
続いて、何かが床を擦った。
ごく小さな音だったが、静かな室内では妙にはっきりと響いた。
ミリオは何気なく振り返る。
部屋の隅にいた少女が立ち上がろうとしていた。
白い髪の小さな少女。先ほどから存在には気づいていたが、治崎たちと一緒に避難する身内か何かだと思っていたため、特に意識を向けていなかった。
その少女──壊理が、壁へ肩を預けながら身体を起こそうとしている。
だが、うまく立てない。
片膝を立てようとしても、もう片方の脚が一緒に引っ張られ、身体がぐらりと傾いた。
「危な──」
ミリオが反射的に身体を向けるより先に、玄野が壊理の腕を掴んだ。
「壊理さん、動かねえでくだせえ」
壊理の身体が強張った。
その時だった。
大きめの服の袖がずれた。
ミリオの視線が、露わになった少女の手首へ吸い寄せられる。
「……え?」
そこには拘束具が巻かれていた。
両手首を自由に動かせないよう、頑丈なベルトでまとめられている。
ミリオの表情が変わった。
視線を下げる。
壊理が立ち上がれなかった理由も、そこで分かった。
足首にも同じような拘束具が巻かれ、歩幅をほとんど取れない状態になっている。
子供が、それもこれから避難しようとしているはずの少女が、手足を縛られている。
ミリオは少女の手首に巻かれた拘束具を見つめたまま、すぐには何も言わなかった。
治崎の説明を待つように数秒だけ沈黙し、それから壊理の顔へ視線を上げる。
怯えている。
単に知らないヒーローが突然部屋へ入ってきたから、という怯え方ではなかった。
肩は小さく縮こまり、玄野に腕を掴まれているだけで身体が強張っている。
目だけがこちらへ向けられているのに、声を出そうとはしない。
助けを求めているようにも見えた。
「……その子は」
ミリオがゆっくりと治崎へ向き直る。
「誰かのお子さんですか?」
問いかける声は穏やかだったが、先ほどまでとは明らかに違っていた。
治崎は一瞬だけ黙る。
ミリオは続けた。
「ひどく怯えているようです。それに、手足まで縛って……」
視線が再び壊理へ向く。
「なぜ、こんなことを?」
玄野の指が僅かに動いた。
治崎はそれを横目で制し、すぐにいつもの柔らかな表情へ戻る。
「誤解させてしまいましたね」
声音まで穏やかだった。
「彼女は、うちで預かっている子なんですよ」
「預かっている?」
「ええ。少々事情のある子でしてね」
治崎は壊理へ視線を向ける。
その瞬間、壊理の肩が小さく跳ねた。
ミリオはそれを見逃さなかった。
「親御さんが今は面倒を見られる状況ではなくて。我々が一時的に保護しているんです」
「……そうなんですか」
「ええ」
治崎は微笑みを崩さない。
「もっとも、少し困ったところもありましてね」
壊理を見ながら、まるで手の掛かる子供について話す保護者のような口調で続ける。
「この子、勝手に走り回って怪我ばかりするんですよ」
ミリオの眉が僅かに動いた。
「走り回って?」
「ええ。何度注意しても聞かない。危ない場所へ入り込んだり、階段で転んだり……こちらも困っていましてね」
治崎は壊理の手足に巻かれた拘束具へ目を落とした。
「今夜は特にこの騒ぎでしょう? 上では戦闘が起きていますし、建物も一部壊れている。こんな状況で勝手に走り出されたら、今度こそ大怪我をしかねない」
そこで困ったように息を吐く。
「ですから、避難している間だけでも大人しくしてもらおうと思いまして」
「それで……手足を?」
「ええ」
治崎は何でもないことのように頷いた。
「見た目は少々物々しいですが、安全のためです。外へ出ればすぐに外しますよ」
「そんな、滅茶苦茶な理屈が通ると……」
「通らなかったら、どうなんだ?」
ミリオの言葉を遮った声は、それまでと同じ人間のものとは思えないほど冷たかった。
治崎の顔から、穏やかな笑みが消えている。
わずか数秒前まで浮かべていた、人当たりのいい若頭としての表情は跡形もなかった。
仮面の上から覗く目だけが鋭く細められ、真正面からミリオを見据えている。
「……治崎さん?」
「俺の説明に納得できない。それで、どうするつもりだと聞いている」
部屋の空気が一気に変わった。
玄野も何も言わない。
ただ壊理の腕を掴んだまま、僅かに身体の向きを変えている。
治崎とミリオの間に何かあれば、即座に動ける位置だった。
ミリオも自然と背筋を伸ばした。
「僕は別に、あなたと争いたいわけじゃ──」
「なら、余計なことに首を突っ込むな」
治崎は吐き捨てるように言った。
「お前たちが今夜ここへ来た理由は何だ?」
「……緑谷出久の確保と、周辺の安全確保です」
「そうだろう」
治崎が一歩前へ出る。
「緑谷出久が、わざわざネットで『今夜うちを襲う』と宣言した。だから警察が来た。ヒーローも来た。うちの周囲を取り囲んで、住民を避難させて、襲撃に備えていた」
ミリオは黙って聞いている。
「つまり本来、お前たちの仕事は襲ってくる緑谷出久からうちを守ることだろうが」
治崎の声には露骨な苛立ちが混じり始めていた。
「それが何だ? 守るはずの相手の屋敷に勝手に入り込んで、地下まで降りてきて、今度は家庭の事情にまで口を挟むのか?」
口元だけが僅かに歪む。
「随分と滅茶苦茶なのは、そっちじゃないか?」
「……」
ミリオは反論できなかった。
少なくとも形式上、治崎の言い分には筋がある。
現在この屋敷が警察とヒーローの介入を受けている最大の理由は、緑谷出久と敵連合による襲撃である。八斎會そのものに対する正式な強制捜査令状が出ているわけではない。
もちろん、現に建物が破壊され、戦闘が発生している以上、救助や緊急避難を目的とした立ち入りまで完全に不当とは言えない。
だが、その場で見つけた子供について、治崎の説明を疑ったからというだけで強制的に引き離せるのか。
ミリオには判断できなかった。
まだ学生だ。
ヒーローインターンとして現場に出ることはあっても、捜査権限や令状の扱いまで自分一人で判断する立場ではない。
治崎もそれを分かっているのだろう。
「気になるってんなら、警察に報告でもすればいい」
治崎は冷淡に続けた。
「児童虐待の疑いがあります、とでもな。そうすりゃ担当が来るかもしれない。必要ならうちの人間が事情聴取を受けることにもなるだろう」
そして、右手を軽く広げる。
「正式に調べたいなら令状なり何なり用意してから来るんだな」
「……令状」
「そうだ」
治崎が鼻で笑った。
「警察もいるんだろ? だったら話は早い。お前一人で勝手に判断せず、上に報告して、必要な手続きを踏めばいい」
完全な拒絶ではない。
むしろ表面上は、正規の手続きに従えと言っているだけだった。
だからこそ厄介だった。
「それとも」
治崎の目がさらに冷たくなる。
「雄英の学生ってのは、怪しいと思った相手なら令状も証拠も関係なく好き勝手していいと教わってるのか?」
ミリオの奥歯が、ぎり、と鳴った。
言い返したいことはいくらでもあった。
目の前には明らかに怯えている子供がいて、その手足には拘束具が巻かれている。
治崎の説明は不自然で、少女自身の反応を見れば「安全のため」という言葉をそのまま信じられるはずもない。
それでも、今の自分は警察官ではない。
八斎會を捜査するためにここへ来たわけでもなければ、強制捜査を行う権限もない。
まして今日の任務は、襲撃を予告した緑谷出久と敵連合への対処であり、治崎の言う通り、八斎會は少なくとも形式上は襲撃を受けている側だった。
だからといって、目の前の光景を見なかったことにできるわけでもない。
「……分かりました」
絞り出すように答えながら、ミリオは壊理へ視線を残した。
「上に戻ったら、警察の方に必ず報告します。この子のことも、ここで見たことも全部です」
「好きにしろ」
治崎は冷たく言い放つ。
「その時は、必要な手続きを踏んで来い。少なくとも今みたいに、学生が一人で人の屋敷を嗅ぎ回るよりは筋が通ってる」
「……そうですね」
ミリオは拳を握り締めたまま、どうにかそれだけ答えた。
悔しかった。
自分がまだ学生だからというだけではなく、目の前で何かがおかしいと分かっているのに、それを確信へ変えるだけの材料が足りない。
せめて少女自身の意思を確認できれば──。
けれど壊理は何も言わない。
ただ怯え切った顔でこちらを見ているだけで、その腕は玄野にしっかりと掴まれている。
「……すみません」
誰に対してなのか、自分でも分からない言葉を小さく残し、ミリオは踵を返した。
ここで無理に動けば、逆に状況を悪化させる可能性がある。まず警察に報告し、この場所へ人を連れて戻ってくる。それが現実的な判断だった。
そう自分に言い聞かせながら、開いたままの扉へ向かって一歩踏み出す。
その背後で、壊理が震えた。
壊理の視線が、閉じようとしているミリオの背中から、玄野の顔へ移る。
このままでは、また連れていかれる。
あの暗い部屋へ戻される。
そして今度こそ、誰も来てくれないかもしれない。
壊理の呼吸が急激に浅くなる。
「……っ」
小さな喉が鳴った。
玄野が気づく。
「壊理さん?」
その瞬間、壊理は身体を大きく沈めた。
「おい──」
両手も両足も縛られている。まともに殴ることも蹴ることもできない。
だから、使えるものを使った。
壊理は玄野の腕に掴まれたまま勢いよく上体を振り、頭から真正面へ突っ込んだ。
「おらぁ!」
狙ったわけではなかった。
ただ、自分より遥かに背の高い玄野へ下から全力でぶつかった結果、その額がちょうど最悪の場所へ入った。
要は、金的だ。
壊理の額からは小さく角が飛び出ており、玄野の苦痛は想像に難くない。
「──ッッッ!?」
鈍い音がした。
玄野の顔から一瞬で血の気が引く。
「っ……ぉ、お前……!」
声にならない声を漏らしながら、玄野が壊理の腕を放した。
両膝が反射的に内側へ寄り、腰が折れる。
「玄野!?」
治崎もまさか壊理がこんな暴力的な反抗をするとは予想していなかったらしく、反応が一瞬遅れた。
壊理はその隙を逃さなかった。
両足首を拘束されているせいで走れない。だから床を蹴った瞬間に身体がもつれ、前へ倒れる。
「きゃっ!」
肩から床へ落ちた。
それでも止まらない。
転がるように身体を起こし、膝と肘を使って這い、どうにか立ち上がろうとする。
足が縛られているため、二歩目でまた転んだ。
「え──」
ちょうど部屋を出ようとしていたミリオが振り返った。
少女が、ほとんど転がるような勢いでこちらへ突っ込んでくる。
「危ない!」
ミリオは反射的に手を伸ばした。
だが壊理は、その腕に掴まろうとはしなかった。
肩からぶつかる。
「うわっ!?」
小さな身体でミリオを押し退け、その脇をすり抜ける。
足首が縛られたままだから、まともには走れない。
一歩進んでは身体を崩し、それでも手を床について立ち上がり、再び前へ出る。
廊下へ。
治崎から少しでも遠くへ。
「待て、壊理!」
治崎が追おうとする。
その声を聞きながら、壊理は廊下の中央で大きく息を吸った。
喉が震える。
怖かった。
声を出せば怒られる。
逃げれば連れ戻される。
ずっとそう教え込まれてきた。
けれど今、頭に浮かんだのは恐怖の象徴である治崎ではなかった。
頼りになる、我らがボス。
壊理は涙で滲んだ目を固く閉じた。
「──たすけて!!」
地下通路いっぱいに、子供の声が響いた。
壊理はもう一度、今度は喉が裂けそうなほど大きく叫んだ。
「デクさん!!」
声がコンクリートの壁へぶつかり、奥へ奥へと反響していく。
壊理の叫びは、薄暗い地下通路を何度も反響しながら遠くへ消えていった。
ここまで来て、壊理を逃がすわけにはいかない。
まして、その名を呼ばせ続けるなど論外だった。
緑谷がこの地下へ入り込んでいる可能性は、先ほど途切れた無線からも十分考えられる。
どれほど離れているかは分からないが、あの男が壊理を探していることだけは疑いようがなかった。
「いい加減にしろ、壊理」
低い声とともに、治崎が廊下へ踏み出した。
床へ転がった壊理は、すぐ背後まで迫った気配に気づいたらしい。
涙に濡れた顔を上げ、その瞳いっぱいに恐怖を浮かべる。
「いや……!」
治崎の指先が、壊理の腕へ迫る。
「こっちに来るんだ……!」
その瞬間。
廊下の奥で、何かが光った。
「──?」
治崎が目を細める。
廊下の奥で白いものが瞬いた。
蛍光灯の光を弾いた白い装甲が、凄まじい速度でこちらへ迫ってくる。
治崎の目には、それが一本の閃光にしか見えなかった。
「な──」
治崎が声を上げるより早い。
白い閃光が、目の前を通過した。
風圧が顔面を叩く。
コートの裾が激しく翻り、思わず治崎は腕を上げた。
直後。
「──っ!?」
伸ばしていた右手が空を切った。
そこにいるはずだった壊理が、いない。
つい一瞬前まで、床へ転がっていた。
治崎の指先からほんの数十センチの位置にいたはずだ。
それが消えている。
「……は?」
治崎の目が見開かれた。
ミリオも同じだった。
少なくとも、はっきりとは見えなかった。
視界の端を白い何かが横切り、その直後には壊理だけが消えていた。
遅れて、凄まじい風が通路を抜けていく。
床の埃が舞い、治崎の背後から出てきた玄野が思わず顔を庇った。
「廻!?」
「……」
治崎は答えず、ゆっくりと首を動かした。
閃光が過ぎ去った方向。
廊下の奥。
そこに、人影が立っていた。
「お前は……緑谷、か?」
少なくとも、治崎の知る緑谷出久ではなかった。
以前の出久は、戦闘の際、人間離れした巨躯を白い鱗で覆い、肩や腕から禍々しい骨を突き出した、怪物そのものの姿をしていた。
だが、今そこに立っている男は違う。
体格こそ大柄ではあるものの、以前ほど異様に巨大ではない。
全身を覆う白い外骨格は鱗というよりも、人体の動きに沿って精密に組み上げられた鎧に近かった。
胸部から腹部へ続く骨板は細かく分割され、肩や肘、膝の形状も人間の可動を妨げないよう整えられている。
相手を威圧するような巨大な爪や棘もほとんど消え、代わりに全体の輪郭は不思議なほどすっきりとしていた。
頭部からは二本の白い突起が伸びている。
その姿は異形であることに変わりはない。
それなのに、治崎が最初に抱いた印象は怪物ではなかった。
むしろ。
「……ヒーロー?」
ミリオが思わず呟いた。
それほど、その白い姿はヒーローコスチュームめいていた。
そして、その腕の中には壊理がいた。
「……」
出久は何も言わない。
右腕で壊理の背中を支え、左腕を膝の下へ回し、幼い身体を丁寧に抱き上げている。
あれほど必死に逃げていた壊理も、今は暴れていなかった。
最初こそ何が起きたのか理解できず目を丸くしていたが、抱いている人物の顔を認識した瞬間、その表情が大きく崩れた。
「……デク……さん?」
震える声。
出久が壊理を見下ろす。
「うん、もう大丈夫だよ壊理ちゃん」
壊理は拘束された両手をどうにか持ち上げ、出久の胸元へ押しつける。
「僕が来た」