出久は腕の中の壊理を抱き直した。
突然の加速で驚かせてしまったのか、壊理の小さな身体はまだ強張っている。
両手首と足首には拘束具が残ったままで、白い骨鎧の胸元へ押しつけられた手が震えていた。
「大丈夫。もう離さないから」
できるだけ穏やかな声でそう言ってから、出久は壊理の身体を右腕へ預ける。
片腕だけでも十分に支えられるよう腰の位置を調整し、空いた左手を自由にした。
それから、ゆっくりと振り返る。
地下通路の向こうには治崎が立っていた。
伸ばしかけていた右手を中途半端な位置で止め、こちらを凝視している。
普段なら何が起きても崩れないはずの仮面めいた表情から余裕が消え、剥き出しになった目だけが驚愕に大きく見開かれていた。
その少し後ろには、もう一人いる。
白を基調としたヒーローコスチューム。
大柄で鍛え上げられた身体に、特徴的な金髪。
出久は一瞬だけ目を細めた。
「……通形先輩」
名前を口にすると、ミリオの表情がさらに驚いたものへ変わる。
「君は……緑谷君かい?」
そんな自分を見つめるミリオへ、出久は少し困ったように笑った。
「はい、お久しぶりです、通形先輩。神野以来ですね」
「……ああ」
ミリオは返事をしたものの、まだ完全には状況を飲み込めていないらしい。
そのやり取りだけを切り取れば、雄英にいた頃と大して変わらない。
先輩と後輩が久しぶりに顔を合わせ、近況について話しているだけだ。
しかし現実には、その片方は全国指名手配中のヴィランであり、腕の中には拘束された少女がいる。
さらに数メートル先には、その少女を取り戻そうとしている八斎會の若頭が立っているのだ。
当然、その状況を治崎が黙って見ているはずもなかった。
「おい、ルミリオン!」
怒声が地下通路へ響く。
ミリオが治崎へ顔を向けた。
治崎は先ほどまでの冷静さを完全に失っていた。
壊理を奪われたことがそれほど大きかったのか、それとも目の前でヒーローと出久が普通に挨拶を交わしている光景が癇に障ったのか。
仮面の上から覗く目が、苛立ちに歪んでいる。
「出たぞ! 緑谷だっ!」
治崎が出久を指差す。
「お前らはあいつを捕らえに来たんだろう!」
「……」
「何を突っ立っている!」
怒鳴りながら、一歩前へ出る。
「襲撃予告を出して、うちへ乗り込んできた張本人だぞ! 全国指名手配までされてるヴィランが目の前にいる! さっさと捕まえろ!」
ミリオは動かなかった。
治崎の怒声を聞いても、すぐに出久へ飛びかかることはなく、まずその腕の中にいる壊理を見た。
つい先ほどまで、自分の目の前で手足を拘束されていた少女。
その少女が治崎たちから必死に逃げ出し、助けを求めて叫んだ相手が、今こうして目の前に現れている。
しかも、その相手は今夜の襲撃を予告した張本人──緑谷出久だった。
「……緑谷君」
「はい」
出久は壊理を抱いたまま答える。
ミリオは少し考えてから、慎重に尋ねた。
「一つ、聞かせてほしい」
その声に先ほどまでの戸惑いはなかった。
ヒーローとして状況を整理しようとする真剣な眼差しが、出久をまっすぐ捉えている。
「君は、その少女を攫うために八斎會への襲撃を企てたのかい?」
「──違うの!」
答えたのは出久ではなかった。
腕の中から壊理が勢いよく顔を上げる。
「デクさんは私を助けようとしてくれたの!」
先ほどまで治崎を前にすると声すら満足に出せなかった少女が、今度ははっきりと叫んでいた。
「デクさんは悪くないの! 私が──」
壊理の唇へ、白い指先がそっと触れた。
「……?」
壊理が目を丸くする。
出久は人差し指を壊理の口元へ立て、小さく言った。
「しーっ」
怒っているわけではない。
むしろ、いつもホテルで話していた時と変わらない穏やかな表情だった。
「大丈夫」
「でも……!」
「いいんだよ」
出久はそれだけ言うと、壊理の口元から指を離しミリオへ向き直る。
口角がゆっくりと吊り上がる。
目が細まり、白い外骨格に覆われた異形の顔に浮かんだ笑みは、どう見ても善良な人間のものではない。
少なくとも、出久本人としてはそういうつもりだった。
「その通りですよ、ルミリオン」
「……」
「僕はこの子を攫いに来た」
悪びれる様子もなく、言い切る。
壊理がぽかんと出久を見上げた。
ミリオも数秒ほど黙り込む。
治崎だけが即座に食いついた。
「聞いたか!」
出久を指差し、怒鳴りつける。
「本人が認めたぞ! そいつは壊理を誘拐するためにうちを襲ったんだ! もう何も迷う必要はねえだろうが!」
ミリオは治崎を一瞥した。
それから再び出久を見る。
「……緑谷君。冗談抜きで聞くよ」
「はい」
「どうして、その子を連れていこうとしてる?」
壊理が答えようとする気配を感じたのか、抱く腕を軽く揺らして制する。
そして今度は笑わなかった。
「僕が欲しいからです」
ミリオはしばらく出久を見つめていた。
その腕の中では、壊理が納得できないと言いたげに何度も顔を上げている。今にも「違う」と叫びそうだったが、出久が抱く腕へわずかに力を込めると、少女は唇を結んだ。
「……そうか」
やがてミリオが短く答える。
出久が何を考えているのか、すべて理解できたわけではない。むしろ分からないことばかりだった。
なぜ八斎會を襲ったのか。なぜこの少女が出久を信頼しているのか。なぜ助けられたと訴える壊理を黙らせ、自分から誘拐犯を名乗るのか。
疑問はいくらでもある。
しかし、今この場で確かなこともあった。
緑谷出久は全国指名手配中のヴィランであり、今夜の襲撃を自ら予告して実行した張本人だ。
そして本人が壊理を連れ去る意思を明言している以上、ヒーローとして見逃すことはできない。
ミリオは一度、大きく息を吐いた。
「分かったよ、緑谷君」
先ほどまで浮かんでいた迷いが、その表情から消える。
「事情は後で聞く」
両足を肩幅に開き、腰を落とす。
「まずは君を捕まえる」
「……はい」
出久も静かに答えた。
「そうなりますよね」
その返事を聞き終えるより早く、ミリオの身体から余計な力が抜けた。
次の瞬間。
──ドンッ!!
地下通路が揺れた。
ミリオの右足が床を踏み砕き、爆発じみた踏み込みとともに身体が射出される。
同時に、緑色の稲妻が全身を駆け巡った。
数メートルの距離など、ないも同然だった。
「っ!」
出久の強化された視界いっぱいに、ミリオの姿が迫る。
速い。
神野で戦った時とは比較にならない。
元々、ミリオは個性に頼らない近接格闘だけでも雄英トップクラスの技量を持っていた。
そこへ、オールマイトに師事してからは身体能力が飛躍的に上がったと話題になっていた。
右拳が引かれる。
狙いは顔面。
もっとも、本気で頭を吹き飛ばすつもりではないだろう。
ミリオはあくまで自分を確保しようとしている。
だからといって、まともに受けていい威力ではない。
「──ふっ!」
出久の全身で白い外骨格が軋んだ。
脚部を覆う骨板が互いに沈み込み、その内側で筋肉と腱、骨格までもが同時に圧縮される。
筋骨発条化。
それはもう、単純に脚力を増幅するだけの技術ではなかった。
ミルコとの戦いを経て組み直された現在の身体では、内骨格と外骨格の双方が一つの発条機構として連動する。
足首から膝、股関節へ。
腰から脊柱へ。
力を蓄えた白い装甲が、一斉に弾けた。
ミリオの拳が届く寸前、出久の身体が真横へ跳ぶ。
──ブォンッ!
拳が鼻先を掠めた。
風圧だけで激しく煽られ、背後の壁へ衝撃が叩きつけられる。
「デクさん!」
「大丈夫? しっかり掴まっていてね」
出久は壊理の背中と膝裏へ腕を回し、今度こそ両腕でしっかりと抱え直した。
壊理の身体を胸へ密着させる。
「それじゃ、僕はこれで失礼しますね」
「……え?」
ミリオは出久を捕まえなければならない。
だが、出久の目的はミリオを倒すことではない。
壊理を連れて逃げることだ。
そして今の出久は──。
逃げるための身体を手に入れたばかりだった。
「じゃあ、そういうことで!」
「ちょっ──」
白い外骨格が一斉に沈み込んだ。
両脚だけではない。
足裏から脛、膝、大腿、腰、背中へ連なる骨板が、出久自身の筋骨格と連動して圧縮される。
ギチギチと硬質な音が連続し、全身に張り巡らされた発条が限界まで引き絞られた。
壊理が何かを察して、慌てて出久の首へ腕を回す。
解放。
──ドンッ!!
出久が消えた。
「なっ!?」
ミリオの目の前から、文字通り白い姿が掻き消える。
遅れて凄まじい突風が地下通路を吹き抜け、床の埃と細かな瓦礫がまとめて巻き上げられた。
数十メートル先。
白い影が一瞬だけ見えた。
右足が床へ触れる。
着地の衝撃で外骨格が圧縮される。
その衝撃を殺すのではなく、そのまま次の一歩へ回す。
圧縮。
解放。
圧縮。
解放。
一歩ごとに白い外骨格が撓み、戻る。
出久自身の脚力に加えて、着地によって生じたエネルギーの一部まで次の加速へ利用する。
全力疾走というより、巨大な発条が地面を跳ねながら前方へ射出され続けているような走りだった。
「待つんだ!」
遅れてミリオが駆け出した。
全身に稲妻が走り、踏み出した足が床を大きく陥没させる。
次の瞬間には金髪の姿がその場から消え、出久を追って一直線に地下通路を駆け抜けていった。
出久は振り返らない。
強化された聴覚が、背後から迫る足音を正確に拾っていた。
一歩ごとに響く轟音。
それが、徐々に大きくなっている。
「……速いなあ!」
思わず声が漏れた。
現在の出久の走法は、発条化した外骨格に着地の衝撃を蓄積し、それを次の一歩へ上乗せすることで効率よく速度を維持するものだ。
単純な筋力だけで地面を蹴るより遥かに速く、さらに身体へ加わる衝撃の一部まで再利用できる。
しかし、瞬間的な出力そのものではミリオに及ばない。
まして入り組んだ地下通路、障害物を意に介さない個性『透過』を持つミリオに徐々に距離を縮められてしまう。
出久は前方へ視線を固定したまま、背後の足音だけで距離を測った。
まだ数十メートル。
そう思った直後。
足音が、消えた。
「……っ」
出久の表情が変わる。
透過。
そう判断した瞬間にはもう遅かった。
緑色の稲妻を纏った身体が前方コンクリートの中から勢いよく飛び出した。
「先回り!」
「うわっ!」
出久は反射的に両脚の発条を圧縮する。
急停止。
白い外骨格が軋み、踵が床を削る。
勢いのまま数メートル滑りながらも、壊理へ衝撃が伝わらないよう上半身を抱え込む。
最後は片足を前へ出し、強引に制動をかけた。
──ギャリッ!
床に白い線が残る。
「デクさん……!」
「大丈夫。びっくりしただけ」
壊理を安心させるように言ってから、出久はゆっくり顔を上げた。
通路の真ん中にミリオが立っている。
両腕を軽く広げ、これ以上先へ行かせないよう道を塞いでいた。
「はあ……っ、はあ……」
さすがに息は乱れている。
透過で壁を抜けながら最短経路を取り、まるでオールマイトのような超パワーを使って全力で追い上げてきたのだ。
額には薄く汗が浮かび、胸も大きく上下している。
それでも表情には、どこか楽しそうなものが残っていた。
「追いついた……!」
「ずるいですよ、その個性」
「緑谷君に言われたくないよね!」
ミリオは息を整えながら笑った。
逃げ道はない。
「……仕方ないか」
小さく呟く。
出久は壊理を抱え直した。
これまでのように走るための抱き方ではない。
少女の後頭部へ片手を添え、胸元へ引き寄せる。
もう片方の腕で背中と腰を包み込み、自分の身体そのもので壊理を覆い隠した。
何かあれば、まず自分が受ける。
ミリオはそれを見て、わずかに目を細める。
捕まえようとしている相手なのに。
どう見ても、人質を盾にしている姿ではない。
むしろ逆だった。
壊理を守るために、自分の方を盾にしている。
「……緑谷君」
「はい?」
ミリオは息を吐き、腰へ手を当てた。
「神野の時とはえらい違いだね!」
出久が瞬きをする。
「機動力も……見た目も」
ミリオの視線が出久の全身をなぞった。
人間より一回り大きい程度の体躯。
全身を覆う白い骨の外骨格。
以前のように、ただ巨大で、ただ禍々しく、武器になるものを可能な限り表へ出した姿ではない。
骨板は人体の動きに沿って分割され、関節部には可動域が確保されている。
無駄に大きかった爪や棘もなく、脚部や背部は走行と衝撃吸収のために形状そのものが最適化されていた。
異形には違いない。
それでも、以前より遥かに洗練されている。
「それも噂の複数個性かい?」
「……」
「警察の資料じゃ、君はいくつも個性を使うって話だったけど」
ミリオは白い脚部を見る。
「さっきから、その外側の部分まで動いてるよね。筋力だけじゃ説明できない動きだ」
出久はしばらく答えなかった。
「……そうですね」
やがて出久が口を開く。
「骨を体外へ形成する個性と、鱗の鎧を形成する個性、身体を強化する個性、それから筋肉や腱、骨格を発条みたいに使うための個性をまとめて使っています」
説明しながら、出久は片脚へわずかに力を込めた。すると白い骨板が僅かに沈み込み、硬質な軋みが鳴る。
「今は、それらを全部まとめて一つの身体として動かしています」
「なるほど」
ミリオは感心したように頷いた。
「神野の時は、もっと一個一個を無理やり使ってる感じだったけど、今は全部が繋がってるんだね」
「……はい」
その言葉に、出久は一度だけ目を伏せた。
以前の自分は、とにかく強くなることばかり考えていた。
硬くなればいい。大きくなればいい。武器が多いほどいい。
使える個性なら、持っているだけ使えばいい。
そうして出来上がったのは、力の塊ではあっても、決して完成された姿ではなかった。
ただ失いたくなくて、奪われたくなくて、その恐怖を覆い隠すように力を積み重ねていただけだ。
出久は腕の中の壊理へ目を落とした。
少女は不安そうにしながらも、白い胸元へ手を添え、じっとこちらを見上げている。
「僕はこれまで、色んな間違いを犯してきました」
ミリオの表情から、わずかに笑みが消える。
「沢山の人を裏切って、沢山のものを失ってきました。自分では正しいつもりだったことも、今思えば間違っていたことばかりで……それでも、間違っていると分かっていて選ばなきゃいけないこともあった」
雄英を離れたこと。
仲間に背を向けたこと。
先生たちを敵に回したこと。
家族や友人から遠ざかり、ヒーローになるはずだった未来を自分の手で壊したこと。
思い返せば、失ったものはあまりにも多い。
「それで、強くなればもう失わないと思ったんです。誰にも奪われないくらい強くなれば、それでいいって」
出久は白い腕を見る。
「だから、使えるものは何でも使いました。とにかく強くなれるなら全部」
ミリオは黙って聞いていた。
「でも、それだけじゃ駄目だった」
強さとは、持っているものをすべて見せつけることではない。
巨大になることでも、相手を怖がらせることでもない。
守りたいものを守るために、必要な力を必要な形へ整えること。
その考えで作り直したのが、今の身体だった。
出久は壊理を抱く腕へ、少しだけ力を込める。
「これは、ヴィランとしての僕が辿り着いた力です」
白い外骨格が低く軋む。
ミリオはすぐには答えなかった。
「……ヴィランとして、か」
「はい」
出久は迷わず言い切る。
ミリオは出久の姿を見つめている。
白い外骨格は呼吸に合わせるように僅かに軋み、脚部や背部では発条化した構造がいつでも駆動できるよう張り詰めていた。
その中心で、出久は壊理を守るように抱き込んでいる。
異形。
そう呼ぶこともできる。
しかし神野で見た姿とは、やはり違っていた。
あの時の出久は、手にした力をただ積み上げ、その全てを武器として外へ突き出していた。
対して今の姿には明確な目的がある。走るための脚、衝撃を受け止めるための骨格、壊理を抱えたままでも戦えるよう整えられた体躯。
そのどれもが、一つの方向へ向けて噛み合っていた。
「……名前はあるのかい?」
不意にミリオが尋ねた。
出久が目を瞬かせる。
「名前、ですか?」
「うん。その姿。ここまで作り込んでるなら、何か呼び方くらいあるのかなって」
「……ああ」
出久はそこで、ほんの少しだけ視線を逸らした。
脳裏に浮かんだのは、ここへ来る直前まで殴り合っていた兎耳のヒーローだった。
次に会うまでに、兎にちなんだ名前を考えておけ。
半ば押しつけるように言われた言葉を思い出し、出久は白い外骨格へ視線を落とす。
「全因解放──ホワイト・ラビット」
「……ホワイト……ラビット?」
ミリオがその名を繰り返す。
「全因解放、か。複数の個性を全部まとめて使うから?」
「そうです。命名については色々ありまして」
ミリオは一瞬だけ首を傾げたものの、それ以上は追及しなかった。
代わりに、出久の腕の中にいる壊理を見る。
少女はまだ不安そうだったが、先ほどより身体の震えは小さくなっている。
白い外骨格の胸元を掴み、離れまいとするように身を寄せていた。
出久も、その小さな身体を包む腕を僅かに強める。
「それじゃあ、改めて言っておきます」
声から柔らかさが消えた。
先ほどまでの会話は終わりだと示すように、出久の全身で外骨格が低く軋み始める。
足首から膝、腰、背中へと発条が順番に引き絞られ、白い身体の各所へ力が蓄えられていった。
「僕は壊理ちゃんを攫っていきます」
「……」
「八斎會のところには戻さない。警察にも、ヒーローにも、今は渡しません」
ミリオの眉が僅かに動く。
出久は壊理を抱いたまま、その視線を真正面から受け止めた。
「この子は僕が連れていく」
白い外骨格が軋む。
今度こそ逃げ切るために。
必要なら戦うために。
壊理をもう二度と奪われないために。
その意志が、全身の発条を張り詰めさせていた。
ミリオは何も言わず、しばらく出久を見ていた。
そして、ふっと息を吐く。
「……分かった」
その声は穏やかだった。
出久が僅かに目を細める。
「君の覚悟は十分理解した」
ミリオはそう言って姿勢を正した。
戦う構えを取るでもない。
拳を握ることもなく、ただ自然体のまま出久を見ている。
「だから俺も、中途半端にはやらない」
「……そうですか」
「うん」
ミリオの足元が沈む。
ミリオ自身の身体が、コンクリートの中へすり抜け始めていた。
「……!」
出久の表情が変わる。
透過。
つま先から足首、脛、膝へと、ミリオの身体が床の中へ消えていく。
「通形先輩」
「次は本気で捕まえるよ、緑谷君」
腰まで沈みながら、ミリオはいつもの明るい調子で言った。
「覚悟してね」
「……こっちの台詞です」
出久が腰を落とす。
全身の発条が一段深く圧縮され、白い骨板の隙間から硬質な軋みが連続して響いた。
ミリオはそれを見て、僅かに笑う。
そして次の瞬間、頭の先まで完全に床の中へ消えた。
出久はその場から動かない。
視線だけをわずかに巡らせ、足元、左右の壁、天井、そして背後まで意識を広げる。
透過中のミリオは、こちらからすれば気配そのものが途切れたに等しかった。
だからこそ、見ることに頼るつもりはない。
どこから現れても反応できるよう、全身の発条を浅く圧縮したまま維持する。
深く溜めすぎれば方向転換が遅れる。
逆に力を抜けば、ミリオの速度には間に合わない。
足首から膝、腰、肩までを均等に張り詰めさせ、どの方向へでも瞬時に弾ける状態を保つ。
腕の中の壊理は、出久の胸元へ顔を寄せたまま動かなかった。
「壊理ちゃん。ちょっとだけ、そのままでいてね」
「……うん」
小さな返事を聞きながら、出久は呼吸を整える。
その直後。
背後の空気が、わずかに動いた。
「──そこ!」
予想通りだった。
出久は壊理を抱いたまま腰を捻り、背後へ向かって左拳を振り抜く。腕の外骨格が瞬時に圧縮され、回転と同時に発条が解放された。
白い拳と、床から飛び出してきたミリオの顔面が重なる。
しかし、衝撃はなかった。
出久の拳はミリオの頭部をそのまま通り抜ける。
「やっぱり──」
「君も学習しないな!」
ミリオが笑った。
神野と同じ。
拳を透過させて攻撃を空振りさせ、その直後に相手の反応を奪う。
ミリオの右手が出久の顔へ伸びる。
開かれた指。
狙いは目。
「ブラインドタッチ──」
指先が外骨格の隙間から出久の眼球へ突き込まれた。
壊理が息を呑む。
だが、出久は瞬きすらしなかった。
「──目潰し!」
ミリオの指が、何の抵抗もなく眼球を通過する。
「な……」
ミリオの表情が僅かに固まった。
神野では違った。
あの時の出久は、本能的に目を庇った。
たとえ透過すると頭では理解していても、人間は眼球へ指を突き込まれれば反射的に怯む。
そこをミリオに利用された。
だから今回は。
「どうせ透過してるんでしょ……!」
出久はミリオの指が眼球を通り抜ける感触すらないまま、身体をさらに捻った。
右脚の発条を解放する。
狙いは頭ではない。
出久の視線が、ミリオの左腕へ向く。
神野の時と同じなら、この目潰しはただの囮だ。
相手が怯んだ瞬間に本命を叩き込むためのフェイント。
ならば、どこかは実体化している。
身体すべてを透過させたままでは殴れない。
「そこですよね!」
「っ!」
出久の蹴りが跳ね上がった。
白い脚甲が軋み、発条化された脚部が一気に伸びる。
狙いは、カウンターを放つため実体化しているはずのミリオの左前腕。
──ガンッ!
今度は、確かな手応えがあった。
「うおっ!?」
ミリオの腕が大きく弾かれる。
その反動で身体ごと横へ流され、床へ着地した足が数歩分滑った。
出久は追撃しない。
蹴りを戻すと同時に壊理を抱き直し、その場で再び腰を落とす。
「ブラインドタッチに怯まなかった人は初めてだな」
「透過している以上ただ目障りなだけですから」
ミリオは自分で言いながら苦笑した。
出久の返答は正しい。
正しいのだが、人間の反射というものは、そう簡単に理屈だけで押さえ込めるものではない。
まして眼球へ指を突き込まれる瞬間に、目を閉じることすらしなかった。
「……神野の時より、肝も据わったね」
ミリオはそう言いながら、軽く肩を回した。
蹴りを受けた左腕にはまだ痺れが残っているのか、指先を何度か握っては開いている。それでも表情に焦りはなく、むしろ先ほどより楽しそうですらあった。
出久はその様子を見ながら、壊理を抱く腕だけは緩めず、再び全身の発条へ浅く力を込める。
「次も同じ手なら、今度はもっと早く返しますよ」
「それは困るなあ」
ミリオは苦笑した。
「じゃあ、違うことをしようか」
その言葉と同時に、全身を緑色の稲妻が駆け抜ける。
来る。
そう身構えた瞬間、ミリオの姿が真正面から消えた。
床を踏み砕く轟音が遅れて響き、次に姿を現した時には、すでに出久の右側の壁へ足をつけている。
「なっ──」
壁を蹴る、再び稲妻が弾けた。
今度は左上。天井。
そこからさらに反対側の壁へ。
ミリオは床だけを走っていなかった。
不自然なまでに強力な脚力を使い、壁、天井、床を区別することなく蹴り続けている。
狭い地下通路そのものを箱の内側のように使い、身体を何度も反射させながら高速で移動していた。
視界の端で緑色の稲妻が明滅するたび、次の瞬間には別の場所から轟音が響く。
出久は必死に首を巡らせるが、目で追った時にはもう遅い。
「透過ってこんな事も……!?」
ミリオ自身の直線速度だけでも厄介なのに、進行方向が一定ではない。
しかも。
天井を蹴ったはずのミリオが、そのままコンクリートの中へ沈んだ。
姿が消える。
次の瞬間には、出久の左後方の壁から弾丸のように飛び出した。
出久は咄嗟に身体を捻るが、ミリオは接触する寸前で再び透過し、そのまま白い外骨格をすり抜けて反対側の床へ落ちていく。
そして床の中へ消えたと思えば、今度は前方の天井から飛び出す。
「っ……!」
予測できない。
通常なら、相手が壁を蹴れば次に進む方向はある程度絞れる。
しかしミリオには『透過』がある。
壁へ向かったと思えばそのまま消え、天井へ飛んだと思えば内部へ潜り、どこから強制排出されるのか分からない。
出久の強化された視界は、ミリオを捉えていた。
それでも、身体が追いつかない。
強化された視力ならミリオの姿そのものは捉えられる。
だが、見えた時にはもう遅い。
脳が位置を認識し、身体を動かそうとした頃には、ミリオは次の壁や床へ消えている。
この速度で、壊理ちには一発も掠らせていない。
「デクさん……!」
壊理が怯えたように胸元へ顔を押しつける。
「大丈夫!」
出久はそう答えながら、壊理を覆うように身体を丸める。
それがさらに対応を遅らせた。
自分一人なら、もっと大きく跳べる。
もっと乱暴に方向転換できる。
多少壁へ叩きつけられても、外骨格と発条で衝撃を逃がせる。
だが今は壊理がいる。
急激な加速も、乱暴な回避もできない。
それをミリオも分かっているのだろう。
攻撃の軌道はどれも、壊理を巻き込まないよう出久の外側へ偏っていた。
「くそ……!」
出久は左腕を構え、姿を現した瞬間を狙う。
「そこ!」
振り向いた。
しかし誰もいない。
その瞬間、真正面の床が弾けた。
「しまっ──」
ミリオが飛び出してくる。
拳が白い胸部装甲へ叩き込まれた。
──ガンッ!
「ぐっ!」
外骨格が大きく撓む。
衝撃の一部を発条が吸収したものの、完全には殺しきれない。出久の身体が後ろへ押される。
反撃しようと左拳を振るう。
ミリオはすでに透過していた。
拳が空を切る。
「一発目!」
声だけが聞こえた。
「え?」
次の瞬間。
右脇腹。
──ドンッ!
「がっ……!」
二発目。
出久の身体が横へ傾く。
壊理を守るため、咄嗟に腕へ力を込める。
「デクさん!」
「大丈夫……!」
言い終わるより先に、左肩へ衝撃。
──ガッ!
三発目。
出久が振り向くがすでにいない。
直後。
ミリオが背後の壁から飛び出す。
「必殺──!」
拳が背中へ叩き込まれた。
──ドンッ!
出久の身体が前へ押し出される。
しかし倒れる前に、今度は前方の床からミリオが飛び出した。
「ファントム──!」
腹部。
──ガンッ!
外骨格が大きく沈む。
衝撃を吸収しながらも、蓄積された力を逃がす暇がない。
横へ吹き飛ばされかけたところへ、左壁からさらに一撃。
肩。背中。脇腹。太腿。
攻撃が終わらない。
「メナス!!」
緑色の稲妻が地下通路を埋め尽くす。
ミリオの姿が一人ではなく、何人もいるように見えた。
実際には一人。
ただ、一撃を加えるたびに透過して姿を消し、壁や床の内部へ潜り込み、別の場所から強制排出されて次の攻撃を叩き込んでいる。
出久の視界には、拳を振り抜いたミリオ、壁へ消えるミリオ、天井から出てくるミリオが同時に残像として映っていた。
それでも、本物がどこにいるのかを捉えることはできない。
一撃ごとに外骨格が軋み、全身の発条が衝撃を吸収していく。
しかし、次の攻撃が来るまでの間隔があまりにも短く、蓄えた力を逃がす暇がない。
右肩を打たれたと思えば次は脇腹、その直後には背中へ拳がめり込み、姿勢を立て直すより早く太腿へ蹴りが入る。
壊理を守るために身体を丸めている分、出久はなおさら反撃へ移れなかった。
「ぐっ……!」
白い骨板が大きく沈み込む。
次の瞬間には、前方から拳。
さらに横から肘。
背後から蹴り。
どれも致命傷を狙ったものではない。
それでも一発一発に確かな重さがあり、それらが間断なく積み重なることで、出久の身体から少しずつ余裕を奪っていく。
「デクさん……!」
「大丈夫……まだ……!」
そう答えた直後、腹部へ強烈な一撃が入った。
出久の身体が大きく折れる。
それでも壊理だけは胸元から離さない。
腕を緩めれば、次の衝撃で少女が投げ出される。
だからこそ、自分の姿勢が崩れても抱く力だけは保ち続けた。
ミリオはその様子を見逃さない。
正面から打ち込んだ直後、自ら透過してそのまま出久の身体をすり抜けると、床へ沈み、次の瞬間には背後から飛び出した。
「これで──!」
最後の一撃。
右拳が出久の背中へ叩き込まれる。
──ドンッ!!
鈍い衝撃音が地下通路に響いた。
白い外骨格が大きく歪み、出久の身体が前へ押し出される。
踏ん張ろうとするが、脚部の発条はすでに大量の衝撃を抱え込んでいた。
圧縮されすぎた骨板が思うように戻らず、膝に力が入らない。
「……っ」
数歩よろめく。
それでも倒れないよう耐えたものの、限界だった。
出久の右膝が床へつく。
──ゴッ。
白い骨板に覆われた膝がコンクリートへ沈み込み、細かな亀裂が周囲へ走った。
出久は荒く息を吐きながら、壊理を抱き直す。
左足はまだ立っている。
完全に倒れたわけではない。
それでも、片膝をついた姿は誰の目にも明らかに消耗して見えた。
全身の外骨格には細かな傷が増え、ところどころ骨板の継ぎ目がずれている。
内部では筋肉と腱が熱を持ち、何度も叩き込まれた衝撃が鈍い痛みとなって残っていた。
一方。
少し離れた場所で、ミリオもようやく動きを止めた。
床から上半身を出し、そのまま完全に透過を解除する。
緑色の稲妻が一度大きく弾け、その後ゆっくりと弱まっていった。
「はあ……っ、はあ……っ」
肩が大きく上下している。
先ほどまで壁や天井を高速で跳ね回り、何度も透過と実体化を繰り返していたのだ。
負担は相当なものだろうが、だとしてもミリオの消耗具合は尋常ではない。
ミリオは一歩進もうとして、わずかによろめいた。
「……っと」
そのまま右手を壁につく。
呼吸を整えようとしているが、なかなか落ち着かない。
額からは汗が流れ、顎を伝って床へ落ちる。
脚にも相当な疲労が溜まっているらしく、膝が僅かに震えていた。
それでも、ミリオは笑う。
「どうだ……緑谷君」
息の合間に、何とか言葉を繋ぐ。
「諦めてくれる気に……なったかい?」
「……」
出久は片膝をついたまま顔を上げる。
ミリオは強がるように笑っているものの、壁から手を離せていない。
立っているのもやっと。
出久には、そう見えた。
「通形先輩こそ、かなり無理してません?」
「……いやあ。歳かなあ」
ミリオは壁に手をついたまま、苦笑するように息を吐いた。
「正直、ちょっと無理したかな」
「ちょっとですか?」
「そこは先輩を立ててくれてもいいんじゃない?」
そう返しながらも、ミリオは壁から身体を離せなかった。
状況だけ見れば、両者とも消耗している。
ただし。
出久の全身には、ファントム・メナスによって叩き込まれた衝撃がまだ残っていた。
筋骨発条化によって吸収され、全身へ分散された力。
それを使えば、もう一度だけなら大きく動ける。
問題は、その一度でミリオを抜けるかどうかだった。
「……」
出久は静かに腰を上げようとする。
壊理を抱いたまま、白い外骨格がゆっくりと軋み始めた。
ミリオもそれに気づいたのだろう。
「まだやる気なんだね」
「もちろんです」
「いやあ、困ったな」
「こっちの台詞ですよ」
互いに消耗しながらも、まだ戦意は失っていない。
再び動けば、どちらかが先に限界を迎える。
そんな緊張が地下通路に戻ろうとした、その時だった。
遠くから何かが聞こえた。
いくつもの足音が、地下通路の奥からこちらへ向かって近づいてくる。
「……?」
ミリオが顔を上げる。
出久も反射的にそちらへ視線を向けた。
ドタドタと遠慮のない足音が響き、曲がり角の向こうから騒がしい声まで聞こえてくる。
「こっちだこっち!」
「違う、たぶんこっち!」
「どっちだよ!」
「俺に聞くな!」
聞き覚えがありすぎる声だった。
出久の眉がわずかに動く。
通路の角から、一人の男が飛び出してきた。
黒と灰色の全身スーツと、顔を覆うマスクのトゥワイス。
そして、複製されたであろう連合のメンバーが複数名。
先頭のトゥワイスが両腕を大きく振った。
「助けに来たぜー! ボスー!」
声が地下通路いっぱいに響いた。