「殺してやるぞ、緑谷ァ!」
怒声と同時に、怪物と化した治崎の巨体が沈んだ。
複数の腕のうち一本が床へ伸び、その掌がひび割れたコンクリートへ触れる。
「来る……!」
次の瞬間、床が轟音を立てて分解された。
砕けたコンクリートがその場で崩れ落ちるのではなく、治崎の個性によって別の形へと組み替えられていく。
床下の鉄筋や周囲の瓦礫まで巻き込みながら素材が一か所へ集まり、鋭く細長い形状へ変化した。
直後、一本目の棘が出久の足元から突き上がった。
「っ!」
出久は身体を捻りながら右脚を振り抜く。
白い外骨格に覆われた踵が棘の側面へ叩き込まれ、先端から半ばまでを一気に粉砕した。
砕けたコンクリート片が周囲へ弾け飛ぶ。
だが、その破片が床へ落ちるより早く、二本目が斜め前方から伸びてきた。
出久は左脚へ体重を移し、その棘も蹴り折る。
さらに三本目が真横から迫るが、出久は腰を捻り、回し蹴りで根元から叩き砕いた。
「壊理は俺がきちんと管理して、使ってやる!」
治崎が腕を床へ押しつけたまま吠えた。
その声に応じるように、部屋の床全体が波打つ。
出久の表情が変わった。
「……っ!」
今度は一本や二本ではない。
床の至るところが隆起し、無数の突起が一斉に形成され始めていた。
鋭い先端を持つコンクリートの棘が、治崎を中心として放射状に広がっていく。
その一本一本が人の胴ほども太く、まともに受ければ外骨格ごと身体を貫きかねない。
出久は反射的に両脚の発条を圧縮した。
最初に迫った一本を右足で蹴り砕き、その反動を利用して身体を横へ弾く。
しかし着地地点にはすでに次の棘が迫っており、出久は膝を曲げる暇もなく、その先端を足裏で踏み潰しながら再び跳び上がった。
空中で身体を捻り、横から伸びてきた一本へ左脚を叩き込む。
──バキンッ!
白い踵が食い込み、棘が半ばから折れ飛ぶ。
そのまま落下。
着地と同時に今度は背後から突き上げ。
出久は床へ手をつき、脚だけを跳ね上げるようにして回避した。
床へ触れた掌を支点に身体を回転させ、迫る棘を両脚で続けざまに蹴り砕く。
しかし、それ以上の速度で床が変形していく。
出久が一本を破壊している間に、その隣から二本。
二本を避ければ、逃げた先からさらに三本。
治崎は巨体を動かす必要すらなかった。
床へ触れているだけでいい。
地下室そのものが、巨大な武器へ変わっていた。
「くっ……!」
出久の右肩すれすれを棘が通過した。
白い肩装甲の一部が削れ、破片が飛ぶ。
その直後、足元から別の一本。
出久は腿を引いて回避しながら、反対側から迫った棘を前腕で受け流す。
鈍い衝撃が腕全体へ伝わった。
「重い……!」
単なるコンクリートではない。
再構成された密度も形も、治崎が戦闘用に最適化しているのだろう。
しかも、同じ場所から何度でも作り直せる。
出久が蹴り砕いた棘の残骸すら、床へ触れたままの治崎によって再び分解され、次の攻撃へ組み込まれていく。
避け続けても意味がない。
治崎が床や壁へ手を触れさせている限り、攻撃に終わりはない。こちらには体力にも外骨格にも限界があるのに、向こうは一度壊した床すら何度でも組み直して使ってくる。
守れば守るほど不利になる。
ならば、やることは一つだった。
「いくぞ」
出久が足を止めた。
「何?」
治崎の目が細くなる。
正面から三本の棘が迫ってくる。それまでなら蹴り砕くか、横へ逃げていたところを、出久は動かなかった。
代わりに両脚を深く沈める。
全身に張り巡らされた発条が、一斉に圧縮を始めた。
白い外骨格が身体へ食い込むほど深く沈み込み、骨板同士が軋みを上げる。筋肉と腱も同時に縮められ、身体のあらゆる部位へ力が蓄えられていった。
普段なら移動や衝撃吸収のために分散して使う機構を、今は一つの目的へ集中させる。
前へ出るためだけに。
「潰れろ!」
治崎が床を掴む。
三本の棘が一斉に出久へ殺到した。
その瞬間、出久の姿が消えた。
──ドンッ!!
足元の床が爆ぜる。
圧縮されていた両脚の発条が限界から解放され、出久の身体を真正面へ撃ち出した。
一本目の棘が迫るが、避けない。
身体をわずかに傾け、肩を掠める距離で通過する。
二本目は頭部を狙っていたが、首を倒してかわす。
三本目が胸元へ伸びてきた瞬間には、すでにその横をすり抜けていた。
「なっ──」
治崎の声が漏れる。
今まで棘を一つずつ処理していた出久が、突然すべてを無視して懐へ飛び込んできた。
巨体を覆う複数の腕が反応する。
「近づけばどうにかなると思ったか!」
右側の二本が同時に振り下ろされた。
出久は速度を落とさない。
床を踏む。
接地した瞬間、着地の衝撃を右脚へ取り込みながら膝を圧縮する。
そのまま解放。
身体が横へ跳ねた。
巨大な掌が背後の床を粉砕する。
出久は治崎の腕の内側へ入り込み、さらにもう一歩踏み込んだ。
「ホワイト・ラビット──スタンピード」
治崎の腹部が目の前にある。
右拳を引く。
肩から肘、手首まで、腕全体の発条を一気に圧縮した。
治崎が別の腕を間に入れようとする。
間に合わない。
──ドォンッ!!
出久の拳が巨体の腹部へ突き刺さった。
「がっ──!?」
衝撃が肉体を貫き、治崎の上半身が大きく仰け反る。
だが、一発では終わらない。
拳を押し込んだ反動で右腕の発条が再び沈む。
そこへ腰の捻りを加え、今度は左拳。
──ドンッ!
脇腹へ叩き込む。
治崎の巨体が横へ揺れる。
出久はその動きに合わせて踏み込み、右膝を引き上げた。
股関節から膝、足首までを一瞬で圧縮。
「っ!」
解放。
──ゴォッ!!
膝蹴りが治崎の腹へめり込み、巨体が一瞬だけ浮いた。
「ぐ、ぅ……!」
治崎の足が床から離れる。
治崎がどれだけ巨大になろうと関係ない。
床に触れているから、この空間を好きに作り替えられる。
ならば。
床から離してしまえばいい。
「このっ──!」
治崎が複数の腕を振り回す。
出久は低く沈み、その下へ潜り込んだ。
右脚で踏み込む。
左拳を圧縮──解放。
一撃を放つたび、その反作用を次の圧縮へ回す。
殴った衝撃で自分の腕が押し戻されれば、その力を発条へ蓄える。
足を踏み込んだ衝撃も、腰を捻った反動も、すべて次の一撃へ繋げていく。
止まらない。
ホワイト・ラビットの全身が、一つの巨大な発条機構として回り始めた。
「がっ……!」
治崎の身体が揺れる。
出久はさらに踏み込み拳を打つ。
引き戻された腕を圧縮し、そのまま反対の拳へ繋ぐ。
治崎の腕が上から迫れば、身体を沈める動作そのものを脚部の圧縮へ変え、次の瞬間には跳ね上がるようなアッパーを叩き込む。
「ぐっ──!」
顎が跳ね上がった。
治崎の巨体が再び浮く。
今度は先ほどより高い。
両脚が明確に床から離れた。
出久はそこへさらに一歩潜り込む。
「離れた!」
治崎の複数の掌が床から外れる。
その瞬間、周囲で隆起し続けていたコンクリートの動きが止まった。
形成途中だった棘が、不完全な形のまま静止する。
「……!」
出久はその変化を見逃さなかった。
やはり間違っていない。
治崎の『オーバーホール』がどれほど広い範囲を作り替えられるとしても、何にも触れていない状態から物質を生み出せるわけではない。
床から引き離してしまえば、少なくとも際限なく棘を作り続けることはできない。
ならば、着地させなければいい。
出久はさらに踏み込んだ。
落下しかけた治崎の腹部へ右拳を叩き込み、その反動で縮んだ腕を引き戻しながら、今度は左脚を踏み込む。
床から受けた衝撃を足首、膝、股関節へと流し、そのまま腰を捻って左拳へ繋げた。
──ドンッ!
「ぐっ……!」
巨体が再び持ち上がる。
出久は追う。
拳を叩き込むたびに自分へ返ってくる反作用を発条へ取り込み、圧縮された力を次の打撃へ回していく。
完全に宙へ浮いた治崎には踏ん張る足場がなく、巨体であることがかえって災いして、出久の連撃を受けるたびに身体全体が大きく揺さぶられた。
「この……!」
治崎が腕を振るう。
出久は首を傾けてかわし、空振りした腕の内側へ潜り込む。
そのまま胸部へ拳を叩き込み、落下しかけた巨体をまた押し上げた。
治崎の足が床へ近づけば、下から打ち上げる。
身体が横へ流れれば、回り込んで中央へ戻す。
複数の腕が出久を捕まえようとしても、足場のない状態では巨体を支えながら狙いを定めることすら難しい。
少なくとも今は。
治崎の攻撃を止められている。
「ぐっ……クソがァ!」
治崎の巨体がまた浮き上がった。
出久は着地すると同時に両脚を沈ませる。
呼吸はすでに荒く、全身の筋肉が熱を持っていた。
先ほどミリオと戦い、その後に地下へ落下し、一度失った外骨格まで作り直している。
そこからさらに、この連撃だ。
当然、いつまでも続けられるはずがない。
「はぁ……っ!」
それでも止めれば、治崎の手が床へ届く。
だから打つ。
拳を、肘を、膝を。
全身の発条を休ませることなく圧縮と解放へ回し続ける。
だが、治崎もただ殴られているだけではなかった。
「調子に……!」
振り抜かれた巨大な腕を出久がかわす。
その腕は出久ではなく、横へ伸びた。
「乗るなァ!!」
掌が壁へ叩きつけられた。
「──っ!」
出久の目が見開かれる。
「しまっ──」
──バギンッ!!
治崎の掌を中心として壁が分解される。
コンクリートが形を失い、内部の鉄筋まで一緒に捻れながら再構築を始めた。
壁から一本の巨大な棘が斜め上方へ突き出す。
「くっ!」
身体を捻ってかわす。
だが、それは出久を狙ったものではなかった。
治崎の巨体へ伸びている。
「何を──」
棘の側面へ治崎の足が触れた。
それだけで十分だった。
宙に浮いていた巨体が、壁から形成された構造物によって支えられる。
出久が床から切り離した治崎は、自分で新しい足場を作ったのだ。
「捕まえたぞ」
ぞっとする声が聞こえた。
治崎の複数の腕が一斉に壁へ触れる。
出久の顔色が変わった。
「まずい!」
壁全体が波打った。
治崎を中心として壁面が次々と分解され、部屋を取り囲むコンクリートが巨大な棘へ組み替えられていく。
「どこへ逃げても同じだ!」
治崎が吠える。
壁から棘が殺到した。
出久は最初の一本を蹴り砕く。
続く一本を身体を沈めてかわし、三本目の側面を足場にして跳躍する。
しかし、今までとは攻撃の方向が違う。
下からだけではない。横から、斜めから。
さらに治崎が再構成した壁面を伝い、頭上からも。
「っ……!」
出久が空中で身体を捻る。
右から伸びた棘が胸元を掠め、その勢いのまま左の壁へ突き刺さった。
その棘すら、次の瞬間には形を失う。
再構成。
分岐。
一本だった棘が途中から三本に枝分かれし、逃げた出久を追って軌道を変えた。
「こんなの……!」
右腕で一本を弾く。
左脚でもう一本を蹴り折る。
最後の一本を避けようと身体を反らした。
その瞬間。
背中側の壁が膨れ上がった。
「──っ!?」
出久が振り返る。
間に合わない。
巨大な柱にも似た棘が、真下から斜め上へ向かって突き出した。
先端ではなく、急激に隆起した側面が出久の背中へ激突する。
──ドゴォンッ!!
「がっ……!」
白い外骨格が大きく軋んだ。
全身が跳ね上げられる。
筋骨発条化が反射的に衝撃を吸収したものの、完全には殺し切れない。
何より、出久自身が空中にいたため力を逃がす場所がなかった。
身体が砲弾のように上へ飛ぶ。
「う、わっ!」
頭上には、先ほど落ちてきた大穴がある。
出久の身体はそこへ向かって一直線に撃ち上げられた。
崩れた床を抜ける。
──ガンッ!
途中から張り出していたコンクリートへ肩がぶつかり、身体が回転した。
「ぐっ!」
視界が激しく回る。
それでも上昇は止まらない。
背中へ叩き込まれた棘の勢いに加え、衝撃を受けた瞬間に外骨格の発条が反射的に力を逃がしたことで、出久の身体はさらに上へ弾かれていた。
治崎の攻撃によって地下から地上まで連続して崩れた縦穴を、白い身体が凄まじい速度で駆け抜けていく。
頭上から光が差した。
地下の蛍光灯ではない。
外から入ってくる光。
「まさか──」
直後。
──バガァンッ!!
残っていた床材を突き破り、出久の身体が地上一階へ飛び出した。
粉塵とコンクリート片が一緒に噴き上がる。
白い身体が宙を舞った。
ようやく自分が地上まで戻されたのだと理解する。
だが、着地を考える余裕はほとんどなかった。
「っ……!」
出久は空中で無理やり身体を丸める。
外骨格の発条を圧縮し、両腕で頭を庇った。
──ドンッ!!
背中から床へ叩きつけられた。
白い装甲が衝撃を受け止め、全身の発条が一斉に沈む。
それでも勢いは止まらず、出久は床を何度も跳ねながら転がっていった。
最後は廊下の壁へ背中から激突し、ようやく止まった。
「ぐ……っ」
肺から空気が押し出される。
出久はしばらく動けなかった。
耳鳴りがする。
視界の端が明滅し、身体のあちこちから鈍い痛みが遅れて押し寄せてくる。
ホワイト・ラビットの装甲にも亀裂が増えていた。
特に最初に棘を受けた背中は大きく損傷し、白い骨板の一部が欠けている。
「いっ……たぁ……」
呻きながら右手を床につく。
腕が震えた。
それでも力を込める。
「はぁ……はぁ……」
膝を立てる。
一度ふらつき、壁へ肩を預けた。
「デク君!?」
聞き覚えのある声が、すぐ近くから飛んだ。
出久が顔を上げる。
「……え?」
粉塵の向こう。
廊下の曲がり角から、壊理を抱えたトガが飛び出してきたところだった。
どうやら別の経路を使って地下から上がってきたらしい。
服には埃が付着し、髪も乱れているが、腕の中の壊理に目立った怪我はない。
その姿を確認した瞬間、出久の肩からわずかに力が抜けた。
「トガさん……壊理ちゃんも……」
「何してるんですかデク君!?」
トガは目を丸くしたまま、出久とその足元の大穴を交互に見る。
「さっき下で別れましたよね!? なんで床から飛び出してくるんですか!?」
「ちょっと……飛ばされて……」
「わぁ……」
壁へ預けていた身体が傾く。
トガは慌てて壊理を片腕で抱き直し、空いた手を出久の肩へ回した。
「うっ、この白いの可愛いけど重いです」
トガは文句を言いながらも、しっかりと出久の身体を支えた。
近くで見れば、状態の悪さは一目で分かる。
白い外骨格はあちこちが欠け、肩や背中には大きな亀裂が走っている。表面には削れた痕も多く、白かった装甲は粉塵で灰色に汚れていた。
呼吸も荒い。
それでも出久は、トガより先に壊理へ目を向けた。
「壊理ちゃん、怪我してない?」
「……」
壊理は答えなかった。
トガの腕の中から、ただ出久を見つめている。
その顔から血の気が引いていた。
「壊理ちゃん?」
「デク……さん……」
震える声。
小さな手が、出久へ伸びる。
「その……怪我……」
「ああ、これ?」
出久は自分の肩を見る。
欠けた外骨格。
その隙間から、内側の服や皮膚が少し見えている。
「大丈夫だよ。ほとんど外側だから」
実際には身体中が痛んでいたが、それを言う必要はない。
出久はできるだけいつも通りの声を作った。
「ちゃんと追いついたでしょ? って、こんなつもりじゃなかったけどね」
確かに追いついた。
正確には地下から吹き飛ばされて同じ場所へ出てきただけだが、今それを説明する意味もない。
出久は壊理を安心させようと、僅かに笑った。
その時だった。
──ガリ。
何か硬いものが、床の下を擦った。
三人の表情が止まる。
「……」
出久がゆっくり視線を落とした。
自分が飛び出してきた穴。
その縁に、指が掛かった。
反対側にも一本。
さらに奥から、もう一本。
巨大化した複数の腕が、穴の縁へ次々と伸びてくる。
──ガリッ。
コンクリートが削れる。
指が床へ食い込み、その力だけで巨大な何かが下から持ち上がってきた。
トガが壊理を抱く腕に力を込める。
直後。
穴の奥から、治崎の顔が現れた。
その周囲を覆う異常に膨れ上がった肉体。
続いて何本もの腕が床を掴み、それぞれが別々に力を込めながら巨体を引き上げていく。
一度に這い上がることすら難しいほど巨大化した身体を、治崎は複数の腕を使ってゆっくりと地上へ押し出していた。
人間というより、巨大な節足動物が穴から這い出してくるような動きだった。
「はぁ……はぁ……」
治崎も無傷ではない。
出久の連撃を受けた胴体には何か所も痕が残り、呼吸も荒れている。
それでも目だけは血走り、爛々と輝いていた。
穴から上半身を出した治崎は、まず出久を見る。
そして、トガとその腕の中にいる壊理を見つけた。
「……壊理、お前のせいだ」
壊理の身体がびくりと跳ねた。
「……っ」
トガの服を掴む。
治崎はその反応を見て、ゆっくりと目を細めた。
「お前が逃げたせいで!」
治崎の怒声が廊下いっぱいに響き、壊理の小さな肩がびくりと跳ねた。
「お前が助けを求めたせいで、緑谷はこんなになったんだぞ! よく見ろ、今にも死にそうじゃねえか!」
複数の腕の一つで出久を指し示しながら、治崎はさらに声を荒らげる。
その先にいる出久は、確かにひどい有様だった。白い外骨格はあちこちが欠け、肩や背中には大きな亀裂が走っている。
呼吸も荒く、トガに支えられなければ立っていることさえ難しそうに見えた。
壊理の視線が、恐る恐る出久へ向かう。
「全部、お前が余計なことをしたせいだ。お前だけが我慢すればいい、そう教えてきたよな? 黙って俺の言うことを聞いていれば、誰も傷つかなかった。なのにお前は逃げた。助けを求めた」
「治崎、お前……」
出久が低い声を挟むものの、治崎は聞こうともしなかった。
「お前は馬鹿な奴だよ、壊理!」
その言葉に、壊理は俯いた。
トガの服を掴む指が強くなり、細い肩が小刻みに震えている。
先ほどまで出久へ伸ばしていた視線も落ち、顔は前髪の陰に隠れてしまった。
治崎は、その反応を見て目を細めた。
効いている。
もう少し押せば、これまでと同じように自分から諦める。
そう確信したのか、怒鳴り声を収め、今度は言い聞かせるような声音へ変える。
「……さあ、戻ってこい。今ならまだ許してやる」
壊理は顔を上げない。
「緑谷も連合も、お前さえ戻ってくれば追いかけはしないさ。お前一人が元の場所へ戻れば、それで全部終わる。これ以上、誰かが傷つくこともない」
治崎はゆっくりと腕を伸ばした。
「お前は余計なことを考えなくていい。今まで通り、俺の言うことだけ聞いていればいいんだ」
「壊理、
治崎の言葉を聞き、出久はその露骨なやり口にかおをしかめた。
壊理に自分の意思で戻らせるために、周囲が傷ついた責任まで押しつけ、自分一人が我慢すればすべて丸く収まると思わせようとしている。
きっと今までにも、同じことを何度も繰り返してきたのだろう。
「壊理ちゃん、そんなの聞かなくて──」
出久が声を掛けようとした、その時だった。
壊理の手が、トガの服からゆっくり離れた。
「……壊理ちゃん?」
トガが不思議そうに覗き込む。
壊理は俯いたまま腕を持ち上げ、その手を自分の目元へ運んだ。
指先は震えていて、動きもぎこちない。それでも人差し指で片方の下まぶたを引っ張ると、恐る恐る舌を突き出した。
あっかんべー。
妙に不格好で、どう見てもやり慣れてはいない。
治崎が固まった。
「……何をしてる?」
壊理はまだ震えていた。
怖くないわけではないのだろう。
目には涙が浮かび、今にも声が詰まりそうになっている。
それでも顔を背けず、治崎を真っ直ぐ見た。
「うるさい!」
「……は?」
「ばか! ハゲ! 変なマスク!」
廊下に、奇妙な沈黙が落ちる。
出久は目を瞬かせ、トガは口元を押さえながら肩を震わせた。対する治崎だけは、何を言われたのか理解するまで数秒を要したようだった。
「……お前」
「デクさんは負けないもん!」
壊理は声を張った。
その声はまだ震えている。それでも、今度ははっきりと届いた。
「デクさんは助けに来てくれたもん。私を連れて逃げてくれたもん。だから、デクさんは負けない!」
「壊理……」
「戻らない!」
最後にもう一度、壊理は治崎へ向かって思いきり舌を出した。
「べーっ!」
今度こそ、治崎は完全に言葉を失った。
これまで壊理が逃げたことはあった。
泣いたことも、怯えたこともあった。
しかし、治崎の言葉そのものに逆らい、まして悪態をつくようなことは一度もなかったのだろう。
目の前にいる少女が本当に自分の知る壊理なのか確かめるように、治崎はしばらく呆然と見つめていた。
出久はその横で、ぽかんと壊理を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……そっか」
「デク君?」
トガが出久を見る。
出久は肩を支えていたトガの腕からゆっくり身体を離すと、一度よろめきながらも自分の足で立った。
全身が痛み、白い外骨格も満身創痍だったが、それでも先ほどより幾分か表情は軽い。
そのまま壊理とトガの前へ出て、治崎と向き合う。
「そういうことだから」
「……何がだ」
治崎が低く唸る。
出久は拳を握り直した。ひび割れた外骨格が小さく軋んだが、構わず腰を落とす。
「続き、やりましょうか」
そして、口元をにっと吊り上げる。
「うちのお姫様は人使いが荒いみたい」
「デクさん!」
背後から壊理の声が飛ぶ。
「負けないで!」
出久は振り返らず、片手だけを軽く上げた。
「了解」
治崎の顔が、今度こそ憎悪に歪んだ。
「……ふざけやがって」