霞戦記   作:西安

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序章:比島沖海戦
悪夢の一幕


幾度見たかも分からない、悪夢の中。

  

私は、暗闇の中に立っていた。

 

そこには空も、海も、床もなかった。だが、足元には確かに何かを踏みしめる感触があった。硬い甲板のようでもあり、薄く張った水面のようでもあり、一歩動くたびに、靴底の下でぬるいものが揺れる。

 

潮の匂いがした。

 

けれど、それは昼の泊地で嗅ぐような、生きた海の匂いではなかった。今私がいるはずの、暑い熱帯の空気とは違う、寒い、寒い冷帯の空気。油と鉄錆、砲煙、焦げた木材、そして何かが焼けた後に残る、胸の奥をざらつかせるような臭い。それらが混じり合い、暗闇そのものに染み込んでいる。

 

何もないはずなのに、ここがどこなのか、私は知っていた。

 

ここは、私が戻りたくない場所だ。

 

「……やめて」

 

声に出したつもりだった。だが、その声は闇に吸われて、すぐに消えた。

 

返事の代わりに、遠くで水音がした。

 

ぽつり、ぽつりと、何かが黒い水面へ落ちる音。雨ではない。もっと重い。もっと粘ついた音だった。耳を塞ごうとしても、手が動かない。目を閉じようとしても、瞼が下りない。

 

やがて、暗闇の向こうに、誰かの輪郭が浮かび上がった。

 

一人目は、白雲だった。

 

彼女は、最後に見た時と同じ姿でそこにいた。艤装は砕け、肩から先は黒く煤け、白いはずの服と長い髪は海水と油に濡れて重く垂れていた。いつもなら、少し控えめに笑う顔が、今は血の気を失ったまま、こちらを向いている。

 

「霞……様……」

 

その声を聞いた瞬間、私の喉が締めつけられた。

 

違う。聞きたくない。

それ以上、言わないで。

 

「白雲のことは構わず、船団を……」

 

半年前のことだ。

 

月も出ない真夜中だった。護衛していた船団は、灯火管制の闇の中で黒い塊のように進んでいた。敵潜水艦の存在は分かっていた。だが、どこにいるのかまでは掴めなかった。誰もが耳を澄ませ、探信音の反響に神経を尖らせ、ほんの僅かな水音にさえ過敏になっていた。

 

その時、白雲がやられた。

 

雷撃だった。

 

水柱が上がった瞬間のことは、今でも妙に鮮明に覚えている。海面が白く裂け、遅れて腹の底を殴るような爆発音が来た。白雲の姿が一瞬、火と水煙に呑まれ、次に見えた時には、彼女はもうまともに動ける状態ではなかった。

 

助けに行けたはずだった。

 

距離は遠くなかった。全速で向かえば、少なくとも手を伸ばすことくらいはできたかもしれない。彼女の体を支え、沈む前に引き上げることくらいは、できたかもしれない。

 

けれど、私は行かなかった。

 

行けなかった、ではない。

 

行かなかった。

 

敵潜水艦はまだそこにいた。こちらが白雲の救助に向かえば、船団の護衛線に穴が開く。次に狙われるのは輸送船だった。何百人もの人間と、前線に届けるはずの物資が、暗い海に沈む。そうなれば、白雲一人どころの損害では済まない。

 

理屈は分かっていた。

 

命令も分かっていた。

 

白雲自身も、それを分かっていたから、あんなことを言ったのだ。

 

「違う、私は見捨てたかったんじゃ……」

 

口から出た言葉は、あまりにも弱かった。

 

暗闇の中の白雲は、責めなかった。ただ、あの時と同じ目で私を見ていた。助けてほしいと言わない目。自分を置いていけと理解してしまった目。だからこそ、私は耐えられなかった。

 

責めてくれればよかった。

 

なぜ助けなかったのかと怒鳴ってくれればよかった。

 

そうすれば、私はまだ反論できた。任務だった、船団を守るためだった、あなた自身がそう言ったのだと、いくらでも言い訳を並べられた。

 

だが、彼女は何も言わない。

 

何も言わないまま、沈んでいく。

 

足元の黒い水が、ゆっくりと彼女の膝を呑み、腰を呑み、胸を呑んだ。

 

「待って、白雲、違うの、私は……」

 

手を伸ばそうとした。

 

今度こそ伸ばそうとした。

 

だが、私の腕は鉛のように重かった。指先が震えるばかりで、少しも前へ進まない。

 

その隣に、もう一人の駆逐艦が浮かび上がった。

 

薄雲だった。

 

「霞さん……あとはお願い……」

 

白雲と同じだった。

 

違う戦場。違う夜。違う海域。けれど、結末だけは同じだった。

 

私はまた、助けられなかった。

 

薄雲の声は、白雲よりも少し穏やかだった。だから余計に残酷だった。諦めた者の声だった。自分がもう戻れないことを受け入れた者の声だった。

 

「やめて」

 

私は首を振った。

 

「どうして、こんなことを思い出させるのよ……」

 

闇は答えなかった。

 

代わりに、また別の影が現れる。

 

霰。

 

私の唯一の妹。少しぽわぽわしていて、ほっとけない、可愛い妹。

 

声を上げることもなく、肉体を魚雷に引き裂かれた。

 

名前を呼ぶ前に、胸の奥が潰れた。

 

助けられなかった。

 

霰も。白雲も。薄雲も。

 

私が無力だったばかりに。

 

私が逃げたばかりに。

 

私が、正しい顔をして、皆を置いていったばかりに。

 

「違う」

 

自分に言い聞かせる。

 

「あれは仕方なかったのよ」

 

仕方なかった。

 

命令だった。

 

状況が悪かった。

 

私一人にどうにかできることではなかった。

 

そうだ。全部、そうだ。

 

けれど、その言葉をいくら積み上げても、目の前で沈んでいく彼女たちの手を、私は一度も掴めなかった。

 

それだけは、消えない。

 

「居なくなった皆。本当は助けたかったのよね」

 

何処か間延びした声が、四方八方から聞こえてきた。

 

その声は、白雲のものでも、薄雲のものでもなかった。朝潮姉さんの声にも似ているようで、違う。優しげで、甘く、耳に入った瞬間に心の奥へ染み込んでくる声だった。

 

「当たり前じゃない!」

 

私は叫んだ。

 

「私が大好きだった姉さん達も、仲間も、霰も、皆死んで欲しく無かった! でも、もう駄目なのよ……」

 

叫びは途中で崩れた。

 

本当は、誰かにそう言いたかったのかもしれない。

 

助けたかった。死んでほしくなかった。見捨てたかったわけじゃない。私は悪くない。私は悪くないのだと。

 

だが、その言葉は、誰にも届かなかった。

 

届かせる相手が、もういなかった。

 

「霞が心配することなんて何もないわ」

 

その声に、私は顔を上げた。

 

闇の奥に、光が差した。

 

最初に見えたのは、白い手だった。次に、肩。髪。見慣れた制服。そして、私が何度も思い出しては胸を締めつけられた顔。

 

いつも厳しくて怖かったけど、ここぞというときは味方してくれる、最愛の長姉、朝潮の姿だった。

 

「朝潮姉さん……?」

 

声が震えた。

 

そんなはずはない。朝潮姉さんは、もういない。私の前に立っているはずがない。分かっている。分かっているのに、足が勝手に前へ出た。

 

「霞は、よく頑張ったわ」

 

朝潮姉さんは、昔と同じ顔で微笑んだ。

 

「もう十分よ。誰もあなたを責めていない。白雲も、薄雲も、霰も、皆、霞のことを恨んでなんかいないわ」

 

「本当に……?」

 

「ええ。本当よ」

 

その言葉が、あまりにも欲しかった。

 

誰かにそう言ってほしかった。お前は悪くない、と。仕方なかったのだ、と。もう苦しまなくていいのだ、と。

 

「さあ、こちらに……もう、これ以上霞が苦しむことなんてないの。私と一緒に、楽になりましょう?」

 

朝潮姉さんが、両腕を広げる。

 

その向こうに、白雲がいた。薄雲がいた。霰がいた。皆、先ほどまでの無惨な姿ではなく、かつての穏やかな姿で、私を待っているように見えた。

 

行けば、楽になれる。

 

もう、誰かを見捨てずに済む。

 

もう、命令と良心の間で引き裂かれずに済む。

 

もう、朝が来るたびに、次は誰が沈むのかと怯えなくて済む。

 

「ぁ……?」

 

私は手を伸ばした。

 

「ナニガ……」

 

指先が、朝潮姉さんの手に触れようとした。

 

その刹那。

 

轟音が、闇を裂いた。

 

目の前の朝潮姉さんの体が、右へ勢いよく吹き飛ばされた。

 

「私の可愛い妹に、何をしようとしているのかしら」

 

聞き慣れた声がした。

 

怒っている時の声だった。呆れている時の声だった。けれど、その奥に確かに私を案じる響きがある、私の知っている声だった。

 

「朝潮姉さんの姿を使って?」

 

そこに立っていたのは、右手に連装砲を構えた満潮姉さんだった。

 

「え……満潮姉さん……?」

 

「ぼさっとしない!」

 

満潮姉さんは、私を見ずに叫んだ。

 

その視線は、吹き飛ばされた朝潮姉さんだったものへ向けられている。

 

そこに、もう朝潮姉さんはいなかった。

 

白い肌が溶ける。制服が崩れる。髪がほどける。人の形をしていたものは、黒く粘つく泥へ変わり、床とも海面ともつかない闇の上に広がっていった。

 

その泥の中で、いくつもの口が開いた。

 

「キサマ……ナニヲスル……?」

 

「何をする、じゃないわよ」

 

満潮姉さんは砲口を向けたまま、吐き捨てるように言った。

 

「あんたみたいなのが、朝潮姉さんの顔をするな」

 

次の瞬間、再び砲声が響いた。

 

火線が闇を貫き、泥の塊が弾け飛ぶ。だが、それは完全には消えなかった。散った泥はまた寄り集まり、白雲の声で、薄雲の声で、霰の声で、私の名を呼び始める。

 

「霞……」

 

「置いていかないで……」

 

「今度は、助けて……」

 

足が竦んだ。

 

「聞くな!」

 

満潮姉さんが叫ぶ。

 

「それはあの子たちじゃない! 振り返るんじゃない!」

 

「でも、満潮姉さんは……!」

 

「私のことは良いから、早く逃げて!」

 

満潮姉さんは振り返らなかった。

 

その背中は、昔と同じだった。私より少し先を歩き、文句を言いながらも、結局は面倒を見てくれる姉の背中だった。

 

何故この場に満潮姉さんがいるのか。あの朝潮姉さんの姿を騙った化け物は何だったのか。なぜ夢の中で、彼女だけが私を助けに来られるのか。

 

考えている余裕はなかった。

 

私は走った。

 

背後で砲声が響く。泥が這う音がする。水を掻き分けるような音が、次第に近づいてくる。足元の闇はいつの間にか海に変わっていた。水は膝まで来ている。走るたびに重く絡みつき、私を引き戻そうとする。

「霞姉さん」

 

霰の声。

 

「霞」

 

白雲の声。

 

「霞さん」

 

薄雲の声。

 

「霞」

 

朝潮姉さんの声。

 

違う。

 

違う。

 

違う。

 

私は歯を食いしばり、前だけを見た。

 

闇に包まれていたはずの夢の世界は、次第に遠くで光を帯び始めていた。最初は針の穴ほどの光だった。それが走るごとに広がり、やがて無数の粒となって、暗闇の壁にひびを入れていく。

 

程なくして、世界の端に着いた。

 

そこから先には何もなかった。

 

ただ、下の方から、無数の光が立ち上っていた。海の底から空へ向かって星が昇っているような、不自然な景色だった。

 

後ろでは、まだ満潮姉さんが戦っている。

 

砲声。泥の咆哮。誰かの悲鳴。誰のものか分からない声。

 

安全でいられる時間は、もうほとんど残っていない。確証も無いのに、それだけは真実だと理解していた。

 

「行きなさい、霞!」

 

満潮姉さんの声が聞こえた。

 

「生きている方へ走りなさい!」

 

胸の奥が痛んだ。

 

また置いていくのか。

 

また私は、誰かを残して逃げるのか。

 

そう思った瞬間、足元の闇から、冷たい手が伸びてきた。白い指が、私の足首を掴む。一本ではない。二本、三本、数え切れないほどの手が、水の中から生え、私を引きずり戻そうとする。

 

「行かないで」

 

「今度こそ」

 

「一緒に」

 

「霞」

 

私は目を閉じた。

 

「ごめんなさい」

 

誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

 

白雲へか。薄雲へか。朝潮姉さんへか。霰へか。あるいは、今また置いていこうとしている満潮姉さんへか。

 

それでも、私は飛んだ。

 

躊躇なく、というには、あまりにも胸が痛かった。

 

それでも、飛び込むしかなかった。

 

無数の光が、私の視界を覆い尽くす。

 

 

 ◇

 

 

顔の右側に、引っ張られるような痛みを感じた。

 

痛い。

 

頬をつねられているのだと理解するまでに、少し時間がかかった。

 

まだ体は海の中にいるようだった。息が浅い。胸が苦しい。寝間着が背中に張り付いて、汗でひどく冷えている。指先は何かを掴もうとした形のまま固まっていた。

 

誰なのか。

 

敵か。

 

仲間か。

 

それとも、まだ夢の続きなのか。

 

「霞、朝です。早く起きてください」

 

頭上から、聞き覚えのある、でも少し不機嫌な声が耳に入った。

 

不知火の声だった。

 

目を擦りながら布団から体を起こす。喉が乾いていた。呼吸を整えようとしても、胸の奥で心臓がやかましく打っている。さっきまで見ていたものが夢だったのだと、頭では理解している。だが、まだ耳の奥に砲声が残っていた。

 

微かな光を頼りに見渡すと、私の布団の横に、誰かが座っているのが見えた。

 

立ち上がって近づくと、隣のちゃぶ台の横に、寝間着姿の同室の不知火が座っていた。

 

それも、私を鋭い眼光で睨みつけながら。

 

ただ、その目の下には薄く疲れが滲んでいた。怒っているのは確かだが、それだけではない。迷惑そうにしながらも、完全に放っておくことはできなかった。そんな顔だった。

 

「……不知火?」

 

自分の声は、思ったより掠れていた。

 

「はい。不知火です。敵でも、亡霊でもありません」

 

そう言うと、不知火は私の頬から手を離した。

 

つねられていた右頬だけが、じんじんと現実の痛みを訴えている。

 

だが、よく見るとまだ日の出も始まっていない。灯火管制のための黒い覆いが被せられた暗い電灯だけが、四畳程の板敷の部屋にいる二人をささやかに照らしていた。

 

夢の中の闇とは違う。

 

ここには、湿った布団があり、古びたちゃぶ台があり、不知火の冷たい視線があった。

 

それでも私は、まだ完全には戻って来られていなかった。

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