「不知火……今何時よ」
自分の声が、思ったよりも掠れていた。
喉の奥が乾いている。まるで、夢の中で黒い海水を飲まされたようだった。胸の内側ではまだ心臓が早鐘を打っていて、耳の奥には砲声の名残がこびりついている。満潮姉さんの叫び声も、泥の中から私を呼ぶ声も、完全には消えていない。
目を開けたはずなのに、しばらくはここがどこなのか分からなかった。暗い天井。汗を吸って重くなった寝間着。湿気を含んだ布団。頬に残る痛み。それらを一つずつ確かめて、ようやく私は夢から戻って来たのだと理解した。
「〇五三〇ですが、何か?」
不知火は、少しも悪びれずにそう言った。
その声だけは、夢の中の誰の声とも違っていた。冷たく、平坦で、容赦がない。だからこそ、それが現実のものだと分かった。
「〇五三〇……?」
思わず聞き返した。
起床ラッパが鳴り響くのが〇六〇〇なので、それよりも三十分も早い。まだ外は夜の続きのように暗い。灯火管制のために黒い覆いを被せられた電灯だけが、四畳程の板敷の部屋を鈍く照らしていた。
不知火を見れば、彼女もまだ起きたばかりなのか、髪の毛も整えていない。いつもなら乱れ一つ見せない横髪が、湿気のせいか少し跳ねていた。普段の不知火からすれば、かなり珍しい姿だ。
まさか、たまたま早く目が覚めたからって私を道連れにしようとしたのか。
熱帯地域特有の粘つくような空気が部屋を覆う。布団の中に戻れば、もう一度眠れるのかもしれない。だが、目を閉じればまたあの闇に戻される気がした。それを口に出せるはずもなく、私はわざと不機嫌そうに言った。
「ちょっと早すぎない? 私、まだ寝足りないんだけど」
「霞」
不知火は、ひどく平坦な声で私の名を呼んだ。
「貴方が横で一々唸ったり、泣いたり、挙句には何かに謝り始めたりしたせいで、不知火はまともに眠れていないというのに。それに、今日は出撃部隊割が発表される重大な日です。よくもまあ、そんな呑気なことが言えますね」
「……私、そんなに?」
「ええ。かなり」
即答だった。
まさか、本当に現実でも叫んでいたとは。
夢の中で私は、白雲の名を呼んだのか。薄雲に謝ったのか。朝潮姉さんに縋ったのか。それとも、満潮姉さんに置いていかないでと叫んだのか。
何を口走ったのか分からないということが、余計に気まずかった。
不知火は、そういうものを聞かなかったことにしてくれるほど優しくはない。だが、面白がって言いふらすような性格でもない。だからこそ、かえって居心地が悪い。
彼女は私の弱さを見ても、慰めない。ただ、それがそこにある事実として扱う。
「大方、沈んだ仲間のことを夢に見ていたのでしょう」
はあ、とため息をついた不知火は、肩を竦めて私をきっと見つめた。
そのため息に、呆れだけがあるわけではないことを、私は知っている。彼女はこういう時、慰めるような言葉を使わない。使えないのではなく、使わない。優しい言葉が人を救うとは、あまり信じていないのだ。
「いつまでも、いなくなった仲間に囚われていてどうするのですか。それをすることによって、皆がここに帰って来るんですか?」
「……」
言い返せなかった。
白雲も、薄雲も、朝潮姉さんも、霰も。
どれだけ夢に見ても、帰って来ない。
そんなことは分かっている。分かっているからこそ、余計に腹が立つ。分かっていることを、わざわざ冷たい刃物のように差し込んでくる不知火にも、それを受け入れるしかない自分にも。
「そうしたら、不知火だって苦労しません。でも、現実はそうではないんですよ。そんなことを考えている暇があったら、少しでもまだこの世にいる仲間を生き永らえさせる方法を考えてください」
その言葉は、まだあの夢に囚われている自分の本質を抉るような、小さな剣だった。
「だって、これからまた大勢の仲間が、戦場に消えるのかも知れないんですから」
不知火は淡々と言った。
淡々と言ったからこそ、その言葉は重かった。
そうだ。これから始まるのは、深海棲艦との戦いの中でも、史上最大級の作戦なのだから。そのために北方海域から遥々リンガ島まで来たのだ。
姉妹艦や戦友の喪失に打ち震えている自分に比べ、不知火は既に達観の域まで達したようだ。いや、達観しているのではないのかもしれない。彼女はただ、自分が壊れないために、壊れている部分を外から眺める術を覚えただけなのだろう。
私は、部屋の外に出て行った不知火を追いかけて、まだ寝ている他の艦娘の邪魔にならないよう静かに扉を開けて出た。
◇
午前中の今日は出撃も無かった。
ただし、出撃が無いからといって、泊地が静かなわけではない。むしろ、こういう日の方が落ち着かない。
廊下には、艤装の調整に向かう艦娘が何人も行き交っていた。普段ならくだらない話で騒ぐ者たちも、この日は声を潜めている。整備区画の方からは、工具が金属を叩く音が断続的に聞こえた。油の匂いと、焼けた鉄の匂いと、湿った木材の匂いが、南方の重い空気に混じっている。
誰もが忙しそうに見えた。
だが、その忙しさは普段のものとは違っていた。訓練や哨戒前の慌ただしさではない。もっと大きなものに向かって、全員が押し流されているような慌ただしさだった。
食堂でも同じだった。
いつもなら、朝食の残りの甘味を誰が余計に取っただの、昨日の訓練で誰が転びかけただの、どうでもいい話があちこちから聞こえてくる。だが、その日の食堂は、箸が食器に触れる音ばかりが妙に大きかった。
話し声はある。けれど、どれも短い。笑い声もある。けれど、すぐに途切れる。
皆、自分の配属先を待っていた。
どの部隊に入るのか。
誰と組むのか。
どの海域に向かうのか。
先鋒か、後詰か、それとも囮か。
発表されるまで、誰にも分からない。だが、今回がただの哨戒や輸送護衛ではないことだけは、誰もが知っていた。
マリアナの後に残されたものを、全部かき集めて出す。そういう作戦だった。
◇
一三〇〇。
霧が立ち込める、リンガ泊地のお昼の時間帯。
白く薄い霧が建物の間に垂れ込め、遠くの桟橋に立つ艦娘の輪郭をぼかしている。晴れているわけでもないのに、肌だけがじっとりと湿る。南方の空気は、何もしなくても体力を奪っていく。
出撃編成が書かれた黒板を眺めに、作戦に参加する艦娘が続々と集まって来る。
ざわざわと騒がしい声が、自室にいる私達にも聞こえてくるようだ。
「霞、皆も行っていますから、不知火達もそろそろ行った方が良いのでは?」
「そうね、行こうかしら」
何せ、マリアナの時以来の大戦力で敵深海棲艦に当たると言うのだ。自分たちがどの部隊に配属されるか、皆せわしなく話し合っていた。
廊下に張り出されていた黒板の前には、既に人だかりが出来ていた。
背の高い重巡たちが先に内容を読み取り、その後ろで駆逐艦娘たちが爪先立ちになっている。誰かが肩越しに覗き込み、誰かが「少し詰めて」と小声で文句を言う。普段ならそこで言い合いの一つも起きるところだが、今日は誰も本気で怒らない。
怒る余裕がないのだ。
黒板には、白いチョークでいくつもの部隊名が書かれていた。
第一遊撃部隊。
第二遊撃部隊。
第三部隊。
第一水雷戦隊。
駆逐隊の名。艦娘の名。集合時刻。集合場所。
それはただの文字の列ではなかった。
そこに名前があるということは、その海域へ行くということだ。そこに名前がないということは、別の場所で別の危険を引き受けるということだ。
黒板の前にいる誰もが、自分の名前を探していた。自分の運命を探していた。
私も不知火と一緒に、廊下を走る艦娘に紛れながら見に行った。どうにか遠巻きに、私達二人の名前を探す。
第一遊撃部隊。
目がそこで一度止まる。
それから、さらに右へ視線を動かした。
すると、右端に、
「第二遊撃部隊(2YB)
第一水雷戦隊
第十八駆逐隊 霞 不知火
爾後一三三〇迄ニ第二会議室ニ集合サレタシ」
と書いてあるのが目に入った。
「……あった」
思わず、小さく呟いた。
「ほう……私達は本隊ではない、ということでしょうか」
「そんなところかしらね、良いんだか悪いんだか」
口ではそう言ったが、胸の奥では一度だけ息が緩んだ。
本隊ではない。敵主力と真っ向からぶつかる配置ではない。そう考えれば、悪い話ではないのかもしれない。
だが、別動隊には別動隊の危険がある。予定通りに動けなければ孤立する。敵の動きが読めなければ、逆に挟まれる。作戦図の上では綺麗に見える線も、実際の海では風と波と敵と味方の錯誤で、いくらでも歪む。
それに、私たちが本隊でないということは、別の誰かが正面を引き受けるということでもある。
他の面々は、第二十一戦隊から足柄さんと那智さん、一水戦の他の面子として阿武隈さん、潮、曙の計七隻が揃っていた。いずれも、戦争が始まってから余り話したことのない面々だ。
「あ、不知火じゃないですか。お久しぶりです。浦風、磯風と共に、ここに参りました」
横から声を掛けて来たのは、十七駆の浜風だった。
不知火は十七駆の妹達と話し始めてどこかに行ってしまい、話す相手のいない私は特に用事も無く人だかりの中にいた。
すると、後ろから誰かが、その手を私の肩に乗せてきた。
「だ~れだ?」
その間延びした声を聞いた瞬間、私は振り向く前に相手が誰か分かった。
「山雲姉さんでしょ」
「あら~、つまらないわね~」
「ちょっと山雲、ちょっかい出さないの」
山雲姉さんの後ろから、朝雲姉さんが呆れたように顔を出した。
二人に会うのは一体いつぶりだろう。
最後にまともに顔を合わせた時、私たちはまだ、こんなに数を減らしていなかった。朝潮姉さんがいて、大潮姉さんがいて、荒潮姉さんがいて、霰がいて、誰かが騒げば誰かが止めて、誰かが止めれば別の誰かがさらに騒ぎを大きくした。
そんな当たり前だった光景は、いつの間にか思い出の中にしか残っていない。
朝雲姉さんは相変わらず落ち着いた顔をしていた。山雲姉さんは、相変わらず掴みどころのない声で笑っている。
けれど、二人とも昔と全く同じではなかった。目元に、戦場を見続けた者の硬さがある。笑っていても、周囲への警戒を完全には解いていない。
それでも、生きていた。
生きて、私の前に立っていた。
そのことに、私は思っていた以上に安心していた。
朝潮型――今では満潮型と便宜上書類では呼称されるが、私を含めてこの呼称を仲間内で使う者は殆どいない――姉妹の中では特に仲の良い二人だ。
「久しぶりじゃない、姉さんたちはどこに配属されたのかしら?」
未だに黒板前には人だかりが出来ていて、自分以外の名前を探すのは難しい。
本当は、同じ部隊であってほしかった。そう思っている自分に気づいて、少し嫌になる。部隊割は感情で決めるものではない。そんなことは分かっている。だが、生き残った姉妹が近くにいるというだけで、どれほど心が軽くなるかも、私は知っている。
「私と朝雲姉、満潮姉は第一遊撃部隊の第三部隊、要するに1YB3Hに配属されたの~」
「そうねぇ、いくら駆逐隊が違うと言っても、朝潮型の中で霞ちゃんだけ別なのは何か悲しいわよね」
思い返せば、満潮姉さんは朝雲姉さんと山雲姉さんと同じ第七駆逐隊に配属されたのだから、三人が固まって配置されているのは当然だった。配置を決めるお偉いさんも、性能が近い艦娘同士で固めた方が作戦を遂行しやすいことぐらい考えるだろう。
「そうかしら? 私はあまり気にしてないから、朝雲姉さんは心配しなくていいわ」
すぐに強がりが口をついた。
気にしていないわけがない。
だが、気にしていると言えば、二人に余計な心配をかける。出撃前にそんな顔をさせるくらいなら、少し刺々しく聞こえるくらいでちょうどいい。
私がそうして強がりを言っていると、二人の後ろから誰かが近づいてくるのに気付いた。
「あら、そんなことを言うなんて、お姉ちゃんは悲しいわ」
「み、満潮姉さん?」
つい先ほど、夢の中で会ったばかりの満潮が、横からにゅっと現れて、私を小突いて来た。
ほんの少し痛い。
その痛みが、妙に現実的だった。
夢の中の満潮姉さんは、闇の中で砲を構え、朝潮姉さんの姿をした何かから私を引き剥がしてくれた。あれが本当に満潮姉さんだったのか、それとも私の心が勝手に作り出した幻だったのかは分からない。
だが、目の前にいる満潮姉さんは、間違いなく現実だった。南方の湿気で少し髪が乱れていて、額には薄く汗が滲んでいる。口元にはいつものように意地の悪い笑みが浮かんでいる。
文句を言いながら、結局は妹のところへ来る。そういう顔だった。
その顔を見ただけで、私は少しだけ息をしやすくなった。
「本当は会いに行くつもりは無かったんだけどね。妹達だけで話しているなんてずるいわ」
と、ムスッとしたような、それでいて少し笑みも浮かべるような悪戯っぽい表情を浮かべる。
二年ぶりに見たこの顔も、以前と全く変わっておらず、安心感すら憶える。横で騒がしかった、当時の第八駆逐隊の姉達がいないことを除けば。
「でも、結局は来てくれたんでしょ。もう、満潮姉さんは相変わらず素直じゃないのね」
「あら、霞にだけは言われたくはないわ。朝潮姉さんに一度でも尻込みしないで話したことがあったっけ? ふふっ」
傍から見れば酷い会話に聞こえるかもしれないが、これが満潮姉さん流の喋り方だ。
昔は、それが分からなかった。進水したばかりの頃、私は満潮姉さんの言葉を何度も真に受けて、勝手に傷ついた。何をしても文句を言われる。褒められているのか、馬鹿にされているのか分からない。そう思って、反発したこともある。
だが、後になって分かった。
満潮姉さんは、どうでもいい相手にはここまで口を出さない。わざわざ小言を言うのは、見ているからだ。気にしているからだ。
それを理解するまでに、私は随分と時間を使った。
そして、その時間を使えるほど、私たちはまだ平和だったのだと思う。
「二年前に私が大破した時に、朝潮姉さんが出撃の合間に必死で看病してくれたから、もうその時には物怖じしないでちゃんと言えたわ!」
「ふーん、私の知らない所でいちゃついていたみたいじゃない、霞?」
とりとめのない話は関係のない所まで転がって行き、時間を忘れるほどに熱中させていった。
「……それで、扶桑のことを欠陥戦艦だって馬鹿にする奴がどうしても許せないってわけ! [霞も分かるでしょ? ね!?」
満潮姉さんは、いつの間にか拳まで握っていた。
「確かに、あの人たちは今まで運に恵まれなかったかもしれないわよ。足が遅いだの、使いどころが難しいだの、上の連中が勝手に言っていたのも知っているわ。でもね、だからって本人たちまで軽く見ていい理由にはならないでしょう?」
「そうねぇ、扶桑さんはあんなに優しいのにね、酷いことを言う奴もいるものね」
「そうよ! あの人は、自分がどう見られているか分かっていて、それでも腐らないのよ。山城だって口は悪いけど、責任感は誰よりも強いし……」
「満潮姉さ~ん、山雲たち、そろそろ他の皆と合流した方が良いんじゃないかしら~?」
満潮姉さんの剣幕は、山雲姉さんの間延びした声によって勢いを失ってしまった。
「ごめんなさい、私としたことが……つい熱が籠り過ぎていたみたいだったわね」
満潮姉さんが珍しいことに、しおらしく謝って来た。
ここ数年で会わないうちに性格が丸くなったのだろうか。いや、丸くなったというより、怒りをそのまま外に出すだけでは済まない場面を、多く経験してきたのかもしれない。
「いえ、私も久しぶりに楽しく話せて良かったかな」
「そうね、部隊は違っても同じ作戦に従事することには変わりは無いわ。霞、もし戦場で会ったらよろしく頼むわね」
名残惜しいが、こればかりは仕方ない。
そうして、三人とそのまま別れた。
朝潮型で生き残っているのは自分を含めて四人だけだから、せめて一緒の部隊で、と思ったのだろうか。いや、そう思ったのは私自身かもしれない。
姉さん達が言っていた他の面々も確認しようと、やっと減って来た人だかりを掻き分け、前の方に向かうと、確かに三人が所属している第四駆逐隊が、1YB3Hに配属されていた。
隣には、臨時編成で戦艦の扶桑、山城、重巡の最上、駆逐艦の時雨の四人が集まっていると書いてある。
「霞、失礼しました。こっちも済んだところです」
段々と思考に沈み始めようとしている中、妹達と話し終わった不知火が合流してきた。
そしてその時、何か大事な事を確認し忘れていることに、気付いてしまった。
「……今って、何時かしら?」
恐る恐る聞くと、不知火は少し驚いた表情をしながら、支給品の懐中時計を出した。
「……一三四〇ですが」
その瞬間、背中に冷たいものが走った。
集合時刻は一三三〇。十分遅れている。たかが十分、と言う者もいるかもしれない。だが、これから大作戦の説明を受ける部隊が、最初の集合から遅れるなど論外だ。
しかも理由が悪い。
久しぶりに会った姉妹との会話に夢中になっていました、などと言えるはずがない。
「……不知火、走るわよ」
「……言われるまでもありません」
既に不知火は歩き出していた。いや、ほとんど走っていた。
◇
既に指定された時刻を過ぎてしまったことを理解するよりも早く、私の足は第二会議室へと向かって走って行った。
扉を開けて部屋に入ると、既に他の面々は集まっているらしく、足柄さんと那智さんが私に手を振ってくれる。
部屋の真ん中に置いてある、少し古びた机には、既にフィリピン周辺の海図が広げられており、直前に削られたであろう鉛筆が数本置いてあった。海図の端には重し代わりの木片が置かれ、赤鉛筆でいくつかの線が引かれている。
私と不知火が雑談に興じている最中に、既にある程度話し始めてしまっていたみたいだ。
「あら、遅かったじゃない。今回の作戦の、2YBの旗艦はこの足柄が担当するわ、よろしくね」
部屋の奥側にいた第一水雷戦隊の阿武隈さん、曙、潮の三人も、私達の到着に気付いたのか、机側に戻る。
だが、曙はいつもの澄ました顔が僅かに歪み、少し不機嫌なように見える。
「ふん、二人とも何やっていたのかしら、こんなに待たせるなんて、馬鹿じゃないの」
「曙ちゃん、そこまで言わなくても……ほら、足柄さんだって別に怒っているわけじゃないし」
「ほら、潮ちゃんもそう言っているんだし……ね?」
「だいたい、そんな時間が厳しいわけでもないんだし、よりにもよって何で霞が……」
阿武隈と潮が宥めようとするも、まだ機嫌は直らないようだ。
「曙、そこまでだ。霞も不知火も、何か一言言ったらどうだ」
不穏な気配を察して、那智が曙を制止し、曙は渋々認めて椅子に座る。
「そうね……遅れて申し訳ないわ、ごめんなさい」
「ふん。分かればいいのよ」
正直に言えば、曙の敵対的な態度はあまり得意なものではない。
これは私の就役直後に大喧嘩をしてしまったのが始まりだ。あの頃は、互いに譲るということを知らなかった。いや、今もそれほど変わっていないのかもしれない。少なくとも曙は、私を見るたびに何か一つ文句を言わなければ気が済まないようだった。
だが、今回ばかりは姉達との久しぶりの再会にうつつを抜かしていた自分が原因なのだ。余り強くは言えなかった。
「さあ、作戦の説明と行こうか」
那智が手元の鉛筆を取り、机に広げてあった地図をそれで指さす。
「司令部の予想の一つに、ここ……レイテ島、サマール島、ミンダナオ島に挟まれたレイテ湾に、敵の上陸船団が来るというものがあった。広い湾内、ルソン、ミンダナオの主要な両島に近い立地から、次の深海棲艦の侵攻目標となる可能性が高い、そういう風に踏んでいたということだ」
那智の説明の最中に、足柄が不敵な笑みを浮かべてもう一本の鉛筆を回す。
「そして、我が軍の偵察機が、偶然にもフィリピン方面へ殺到する深海棲艦の大群を見つけてしまった。敵のワ級の移動速度から考えると、輸送船団が上陸するのはおよそ六、七日と言った所。という訳で、急いで出撃しなきゃいけないのよ」
マリアナ諸島の防衛に失敗した今、次に狙われる可能性の高いフィリピンを防衛するために、連合艦隊のほぼ全勢力を投入して敵艦隊を撃滅する。
言葉にしてみれば随分と単純だが、連戦に次ぐ連戦で戦力の消耗が無視できない範囲まで及んでいる今の帝国海軍は、もし以前と同じ物量で敵と正面から戦うことになれば、決定的な勝利を収めることは厳しいだろう。
私は結局、マリアナでは本隊と合流することは出来なかったものの、それでもあの我が軍を遥かに上回る数の艦載機の群れは、二度と相手にしたくはないものだ。
「それでも、今回出撃する艦娘の数は以前の比ではないほど余力がある。だから、司令部は一計を案じることにした。即ち、艦隊を分けて、それぞれで敵主力部隊を誘引することで、輸送艦隊を丸裸にして狙い撃つ、ということだ」
那智さんが机に敷いた地図に、それぞれの艦隊に見立てた木材を並べていく。
フィリピン東部には機動部隊、レイテ湾の北には1YB3H、南には2YB、フィリピン中部には1YB1Hと1YB2Hが陣取っている。
「我々の艦隊は、先発する1YB3Hが、レイテ湾北部のサン・ファニーコ海峡に主力部隊を誘引したところを、ボホール海を経由して、このレイテ島とディナガット島に挟まれたスリガオ海峡から侵入して挟撃することになっている。主力部隊の1YB1Hと1YB2Hがその後に輸送艦隊を襲撃するためには、これが必ず不可欠という訳だ」
私は海図を覗き込んだ。
フィリピンの島々が、複雑な輪郭を描いている。大きな島と小さな島。その間を縫うように、いくつもの海峡が走っていた。
地図で見れば細い線に過ぎない。だが、そこに艦隊が入れば、左右は陸地、前後は敵という閉じた空間になる。
レイテ湾の北。
サン・ファニーコ海峡。
その南に、スリガオ海峡。
さらに外側に、ボホール海。
那智さんの鉛筆が動くたびに、ただの地名が戦場へ変わっていく。
机に置かれた小さな木片は、艦隊を表しているのだろう。木片は軽い。指先一つで動く。だが、その一つ一つに私たちの名前がある。そこに満潮姉さんの名前も、朝雲姉さんの名前も、山雲姉さんの名前もある。
作戦そのものは、理屈としては分かる。
敵主力を引き剥がし、輸送部隊を孤立させ、そこを叩く。正面から数で押し潰されるよりは、よほど勝ち目がある。
だが、正しい作戦ほど、誰かに無茶を押しつけることがある。
地図を見ると、先ほど那智が発言したレイテ島とサマール島に挟まれた北部の海峡は、幅が殆ど見えないほど狭い。味方は七隻、敵は間違いなくそれ以上なのだから、首尾よく輸送部隊と分断できるだろう。
だが、問題は敵の数だ。
マリアナでは、味方の十倍を上回る敵部隊と正面から衝突してしまった結果、損害比では圧倒的に上回っているのにも関わらず島嶼部を失陥してしまうという結末に至ってしまった。
それに、たとえ誘引できたとは言っても、それを自分たちの艦隊で壊滅させなければならないことには変わりは無い。そのためにも、どれだけの敵がいるかは把握しておきたい。
「それで、敵は一体何隻いるのかしら?」
自分でも、声が少し硬くなったのが分かった。
それまで快活に話していた足柄さんの顔が、目に見えて曇った。
鉛筆を回していた指が止まる。
会議室の中の空気が、わずかに変わった。阿武隈さんが息を呑む。潮が足元へ視線を落とす。曙でさえ、何か言いかけて口を閉じた。
「それが……分からないの」
分からない?
偵察機が敵の部隊を発見したと那智さんが言っていたのに、大体の数程度は掴めないものなのか。
「分からない、というのは?」
足柄は、先ほどまで回していた鉛筆を机に置いた。
その音が、やけに大きく聞こえた。
「それって、きちんと索敵出来ていなかったということでしょうか? それとも……」
と不知火が、珍しくいつもの冷静さを崩して、食い気味に疑問を呈する。
彼女の声にも、普段の平坦さがなかった。
「それとも、の方よ。余りにも数が多すぎて、到底数え切れられなかった、ということ」
誰も、すぐには返事をしなかった。
数え切れない。
それは、具体的な数字よりもずっと嫌な言葉だった。百と言われれば百を想像できる。二百と言われれば二百を想像できる。だが、数え切れないという言葉は、想像するための輪郭すら与えてくれない。
敵が水平線を埋めているのか。
海そのものが深海棲艦になったような光景なのか。
それを相手に、私たちは七隻で海峡へ入るのか。
「じゃ、じゃあ、それを誘引する満潮姉さん達の部隊は?」
自分の声が、少し上ずった。
足柄さんは手を組んで口ごもり、何か言うのを躊躇っているように見える。
その沈黙だけで、聞かなければよかったと思った。
「こんなことを言うのは、霞ちゃんにとって酷いことかもしれないけれど……」
言いどもる足柄さんは、那智さんの方を見るものの、首を横に振るばかりで何も言わない。
意を決して、私にこう言った。
「はっきり言って、1YB3Hは、全滅覚悟の囮部隊と言って差し支えないわ」
その冷酷な言葉を口に出した足柄さんは、目を私から反らして、スコールが降る窓の外を眺めていた。
全滅覚悟。
囮部隊。
その二つの言葉だけが、頭の中で何度も反響した。
海図の線が、急に意味を失っていく。レイテ島も、サマール島も、スリガオ海峡も、さっきまで確かに理解していたはずなのに、ただの黒い線と文字の塊にしか見えなくなった。
満潮姉さん。
朝雲姉さん。
山雲姉さん。
ついさっきまで、黒板の前で笑っていた。満潮姉さんは、扶桑さんのことを熱っぽく語っていた。山雲姉さんは間延びした声でそれを止めていた。朝雲姉さんは呆れたように笑っていた。
その三人が、全滅覚悟の部隊にいる。
誰かが何かを言っている。
足柄さんの声か、那智さんの声か、それとも阿武隈さんの声か。音は聞こえているのに、意味が頭に入ってこない。
窓の外では、スコールが降っていた。
雨が強く窓を叩き、外の景色を白く潰している。
まるで、これから向かう海の向こう側だけが、先に消えてしまったようだった。