霞戦記   作:西安

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慰めの夜

一八〇〇。

一通りの話が終わる頃には、私は憔悴の余り目が虚ろになり、話もまともに入らなくなっていた、と不知火は語っていた。

実際、途中からの記憶はほとんど曖昧だった。誰が何を言ったのか、どこから進入するのか、敵の想定進路がどうなのか、断片だけが頭の中に残っている。だが、それらはどれも、満潮姉さんたちが全滅覚悟の囮部隊だという事実の前では、意味を持たなかった。

引っ張られながら外に出て行き、私達の部屋にたどり着くころには、不知火は息も絶え絶えになっていた。

「朝に言ったことを忘れたんですか? たかが敵の数が多いくらいで、一々騒がないで頂けると嬉しいんですが」

ちゃぶ台に突っ伏した不知火は苛立ちを隠せず、畳の上に寝転がっている私に向けて毒をぶつける。

「たかが、って……」

「たかが、です」

不知火は、ちゃぶ台に突っ伏したまま言った。

「敵が少なければ安心するんですか。敵が多ければ諦めるんですか。どちらにせよ、我々がやることは変わりません。索敵し、隊列を維持し、命令に従い、撃てる時に撃ち、避けられる時に避ける。それだけです」

「満潮姉さんたちは……」

「第三部隊の心配をするなとは言いません。ですが、心配だけで敵が沈むなら、不知火は今頃いくらでも心配しています」

それは慰めではなかった。

だが、慰めよりは役に立つ言葉だった。

貴方の姿を見て、また曙が怒っていましたよ、と駄目押しに不知火は聞きたくもない情報を付け加えた。

どうやら、私を椅子に置いて残りの話を進めてしまったらしい。

何か重要な情報を聞き逃してしまったのではないかと心配した矢先、

「そうそう、抜錨は明後日の〇九〇〇だそうです。時間が無いので、早く気を取り戻して精神を整えて下さい」

不知火は冷静に、一番大事な情報を教えてくれた。

「我々が手早く合流すれば、第三部隊は全滅しないで済むかもしれませんよ?」

それは、彼女なりの叱咤だろう。

起き上がって、机の上にあった、誰かが置いて行った蜜柑を頬張る。南方の蜜柑特有の酸っぱい汁が口の中を満たし、混乱していた脳を少しずつ冷静にさせて行く。

甘さよりも、酸味の方が先に来る。

その酸っぱさに、私は少しだけ現実へ戻された。

 

 

 

 

二〇〇〇。

夕食を食べ、食堂から部屋へと帰ろうとする廊下は、昼間とは別のざわめきに包まれていた。

灯火管制のため、電灯は暗い。黒い覆いを被せられた光が、廊下の床を鈍く照らしている。その薄闇の中で、艦娘たちの声だけが浮いていた。

「今度こそ大物を仕留めてやる」と笑う声。

「帰ったら甘味を食べたい」と言う声。

「敵は本当にそんなにいるのか」と小さく尋ねる声。

それに「大したことない」と答える声。

強がりと不安は、よく似た声をしている。

私も、それくらいは知っていた。

出撃前の夜に、本当に落ち着いていられる者など多くない。誰かと話していなければ、余計なことを考えてしまう。だから皆、何かを喋る。武勲の話でも、噂話でも、誰かへの悪口でもいい。沈黙よりはましだと思ってしまう。

その中を、ある一人を探して彷徨い歩く。

満潮。

生き残った姉達の中では一番関わりが深いのが、彼女だ。

進水したばかりの頃は第八駆逐隊の一員として艦娘としてのイロハを教えてくれたし、開戦劈頭の東南アジア戦線を共闘し、オーストラリアへ逃げ延びようと試みる敵旗艦を共同で撃沈したこともあった。

そんな満潮姉さんが、圧倒的な数の敵を引き付ける、ほぼ必死と言ってもいい囮作戦に従事させられる。

たとえそれが任務であり、従わなければならないものだと分かっていても、納得がどうしてもできなかった。勇猛果敢で武勲を重ねた彼女がその程度の敵に負けるはずが無い。自分が速やかに敵を撃滅すれば何も問題はない。

そう言い聞かせたところで、一度抱いた恐怖心は消えることは無かった。

それでも、不知火に今日言われたことを思い出して、深呼吸。逸るこの心を説得し、どうにか気を静めようとしていた。

「ところでさ、噂、聞いた?」

「えっ、何の?」

「第一遊撃部隊の、第三部隊。ほら、あの欠陥戦艦がいるやつ」

曲がり角の廊下に差し掛かり、左へと曲がろうとすると、その隅で、見たことが無い駆逐艦娘らしきふたりが、ひそひそと何かを話していることに気付いた。一人は黒の長髪、もう一人は茶色の短髪だ。

ふと、目の前の二人組の駆逐艦娘が1YB3Hについて言及し始めたのが耳に入った。

口ぶりからして、ろくでもない話であることは確かだ。

聞かなければよかった。

そう思った時には、もう遅かった。

「あの部隊、使えない扶桑型の在庫処分のためにわざわざ編成されたんだってさ」

「えぇ、流石にそれは嘘じゃない? 佐世保の司令さんったら、扶桑さんにお熱なんだもの、愛する人を捨てるわけないわ」

「どうせ、艦娘に手を出す奴に未婚者は居ないわよ」

「じゃあ、何でわざわざ駆逐や重巡を編成しなきゃならないのよ、それなら単独で行かせれば戦力を温存できるのに」

「そんなの、浮気の証拠を海に沈めがてら、せっかく使い切るなら有効活用しようって寸法なんでしょ。まあ、証拠湮滅よねえ」

「可哀そうにね……浮気を誤魔化す巻き添えに、いの一番に敵中に突っ込まされるなんて!」

欠陥戦艦。

在庫処分。

証拠湮滅。

一つ一つの言葉が、耳の奥に引っかかる。

それは扶桑さんや山城さんへの侮辱だった。だが、それだけではない。その部隊にいる満潮姉さんたちまで、まとめて軽く扱う言葉だった。

あの人たちが何を背負ってそこへ行くのか、何も知らないくせに。

全滅覚悟だと聞いた時、足柄さんでさえ言葉を選んだ。それを、こいつらは廊下の隅で面白おかしく消費している。

出撃前の不安を紛らわせるためかもしれない。

誰かを笑い者にしなければ、自分の恐怖に耐えられないのかもしれない。

だが、だからといって許せるわけではなかった。

根拠もない憶測だけでここまで同胞を馬鹿に出来るのか。

そんな物言いに、自分の堪忍袋の緒が切れかかって、ずかずかと大きな足音を立てて近づいていく。

「ふざけんじゃないわよ。あんたたちが誰だか知らないけど、これから作戦に臨むって時に、そんな言い方は無いんじゃない?」

片割れの一人の長髪に、我慢できず突っかかる。思わず、そいつの襟を掴んでいた。もう一人の短髪は、何が私の怒りを招いたのか分からないようで、おろおろとするばかりだ。

長髪は、怪訝な顔で私に言った。

「誰よあんた? 放しなさいよ」

「朝潮型の霞!」

襟を放して払うと、私を睨む長髪の背中から、短髪の片割れが恐る恐る顔を出す。

「朝潮型……って? あの、満潮型の間違いじゃなくて?」

短髪は最近就役したばかりなのか、書類上では正しいが、私達を激怒させるような呼称を使ってくる。

「まあ第三部隊には配属されなかったみたいだし、良かったわね、あんなのと一緒じゃなくて」

なぜこの二人は、わざわざ一言一句私の癇に障るような発言ばかりをしてくるのだろうか。

ここでこいつらを処分しなければ、士気に悪影響が出るかもしれない気がして来た。

私の中にあるどす黒い感情の奔流が溢れ出し、我慢の限界を突破して流れ出た。形相は次第に鬼のように歪んでいき、目の前の不届き者を威圧せんとしていた。

「何様のつもりよ! 黙って聞いていたら言いたい放題言ってくれちゃって!」

再び、今度は絶対に外れないように力強く、長髪の襟を左手で握り、右手で殴りかかろうとする。

「ちょ、あんたには関係ない話でしょ!」

黒髪は必死に私を振り払おうとするも、上手くいかずに段々と顔が青ざめて行く。

未だ反省する気の無い、ふてぶてしい態度に、遂に手が出ようとしたその時。

「あら、霞? さっきから大声で、どうしたの?」

満潮姉さんが、廊下の角から顔を出していた。

驚いて、襟を掴んだ手を緩めて、姉さんの方に向き合う。

「満潮姉さん⁉ そ、そう、さっきからこいつらが扶桑さんへの誹謗を」

気付いた時には、あいつらは何処かに逃げていた。

「あっそ、だからどうかしたっていうのかしら?」

「えっ」

「そんなの、気にするだけ無駄じゃない」

「姉さん、だって今日あんなに扶桑さんのこと言っていたのに⁉」

「怒っていないなんて言ってないわ」

満潮姉さんの声が、少し低くなった。

「腹は立っているわよ。ああいう連中は、どうせ自分が不安だから、誰かを笑い者にして安心したいだけなんでしょうね。くだらないし、見苦しいし、正直、一発くらい殴ってやりたいわ」

「だったら――」

「でも、それをやったらどうなるの?」

満潮姉さんは、私の言葉を切った。

「出撃前に騒ぎを起こして、処分されて、戦力を減らして、それで満足? 扶桑に顔向けできる? 山城に、時雨に、朝雲や山雲に、胸を張って言える?」

何も言えなかった。

「だからって、何も言わないでいるなんて……」

「何も言うなとは言ってないわ。あんたは言った。十分よ」

満潮姉さんは、少しだけ視線を和らげた。

「でも、やり返したらそいつらと同じ穴のムジナよ。それに、出撃前だってのに変に騒ぎでも起こして、霞が営倉にでも行ったら、後悔するどころじゃ済まないんじゃなくて?」

確かにそうだ。

例えその時に気分が良くなっても、万が一罰を受けて戦力を減らしてしまえば、1YB3Hだけじゃなく2YBすら壊滅してしまうかもしれない。

私一人の不在で作戦全体が崩れるなどと自惚れるつもりはない。だが、駆逐艦一隻の差が、生死を分けることはある。

私は、それを知っている。

「そ、そうね……もう少し慎重に動くべきだったわ」

「ふん。でも、ちゃんと意地を通してくれたことは感謝するわ。ありがとう、霞」

にこりと笑みを浮かべた満潮姉さんは、興奮した私を幾分か落ち着かせてくれた。

だが、それでも私が恐れることがあった。

これだけは、うやむやのままにすることは出来ない。

口に出せば、現実になるような気がした。

だから言いたくなかった。けれど、言わなければ、もっと怖かった。

「ねえ、満潮姉さん」

「何、霞?」

「1YB3Hが全滅覚悟の囮部隊だっていう話を、足柄さんから聞いたわ」

満潮姉さんの表情が、ほんの僅かに変わった。

驚いた顔ではない。知らなかった顔でもない。

やはり、知っていたのだ。

それが分かった瞬間、胸が詰まった。

「朝潮姉さんや荒潮姉さんの時みたいに、無茶な作戦の犠牲になんて、ならないわよね。私を最後の生き残りにさせないわよね」

それを聞いた満潮姉さんは、「はあ」とため息をついて、私の頭を撫でた。

「まだ戦闘も始まってないのに、私達が全滅する前提で話を進めるなんて、ちょっと失礼じゃない?」

満潮姉さんは、わざと軽く言った。

けれど、その目は笑っていなかった。

「それに、私だって入渠中に第八駆逐隊が壊滅したんだから、そんな思いを可愛い妹にさせたくはないわ」

第八駆逐隊。

その言葉に、私は黙った。

満潮姉さんも、失っている。私だけではない。私が朝潮姉さんたちを失ったように、満潮姉さんもまた、自分がそこにいない間に仲間を失っている。

その痛みを知っているからこそ、彼女は私の頭を撫でたのだろう。

一息にそう言うと、満潮姉さんはもう一度、「はあ」と息をついた。

「霞、あんただって無事かどうか分からないのよ。もし何らかの理由で突入が遅れて、誘引に失敗したら、その大兵力と戦わなければならないのは2YBになるわ。もし敵が絶対に勝てない程強いなら、霞だって無事か保証はないわ」

ぴん、と人差し指を私のおでこに当てる。

「分かった? 物事を始める前に、その結果をあれこれ予想しても、色々な不確定要素がある以上、そんなに有益なものじゃないの」

「うん」

私は、満潮姉さんの励ましに、少し涙を流していたのかもしれない。

そして、自分が如何に独りよがりで考えていたことにも、少し反省をしなければいけないだろう。

私だけが不安なのではない。

私だけが失うのを怖がっているのではない。

満潮姉さんも、朝雲姉さんも、山雲姉さんも、きっと怖くないわけではない。それでも、怖いから行かないという選択肢はないのだ。

「まあ、そんなことになっても、心配することは無いわ」

満潮姉さんは、いつもの調子に戻ったように肩を竦めた。

「もし、1YB3Hが〇〇〇〇、つまり日付を越えた時に突入出来なかったら、その時は、お姉ちゃんが全力で助けに来てあげるから」

「そんなの、姉さんたちの方が危ないのに」

「だから何よ」

満潮姉さんは、当然のように言った。

「妹を助けに行くのに、危ないかどうかなんて関係ある?」

その言葉に、喉の奥が詰まった。

「だから、それまで全力で生き延びてよね。勝手に沈んだりしたら、承知しないわよ」

「ありがとう、満潮姉さん。終わった後に祝杯を挙げられるよう、お互い戦いましょう」

にこやかに敬礼したその顔に、私はどこか心の中で救われた気がした。

 

 

 

一〇〇〇。

リンガ泊地の港湾には、2YBのみならず本隊の艦娘が勢揃いしており、かつてないほどに騒がしくなっていた。

桟橋では整備員たちが最後の確認に走り回っている。弾薬箱が運ばれ、燃料の匂いが湿った空気に混じる。誰かの艤装が低く唸り、別の誰かが主砲の俯仰を確かめている。

海面には、既に出撃準備を終えた艦娘たちが列を作っていた。

これだけの戦力が一堂に会する光景は、確かに壮観だった。

だが、私にはそれが、巨大な葬列のようにも見えた。

昨日の黒板に書かれていた名前。

会議室の海図に置かれた木片。

廊下で交わした満潮姉さんとの約束。

それらが全部、目の前の海へ向かって動き出そうとしている。

2YBの面々も配置に付き、抜錨を今か今かと待ち侘びていた。

「皆、待たせたわね。そろそろ、抜錨の時間が来たわ」

海上で待機していた私達に向けて、陸上にいた足柄が追いかけて、隊列に加わる。

彼女の声は明るい。

明るくあろうとしている。

旗艦が不安を見せれば、部隊全体が揺らぐ。それを理解している声だった。

私は、港の別の方角を見た。

満潮姉さんたちの姿は、もう見えない。

1YB3Hは、私たちより先に出る。私たちが追いつくまで、彼女たちは敵を引きつけ続ける。

昨日の言葉が蘇る。

日付を越えた時に突入出来なかったら、その時は、お姉ちゃんが全力で助けに来てあげる。

何を馬鹿なことを、と思う。

助けに行くのは、私の方でなければならないのに。

「2YBの働きに、第一部隊全員の運命が懸かっているわ。さあ、抜錨よ! 勝利を掴むのは、私達よ!」

足柄の号令と同時に、全員が艤装を起動させた。

足元の海面が震える。

艤装の振動が体に伝わる。砲塔が低く唸り、魚雷発射管が固定される。いつもの感覚だ。何度も繰り返してきた、出撃の感覚。

だが、今日は少しだけ違った。

水飛沫を上げつつ進む仲間たちの姿は、何度見ても壮観だった。けれど、その先に待っている海を思うと、胸の奥に冷たいものが沈んだ。

予定通り、2YBは1YB3Hに数時間ほど遅れて抜錨した。

先に出た満潮姉さんたちの姿は、もう見えない。

私たちは、その背中を追うように海へ出る。

艤装の振動が足元から体へ伝わる。海面を蹴るたびに、水飛沫が上がる。何度も経験してきた出撃の感覚だった。だが、その日はいつもより、海が重く感じられた。

夜明けの太陽は、出る頃には、少しだけだが曇っていた。

まるで、これから向かう海の結末を、空だけが先に知っているかのようだった。

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