〇〇三〇。
日付が変わる海の夜は、上弦の月が海面へと頭を出す時間帯に至る。
それまで、空と海の境目はほとんど分からなかった。黒い海の上を、ただ艤装の振動と前後の気配だけを頼りに進んでいるような感覚だった。だが、水平線の向こうに月がわずかに顔を出すと、海面に細い光の筋が伸び始める。
弱い光だった。
それでも、完全な闇に慣れた目には眩しいほどだった。
微かな光が照らし始めた月夜に、プロペラが小気味良く回転する音が響く。
那智の付近に着水した瑞雲は、1YB3Hの一員、最上の艦載機だ。水面を滑るように降りた機体は、波を割りながらしばらく進み、やがて那智さんの近くで速度を落とした。翼に付いた海水が月光を受けて鈍く光る。
受領した最新型の水上爆撃機を使って、定期的に互いの位置を把握することで、予定通りに作戦を遂行できるよう努めている。
この作戦では、少しの遅れが命取りになる。
1YB3Hが敵主力を引きつけ、2YBが別方向から海峡へ突入し、敵輸送部隊への道をこじ開ける。言葉にすれば単純だ。だが、その単純さは、全てが時間通りに進むことを前提にしている。
一つでも遅れれば、どこかの部隊が孤立する。
一つでも読み違えれば、味方ではなく敵の大群に正面から突き当たる。
「こちら那智。瑞雲からの報告によると、二二〇〇、1YB3Hは予定通りレイテ島北部を進撃中とのことだ」
那智の声が、無線越しに響いた。
その報告を聞いた瞬間、艦隊の空気が少しだけ緩んだような気がした。
少なくとも、1YB3Hは動いている。
満潮姉さんたちは、予定通りの海域にいる。
その事実だけで、胸の奥に詰まっていたものが少し動いた。
「聞いたわね皆! このまま、スリガオ海峡に突入するわよ!」
足柄は、1YB3Hが間に合ったと確信したようだ。
その声には力があった。旗艦として、部隊を前へ進ませる声だった。
満潮姉さんから聞いた話が正しければ、既にレイテ湾に突入を開始しているはず。彼女たちは、敵主力を引きつけるために、最も危険な場所へ向かっている。
こちらも遅れるわけにはいかない。
最短距離を取って近づくことは、より危険な近距離戦や乱戦が発生することを意味する。海峡という狭い場所では、距離を取って撃ち合う余裕は少ない。敵味方が入り乱れ、砲撃も雷撃も、避ける空間そのものが限られる。
体に緊張を走らせ、両手の引き金を強く握りしめ、自分に気合を入れる。
どうか、誰一人も欠けることの無いように。
どうか、満潮姉さんたちが無事であるように。
震える心の中は、それだけを祈っていた。
だが、祈りというものは、戦場では大抵の場合、何の保証にもならない。
殆どゼロだった光が、次第に明るくなっていき、周辺に散らばる島嶼の島影が段々とはっきり見えるようになって来た。
最初は、月が高くなったせいだと思った。
だが、すぐに違うと分かった。
その光源は空からのものではない。
海が、血のように赤く光っている。
波が赤い。
艤装が切り裂いた水飛沫までも、内側から染まったように赤く見える。夜の海面に、薄く発光する膜が張っているようだった。光は強くない。けれど、目を逸らしたくなる種類の光だった。
侵食海域。
深海棲艦の中心部隊が近づいている証拠だ。
何度見ても慣れない。
海は本来、黒か青か、あるいは月光を映す銀であるべきものだ。それが赤く光っている。まるで海そのものが傷口になり、そこから血が滲み出しているようだった。
電探に、一つの点の反応があった。
恐らく、ミンダナオ海とレイテ湾を結ぶ、その線上だろう。会敵までそれ程猶予が無いと言うことだ。
作戦が上手くいけば、相手にしなければならない敵は十分対処できる数に減っているだろう。
そうでなければならない。
そうでなければ、1YB3Hが引き受けている意味が無くなる。
「霞、反応が少なすぎる気がしますが、敵は何処にいるんでしょうか?」
拍子抜けしたように、肩を竦めて不知火は語る。
だが、その声にも完全な安堵は無かった。彼女はこういう時、安心しきった言い方をしない。少なすぎる、ということは、それ自体が異常でもあるからだ。
「不知火ねえ……まあ、姉さん達が引っ張ってくれたんじゃないかしら、そうであって欲しいけど」
口に出してから、自分が願望を言っているだけだと分かった。
満潮姉さんたちが敵主力を引きつけてくれた。
だから、ここには少数しかいない。
そう考えたいだけだった。
だが、その望みはいとも簡単に敗れることとなった。
十数秒もしないうちに、電探の反応が指数関数的に増えて行っているのだ。
一つだった点が、二つになる。
二つが、五つになる。
次の瞬間には、数える意味が無くなった。
小さな光点が、電探の中に次々と滲むように現れる。まるで、暗い紙の上に赤い染みが広がっていくようだった。
それが示すことは、スリガオ海峡を敵艦隊が埋め尽くしていることだった。
(どうして⁉)
1YB3Hが誘引に成功しているなら、ここには大した数の敵がいないはず。
それが果たせていないのは、突入が遅れたか、2YBの突入が早すぎたか。あるいは、敵がこちらの想定よりも遥かに多く、引き剥がしてもなお余るほどの戦力を海峡に残していたか。
どれであっても、状況は最悪に近い。
それでも、当初の予定が失敗した時のためのB案の通り、1YB3Hの合流まで敵を倒さなければならない。
倒す。
ただ待つのではない。
逃げるのでもない。
満潮姉さんたちが合流するまで、この数の敵を相手に、海峡で戦い続ける。
「残念なことに、当初の作戦は失敗してしまったわね……これより、予備作戦に移行するわ!」
足柄も先ほどの発言を訂正し、2YBで敵の本隊と戦うことを決意した。
その声は、さっきよりも硬い。だが、折れてはいない。
夜戦の内であれば、航空勢力への警戒も殆どしなくては良いことから、この夜戦は短期決戦となるだろう。長引けば長引くほど不利になる。夜が明ければ、深海棲艦の航空戦力が動く可能性も高まる。狭い海峡で消耗しきったところを空から叩かれれば、こちらに勝ち目は無い。
ならば、夜の内に終わらせるしかない。
作戦海域が近づくに連れ、今が夜であることを忘れさせるほどに赤い光はますます強くなって行った。
赤い海面の上に、敵の影が浮かび始める。
偵察機の報告では、海峡を遊弋している戦艦らしきものの姿の影が、多数見受けられたとのことだった。赤い光に照らされ、砲塔の輪郭が黒く浮かぶ。その数は、こちらの想定を明らかに超えていた。
その中に、一つ明らかに大きさが違う、敵の旗艦と思しき深海棲艦が見えたと言う。
姫級の艤装と思しき化け物の上に、両手が異形のモノと化した、扶桑に似た白服と山城に似た黒服が座っている。
白服の方は、ほとんど動かない。
人形のように、あるいは亡骸のように、微動だにしない。
黒服の方は違った。
黒髪は、微動だにしない白髪に頻りに話しかけているとのことだった。何かに縋るように。何かを確かめるように。あるいは、既に返事のない相手に、返事を求め続けるように。
やがて、私達の存在に向こうも感づいたらしい。
「ドウシテ……ドウシテ貴方達ナノ……?」
声が聞こえた。
いや、聞こえたのではない。
耳ではなく、頭の内側に直接流し込まれた。
見えないはずの声と姿が、脳の中に幻覚として現れる。黒服が、頭を抱えて掻き毟り始めた。爪が髪を乱し、白い顔が歪む。その表情は怒りとも、悲しみとも、恐怖ともつかなかった。
私達の艦隊は、招かれざる客だったらしい。
「ニシムラカンタイ……ヤマシロハ何処ヨォ!?」
黒服の取り乱した声が、頭の中を反響する。
思わず眉をしかめた。
音ではないのに、うるさい。
言葉ではあるのに、意味の底がずれている。
深海棲艦の中には、特定の艦娘によく似た姿をしたものが稀に現れる。戦場に居合わしたその艦娘に執着し、あたかもかつてそこで沈んだような口ぶりで、その艦娘に怨恨の呪詛を流す、一般的な深海棲艦と比べ異質な存在だ。
勿論、その艦娘はまだそこにいる以上、その深海棲艦の発言は支離滅裂なものである。
「ドウシテ……流レニ逆ラウノヨォ……?」
流れ。
その言葉に、背中が粟立った。
この理由について、並行世界では実際に沈んでいてそこから転送された、とか、或いは心理的圧力を掛けるための戦術ではないかといった議論が成されている。個人的には前者が最もらしいと思うものの、未だに結論は出ていない。
ただ一つ言えるのは、今まで行ってきた、イロハ級や姫級といった通常型の深海棲艦に対応するための訓練があまり通じない、厄介な敵であるということだった。
こういう相手は、ただ砲を撃ってくるだけではない。
こちらの記憶や後悔や恐怖の奥に、勝手に手を突っ込んでくる。聞きたくない言葉を、聞こえるはずのない場所から流してくる。
(ニシムラ艦隊……別の世界での1YB3Hの名前かしら)
扶桑、山城、最上、時雨、満潮、朝雲、山雲。
その名前を、頭の中で並べる。
黒服は山城を探している。
だが、ここにいるのは2YBだ。足柄、那智、阿武隈、曙、潮、私、不知火。
本来ここに来るはずだった相手と違う。だから、あの黒服は動揺している。
つまり、敵にも想定外が起きている。
それは好機かもしれない。
だが、事態は無駄な思考をさせるほどの余裕を与えてはくれないらしい。
「タトエアナタタチデモ……ココハトオレナイシ……。……トオサナイ……ヨ……ッ!」
黒服のその言葉が、雌雄を決する夜戦の始まりを告げる合図だった。
それまで漫然と航行していた有象無象の深海棲艦達が、一斉に隊列を整え始める。
ばらばらに見えていた敵影が、旗艦を中心に動き出す。戦艦らしき影が前へ出る。駆逐艦型がその隙間を埋める。軽巡型が側面に回る。赤い海面の上で、黒い線が一本の陣形へ変わっていく。
旗艦を守り、目の前の艦娘どもを撃滅するために単縦陣を組み始めた。
まずい。
強固な防衛網が出来てしまえば、ただでさえ数で劣る2YBは、例え1YB3Hが合流できても勝利を掴むのは不可能になるだろう。
それ以前に、丁字戦法を持ち込まれて海峡を塞がれてしまえば、どんな艦娘といえども強行突破することは至難の業だ。
狭い海峡で進路を塞がれ、敵の横腹ではなく正面から受け止める形になれば、こちらの速力も雷撃も活かしきれない。しかも敵は数で勝る。真正面から押し合えば、押し潰されるのはこちらだ。
つまり、ここで取りえる選択肢は、たった一つしかない。
敵が整う前に、崩す。
「急いで接近するわ!」
足柄の指示通り、敵が完全に防衛陣を形成する前に、乱戦に持ち込み、敵旗艦の下へと直行する。
イロハ級は単体での性能が同種の艦娘より劣っていること、深海棲艦は艦隊を統べる旗艦が沈めば戦闘を継続できなくなることを踏まえれば、一番勝率が高い作戦であると言えるだろう。
それでも、ある程度の距離はあることから、間に合うかどうかはかなり運まかせになってしまう。
運まかせ。
嫌な言葉だ。
だが、戦場で完全に計算できるものなどほとんどない。確率を少しでもこちらへ寄せるために、今は走るしかない。
「戦力を分散させたら敵の思う壺だわ! 陣形形成が不完全な、左翼に向かうわよ! 突撃! 突撃!」
足柄の声が赤い海の上に響く。
2YBが一斉に加速した。
海面が割れる。艤装の振動が足元から腰へ突き上げる。潮風が顔を叩き、赤い飛沫が視界の端をかすめる。
1YB3Hと素早く合流するためには、最短経路を取った時に辿り着くであろうレイテ島沿岸付近を進んだ方が得策だ。
だが、沿岸に近いということは、敵の伏兵を受けやすいということでもある。
その危険が、すぐに現実になった。
「伏兵だ! 左舷の湾から、ツ級一隻とナ級五隻、こっちに向かってきているぞ!」
那智が発見したのは、レイテ島の南にあるパナオン島の影から襲撃してきた、軽巡一隻、駆逐艦五隻からなる水雷戦隊だ。
赤い光の中、島影から滑り出すように敵が現れる。
どの艦も強力な雷装を有しており、丁字不利となれば雷跡の雨に晒されることは確実だ。ここで足を止めれば、本隊に突入する前に食い荒らされる。
敵の狙いは明白だった。
こちらの突撃を側面から刺し、速度を殺すこと。
一度速度を殺されれば、海峡奥の敵主力が陣形を整える時間を稼がれる。
「両舷一杯! 先手を取って、こっちが丁字有利を取るのよ!」
足柄の号令が飛ぶ。
私たちは即座に針路を変えた。
急旋回の負荷が足に来る。海面を削るように進路を変え、左舷から出てきた敵水雷戦隊の頭を押さえに行く。
だが、敵の出るのが少し遅かった。
敵はいくら最新型とは言え、高速艦のみで構成された2YB全体と比べ速力で劣っていることで、当初の目論見は外れ、逆に敵水雷戦隊が丁字不利を取られてしまったのだ。
こちらの進路に対し、敵は横腹を晒す形になった。
ほんの数秒の差だった。
その数秒が、生死を分ける。
「目標、最前列のツ級! 雷撃をするまでもないわ、集中砲火で沈めなさい!」
圧倒的な対空性能、優秀な対潜能力、夜戦に適した速力。
ツ級が有していたその全ては、しかし今の状況では役に立たなかった。
横腹を晒した軽巡に対し、こちらは重巡二隻を含む七隻。
しかも夜戦距離。
「撃てぇー!」
ツ級が自らの不利を悟り回避運動を取る前に、二隻の重巡の主砲が直撃する。
赤い海面が、一瞬白く爆ぜた。
ツ級の胴体が捻じれ、艤装の一部が吹き飛ぶ。大破し行動不能になったところに、駆逐艦の砲撃を集中され、呆気なく沈んで行った。
敵の旗艦が沈む。
それだけで、敵水雷戦隊の動きが目に見えて乱れた。
「今のは不知火の戦果ですよ、霞」
最後に直撃した弾が自分の物であるのを見たことから、不知火が私に少し嬉しそうに報告して来る。
いつもの平坦な表情の中に、ほんの少しだけ誇らしげな色があった。
「もう、最初の戦果でそんなに騒ぐことないじゃない。これから何十隻と戦うんだから、せめて戦艦ぐらい沈めてから自慢しなさいな」
軽くたしなめると、不知火は不満げな顔をしていた。
「良いじゃないですか、霞は欲が無さすぎるんですよ」
「はいはい、分かったからそんな顔はしないでよね。残りのナ級も沈めて、戦果を増やしましょう? ぼさぼさしていると、阿武隈さんとか曙に取られちゃうかもしれないし」
「別に二人に負けても良いんですけどね、まあ頑張りますよ」
二人の名前をやり玉に挙げて慰めるのは少し申し訳なかったが、今は目の前の敵に集中することにした。
不知火が軽口を返せるということは、まだこちらの緊張は壊れていない。
それだけで十分だった。
一方五隻のナ級は、突如旗艦を失ったことで恐慌状態に陥っていた。
整然とした陣形を組むことが出来なくなり、散発的に砲撃を繰り返すのみで、お互いがバラバラになって進もうとする2YBを追いかけて行こうとしている。
背中に背負った四連装の魚雷も、横に傾けなければ発射できない都合上、2YBに追いすがるのみの今の状態では宝の持ち腐れ、それどころか体に巻き付けた爆薬のようになっている。
「狙ってくれって言っているようなものよね、バカみたいに口を開けて、一直線に迫って来るなんて!」
隊列の中央に居る曙に迫って来た二隻のナ級は、一方は口の中にある主砲に砲撃を浴び、弾薬と魚雷に誘爆して跡形もなく吹き飛び、もう一方はその吹き飛んだナ級に激突して沈んで行った。
「ふん、雑魚が調子に乗るからよ!」
曙の声が飛ぶ。
口は悪いが、照準は正確だった。彼女は文句を言いながらでも、必要な時には必要な場所を撃つ。
最後尾の不知火を目指し、狙いも付けずに主砲を過剰に連射していた二隻のナ級は、突如右目の主砲が腔発し、身体の半分を吹き飛ばして次々に自滅していった。
「自分の砲身の状態も理解出来ずに撃ち続けるなんて、よほど焦っていたのでしょうね」
皮肉っぽく、不知火はそう吐き捨てた。
一方、最前列を狙い、それまで知られているナ級の最高速度よりも早い速度で接近してきたナ級は、後方の艦娘に向かって雷撃を試みようとしていた。
「あれ、速い……!」
潮の声がした。
確かに速い。
通常のナ級とは違う。無理に主機を回しているのか、赤い海面を裂く速度が明らかに異常だった。胴体の一部が軋むように震え、片側の目が紫色に強く光っている。
「曙ちゃん、あのナ級、こっちを狙っているよ!」
「ちょっと潮うるさい! 一隻しかいないんだから、効果的な雷撃なんて出来っこないでしょ! 訓練でやったこと忘れたなんて言わせないわよ!」
慌てる潮を、曙が落ち着かせる。
直撃であれば一撃で轟沈する危険性もある魚雷だが、実艦とは違い、艦娘は案外魚雷には対処がし易い。それこそ、魚雷の接近に気付かないか、回避できない程に大量の魚雷が来ない限りは命中することはないだろう。
問題は、数と角度だ。
一本なら避けられる。
四本でも、間隔が甘ければ抜けられる。
だが、乱戦の中で別方向から砲撃が重なれば話は違う。だからこそ、曙は潮を落ち着かせつつ、自分の進路を潰さない位置へ誘導していた。
案の定、ナ級が苦し紛れに放った四発の魚雷は逃げるのに十分な空間を与えてしまっており、その試みは徒労に終わってしまったようだった。
魚雷が白い雷跡を引いて、曙と潮の間を抜けていく。
曙は最小限の動きでそれを避け、潮も少し遅れて続く。
「ほら、言ったでしょ!」
「う、うん……!」
それでも執拗に回避運動を繰り返しながら、攻撃を試みたナ級だったが、突然紫色に輝く左目が色を失い、動きを止め、それ以上追いかけて来なくなってしまった。
「あのナ級、どうして動かなくなってしまったのかしら」
傍を通り過ぎる阿武隈が独り言ちる。
「あのー、阿武隈さん……潮は多分、全力で走り過ぎて主機が焼き付いたからじゃないかと思います……」
潮が自信なさげに仮説を述べると、阿武隈はどこか納得した様子だった。
「ありがとう潮ちゃん! じゃあ、こいつはあたしが!」
阿武隈が主砲を浴びせると、爆発することも無く弾が命中し、最後のナ級は静かに沈んで行った。
その沈み方は、妙にあっけなかった。
さっきまで異常な速度で迫っていた敵が、糸の切れた人形のように動きを止め、そのまま赤い海に呑まれていく。
だが、勝利に浸る時間はない。
伏兵の水雷戦隊を崩しただけだ。
海峡の奥では、まだ敵主力が陣形を整えようとしている。
赤い光は、さらに強くなっている。
◇
艦隊は、なおも前進し続けている。
伏兵の水雷戦隊を撃破しても、海峡そのものが開けたわけではない。むしろ、敵の主力へ近づくほどに、周囲の海はさらに赤みを増していった。海面の発光は、もはや薄い膜のようなものではなく、波の一つ一つが内側から燃えているように見える。
その赤い海の上を、2YBは速度を落とさず進んだ。
電探や見張り員を徹底的に活用することで、幾度となく行われたPTや水雷戦隊との戦いを有利に進め、魚雷を温存しつつ、撃退することに成功した。
だが、成功した、という言葉ほど軽いものではなかった。
PT小鬼群は、こちらの針路を読んだように横合いから湧き出してきた。小さく、速く、砲撃を滑るように避けるその姿は、何度見ても不快だった。機銃で薙ぎ払い、探照灯で炙り出し、不知火や曙の砲撃で仕留める。そうしてようやく撃退できる。
水雷戦隊は、島影や赤い靄の向こうから現れた。ツ級やナ級は、先ほどの一隊だけではなかった。どれも本隊を守る外殻のように配置され、こちらの速度を削ぐことを目的としているようだった。
つまり、敵はただ待っているのではない。
2YBを、海峡の奥へ進ませながら削っている。
弾薬。集中力。隊列。呼吸。
一つずつ、少しずつ、確実に。
それでも、足を止めることは出来なかった。ここで立ち止まれば、敵主力は完全に陣形を整える。そうなれば、満潮姉さんたちが合流する前に、こちらが海峡の入口で押し潰される。
時刻は〇一三〇。
1YB3Hがスリガオ海峡に到着するまで、正確な時間は分からないが、最短で〇二〇〇には合流できるのではないか、と足柄は言っていた。
あと三十分。
たった三十分。
だが、戦場での三十分は、平時の三十分とは違う。
一発の砲弾が直撃するには、一秒もあれば足りる。魚雷が海面を走り、回避不能の位置に来るまで、数十秒もかからない。敵旗艦がこちらを捉え、主力艦隊が一斉に砲門を向ければ、三十分どころか数分で全滅することさえあり得る。
それでも、三十分持ち堪えれば。
満潮姉さんたちが来る。
朝雲姉さんも、山雲姉さんも来る。
そう思おうとした。
だが、水平線から姿を現し、目の前にいる敵の戦力は、はっきり言って圧倒的なものだった。
旧型だが火力に優れる戦艦ル級六隻。
新型で艦娘に匹敵する能力を持つ重巡ネ級四隻。
その中核を補うように、先ほどの軽巡ツ級と、最初に戦った前期型よりも魚雷の本数が増えている後期型駆逐ナ級の部隊が四隊、その間を埋めている。
赤い海の向こうに、黒い影が並んでいた。
戦艦ル級は、まるで海峡そのものを塞ぐ城壁のようだった。砲塔の向きがこちらへ変わるたび、胸の奥が冷たくなる。あの一発一発が、駆逐艦娘の装甲など容易く貫く火力を持っている。
ネ級は、それよりも気味が悪かった。
戦艦ほど大きくはない。だが、速い。姿勢も崩れない。艦娘に近い柔軟さと、深海棲艦特有の異様な耐久力を併せ持っている。あれに近距離で絡まれれば、こちらの得意な機動力も簡単には活かせない。
そして、その間を埋めるツ級とナ級。
一隻一隻なら、倒せない相手ではない。
だが、数が多すぎる。
こちらは七隻。
相手は、海峡を埋めるほどの大群。
これでも、ディナガット島側の敵水雷戦隊は考慮しなくても良いのだから、まだ有利な条件と言える。
有利。
その言葉が、ひどく皮肉に思えた。
これほどの数を前にして、なお「有利」と言わなければならない。それほどまでに、本来の状況は悪いということだ。敵主力の一部だけを相手にしているはずなのに、その一部だけでこちらを押し潰すには十分に見える。
これらを退け、更に姫級よりも強力な兵装を持つであろう敵旗艦を倒さなければならないと考えると、気後れしそうになる。
いや、気後れしていた。
手のひらに汗が滲む。引き金を握る指が強張る。先ほどまでPTを撃ち続けていた左腕には、まだ痺れが残っている。肩も重い。喉も乾いている。
それでも、敵は待ってくれない。
赤い海の向こうで、ル級の砲塔が動いた。
ネ級が、こちらの突撃線を読むように僅かに散開する。
ナ級の一群が、横合いへ回り込もうとする。
敵もまた、こちらが乱戦に持ち込もうとしていることを理解しているのだろう。こちらが接近する前に、砲撃と雷撃で削るつもりだ。
「全艦、突撃準備! 乱戦に持ち込めば、敵は数の利を生かせなくなるわ!」
こんな時でも、足柄は勇猛さを失わずに居た。
その声は、虚勢ではなかった。
恐怖を知らない声でもなかった。
恐怖を知った上で、前に出る声だった。
だからこそ、聞いているこちらも足を止めずに済む。
そうだ。
ここで止まれば終わる。
ここで怯めば、満潮姉さんたちが来る前に終わる。
満潮姉さん達を置いて私が死ぬわけには行かないのだ。
朝潮型で生き残った四人。
満潮姉さん、朝雲姉さん、山雲姉さん、そして私。
四人で生きて、朝潮型の意地を見せつけるために。
朝潮姉さんも、大潮姉さんも、荒潮姉さんも、霰も、もうここにはいない。白雲も、薄雲も、帰って来ない。失った者たちは戻らない。
けれど、まだ生きている者まで、ここで失うわけにはいかない。
私は呼吸を一つ整えた。
砲を握る右手に力を込める。左手の機銃を構え直す。背部の魚雷発射管の感覚を確かめる。
魚雷は、まだ使わない。
敵旗艦まで届く距離に入るまで、温存する。
ここで焦って撃てば、後で届かない。
ここで恐れて下がれば、今度は何も守れない。
「行くわよ、全艦、最大船速! 敵のどてっぱらに、風穴を開けてやりなさい!」
足柄の号令が、赤い海を裂いた。
第一船速から速度を上げる。
艤装が唸る。
海面が割れる。
赤い飛沫が、頬にかかる。
前方で、ル級の砲口がこちらを向いた。ネ級の影が左右へ広がる。ナ級の群れが魚雷発射のために姿勢を変え始める。
それでも、2YBは速度を落とさない。
後退はない。
迂回もない。
敵の陣形が完全に閉じる前に、その中心へ食い破る。
遂に、海峡夜戦が始まった。