霞戦記   作:西安

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払暁の代償は

「なんで、またなのよ!」

声は、自分でも驚くほど掠れていた。

喉の奥が焼けつくように痛い。さっきまで叫び続けていたせいなのか、煙を吸い込んだせいなのか、あるいは目の前の現実を受け入れたくない心が、身体まで強張らせているのか、自分でも分からなかった。

勝ったはずだった。

少なくとも、つい先ほどまではそう思っていた。

山城と扶桑が敵旗艦を打ち砕き、巨大な残骸が海岸へ流れ着いた。深海棲艦の統制は崩れ、逃げ惑う敵を掃討すれば、この海峡夜戦は終わるはずだった。誰も欠けなかった。満潮姉さんも、朝雲姉さんも、山雲姉さんも、生きていた。だから、ほんの一瞬だけ、私は救われたと思ってしまった。

その直後に、これだ。

残骸の中から現れた、新たな姫級。

防空埋護姫。

両手を鎖で縛られた、秋月型のような艤装を持つ駆逐艦型の深海棲艦。大型艦ではない。見た目だけなら、先ほどの巨大な旗艦よりも遥かに小さい。だが、周囲のイロハ級が再び統制を取り戻したことで、それがただの残敵ではないことは明白だった。

新たな旗艦。

つまり、戦闘は終わっていない。

1YB3Hも、2YBも、殆どの艦が疲労困憊だった。砲身は焼け、艤装は歪み、装甲は裂け、誰もが血と煤に塗れている。立っているだけでも不思議な者すらいた。新たな姫級を討伐出来るほどの余力を残した艦は、もう四隻ほどしかいない。

その内の一人である時雨は、魚雷を使い果たしていた。

時雨の練度なら、主砲だけでも並の敵を沈めることはできるだろう。だが、姫級相手に決定打を与えるには足りない。敵が防空型である以上、艦載機や遠距離砲撃への耐性も高いと見るべきだった。

他の艦も殆どが魚雷を使い切っている。

まだ魚雷が残っているのは、私と満潮姉さんだけだった。

その事実が、胸の奥へ重く沈む。

私と満潮姉さん。

よりにもよって、この二人に、最後の決着が委ねられている。

だが、防空埋護姫はまだ完全に目覚めきっていないように見えた。鎖に縛られた両腕は垂れ、顔も少し俯いている。動きは緩慢で、その場から大きく動こうとする素振りすら見せない。

今なら倒せる。

そう思わなければ、やっていられなかった。

今この時に、逃げられる前に倒さなければならないのだ。

もし完全に覚醒すれば、さっきの旗艦以上に厄介な相手になるかもしれない。敵残存部隊の統制が完全に戻れば、傷ついた1YB3Hと2YBは再び包囲される。夜はもう終わりかけている。夜明けと共に敵航空戦力が動き出せば、こちらに耐える余力は無い。

「霞さん……私と山城で、支援砲撃をします。満潮と一緒に、あれを倒せますか?」

扶桑さんが、よろめきながら私に言った。

その姿は、見るだけで痛ましかった。頭から流れた血が片目の横を伝い、白かった服は赤と黒で汚れている。両方の四十一センチ連装砲は使用不能。艤装の一部は砕け、主機の音も乱れていた。

それでも、彼女はまだ砲を向けようとしていた。

自分の損傷など、既に勘定に入れていない顔だった。

「そうよ。姉様も私も、もうまともに動けない。最上も主機がやられた。時雨も、朝雲も、山雲も、魚雷が無くて倒せない。だから、あんた達しかいないのよ」

山城も、扶桑さんよりさらにひどい有様だった。

右側の艤装は半ば吹き飛び、使える主砲は右の四十一センチ三連装砲の内の二門だけ。弾薬も、残っているのは一回分。先ほどまでの激戦で、もう戦艦としての火力を維持できる状態ではなかった。

それでも山城の目は死んでいない。

むしろ、こうなってなお戦おうとするその目に、私は一瞬気圧された。

「二人がこう言っているのよ。霞、出来るわね?」

満潮姉さんが私を見る。

いつものような皮肉げな笑みは無い。彼女も分かっているのだ。ここで失敗すれば、今までの犠牲も、死闘も、全部が水泡に帰す。

もちろんだ。

そう答えようとして、喉が詰まった。

怖くないわけがない。

魚雷を持っているのが私たちだけということは、敵の狙いも私たちに集中するということだ。防空埋護姫を倒せる可能性があるのは私たちだけ。裏を返せば、敵から見れば最優先で潰すべき相手も私たちだけだ。

それでも、やるしかない。

ここで退けば、満潮姉さんたちがここまで来た意味がなくなる。

「良い? 即興ではあるけれど、作戦を説明するわ」

山城が、短く、しかし必要なことだけを告げた。

扶桑と山城が援護射撃を行う。

その砲撃で防空埋護姫の注意を引く。

私と満潮姉さんは、その隙に最大船速で接近し、魚雷の有効範囲まで入り込む。

そして、雷撃で仕留める。

単純な作戦だった。

だが、単純だからこそ、この状況では一番現実的だった。複雑な機動を取るだけの余力はない。長期戦に持ち込む弾薬もない。敵が完全に目覚める前に、一撃で終わらせるしかない。

「今はもう、〇五一二。夜が明ければ、駆逐艦の利点も無くなってしまうわ」

満潮姉さんの言う通り、海域には白い光が段々と差し始めている。

東の空が淡く滲み、赤い侵食海域の光と混ざって、不吉な紫色に見えた。夜明けは本来、救いの時間のはずだった。だが今は違う。夜が明ければ、闇に紛れて接近することも、駆逐艦の機動力で敵の懐に潜り込むことも難しくなる。

夜が終わる前に、終わらせなければならない。

「じゃあ、行くわよ! 姉さん、付いてらっしゃいな!」

「言われなくても!」

満潮姉さんが即座に答える。

その声に、少しだけいつもの調子が戻っていた。

そのことが、逆に胸に刺さる。

私は今、満潮姉さんと一緒にいる。

生きている満潮姉さんと、並んで戦っている。

だから、絶対に失敗できない。

 

 

 

 

覚悟を決めた私達は、レイテ島の岸で待ち構えている防空埋護姫に向かって攻撃を開始する。

消耗しきった仲間が、残った敵と、増援で送られてくる水雷戦隊に対抗できる時間は多くは無い。幸いにも、主砲の有効射程までの彼我の距離はそう長くはない。駆逐艦の最大速度で行けば三十秒とかからないだろう。

三十秒。

それだけあれば近づける。

だが、三十秒あれば死ぬこともできる。

「山城、行けるわね!」

「姉様……まだ、山城は働けます!」

扶桑型の二人が、使える主砲を全て防空埋護姫に向ける。

砲門が上がる。

傷ついた艤装が軋む。

発砲。

轟音が朝焼け前の海を叩いた。

扶桑さんと山城の砲撃が、防空埋護姫の周囲へ降り注ぐ。水柱が上がり、赤い海面が白く爆ぜる。砲撃のたびに、衝撃がこちらの足元へも伝わってきた。

「……?」

しかし、損傷により狙いを上手く定められず、主砲の散布域は広くなり、巨大な水飛沫を上げるばかりで命中弾は出ない。

扶桑さんが、悔しげに息を呑む。

「くっ……この損傷じゃ、有効打は望めませんか……」

「山城、大丈夫よ。これでも、目くらましにはなるはず……!」

そうだ。

今は当てる必要はない。

敵の視線を奪えればいい。

防空埋護姫は、射程外から来るが当たらない砲撃に興味を向けている。顔を上げ、鎖に繋がれた腕を少し動かし、弾着の方向を見ていた。

逆方向から旋回して近づく私達には、まだ気づいていないようだ。

「煙幕を張るわ! 妖精さん、お願い!」

先導する満潮姉さんの背部艤装に居る妖精さんが、煙幕発生装置を起動する。

白煙が海面へ広がった。

最初は薄い靄のようだったものが、すぐに濃い壁へ変わる。赤い海面の光が煙の中で乱反射し、視界全体が白と赤に染まった。満潮姉さんの背中さえ、数歩先で霞んで見える。

「コチラニ近ヅク、敵……? 輸送艦ハ、ヤラセマセン……!」

ようやく自らに接近する存在に気付いた防空埋護姫は、左右に備えた両用砲を向け、砲撃を始める。

砲弾が煙幕を切り裂いた。

白煙の中に黒い穴が開き、海面が爆ぜる。

水柱。

破片。

飛沫。

だが、白い煙は狙いを付けることを許さない。煙を切って突き抜ける弾丸も、ことごとくが外れる。砲撃は荒い。まだ完全に覚醒していないのか、それとも煙幕で正確な位置を掴めていないのか。

どちらでもいい。

今は、その十秒が欲しい。

「ここまで来れば!」

煙幕の効果が発揮できたのは、時間にすれば十秒程でしかなかった。

しかし、その十秒は、駆逐艦が攻撃できる範囲まで近づくのに十分だった。

煙の向こうに、防空埋護姫の姿が見える。

小柄な輪郭。

だが、周囲を支配するような異様な気配。

「雷撃準備!」

満潮姉さんが、左足に残った三本の魚雷を、左側に見える防空埋護姫に狙いを付ける。

「喰らいなさい!」

魚雷発射。

三本の雷跡が、赤白く染まる海面を走る。

「!」

防空埋護姫がようやく反応する。

緩慢だったはずの身体が、わずかに跳ねるように動いた。

だが、遅い。

真ん中の魚雷が、主砲の片方に命中した。

爆発。

防空埋護姫の右側の艤装が大きく跳ね、装甲片が飛び散る。敵は速やかに片方の艤装を外すことで誘爆から逃れたが、戦力を大幅に削ぐことには成功した。

「やった……!」

だが、次の瞬間、思わぬことが起きた。

一番左の魚雷が、両手を縛る鎖に直撃した。

不発だった。

爆発は起こらない。

だが、魚雷の質量と衝撃だけで、鎖が砕けた。

防空埋護姫の両手が、解放される。

「クッ……マダ、終ワラナイカラ……!」

その声と同時に、防空埋護姫の気配が変わった。

先ほどまで、眠りから覚めたばかりのように緩慢だった動きが、一瞬で鋭くなる。鎖から逃れた両腕が空を掻き、残された艤装が大きく展開する。

まるで拘束具を外された獣だった。

「私ガ……守ッテイクノ……!」

「あいつ、余計素早くなっているじゃない!」

満潮姉さんが舌打ちする。

目標を分散させ、別の敵に私が妨害されないよう満潮姉さんは私から離れる。

防空埋護姫の視線は、こちらを捉えていた。

いや、正確には、私の右足に残る魚雷を見ている。

まだ雷撃能力を持つのが私だと、理解しているのだ。

「ああもう、こんな時に!」

どこからか出て来た駆逐イ級が、満潮姉さんに砲撃を加え始めた。

腕の無い初期型であり、大した火力も無い。本来であれば歯牙にもかけない存在のはずだ。だが、この状況では違う。

たった一隻。

たった数発の砲撃。

それだけで、満潮姉さんの動きは鈍る。

防空埋護姫はその隙に、私へ砲を向けた。

右足の四発の魚雷に誘爆しないよう、私は左足を敵側に向け、発射の隙を見計らう。

バリカン運動を繰り返して砲撃を避ける。

右へ。

左へ。

前へ出ると見せて、後ろへ引く。

敵弾が水面を叩くたびに、赤い飛沫が顔にかかる。

だが、防空埋護姫の砲撃は途切れない。

片側の主砲を失ってなお、弾幕は濃い。無尽蔵に思える弾丸に、私は回避に専念せざるを得ず、手も足も出ない。

(攻撃が激しい……どうすれば)

焦るな。

焦れば当たる。

当たれば魚雷が誘爆する。

そうなれば私だけでなく、近くにいる満潮姉さんも巻き込む。

分かっている。

分かっているのに、敵の砲撃はその思考を削ってくる。

その時、別方向から、防空埋護姫に砲撃が命中した。

小さな爆発。

有効打とは言えない。

だが、防空埋護姫の注意が一瞬だけ逸れる。

「こっちに来なさい!」

「満潮姉さん、何を⁉」

はぐれたイ級を始末した満潮姉さんが、再び接近して来る。

彼女にはもう魚雷が無い。

唯一使える主砲も、防空埋護姫に決定打を与えるには火力不足だ。

それでも満潮姉さんは、真っ直ぐ敵へ向かっていた。

注意を引き、私に雷撃をさせようとしているのだろう。

だが、防空埋護姫は興味を示さない。

私の魚雷だけを警戒している。

「だったら!」

満潮姉さんは、さらに距離を詰めた。

主砲を撃つ。

背部の三連装機銃も使う。

残った火力を、防空埋護姫の艤装へ一点集中させる。

「これでも、無視し続けられるかしら⁉」

距離が近づくにつれ、威力の減衰も低下する。

小口径の砲撃でも、至近距離なら装甲を叩ける。機銃弾が艤装の表面で火花を散らし、残った主砲の基部に傷が増えていく。

「シツコイ……!」

ついに、防空埋護姫が痺れを切らした。

私を狙っていた主砲を、満潮姉さんの方へと向ける。

その瞬間、満潮姉さんが叫んだ。

「霞、今よ! 今しかないわ!」

「分かってる!」

魚雷の安全装置を解除する。

主砲に着けられた発射装置の引き金に指を掛ける。

一瞬だけ、世界が静かになった。

私の呼吸。

敵の砲声。

満潮姉さんの艤装の音。

遠くで誰かが叫ぶ声。

全部が遠のく。

体の大きさからして、当たる本数は多くても三本だ。四本を密集させれば、回避された時に全て外れる。横に分散させれば、直撃弾は減るが、回避できる幅を狭められる。

四本のうち一本を残して、魚雷を横に分散させて発射する。

三本の魚雷が、扇状に海面を走った。

「ウ……ォ……⁉」

防空埋護姫が気付く。

だが、もう遅い。

勢いが強く、左右の二本は逸れてしまった。

しかし、中心の一発が、防空埋護姫の胴体に直撃した。

爆発。

それまでとは桁の違う衝撃が海面を打った。

黒煙が立ち上る。

防空埋護姫の身体が仰け反り、艤装の一部が内部から裂ける。バイタルパートに命中したのか、巨大な爆発と煙が広がった。

致命傷に近い損傷を与えた。

もはや行動することは出来ないだろう。

そう、思った。

「霞、大丈夫!?」

私が爆発の余波を受けていないか心配して、満潮姉さんが駆け寄って来た。

顔は冷や汗でいっぱいだった。

その表情に余裕は無い。

だが、それでも彼女は私の方を見ていた。

「私は平気――」

そう言いかけた瞬間、煙の合間から、微かに動く主砲が見えた。

それは、大損害を与えた私ではなく、近くにいた満潮姉さんの方を狙っていた。

息が止まる。

「だめ、姉さん! 避けて!」

「えっ……しまっ……」

満潮姉さんは、私の方に気を向けていた。

だから、反応が遅れた。

次の瞬間、砲声が響いた。

「がっ」

放たれた弾丸が命中し、鈍いうめき声と共に、満潮姉さんがゴムまりの如く吹き飛ばされる。

身体が宙を舞った。

時間が、引き延ばされたように遅くなる。

満潮姉さんの髪が揺れる。

艤装の破片が散る。

血が、細い線を描く。

それから、海面に叩きつけられた。

「えぁ……?」

声にならない声が、喉から漏れた。

体が凍りつく。

ほんの一瞬であるが、世界の時間が止まる気配がした。

全身の神経の隅から隅までを、混乱と困惑が駆け回る。

目の前で起こったことへの理解を、脳が拒もうとする。

違う。

当たっていない。

満潮姉さんは避けた。

さっきのは見間違いだ。

爆煙のせいでそう見えただけだ。

そう思おうとした。

でも、目の前には、ぴくりとも動かない満潮姉さんの体が浮かんでいる。

浮力に身を任せるように、海面へ横たわっている。

こちらからでは、傷の程度は分からない。

だが、いつものように文句を言う声は聞こえない。

「私が……私が、何を?」

私が雷撃したから。

私が倒しきれなかったから。

私を心配して、満潮姉さんが近づいたから。

私が。

また。

「お前、お前ぇぇぇぇぇぇぇえええええ!!」

喉が裂けるほど叫んだ。

最後の最後で、私のせいで、また助けられなかったのか。

そのことを考えた瞬間、例えようもないほど激しい自己嫌悪と、その元凶への憎しみが心を埋め尽くした。

理性が消える。

作戦も、残弾も、敵情も、全部どうでもよくなる。

ただ、目の前の敵を消したい。

満潮姉さんを撃った存在を、跡形もなく消したい。

「この……クズがぁぁぁぁぁぁ!!!」

怒りのままに、魚雷の最後の一本を発射する。

大破して行動できない防空埋護姫へ向けて。

魚雷は真っ直ぐ走った。

防空埋護姫は避けられない。

「……!」

断末魔を上げる間も無かった。

既に殆ど機能していなかった艤装の爆発に巻き込まれ、防空埋護姫の肉体は海上から消滅した。

黒煙。

破片。

赤い水柱。

そして、静寂。

だが、そんなことはどうでも良い。

敵を倒したことなど、どうでも良かった。

私は海に浮かぶ満潮姉さんを呼ぶため、ふらつきながらも足を走らせて行く。

「姉さん! 満潮姉さん! 返事をして!」

足がもつれる。

左腕が痛む。

艤装が軋む。

それでも、走る。

早く。

早く。

早く。

侵食海域の赤い光が消えると共に、日の光がレイテ湾を照らす。

夜明けだった。

戦いの終わりを告げるような、白い光。

だが、その光が照らしたのは勝利ではなかった。

海面に浮かぶ、満潮姉さんの姿だった。

満潮姉さんは、艦娘の力によるものなのか、致命傷になるような外傷は無いように見えた。

だが、血を口と傷口から流し、意識も無くしている。

「満潮姉さん……?」

返事はない。

「ねえ、満潮姉さん、起きなさいよ。いつものみたいに、何やってるのって怒りなさいよ」

返事はない。

「ねえ……お願いだから」

声が震える。

(早く、治療を!)

辺りを見渡し、状況を確認する。

僅かに生き残った敵部隊が逃走している。だが、それに追撃をかけられる艦娘はこの場に存在しない。

戦闘を終え、味方部隊が沿岸に続々と集結する。

いや、集結というより、流れ着いていると言った方が近かった。

1YB3Hも2YBも、殆どの艦娘が通常速力を出すことが不可能な程に損傷を受けていた。

誰も、勝利の雄叫びなど上げていない。

誰も、笑っていない。

ただ、立っている者が、倒れている者を支えている。

動ける者が、動けない者を曳いている。

赤い光が消えた海は、朝日に照らされて普通の海へ戻ろうとしていた。だが、そこに浮かぶ破片と油と血の色だけが、ここで何が起きたのかを語っていた。

「霞……あなたは無事でしたか」

振り返る。

不知火だった。

艤装の殆どがひしゃげ、所々が破けた血に染まった服を着た不知火が、阿武隈に肩を借りて立っている。

「そうよ……でも全然良くない、姉さんが!」

「そうでしたか……それは良くは……ありませんね」

目を閉じて横たわっている満潮姉さんを見て、不知火は、間違っても良かったとは言えなかったのだろう。

その言葉は、いつものように冷静だった。

だが、声の奥に疲労が滲んでいる。

「早く手当てを……」

「霞……気持ちは分かりますが、あれを見れば分かるでしょう……うっ」

「不知火ちゃん!? しっかりして!」

不知火は口から小さな血の塊を吐いて、阿武隈さんに寄り掛かった。

その瞬間、私はようやく気づいた。

姉さんのことばかり頭にあって、同じ部隊の仲間のことも気に掛けてやれなかった。

不知火も、阿武隈さんも、皆、限界だった。

阿武隈は片方の主砲を失い、肩で息をしている。曙と潮は中破状態で、それでも周囲を警戒している。足柄さんも那智さんも、艤装の損傷が激しい。特に那智さんは、大破と言っていい状態だった。

2YBは、不知火と那智さんが大破したものの、どうにか自力で動くことは出来るほどで、比較的損害は軽い方だ。

比較的、という言葉が馬鹿げている。

誰も無傷ではない。

誰も余裕などない。

だが、1YB3Hはさらに酷かった。

時雨を除いて全員が手痛い損害を受けており、最上が辛うじて中破に留めた他は、皆再起不能に至る程に大破していた。

扶桑さんは砲を失い、立っているだけでやっとだった。

山城も、さっきまでの気迫が嘘のように膝をついている。

朝雲姉さんも、山雲姉さんも、艤装の損傷が酷い。

そして、満潮姉さんは目を覚まさない。

本当は、満潮姉さんの救護を、声を張り上げて求めたかった。

誰か。

誰でも良い。

早く来て。

満潮姉さんを助けて。

そう叫びたかった。

でも、声が出なかった。

勝利を素直に喜ぶことが出来ない、曇天の空のような空気が漂うここでは、体が竦んでしまう。

いや、違う。

私は怖かったのだ。

また失ったのではないかと。

また救えなかったのではないかと。

白雲。

薄雲。

朝潮姉さん。

霰。

そして、今度は満潮姉さんまで。

その名前の列に、満潮姉さんを加えることを、私はどうしても受け入れられなかった。

「……砂浜へ」

不知火がかすれた声で言った。

「せめて、揺れないところへ……」

私は頷くことしかできなかった。

満潮姉さんを、岸にある砂浜へ寝かせる。

その身体は、思っていたよりも軽かった。

いや、違う。

軽く感じたくなかっただけかもしれない。

満潮姉さんは、私の中ではずっと強い姉だった。文句を言いながらも、私の前に立ってくれる人だった。夢の中でさえ、私を助けに来てくれた人だった。

その人が、今は私の腕の中で目を閉じている。

「満潮姉さん……」

呼んでも、返事はなかった。

味方の救護班が来るまで、安静にさせる以外に私が何か出来ることは、そこにはもうなかった。

 

 

 

 

そこから、作戦が終わるまでの事は、あまり覚えていなかった。

本隊が突入したらしい。

輸送部隊を撃破したらしい。

敵の上陸作戦は阻止されたらしい。

先遣隊の奮戦により、作戦は予想以上の戦果を挙げたらしい。

後から、人伝てにそう聞いた。

だが、それが何になると言うのか。

戦果。

勝利。

成功。

そんな言葉が、やけに遠く聞こえた。

私は、勝ったのかもしれない。

2YBも、1YB3Hも、作戦を成し遂げたのかもしれない。

でも、満潮姉さんは目を覚まさなかった。

その事実の前では、どんな勝利も、ただの空虚な音にしかならなかった。

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