霞戦記   作:西安

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病院にて

一一〇〇。

 

今日は先日の雨も止んで、良く晴れた小春日和の天気だった。

 

空は高く、雲は薄い。佐世保の街を吹き抜ける風には、まだ冬と呼ぶには少し早い冷たさが混じっている。再来週には冬の気配も本格的に強まるのだろう。街路樹の葉はすっかり色を変え、濡れた落ち葉が歩道の端に貼りついていた。

 

佐世保にある海軍病院には、レイテ湾での戦いで損傷した艦娘の一部が入院している。

 

小破で済んだ艦娘は入院することなく回復し、中破した艦娘も、この時期になれば退院するものも出始めた。廊下では、包帯を巻いた軽巡が看護婦に付き添われながら歩行訓練をしていたし、庭先では松葉杖をついた駆逐艦娘が、同室の仲間らしき子とぎこちなく笑っていた。

 

戦いは終わった。

 

少なくとも、レイテ湾の戦いは終わった。

 

軍令部の発表では、敵上陸部隊は壊滅。敵主力にも多大な損害を与え、フィリピン方面の防衛は辛うじて維持されたということになっている。新聞はそれを勝利と書き、ラジオは勇戦と呼び、街の人々は艦娘を見れば頭を下げる。

 

けれど、その言葉の中に、満潮姉さんの名前は無い。

 

私は、一週間ぶりに二階の一角に眠っている満潮姉さんに会いに、哨戒明けの日に病院へと西肥バスに乗って向かった。

 

窓の外を流れる佐世保の街は、あの日の海とあまりにも違っていた。商店の軒先には野菜が並び、母親に手を引かれた子どもが道を歩き、兵隊たちが食堂の前で煙草を吸っている。遠くの港からは、船の汽笛が聞こえた。

 

世界は、何事もなかったように進んでいる。

 

それが、少しだけ腹立たしかった。

 

「お疲れ様です。今日もお姉さんに会いに、ですか?」

 

病院の庭で落ち葉を掃いていた少女が、私に声をかけた。

 

丸眼鏡に白髪が似合う、元海防艦の子だった。小柄な体に不釣り合いな武骨な義足が、退役の理由を雄弁に、しかし悲しげに語っている。

 

「ええ、そうよ。あなたも、昨日の雨で落ち葉が湿気って、掃除が大変じゃないの?」

 

「私は大丈夫です。これが仕事ですから……」

 

彼女はそう言って、少し困ったように笑った。

 

その笑い方は、初めて会った時よりもずっと自然だった。最初にこの子を見た時、私はまともに目を合わせられなかった。義足を見たからではない。むしろ、その義足の先にある未来を、勝手に想像してしまったからだ。

 

退役した艦娘は、形の上では民間に出ることができる。

 

結婚もできる。働くこともできる。普通の女の子として生き直すことも、制度上は不可能ではない。

 

けれど、現実はそんなに綺麗ではない。

 

戦時に、五体満足で、後遺症もなく、艦娘を辞められる者などほとんどいない。特に、幼げに見える駆逐艦や海防艦では、働き口も限られる。軍の施設で雑務をしたり、事務仕事を手伝ったり、あるいは療養所のような場所で長く暮らしたりする者も多い。

 

彼女の義足は、その現実を見せつけていた。

 

最初にこの子に会った時、たとえ奇跡が起きて満潮姉さんの意識が戻っても、その後に待ち受ける未来は決して明るくないのかもしれないと思ってしまった。

 

戦場で沈まなくても、戦争は体のどこかを持っていく。

 

そして、持っていかれたものは、勝利の発表では戻ってこない。

 

それでも、休みの日に病院で毎回会っているうちに、彼女の明るさに触れ、次第に打ち解けていった。

 

「最近は、外の哨戒も忙しいんですか?」

 

「まあね。レイテで勝ったって言っても、深海棲艦が急にいなくなるわけじゃないし」

 

「そうですよね……」

 

少女は箒を止め、少しだけ目を伏せた。

 

「でも、勝ったんですよね。新聞には、そう書いてありました」

 

「……そうね。勝ったらしいわ」

 

自分でも、随分と冷たい言い方だと思った。

 

少女もそれに気づいたのか、それ以上は聞かなかった。彼女も、勝利という言葉が必ずしも人を救うわけではないことを知っているのだろう。

 

「じゃ、会いに行くわ」

 

「ふふ。お姉さん、目覚めていると良いですね」

 

「……ええ」

 

いつも交わすのはこの程度の短い会話だが、それでも最近はささやかな楽しみになりつつあった。

 

病院の玄関を抜けると、消毒液の匂いがした。

 

この匂いにも、もう慣れてしまった。最初に来た時は、白い壁も、足音が響く廊下も、薬品の匂いも、全部が嫌だった。ここにいる者たちは皆、戦場から帰って来た者たちだ。だが、帰って来たからといって、戦いが終わったわけではない。

 

廊下には、包帯を巻いた艦娘が何人もいた。

 

腕を吊った者。

 

片目に眼帯をしている者。

 

車椅子に乗せられている者。

 

看護婦に怒られながらも、窓際でこっそり蜜柑を食べている者。

 

生きている。

 

皆、生きている。

 

そのことは喜ぶべきなのだろう。

 

けれど、生き残るということが、こんなにも痛々しいものだとは、昔の私は知らなかった。

 

 

 

 

階段を上る。

 

二階の廊下は、一階よりも静かだった。

 

重傷者の病室が多いからだろう。笑い声は少なく、話し声も小さい。靴音を立てるのもためらわれるような、静かな空気が漂っている。

 

私は、一番奥の病室の前で足を止めた。

 

扉の前で、深呼吸をする。

 

何度来ても、この瞬間だけは慣れない。

 

今日こそ目を覚ましているかもしれない。

 

そう思う。

 

でも、また眠ったままかもしれない。

 

そうも思う。

 

希望と失望を、毎回同時に持って扉を開けるのは、思っていたよりずっと疲れる。

 

「こんにちは、姉さん。今日も来たわ」

 

二階へ行き、病室へ入る。

 

満潮姉さんは、今日も窓際のベッドで眠っていた。

 

白い布団。

 

白い包帯。

 

白い壁。

 

その中にいる満潮姉さんは、戦場で見ていた彼女よりもずっと小さく見えた。

 

枕元に顔を近づけ、満潮姉さんの耳に声を掛ける。普段の髪型から想像がつかない長髪にも、もう慣れてしまった。結ばれていない髪は肩のあたりへ流れ、寝顔だけ見れば、いつも文句を言っている姉とは別人のように穏やかだった。

 

だが、それは穏やかなのではない。

 

動かないだけだ。

 

「深海棲艦の上陸部隊は、本隊の大和さんや長門さんが撃滅したでしょ? ここ最近、ずっと道行く人に褒められて、何かこそばゆい気持ちがするの」

 

がらんとした病室に、私の声だけが音を立てている。

 

窓の外では、風が木の葉を揺らしていた。病室の中は暖かい。外の空気よりも少し乾いていて、薬品と洗濯された布の匂いが混じっている。

 

「でも、私たちがやったことなんて、新聞にはほとんど書かれていないのよ。大和さんや長門さんの活躍ばかり。もちろん、あの人たちが本隊で敵輸送部隊を叩いたのは本当だし、戦果としてはそっちの方が大きいんでしょうけど」

 

私は椅子を引き寄せ、ベッドの横へ座った。

 

「でもね、姉さん。私、たまに思うのよ。あの海峡で、私たちが一時間でも持たなかったら、本隊は通れなかったんじゃないかって。扶桑さんも山城さんも、朝雲姉さんも山雲姉さんも、時雨も最上さんも、2YBの皆も、誰か一人でも諦めていたら、あの作戦は成り立たなかったんじゃないかって」

 

言ってから、自分で苦笑した。

 

「別に、褒められたいわけじゃないわ。勲章が欲しいわけでもない。でも、何だかね。あれだけのことがあって、世間では綺麗な勝利の話だけが流れていくのが、少し気持ち悪いの」

 

満潮姉さんは答えない。

 

いつもなら、ここで何か言ってくれるはずだった。

 

「霞、あんた面倒くさいこと考えすぎよ」とか。

 

「戦果があるなら、それでいいじゃない」とか。

 

「悔しいなら次で見返せばいいのよ」とか。

 

きっと、そう言っただろう。

 

でも、今は何も言わない。

 

「でも、心残りがあるの。あなたが目を覚まさないことよ」

 

言葉にした途端、胸の奥が痛んだ。

 

「扶桑さんも、山城さんも、最上さんも、朝雲姉さんも、山雲姉さんも皆退院したわ。まだ完全に治ったわけじゃないけど、少なくとも病室からは出られるようになった。時雨なんて、退院してすぐに訓練場の様子を見に行こうとして、看護婦さんに怒られていたわ」

 

少しだけ笑おうとした。

 

でも、上手くいかなかった。

 

「貴方だけなのよ」

 

病室の空気が、急に重くなる。

 

「ここの司令官にも、扶桑さんにも、私に責任があるわけじゃないって言われたわ。あれは敵の最後の反撃で、私の判断が悪かったわけではないって。あの時の状況なら、誰がいても避けられなかったって」

 

そう言われた。

 

何度も言われた。

 

不知火にも言われた。

 

阿武隈さんにも言われた。

 

満潮姉さんが私を庇おうとしたわけではない、ただ私を心配して近づいた時に偶然撃たれただけだ、と。

 

だから、私が自分を責めるのは筋違いだと。

 

頭では分かっている。

 

でも、頭で分かることと、心が納得することは違う。

 

「でも、私はあの場に居合わせた以上、責任は負わなきゃいけないって思っている。私がもっと早く止めを刺していれば。私が姉さんに近づかないでって言っていれば。私が、もっと……」

 

言葉が続かなかった。

 

もっと何だというのだろう。

 

もっと強ければ。

 

もっと上手ければ。

 

もっと冷静なら。

 

そんな言葉は、いくらでも出てくる。

 

でも、そのどれも、満潮姉さんを目覚めさせる力は無い。

 

「でも、もう限界なのよ」

 

自分でも、ずいぶん情けない声だと思った。

 

「もう、目を覚ましても良いじゃない! ねえ! あの悪夢から私を救ってくれた時みたいに、頼れるお姉ちゃんでいてよ!」

 

筋肉が衰え、骨と皮が少しばかり目立つようになった満潮姉さんの手を握る。

 

以前の満潮姉さんの手は、もっと力強かった。

 

小突かれれば痛かったし、頭を撫でられれば少し乱暴だった。艤装を扱う手で、砲を構える手で、何度も私の背中を押してくれた手だった。

 

今は、その手があまりにも軽い。

 

「もう、戦果なんかいらない……だから……お願いだから……目を開けてよ……」

 

今日も、返事は返ってこない。

 

沈黙。

 

病室の外を、看護婦の足音が通り過ぎる。

 

どこか別の病室で、誰かが小さく笑った。

 

窓の外では、枝が揺れている。

 

世界は、私が泣いていても関係なく動いている。

 

『先月末の比島での大海戦、勇猛なる我が海軍にて数多の深海棲艦を葬る、八面六臂の活躍を単獨にて爲した艦娘の戦艦大和、當時の詳細な戰鬪記録が軍より公開されました』

 

娯楽用に室内に置かれたラジオからは、いつものように政治宣伝として戦果を誇示するアナウンサーの自慢げな低い声が、雑音交じりで聞こえて来る。

 

私は、握っていた満潮姉さんの手に額を寄せた。

 

「……うるさいわね」

 

小さく呟いた。

 

ラジオは止まらない。

 

『敵深海棲艦の輸送部隊は壊滅し、我が海軍の奮戦により、比島方面における敵侵攻計画は大きく挫折したものと見られます。なお、軍当局は本作戦に参加した艦娘各員の勇戦を讃え――』

 

勇戦。

 

奮戦。

 

戦果。

 

勝利。

 

その言葉のどこにも、満潮姉さんの眠りは入っていない。

 

その言葉のどこにも、病室の静けさは入っていない。

 

「姉さん、聞こえてる?」

 

満潮姉さんは答えない。

 

「皆、勝ったって言ってるわ。新聞も、ラジオも、街の人も。勝ったんだから胸を張れって。でもね、私、どうしてもそう思えないの」

 

私は、ゆっくりと息を吐く。

 

「勝ったのに、あなたが目を覚まさない。勝ったのに、不知火はまだ咳をしてる。勝ったのに、朝雲姉さんはしばらく出撃できない。勝ったのに、山城さんは扶桑さんの前では強がるけど、一人になると手が震えている」

 

言葉にすればするほど、勝利という言葉が遠ざかっていく。

 

「これが勝ちなら、負けって何なのかしらね」

 

私は、ラジオへ目を向けた。

 

あれを消してしまおうかと思った。

 

だが、手は動かなかった。

 

この音が無ければ、病室は完全な沈黙になってしまう。それはそれで、耐えられなかった。

 

満潮姉さんが、ただ一人眠るがらんどうの病室には、その音だけが響き渡っていた。

 

しばらく、私は何も言えなかった。

 

椅子に座ったまま、満潮姉さんの手を握り続ける。

 

体温はある。

 

呼吸もしている。

 

それだけが、今の私に残された希望だった。

 

「ねえ、満潮姉さん」

 

ふと、声が出た。

 

「私、また出撃することになると思う」

 

自分で言って、胸の奥が冷えた。

 

レイテ湾で勝ったからといって、戦争が終わったわけではない。むしろ、あの戦いは深海棲艦がこれまで以上の規模で動き始めたことを示していた。侵食海域。流れ。別の歴史を語るような深海棲艦。あの黒服が言った言葉は、今も耳に残っている。

 

流れに逆らうな。

 

海峡が行き止まりだ。

 

では、あれは本当に終わったのか。

 

防空埋護姫を倒したことで、全てが終わったのか。

 

違う。

 

そんなはずはない。

 

「この前の戦いで、私たちは勝った。でも、深海棲艦はまだいる。あの妙な姫級も、きっとまた出てくる。あいつらが言っていた“流れ”って言葉も、まだ何も分かっていない」

 

満潮姉さんの指は動かない。

 

「だから、私、たぶんまた戦うわ。怖くても、嫌でも、行くしかない。だって、今度こそ生きている仲間を守らなきゃいけないから」

 

そう言ってから、少しだけ笑った。

 

「不知火に言われたのよ。いなくなった仲間のことを考えている暇があるなら、まだこの世にいる仲間を生き永らえさせる方法を考えろって。ほんと、嫌なこと言うわよね。正論だから余計に腹が立つの」

 

満潮姉さんは、眠ったままだ。

 

「でも、今なら少し分かるわ。私、ずっと過去ばかり見ていた。白雲も、薄雲も、朝潮姉さんも、霰も。助けられなかった人たちばかり見ていた。でも、それだけじゃ駄目なのよね」

 

私は、満潮姉さんの手を握る力を少し強めた。

 

「あなたはまだ生きてる。だから、私は過去にしない。絶対に」

 

窓の外から、乾いた風が吹いた。

 

カーテンがわずかに揺れる。

 

ラジオの音声が、一瞬だけ雑音に呑まれた。

 

その時だった。

 

満潮姉さんの指が、ほんの僅かに動いたような気がした。

 

「……え?」

 

私は息を止めた。

 

見間違いかもしれない。

 

願望が見せた錯覚かもしれない。

 

「姉さん?」

 

返事はない。

 

「満潮姉さん?」

 

もう一度、手を見る。

 

動かない。

 

さっきの感触は、本当にあったのか。

 

自分でも分からなかった。

 

でも、私はその手を離せなかった。

 

「……今、動いたわよね」

 

誰に確認するでもなく、そう呟く。

 

病室には、ラジオの雑音だけが響いている。

 

満潮姉さんは目を覚まさない。

 

けれど、私はその一瞬を、錯覚だと切り捨てることができなかった。

 

「待ってるから」

 

私は、満潮姉さんの手を握ったまま言った。

 

「どれだけ時間がかかっても、待ってる。でも、私も止まらない。姉さんが目を覚ました時に、全部終わってました、なんて都合のいいことは言えないかもしれない。たぶん、まだ戦争は続いてる。もっとひどくなるかもしれない」

 

そこで言葉を切る。

 

「だから、早く起きなさいよ。私一人に背負わせる気?」

 

いつものように、少しだけ強がって言った。

 

返事は無い。

 

けれど、先ほどまでより、病室の沈黙は少しだけ違って聞こえた。

 

ラジオでは、まだ勝利を称える声が続いている。

 

窓の外では、落ち葉を掃く音が小さく聞こえた。

 

私は椅子に座り直し、満潮姉さんの手を握ったまま、しばらくその場を動かなかった。

 

レイテ湾での戦いは終わった。

 

敵上陸部隊は撃滅され、海峡は開かれ、本隊は目的を果たした。軍の発表では、それは疑いようのない勝利なのだろう。新聞にもそう書かれ、ラジオでもそう語られ、街の人々もそう信じている。

 

けれど、私の中では何も終わっていなかった。

 

満潮姉さんはまだ眠っている。

 

深海棲艦はまだ海にいる。

 

あの赤い海も、あの声も、あの「流れ」も、何一つ答えを出していない。

 

勝利という言葉で覆い隠せるほど、戦場で見たものは軽くなかった。

 

それでも、私は生きている。

 

生きている以上、次に何を守るのかを選ばなければならない。

 

だから私は、目を閉じ、満潮姉さんの手の温度だけを確かめながら、もう一度小さく言った。

 

「……また来るわ、姉さん」

 

病室の白い壁に、その声だけが静かに吸い込まれていった。

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