まずは、原作にはないプロローグです。
主人公と女性のパートナーとの出会いが、ここから始まります。
「情報」が「実体」を追い越す時代になった。
かつての怪談は、囲炉裏端や暗い夜道で語り継がれる事でゆっくりと数代をかけて形を成した。
だが現代は違う。
光の速さで駆け巡る電子の海、その一角で生まれた「噂」は、瞬時に数万人の意識を汚染する。
人々の心に芽生えた小さな「恐怖」という名の種は、
SNSのタイムラインという名の土壌で急速に芽吹く。
その芽は、共通の不安を栄養にして肥大化し、
やがて物理法則を無視した異形――『災悪』を現実へと引きずり出す。
夕暮れ時の街は、一見すれば平穏そのものだった。
帰宅を急ぐサラリーマン、塾に向かう小学生、カフェで談笑する若者達。
その誰もが、ポケットの中のスマートフォンから絶え間なく流れてくる「噂」を
無自覚に摂取し、また吐き出している。
「ねえ、知ってる? 『呪われた少年』の話」
その声は、街の喧騒に紛れてあちこちで囁かれていた。
「白い服を着ていて、左目だけが赤いんだって」
「その子の本名を言っちゃうと、取り返しのつかない呪いにかかるらしいよ」
「SNSで名前だけを書くなら大丈夫みたいだけど……」
虚実入り混じった言葉が空気を震わせるたび、街の影が、ほんの少しずつ濃くなっていく。
その影の中に、少年はいた。
壊井ウワサは、雑踏の隅に立ち、周囲の視線を避けていた。
彼は耳にイヤホンを差し込み、ノイズキャンセリング機能を最大にしていた。
それでも、完全に遮断する事はできない。
人々の意識が自分という「器」に向かうたび、頭の奥で不快な耳鳴りが響く。
(……今日も、また増えている)
ウワサは自身の左目――血のように赤いオッドアイを、前髪で隠すようにして俯いた。
自分はただ、ここに存在しているだけだ。
だが、世間が自分を「呪い」だと定義すれば、世界はその通りに変質してしまう。
ウワサはポケットの中で、一本の銀色のペンを握りしめた。
それは冷たく、重く、彼の掌に馴染んでいる。
このペンだけが、人々の生み出した悪意あるものを、この現実から消し去る唯一の道具だった。
不意に、胸の奥を鋭い痛みが突き抜ける。
「あ……」
ウワサは苦しげに胸を押さえた。
誰かが不用意に扉を開けたのだ。
「呪われた少年の名前」を口にしてしまった人間が、すぐ近くにいる。
街路樹の葉が、風もないのにざわめき出した。
アスファルトに落ちた人々の影が、奇妙に長く、不自然な角度で伸びていく。
「助けなきゃいけないんだ」
ウワサは足を引きずるようにして、異変の源流へと歩き出した。
その背中は酷く孤独で、今にも夜の闇に溶けてしまいそうだった。
同じ頃。
この街の頭上、遥か上空の「次元の壁」が、音もなく剥離し始めていた。
そこは、魔法と精霊が世界の理を支配する異界。
アクリャの騎士、アノロンウェンは、光の奔流の中にいた。
「……ちっ、あのエルフ、とんでもない旅に誘ってくれたもんだよ!」
アノロンウェンは眩い光に目を細めながら、悪態をついた。
故郷を追われ、行き着く先もなかった彼女の前に現れた、ある異次元の旅人。
その接触がきっかけで、彼女の運命は大きく歪んだ。
アノロンウェンが手にしているのは、一振りのミスリル銀のレイピア。
戦闘こそが己の生きた証であると信じるアノロンウェンにとって、
静かなものよりも、未知の世界での戦いの方がいくらかマシに思えた。
不意に、重力が反転する。
アノロンウェンの身体が、次元の裂け目から吐き出された。
「おわっ!?」
アノロンウェンは空中で身を翻し、猫のようなしなやかさで「地面」へと着地する。
だが、そこにあったのは、見慣れた柔らかな土でも、冷涼な森の草むらでもなかった。
硬く、黒く、無機質な板状の地面――アスファルト。
「……なんだい、ここは」
アノロンウェンは顔を上げ、呆然と周囲を見渡した。
天を突くようにそそり立つ、鉄とガラスの塔。
夜を無理矢理追い出すような、禍々しいまでの電飾。
そして、鼻を突く排気ガスの臭い。
アノロンウェンが何よりも驚いたのは、その「静寂」だった。
「精霊が……いないのか? いや、死んでいるのか?」
アノロンウェンの故郷では、風が吹けば風の精霊の声が聞こえ、
水が流れれば水の精霊の気配を感じた。
だが、この世界にはそれがない。
代わりに満ちているのは、澱んだ空気と、人々の無秩序な思念の渦。
「なんて不気味な場所だ。こんなところに住んでいたら、心まで石になっちまうよ」
アノロンウェンは嫌そうに首を振り、腰のレイピアを軽く叩いて確かめた。
幸い、己の獲物はそこにある。
そして、この渇いた世界にも、僅かに「戦うべき相手」の気配が漂っているのを感じ取った。
「いいさ。精霊がいないなら、アタシがこの一本の剣で道を拓くまでだ」
アノロンウェンは凛とした表情で、夜の街へと歩き出す。
まだ見ぬ「呪われた少年」の存在も、自分を待ち受ける「災悪」との死闘も、
今の彼女は知る由もない。
少年の左目が、一瞬、強く発光した。
女性のレイピアが、何かに共鳴するように低く鳴った。
二つの異質な運命が、一つの街で交差しようとしている。
一人は、自らが「噂」の源流である事に絶望しながらも、ペンを執る少年。
一人は、未知の理法に戸惑いながらも、剣を抜く異世界の乙女。
彼らが互いの名前を知り、手を取り合う日は、そう遠くない。
だが、その前に。
街のどこかで、誰かがまた、愚かにもその名を呼んでしまった。
暗闇の中から、人の形を捨てたモノが這い出し、嗤う。
現代の深淵に潜む、実体化した悪意との戦い。
その幕が、今、静かに上がろうとしていた。
次回は、アノロンウェンの本格的な戦いが始まります。