清らかなる誉川(ほまれがわ)のせせらぎに寄り添うように、その校舎は威風堂々と聳え立っている。
私立誉川高等学校。
穏やかな時の流れるこの都会から離れた進学校において、静寂を乱すような荒れた生徒の姿は、まず見当たらなかった。
そんな静謐を切り裂くように響き渡る怒声。それは生徒同士の喧嘩でも、教師の叱責でもない。
誉川高校が誇る"歩く校則"のお出ましだった。
「ふざけないでください!!」
人差し指で眼鏡のブリッジをくいと押し上げ、彼女は仁王立ちになった。
「遠藤さん、お化粧が濃いと思います!
山口さん、そのスカート丈どうにかなりませんか?
瀬戸さん、髪の色が明るすぎます!
仲野さん、今すぐネイルを落としてください!」
膝下までしっかりと覆う長いスカート。肩先で切り揃えられた黒髪は、耳の後ろできっちりと黒ゴムに縛られている。スクエア型の黒縁眼鏡の奥に宿る瞳は、一点の曇りもなく凛々しい。もちろん、その肌はスッピンだ。
渡辺しずく。
彼女はこの学校の秩序を司る、風紀委員長である。
生徒たちは、しずくの剣幕を怖がるどころか、面白がるような視線を交わし合った
右から、ほんのり色づくリップを引いた遠藤。
膝をわずかに覗かせる程度の山口。
陽光に透かせば栗色に見える程度の瀬戸。
そして、爪先に淡い桜色の光沢を宿した仲野。
教師であれば素通りするような、年頃の少女たちのささやかな「自己表現」も、しずくの正義というフィルターを通せば、看過できない重罪へと変わるのだ。
「全然ふざけてないよー。ただのおしゃれだってば」
「しずくちゃん、そんなに眉間にシワ寄せたら怖いよ?」
緩んだ空気の中で、生徒たちは反発するどころか、慈しむようにしずくの頭を撫でた。
しずくの額に、ぴきりと青筋が浮かぶ。口を真一文字に結び、頭の上の掌を払いのけると、防御するように両腕を胸の前で固く組んだ。
「いいですか!? 学校は勉学の場所です。おしゃれをする場所ではありません。なぜ、皆さんはおしゃれだなどと言って髪を染めたり、スカート丈を短くするのですか? 勉強には全く関係の無いことです!」
生徒たちは顔を見合わせ、いたずらっぽく口角を上げた。合図もなしに、しずくを包囲するように距離を詰めると、流れるような手つきで彼女のスカートをひょいと持ち上げた。
「ほら、これくらいの方が絶対可愛いって」
「な、な、何を……!」
慌ててプリーツを整えるしずくをよそに、彼女たちの追撃は止まらない。
「彼氏もね、こういうのが好きって言うんだよね」
「しずくちゃんは、彼氏さんにそういう格好が好きだって言われてるの?」
「そもそも……渡辺さん、彼氏いるの?」
「しずくちゃん、今まで彼氏いたことあるの?」
形勢逆転。屈辱の連続砲撃が決まった。
「……っ!」
しずくは顔を真っ赤にすると、それを誤魔化すように、軽く咳払いをする。汗でずり落ちた眼鏡を指で持ち上げ、大きく深呼吸した。
「がっ、学校は恋愛をする場所ではありません! それに私は彼氏はいません! 彼氏はいたことありません! とにかく! えーっと、こ、校則違反をどうにかしてくださいっ!」
それだけ叫ぶと、しずくは逃げるように廊下を駆け抜けていった。
「おーい、しずくちゃーん。廊下を走るのは校則違反ですよー!」
「面白いよね、渡辺さん」
「彼氏いたこと無いってあんな大きな声で言わなくても」
生徒に嫌われがちな風紀委員だが、彼女の真面目でバカ正直なところが生徒達に微妙に受けていた。一生懸命な彼女の姿は学校の名物となっており、誰も嫌う者はいないのであった。
夕刻。
学専バスを降り、最寄りの駅へと向かうしずくの背中は、どこか丸まっていた。
「しずちゃん!」
聞き慣れた声に肩を叩かれ振り返ると、そこには見知った男の顔があった。
「和真くん……」
隣の家に住む、二歳年上の幼馴染。大学生になった彼だが、男性の平均よりは小柄で、なだらかな肩のライン。睫毛の長い垂れ目は、どこかアルパカを彷彿とさせた。
しずくの脳裏に、先ほどの廊下での屈辱が蘇る。気がつけば、自問自答していた言葉が唇から溢れていた。
「……スカート」
「ん?」
「……長すぎますか、これ」
和真の視線が、しずくの険しい表情から足元のスカートへと移る。彼はしずくの「生真面目」の温度をよく知っていた。
和真は茶化すような笑みを消した。しずくの瞳にある真剣な色を汲み取ったのか、彼は検品でもするかのような目つきで、じっくりと彼女の姿を眺めた
「んー。……少し長いかも。でも、しずちゃんはそのままで良いと思うよ」
和真が浮かべたのは、毒気のない、陽だまりのような笑顔だった。
だが、しずくの耳に突き刺さったのは、肯定の言葉よりも「少し長い」という事実だ。
「やっぱり……! 今日、学校でも格好悪いって言われたんです。男性は短い方が可愛いと思うものだって。……校則通りなのに。勉強には関係ないのに」
堰を切ったようにまくしたてるしずくを、和真は呆気に取られたように見つめる。
「男性はやっぱり、短い方が、好きなんですか?」
「もしかして……しずちゃん、好きな人でもできた?」
「違いますっ!」
食い気味に否定し、ブンブンと首を振る。図星を突かれたわけではないが、今の言い草ではまるで「意中の彼のためにスカート丈を悩んでいる」ように聞こえてしまう。
羞恥心から逃げるように眼鏡を押し上げる。
「ふ、ふざけないでください! 私はただ、校則の妥当性について……!」
「アハハ、わかったよ。じゃあ、今のままでいいじゃん。これ、あげる」
手渡されたのは、ひよこのイラストが描かれた新商品のチョコレート『ぴよちょこ』だった。
「ぴよちょこ……」
「じゃあ、暗くなる前に帰るんだよ。気をつけてね」
しずくの頭を、大きな掌がぐりぐりと撫でる。彼は幸せそうな「アルパカ・スマイル」を残し、軽やかな足取りでコンビニへと向かっていった。
しずくは一人、残された路上で鞄に菓子を仕舞い込むと、足元の影を見つめて小さく呟いた。
「膝下……五センチメートル。校則、厳守です」