汗ばんだ手に握りしめたシャープペンは今にもへし折りそうだ。
顔中の筋肉が強張り、奥歯が鳴るほど力を込めた。
「すきですっ」
喉からひっくり返った声が飛び出した。
……余裕の表情で言うつもりだったのに。
ピュアなんて言わせない。バックスを圧倒させてやるつもりだった。
しかし、なんだか上手くいっていない。
そんな彼女の当惑した感情を察した瞬間、バックスは堪えきれずに大きく噴き出した。
自分を奮い立たせ、渾身の力で放った「好き」。
だがその反動は、放った本人に最大級の打撃を与えていた。
その様子が完全にバックスのツボを突いたらしい。彼は腹を抱えて大笑いし始めた。
ゲラゲラと笑い転げるバックス。しずくは、眼鏡の奥の瞳に蔑みを込めて彼を睨み上げた。
全くもって、面白くもなんともない。
「勘違いしないでください、私が今言った言葉は……!」
「わかってる、わかってるから」
ひとしきり笑い転げたあと、バックスは宥めるようにしずくの頭を撫でた。
「ありがと、しずく。俺が悪かった。無理させてごめんな」
「笑わないでください。すごく気分が悪いです」
「ごめんって」
笑われたことに腹立たしさを感じたのは事実だ。
しかし、「気分が悪い」という言葉は、本来のニュアンスとは少し違っていた。
「好き」と口にした瞬間、しずくの胸の奥で、正体不明の何かがくすぐったく疼いたのだ。
生まれて初めて味わうこの不快なまでの高揚を、彼女は暫定的に「気分が悪い」と定義することにした。
複雑な感情の渦に呑まれるしずくに、バックスがふと、真剣な眼差しを向けた。
「実は俺も少し緊張してて」
「え?」
「今の聞いて安心した。俺自身、自分がガキの姿だろうが、今の姿だろうが、変わりないんだけど、しずくは今の姿の俺を家に置くのは抵抗あるみたいだから追い出されるかと思った」
しずくは二の句が継げなかった。
否定したくても、事実は重い。親の居ぬ間に大人の男を自宅へ連れ込んでいる今の状況は、彼女の倫理観に照らせば万死に値する。子供の姿だった時に比べ、明らかに物理的・心理的距離を置こうとしていたのは事実だ。
だが。
ソファの上であぐらをかき、慈しむような瞳で自分を見つめるこの天使を「追い出す」という選択肢は、しずくの中に存在しなかった。
「そ、そりゃ、抵抗はあります、けど、追い出すだなんて薄情なことはしません」
しずくは視線を激しく泳がせた。その答えを聞いた瞬間、バックスの表情はパッと晴れ渡り、弾むような声を上げた。
「やっぱ優しいな、しずくは。約束するよ」
「え?」
「しずくの母さんが帰ってくるまでの期間しかいない」
「でも、それまでに羽根が生えなかったら」
不安げに眉を寄せるしずくを、バックスは快活な笑いで包み込んだ。
「そんなことしずくは気にするな」
(この人は、空腹の果てに縮み、そのまま野垂れ死んでしまうかもしれないのに)
なぜ、そんな残酷な未来を予感しながら、これほど無邪気に笑えるのか。
しずくは高校生で未成年。まだ保護者の下で生活させてもらってる身。
羽根が生えるまで、ずっとここに居ていいだなんて、絶対に言えない。
言えない自分は、優しくなんてない。
しずくの胸が、締め付けられるように鋭く痛んだ。
悲痛な顔を浮かべるしずくを見て、バックスはもう一度、静かに微笑んだ。
「こんなに世話になってるのに、俺はしずくに何もお返しできない。責められてもいいくらいだ。だから気にするな」
繰り返されたその声は、驚くほど澄んでいた。
それでも肩を落とし俯くしずくに気を遣ってか、バックスの手がひょいと伸びて、しずくの両頬を摘んだ。
柔らかい頬肉が押され、唇がむにっと尖る。
「タコ顔〜」
無邪気に笑うバックス。
しずくはされるがまま、また「気分が悪く」なった。
***
それから数日、平穏な、だが確実に何かが変わり始めた日々が過ぎていった。
朝、テーブルに卵を供え、学校へ。学業と風紀の職務を全うする。
不在の間、バックスは拙いながらも簡単な家事を手伝ってくれていた。
帰宅すれば、バックスがテレビを眺めていたり、うたた寝をしていたりする。
再び卵を与え、自炊をし、彼の手が回らない家事を片付ける。
意識的か、はたまた天性の配慮か。バックスはしずくと絶妙な距離感を保っていた。
深入りせず、それでいて拒絶もしない。
しずくにとって、この奇妙な同居生活は、いつの間にか「居心地の良い日常」へと変質していた。
午後十時。
風呂上がりのバックスが、居間で寛いでいたしずくの元へ、弾むような足取りで駆け寄ってきた。
「しずく!」
顔を向けたしずくの視界に入ったのは、腰にタオルを巻いただけの、オールバック姿で仁王立ちする全裸(に近い)バックスだった。
「あられもない」という言葉では生ぬるいその光景に、しずくの顔は一瞬で真っ赤に染まる。両手で顔を覆い隠し、悲鳴を上げるように顔を背けた。
「ふざけないでくださいっ! 服を!!」
「ちょ、ちょ、見て」
バックスが必死に自分の背中を指差す。しずくは指の隙間から、恐る恐るその背を覗き込んだ。
そこには、以前見た時と同じ、二つの小さな傷跡があるだけ……に思えた。
だが、バックスが背中にグッと力を込めた、その時。
「……なんですか、これ」
その傷口から、粘液を纏ってヌラヌラと光る、六センチほどの「骨のような突起」がにゅっと突き出した。
テラテラとした光沢。生物学的なナマナマしさ。
「キモい」「グロい」。その二語がしずくの脳内を埋め尽くす。
誇らしげなバックスとは対照的に、しずくは今にも吐きそうな顔で硬直した。
「何って、羽根だよ、羽根! 羽根の芯!」
「気持ちが悪いです」
あまりの拒絶反応に、バックスは慌ててその「芯」を背中の中へと収納した。
「ごめん、力が少しずつ元に戻ってきてるってとこ見せたくて……」
「あと、どれくらいで元通りになるんですか?」
「ん~。一カ月はかからないと思うけど」
「一ヶ月!?」
想定外の長丁場だ。母の帰宅まではあと十日。到底、間に合わない。
「あ、あの、言いにくいのですが、母が帰ってきたら……」
「わかってる。約束は覚えてる。ありがとう、しずく」
バックスは屈託なく笑い、しずくの頭をくしゃくしゃと掻き回した。
「その時は、また考えるよ。……っくしゅ!」
「あ、風邪引きます」
しずくは弾かれたように立ち上がり、彼の着替えを取りに走った。
その健気な背中を見送りながら、バックスはポツリと言葉を落とした。
「早くしないと、な」
その呟きは、夜の静寂の中に、どこか不穏な余韻を残して消えた。