その晩。窓から差し込む満月の光が、畳を照らす夜だった。
しずくの自室は二階にあり、母の寝室は一階の玄関脇にある。
バックスはいつも通り、その一階の寝室で眠りについていた。深い静寂が家を包み込んでから、しばらく経った頃のことだ。
暗闇の中で、ふすまが軋むような微かな音を立てて開いた。
「あの……」
消え入るような声。バックスが薄く目を開けると、そこには不安げに眉を寄せ、部屋に入ろうか入らまいか躊躇した様子のしずくの姿があった。
「……どうした……? なんか……あったか?」
覚醒しきらない頭で、なんとか上体を起こす。
しずくはおずおずと部屋に入ってくると、バックスの腕を、縋るような強さで掴んだ。震える声が鼓膜に届く。
「なんか……窓が軋むような音がして、目が覚めたんですけど、眼鏡、かけて、よく窓のほうを……見たら、カーテンの隙間から……なんか……足っぽいものが、見えて……泥棒かも、しれません」
切迫したその告白を聞くうちに、バックスは完全に覚醒した。彼はしずくを安心させるべく、その頭を二、三度ぽんぽんと優しく叩き、落ち着いた声で語りかけた。
「落ち着け。俺がいる」
「夜なので、言い出しにくかったのですが……怖くて」
「うん」
「私の部屋にきて、窓の外を、確認してもらえませんか」
バックスは脱ぎ捨てていたシャツを素早く羽織ると、しずくに促されるまま二階の彼女の部屋へ向かった。窓を開け、夜の冷気に身を晒して周囲を検分する。だが、庭にも軒下にも、変わった様子は一切なかった。
「外には、何もいないみたいだな」
その言葉を聞いても、彼女の不安は拭えないようだった。しずくは顔色を青ざめさせたまま、床の一点を見つめて俯いている。
無理もない。もしバックスがいなければ、彼女はこの広い家でたった一人、恐怖に耐えていなければならなかったのだ。
バックスはその震えを察し、部屋のドアへと足を向けた。
「居間も見てくる」
そう言い残して背を向けたバックスのシャツを、しずくが背後からぎゅっと掴んで引き止めた。
「待ってください! ……怖いので……ここにいてくれませんか」
下の階も見て安心させようとした配慮が、かえって彼女を追い詰めていた。バックスは反省し、少しでも彼女を落ち着かせようと、その細い肩を抱いてベッドへと誘導し、座らせた。
普段はまとめられている黒髪が、今は無防備に肩にこぼれている。しずくはそれを気にするように、何度も指先で耳へと掛けた。
「ごめんなさい、隣に……あの……」
本意ではないはずだ。
言いにくそうに紡がれる声は上ずり、隠しようのない緊張が伝わってくる。
呼吸も浅い。今にも倒れてしまいそうだ。
バックスは、躊躇うことなく彼女の隣に腰を下ろした。
「しずく、大丈夫か」
腰を下ろした、まさにその瞬間だった。
突然、しずくがバックスの胸の中へと激しく飛び込んできた。
予想外の衝撃にバックスは一瞬目を見開いたが、今の彼女は正気ではないのだろう。落ち着くまで胸の一つや二つ貸してやるのが男だ。バックスは、その小さく震える肩を優しく抱きしめた。
だが、しずくの反応はそこで止まらなかった。
彼女はバックスの背に両腕を回すと、さらに力を込め、縋り付くように彼を抱きしめ返したのだ。
「……え?」
動揺の波が、今度はバックスを襲った。
薄手のパジャマ越しに伝わる、柔らかい感触。密着している。バックスは困惑し、ゆっくりとしずくから手を離した。
「し、しずく?」
無言のまま、彼女は彼の胸に顔を埋め続けている。無頓着なのか、それとも極限の精神状態なのか。
だが、これほど怯えている女性を突き放すほど、バックスは冷酷な男ではなかった。
(さて、どうしたものか……)
少しでもこの重苦しい空気を変えなければならない。そう考えたバックスは、あえて挑発的にしずくの身体をもう一度抱きしめ、その耳元でわざと低く囁いた。
「ねえ、胸当たってるよ?」
これで、いつものように顔を真っ赤にして跳ね退くに違いない。「ふざけないでください!」という罵倒を待機する。
……しかし、返ってきたのは、まさかの無反応だった。
しずくはスッとバックスから離れると、枕元に眼鏡を静かに置いた。
そして、眼鏡のない、潤んだ真剣な瞳でバックスを真っ直ぐに見つめた。
「私、もう眠れないです」
その直後、しずくは腕をクロスさせ、パジャマの裾を掴んだ。
何が起きたのか理解するよりも早く、彼女はその裾を勢いよくたくし上げ――。
「しずく、ちょ、ちょっと待って!!」
バックスは悲鳴に近い声を上げ、慌ててその手を封じた。しずくは頬を朱に染め、悲しげに俯く。
「私のこと嫌いですか……」
「じゃなくて、どうした!? なんかおかし……」
その時、バックスの中に閃くものがあった。
一瞬の硬直。その隙を逃さず、しずくはバックスの手をそっと取り、あろうことか自分のパジャマの中へと招き入れた。
指先が素肌に触れる。
バックスは、焼けた鉄に触れたかのようにその手を引き抜いた。
「あ゛ーーーーっ!! ヘレネ!! 出て来い、お前!!」
やり場のない苛立ちをぶつけるように、バックスは自身の髪を激しく掻き毟った。
元凶は姿を見せない。バックスが殺気立った視線であたりを睨み回している間にも、しずくはぼんやりとした虚ろな表情で、パジャマのボタンを一つ、また一つと外していく。
はだけた胸元から、膨らみが露わになろうとした。
「バカ! 乳を出すな!! ヘレネ!!」
「見てください」
「見るかぁ!」
バックスは力任せにシーツを掴み、しずくの頭から被せた。なおも執拗に「ヘレネ」の名を叫び続ける。
するとようやく、窓から入る月明かりを背負ってヘレネが姿を現した。その口元には、邪悪なほど美しい微笑が刻まれている。
「あ~ん。もう少しだったのに。ムードの作れない男ねんっ」
「やっと、出てきたか、ヘレネ。早く元に戻せ!」
バックスの怒号に、ヘレネは諦めたように唇を尖らせた。そして、その口から呪文のような不思議な言葉を吐き出す。
次の瞬間、シーツの中でもぞもぞと動いていた気配がピタリと止まった。
ゆっくりと、シーツの中から髪をぐしゃぐしゃにしたしずくが、困惑に満ちた顔を覗かせる。
「……は?」
そこにいたのは、いつものしずくだった。