ひざ下5センチメートル   作:浮月 愁

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【13】クピドの力

しずくの両肩は、はだけたシーツから無防備に露出し、月光を反射して白く光っていた。

薄闇の中、眼鏡を失い焦点の定まらない瞳を細め、目の前にいるのがバックスであるとようやく認識する。同時に、自身が上半身下着姿というあり得ない状況に置かれていることに気づき、しずくはパニックで目を白黒させた。

 

「なっ!? こ、これは!?」

 

しずくは無言のバックスから、枕元に置かれた眼鏡を手渡され、再びシーツを頭から被せられた。

 

「早くパジャマを着てくれ」

「わ、わた、わたし、な、なんで?」

 

パジャマを整え、おずおずと顔を出したしずくだったが、目の前の光景は依然として理解を超えていた。

深夜の自室に、バックスと、あの極彩色のヘレネ。

バックスの横顔は、これまでに見たことがないほど険しく怒りに満ち、対照的にヘレネは、口元こそ弧を描いているものの、その瞳には凍てつくような冷たさが宿っていた。

 

「何をちんたらちんたらちんたらちんたらやってんのよ、あーたたち」

 

ヘレネは不機嫌そうに腕を組み、ベッドの上のしずくを冷徹に見下ろした。屋外で見た時はぼんやりとしていた天使の輪がはっきりと見え、ヘレネを明るく照らしていた。

 

「あーた、さっさとバックスとヤっちゃってくんな~い? あーたとの一発でバックスはす~ぐに天上に帰れるんだからん」

 

鼓膜に突き刺さったあまりに露骨な、あまりに破廉恥な言葉。しずくの思考は一瞬で焼き切れ、顔面は猛烈な勢いで赤く染まった。

 

「出来るわけないじゃないですか、そんなこと! どういうことですか!?」

 

ヘレネは、憐れむようにクスリと鼻で笑った。

天上に帰還するための条件。それは、天使としての仕事を全うすること。天使の仕事――それは「人間に恋をさせること」。

その対象は、必ずしも人間同士である必要はない。天使と人間の間に芽生える恋であっても、その条件は満たされる。

 

「その、なんだっけ? もずくちゃん?」

「しずくです」

「そのしずくちゃんがバックスに恋をすればいいって話よぉ〜」

「やめろ、ヘレネ」

 

バックスの低い声が、それを鋭く制止する。

しずくは口を開けたまま固まった。

まるで理解が追いつかない。

しかし、ヘレネは止まらない。

 

「男と女なんてチョメチョメすればそれが恋の始まり。だから、あーしの"クピドの力"でその気にさせてあげたんじゃな~い」

「やめろ、ヘレネ!」

 

バックスの眼光が、かつてないほど鋭くヘレネを射抜いた。

 

「"力"を使う許可は出ているのか」

「どうかしら?」

「……バレたら重罪だぞ」

 

ヘレネは余裕の笑みを浮かべ、嘲るように肩をすくめた。

 

「あーしはバックスが一刻でも早く天上に帰ってきてくれるなら、何度でも罪を重ねる覚悟だわん」

 

沈黙が支配する部屋。張り詰めた空気の中、しずくは震える脚で遠慮がちに立ち上がった。

 

「あ、あのっ! "罪"って……"クピドの力"ってなんですか?」

 

予想外のタイミングでの割り込みに、ヘレネは虚を突かれたように噴き出した。

 

「あーた、空気読めないって言われな〜〜い?」

 

"クピドの力"。

それは『恋』の天使が個々に習得する特殊な能力。

ヘレネが誇るその力は、『強制的に指定した相手を誘惑させる力』だった。

 

「仕事以外でその力を使ってはいけない。使うときはかならず申請が必要だ。申請せずにその力を使うと……」

「あ~ん。もうこの話はお・し・ま・い。いい、バックス? あーたが早く帰ってこないなら……」

 

言葉の途中で、ヘレネが強引にしずくの腕を掴み、バックスから引き離した。

 

「あーしは、悪魔にだってなれる」

 

そして、あてつけるようにしずくの背に手を回し、抱き寄せた。

背後でバックスが息を呑む音がする。

ヘレネは勝ち誇ったように恐怖で硬直するしずくの髪を掻き分け、露わとなった首筋に、湿り気を帯びた舌を這わせた。

耳元に吹き込まれる、隠しきれない男の熱を孕んだ吐息。

しずくの全身に、激しい鳥肌が立った。不快感と恐怖。彼女は短い悲鳴を漏らした。

 

「しずっ……!」

 

バックスが立ち上がるが、ヘレネは満足げにしずくを突き飛ばし、バックスへと放り出した。

しずくは震える手で濡れた首筋を拭い、激しい嫌悪に思わず叫んだ。

 

「唾ついてる! 汚い!」

「あら、やだ。元気な子ねん」

 

瞬時に女らしい微笑を張り付かせ、ヘレネは軽薄に肩をすくめる。

 

「これは脅しよ、バックス。早くこの娘を抱いて」

 

しずくの脳内で、ぷつりと何かが切れる音がした。怒りに任せて叫ぼうとしたその瞬間、バックスの背中が彼女の横を風のように通り過ぎた。

彼はヘレネの胸倉を掴み上げ、強靭な拳を掲げる。そのまま殴り飛ばすかと思われたが、その拳は、鼻先の寸前で止まった。

 

「これは脅しだ、ヘレネ。早くしずくの前から消えろ」

「あん、こっわ~い。珍しいわねん。バックスが暴力だなんて」

「時間はかかるが俺は天上に必ず帰る。しずくに手を出すな」

 

静謐ですらある口調。だが、握り締められた拳は小刻みに震え、瞳の奥には静かな怒りの焔が揺らめいている。

 

自分を守るために、あのいつも明るいバックスが暴力を振るおうとしている。その事実に、しずくの怒りは霧散し、代わりに経験したことのない鼓動が胸を叩いた。締め付けられるような痛み。顔が、内側から燃えるように熱い。

 

ヘレネはバックスの決意を確認すると、吐き捨てるような薄笑いを浮かべた。

 

「待ちきれないから来てるの」

「理由は知らないが、どーせお前の都合だろ」

「あーしたち、親友じゃなぁい」

「俺はお前を親友だと思ったことはない」

 

冷酷な拒絶。ヘレネはバックスの手を振りほどいてウィンクを投げると、その身体はみるみるうちに透明に透け、夜の闇に溶けていった。

実体を持っていたものが煙のように消え去る非現実的な光景を、しずくは息を呑んで見つめることしかできなかった。

やがて気配が完全に消えたことを察し、バックスはしずくに向き直ると、深く頭を下げた。

 

「しずく、怖い思いさせてごめん」

 

その謝罪に、しずくは立ち尽くした。

恐怖を上回る感情があった。

自分を、どこまでも守ろうとしてくれた彼の背中。それが、たまらなく嬉しかったのだ。

鼓動がうるさい。直視できない。

 

まるで恐怖に下を向いてるように見えるしずくの姿に、バックスは悔しげに唇を噛み締め、重い口を開いた。

 

「……俺、しずくの前から消える」

「え?」

「温室でヘレネが俺達の前に現れたときから、確実にしずくが狙われると思った。今みたいなこと、正直、予想していた。だから、しずくを守りたかったんだけど……うまくいかなかった」

 

ガックリと肩を下げたバックスの身体が、微かに収縮を始める。成人男性の体躯が縮み、今は高校生ほどの少年の姿になっていた。

 

「また身体が……」

「あー、意味わかんねー。とりあえず、これ以上迷惑掛けられないからもう行く。しずくのこと、忘れない。たまご、たくさん食わせてくれてありがとう」

 

別れの言葉を並べ、バックスは部屋のドアに手をかけた。

カチャリと冷たい金属音が響き、階段を駆け下りていく足音が、一歩ごとに遠ざかっていく。

 

(行ってしまう)

 

脳裏を、これまでの数日間が駆け抜ける。

不遜な態度、心地よい体温、卵を食べる時の幸せそうな顔。優しく響いた声、まなざし。

自分の中から、取り返しのつかない大切なものが零れ落ちていくような感覚――。

 

「バックス!」

 

叫んでいた。

しずくはドアを突き破るような勢いで開き、夜の廊下へ声を放った。

階段の下で足を止めたバックスが、驚いたように振り返る。そして、少しだけ寂しげに笑った。

 

「なんだよ、初めて名前呼んでくれたな。じゃあな」

 

玄関の鍵が解錠され、夜の冷気が家の中に滑り込んだ。彼はそのまま、振り返ることなく暗闇の中へと消えていった。

 

このまま彼がいなくなれば、日常が戻る。

校則を順守し、平穏を愛する、あの「歩く校則」の渡辺しずくに戻れるのだ。

たった数日の、奇妙な夢。思い入れなど、あるはずがない。

……あるはずがないのだ。

 

「行かないで」

 

誰に聞かせるでもなく、唇が微かに動いた。

しずくはその場に崩れ落ち、冷たい床に膝をついた。

胸に空いた巨大な穴から、喪失感が吹き荒れる。

自らの内側に、蕾のように眠っていた感情が、今この瞬間に開花したことを悟った。

 

バックスのことが――。

 

「ふざけないでください……」

 

しずくは眉を寄せ、震える声で自分自身を罵った。

そのまま一度も瞳を閉じることなく、彼女は真っ白な朝を迎えた。

 

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