土曜日の昼下がり。
昨晩、一睡もできなかった代償は重く、しずくは酷い寝不足のまま、魂の抜けたような顔でダイニングテーブルの椅子に座り込んでいた。
朝一番に母の寝室を確認したが、そこはもう、ただの冷たい空気に満たされていた。
バックスは、本当に消えてしまったのだ。
存在の欠片ひとつ残さない、鮮やかなまでの失踪。誰もいない家は、耳が痛くなるほど静まり返り、その沈黙がしずくの孤独を際限なく膨らませていった。
不意に、静寂を切り裂いて電話が鳴り、しずくは肩を跳ねさせた。
ディスプレイには祖母の名前。母からだった。
電話の向こうの母は、ぎっくり腰の快復が順調であること、自力で動けるようになるまであと四、五日は様子を見たいことを、安堵の混じった声で伝えてきた。
しずくもそれに応じ、電話を切る。だが、受話器を置いた直後、再び着信音が鳴り響いた。
二時間後、玄関のチャイムが鳴った。
覗き穴の向こうには、幼馴染の和真が立っていた。
ドアを開けると、彼はいつもの柔らかな微笑を湛え、両手にずっしりと重そうな荷物を抱えて立っていた。
「和真くん。さっきは電話ありがとうございます」
「見て、母さんが張り切っちゃって。結構重い」
「わぁ……どうぞ、入ってください」
和真が玄関に荷物を置くと、ゴトンと重厚な音が響いた。
「あ、これ、肉じゃがとー、からあげと? えーっと、ほうれん草の胡麻和えだ。と、マカロニサラダ、黒い、ひじき? と、さばの味噌煮と……カレー?」
重ねられたパックの山。一人暮らしにはあまりに過剰な、だが温かな親の愛情に、二人は思わず吹き出した。和真の母にとって、幼い頃から見守ってきたしずくは、実の娘も同然なのだ。
「かずくんママによろしくお伝えください」
「台所まで持っていくね。重いから……あれ? 従兄弟は? マ、マックス君、だっけ」
和真は台所へ荷物を運びながら、ひっそりとした居間を怪訝そうに覗き込んだ。
しずくはその背を追いながら、感情を押し殺して答える。
「昨日、帰りました」
「あ、そうだったんだ。なんだ、じゃあ、これ作りすぎだよね」
荷物を置き終えた和真が、ふと振り返った。
「しずちゃん、なんか元気無くない?」
心臓が跳ねる。しずくは慌てて凛とした笑顔を張り付けた。
「そんなことありません! 私は元気です!」
「そうかなあ。従兄弟が帰って寂しいとか?」
しずくは過剰なほどに首を振った。だが、和真は誤魔化されない。彼はじっとしずくの瞳を見つめ、決意を固めるように短く咳払いをした。
「しずちゃんさ、明日の日曜日、用事ある?」
「え?」
「ちょっとコレ見て」
和真はスマホを取り出し、画面をしずくへ向けた。そこには、彼の母のパート先であるデパートの特設ページが表示されていた。
「今日と明日の期間限定で南花楼のケーキバイキングやってるんだって。母さんから聞いて、行ってみたいんだけど、男一人で行くのに抵抗あってさ」
"南花楼"。地元でも人気の老舗洋菓子店だ。
和真は少し緊張した面持ちで、言葉を重ねた。
「良かったら一緒に行ってくれないかな~って」
しずくは鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まった。
それは、客観的に見ればデートの誘いそのものだった。和真はしずくの反応に焦ったのか、照れ隠しのように早口で付け足す。
「こんなこと頼めるの幼馴染のしずちゃんだけでさー。男一人じゃ恥ずかしいし、他の友達にだって甘いもの好きなんて言うのちょっと照れるから」
「そういうことですか。和真くん、昔から甘いもの好きですよね」
しずくの納得に、和真の顔がパッと輝いた。
「好き!」
「では、明日いいですよ」
「ほんと! じゃあ、十一時に迎えに来るね」
和真は満面の「アルパカ・スマイル」を残し、弾むような足取りで帰っていった。
だが――翌日の正午。
約束の十一時を過ぎても、和真は現れなかった。
しずくはリビングで、苛立ちを募らせていた。時間を守ること、規律を重んじること。それが彼女の矜持だ。正当な理由なき遅刻は、彼女にとって万死に値する。
メッセージを送っても既読にならない。
約束から一時間が経過した頃、ようやくしずくのスマホが着信を告げた。
***
その頃。
バックスは、空腹による胃からの雄叫びを聞きながら、しずくの家から遠く離れた、人気の無い小さな公園のベンチに横たわっていた。行く当ても、帰る場所も、もはやどこにもない。
四肢はさらに縮み、今やまた小学生程度の体躯へと戻りつつあった。
「はら減った……」
だらりとベンチに身を預け、体力の消耗を最小限に抑えるべく目を閉じる。
このまま、誰にも気づかれずに野垂れ死ぬ。
覚悟はできていた。
しずくという奇跡に出会ったのは、ほんのわずかな猶予に過ぎない。本来なら、あの空き家でひっそりと消え果てているはずだった。
後悔はない。後悔はない。後悔はない。
自分に言い聞かせるように、何度も心の中で繰り返す。
「あー、神さまになりたかったなー」
「だったら、早く天上に戻りましょ!」
不意に届いた返答に、バックスの背筋に嫌な悪寒が走った。
目を開けると、そこにはローアングルから、わざとパンツを見せつけるような、下卑た角度でヘレネが立っていた。
「おい、コラ、ヘレネ!!」
「あ~~~ん。や~ん。見えた~ん? えっちぃ~」
ヘレネはくねくねと身体を揺らし、無意味にミニスカートの裾を押さえて悦に浸っている。
怒りの奔流で一度は跳ね起きたバックスだったが、立ち上がる気力すら残っていなかった。
彼は深く、重い溜息を吐くと、再びベンチに、ヘレネに背を向けて横たわった。
「しずくの家から出てきたんだ。俺はもう誰の世話にもならず、ここで朽ちる。だから、お前との腐れ縁もここで終わりだ! 俺のことはほっといて、お前ももう天上へ帰れ」
「バックス、あーたがここで死ぬこと、あーしは許さないわよ」
不意にヘレネの声から、作ったような嬌声が消えた。地声に近い、男の低音が空気を震わせる。
異変を感じ、バックスは顔だけをヘレネへ向けた。
「あ?」
ヘレネは無言のまま、スカートの中に手を突っ込み、ゴソゴソと何かを取り出した。
「じゃじゃ~~~~~ん」
それは――生たまごだった。
「てめぇ、どっからナニ出してんだよ!」
毒づきながらも、バックスの視線はその球体に吸い寄せられた。思考が霧に包まれ、本能が叫びを上げる。喉が、極限の渇望でごくりと鳴った。
「やん。なんだかやらしい顔ねん」
「……気持ちわりーな。なんだよ、それ。どこから持ってきた」
「和真くんのお家よん」
和真。その聞き覚えのある名に、バックスの顔つきが鋭く変わる。
ヘレネは、獲物を追い詰めた蛇のような意地の悪い笑みを浮かべた。
「ちょっとオイタしてきたのん」
「オイタ?」
「でも、彼ったら元々あの眼鏡っ娘に恋してたみたい。いや〜〜ん! 暴走しちゃうかも〜ん」
「何の話だ?」
ヘレネは二つ目の卵をスカートの中から取り出し、バックスに見せつける。
「やだ! 二つ目! これで、あーしは"玉無し"!
なんちゃって〜〜〜! ウケる〜〜〜!」
「バカか、お前は」
「はい、あ~んしてぇん。早くしずくちゃんを助けに行かなきゃ、ねん」
睨み上げるバックスの唇を、ヘレネは鮮やかなネイルが施された指先でつん、と突いた。