ひざ下5センチメートル   作:浮月 愁

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【15】アクアリウム

チャイムを鳴らし、暫く待つと鍵がカチャリと開いた。

現れたのは、痛みに耐えるように顔を歪め、壁を伝って足をひきずる和真だった。

 

「ごめんね、わざわざ来てもらって」

「大丈夫ですか?」

 

家を出る直前、不注意から階段で足を踏み外し、足首を激しく捻ってしまったのだという。その際、あまりの痛みに意識を失っていたため、連絡が大幅に遅れたのだと彼は力なく説明した。和真の足首は、まだ変色こそないものの、内部で熱を持っているのか嫌に生暖かそうに見えた。

 

「病院行きますか」

「これくらい、大丈夫だよ」

「でも」

「悪いんだけど、居間に連れて行ってくれないかな。シップがあるはず」

 

しずくは懸念を抱きつつも頷き、和真の細い肩を抱えるようにして肩を貸した。

バックスの岩のような逞しさとは違う、薄く狭い肩幅。だが、密着したことで互いの顔の距離が近くなり、しずくは無意識に目線を逸らした。

 

通された居間には、和真の父の心血が注がれた巨大なアクアリウムが鎮座している。

透き通った水の中、宝石のような熱帯魚たちが優雅に舞う光景は、いつ見ても心が洗われる美しさだった。

しずくは和真をソファに慎重に座らせると、シップのありかを尋ねた。

 

「そこの左の棚の下かな」

「あ、ありました!」

 

見つけ出したシップを手に駆け寄り、彼の剥き出しの足首に丁寧に貼り付ける。

 

「あーあ、しずちゃんとケーキバイキング行きたかったな」

 

和真が水槽を見つめたまま、子供のように拗ねた口調で呟いた。そのどこか無邪気な様子に、しずくに自然と笑みがこぼれる。

 

「かずくんママからの差し入れ。とても美味しくいただいたので、お礼にケーキ買ってきます」

 

その言葉に、和真の視線が水槽からしずくへと、スッと移動した。

 

「じゃなくて、しずちゃんと行きたかったの」

「え?」

 

さらりと告げられた言葉の真意を測りかね、しずくが思考を巡らせていると、和真はまたいつもの柔和な微笑を浮かべて水槽に目を戻した。

 

「しずちゃん、俺ん家来るの久しぶりだよね」

「はい。アクアリウムも前回よりパワーアップしている感じです」

「これ、結構お金掛かるから、たまに親同士喧嘩してる」

 

和真の軽口につられ、しずくも「ふふっ」と声を立てて笑う。

 

「あ、そうだ。本当にこれ、パワーアップしたから、ちょっと見てよ」

 

和真に促されるまま、しずくは居間のカーテンをすべて閉め切り、指示通りに水槽横のパネルを操作した。

途端、部屋の隅に設置されたスピーカーから、たゆたうようなヒーリングミュージックが流れ始めた。それに呼応するように、水槽内のLEDが幻想的な変遷を始める。青、緑、黄、白、紫。

 

「す、すごいですっ!」

「でしょ? 週末の夜中はこうやって音楽かけながら酒飲んでアクアリウム見てる、オヤジ。今日も朝から水槽の掃除して、アクアリウムの専門店出かけたよ」

 

暗闇の中、七色の光がソファに座る二人の輪郭を縁取る。

ゆらゆらと揺れる水草の隙間を縫うように泳ぐ魚たち。コポコポという清涼な水の音。

 

「キレイですね」

「……実はここ数日考えてたことがあって」

 

和真がぼんやりと光の揺らぎを見つめたまま、独り言のように呟いた。しずくは隣の彼を一度盗み見たが、すぐに視線を正面へと戻した。

 

「どうしたんですか?」

「正直言うとね、あまり気分よくなかったんだ。あの従兄弟」

「え?」

 

聞き捨てならない言葉に再び隣を見ると、そこには、いつもの仏のような笑顔を完全に消し去った和真がいた。彼は、射抜くような鋭い視線をしずくへと向けた。

 

「俺、庭からしずちゃんと従兄弟の人を見たとき、最初、彼氏かと思って。その……男のほう、ハダカだったし」

 

子バックスではなく、成人バックスのことを言っている。

あの日の情景が、鮮明にしずくの脳裏に蘇る。

自分を包み込んだ低い声。力強い胸板の感触。初めて触れた男の肌。

思い出すと頬が熱くなる。

だが、その主はもういない。

不意に寂しげな陰を宿したしずくの瞳。

それを見た瞬間、和真は奥歯を噛み締め、眉を寄せた。

 

「……まさか、本当は付き合ってたとか?」

「ちがっ! ふざけないでくださいっ! 付き合ってなんかいません!」

「ホントに!?」

「本当です!」

「じゃあ、なんで目を逸らすんだよっ!」

 

和真は声を張り上げた。

しずくは突然の豹変に息を呑み、面食らった。

大昔、幼いしずくが花火を振り回して火の粉を飛ばしたとき以来だ。あれ以来、和真が声を荒らげる姿など一度も見たことがなかった。

 

「……ごめん、大きな声出して。はは、格好悪いでしょ。俺、本当は結構嫉妬深いんだ」

 

和真はゆっくりと立ち上がると、しずくの逃げ道を塞ぐように隣へと座り直した。

その表情は、普段の「アルパカ」のようなのんびりとした雰囲気は微塵も残っておらず、見たこともないような男の執念に満ちていた。

 

「和真くん……? あの、足は?」

「俺なら我慢できないよ。もし、こんな風に二人きりでいたら。今だってチャンスだと思ってるんだ」

 

逃げようとするしずくの体より先に、和真の腕がソファの肘置きを叩いた。

至近距離まで詰め寄られた顔。掛かる息の熱さに、しずくは身を強張らせる。

 

「……付き合ってないって本当?」

「え?」

「今まで誰とも付き合ったこと、ないよね?」

 

確信を突くような低い声とともに、和真の腕がしずくを背後から包み込んだ。

唐突すぎる抱擁に、しずくの思考は停止し、パニックの境界線に立たされる。必死に腕の中で抵抗を試みるが、男の腕力だ。アルパカと揶揄していた幼馴染は、今、紛れもない「雄」として彼女を拘束していた。

 

「しずちゃん、動かないで。お願い、もう少しこのままでいて」

 

耳朶に当たる唇。切実な、だが逃げ場を許さないその声は、しずくの心拍を限界まで引き上げる。首筋をなぞる彼の吐息が、酷くこそばゆい。

 

「んっ」

 

無意識に漏れた吐息に呼応するように、和真の腕にさらに力がこもる。

 

「はぁっ、もうヤバい……」

「か、かずまく」

「まだ誰のものにもなっていないなら、俺のものになって欲しい」

 

そう言い放つと、和真は躊躇いもなく自らのシャツのボタンを上から順番に外し始めた。

その露骨な動作に、しずくの全身は石のように硬直した。

和真が今、この薄闇の中で何をしようとしているのか。それが分からないほど、しずくは世間知らずではなかった。

 

「か、かかかかかか、和真くんっ! そこ、退いて下さいっ!」

 

汗ばんだ拳を握り締め、和真の胸を必死に押し返す。

目の前にいるのは、自分の知っている和真ではない。まるで――。

 

(……別人?)

 

「か、かずまくん……あの……」

「俺だけのものになってよ、しずちゃん。もう止まらないよ」

 

和真は語気を強めてしずくの両手首をソファに押さえつけると、しずくの唇を奪うべく、顔を近づけた。

 

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