ひざ下5センチメートル   作:浮月 愁

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【16】風船

「好きだよ、しずちゃん。この世の中で一番好き」

 

和真の瞳は、もはや幼馴染のそれではない。獲物を追い詰めた「雄」の昏い光を宿している。

生まれてからずっと見てきた和真の、見たこともない剥き出しの欲望。しずくは全身の毛が逆立つような、生理的な恐怖に支配された。

怖い。

反射的に叫ぼうとしても、喉が凍りついたように言葉が出てこない。

 

(こんな和真くんは見たくない)

 

しずくは絶望に耐えかね、強く顔を背けた。だが、和真の手がゆっくりと彼女の顎を捉え、無理やり自分の方へと向けさせる。

 

「しずちゃ……」

 

最悪の瞬間を覚悟し、しずくがグッと目を瞑った――その時だった。

二人分の重みで深く沈んでいたソファから、圧が消えた。

ドサッという鈍い衝撃音とともに、視界を塞いでいた影が消え去る。

 

しずくが恐る恐るまぶたを開けると、薄暗い部屋の中に一人の青年の影が立っていた。背後の水槽から放たれる七色の光が、その横顔を冷徹に、そして鮮やかに照らし出す。

 

「バックス!」

 

そこにいたのは、成人サイズの体躯を取り戻したバックスだった。彼はやや驚いたような、どこか痛ましいものを見るような顔で、しずくを見下ろしていた。

 

「しずく……無事、だな」

 

ハーッ、とバックスは肺の中の毒を吐き出すように大きな溜息をつくと、涙目で震えるしずくを優しく抱え起こした。全速力で駆けてきたのだろう、彼女に触れる彼の身体は熱く、汗の湿り気を帯びている。

 

その熱に触れた瞬間、しずくは危うく彼を抱きしめ返してしまいそうになった。だが、自覚してしまったこの「恋心」を、今悟られるわけにはいかない。しずくは溢れそうになる感情を誤魔化すように、慌てて視線を逸らした。

 

「どうして……」

 

しずくの呟きに、安堵していたバックスの目がスッと鋭さを取り戻す。

バックスは床に転がっている和真を無造作に抱きかかえると、「後で話そう」と、静かだが地を這うような低い声で言った。

それから気を失っている和真を二階の自室へ運び、布団の中に寝かしつける。そうして二人は、重苦しい沈黙を連れて自宅へと戻った。

 

 

バックスが事の経緯を語り出す前から、しずくは薄々感づいていた。

和真のあの豹変ぶりは、ヘレネの"クピドの力"によって理性を奪われた結果なのだと。普段の彼とは、魂の入れ物が違うとしか思えなかった。

しずくが「どうして」と問うたのは、バックスがなぜピンポイントで自分の危機を察知し、救い出せたのか、その理由だった。

バックスは苦しげに、ぽつりと呟いた。

 

「俺がしずくと離れれば、ヘレネはもう追ってこないと思った」

 

しかし、それは甘い考えだったのだ。バックスが彼女から離れるという決断を下すなら、代わりにしずくを標的にする。ヘレネは言葉の端々に、そんな陰湿な脅迫を忍び込ませていたという。

 

「わざとしずくが和真に迫られることを俺に知らせたんだ。お前のもとに戻らせるために。あいつ、頭おかしいよ」

 

バックスは深く項垂れ、自身の無力さを呪うように言葉を吐き出した。

 

「俺、どうすればいい? 俺がしずくの側にいれば、また迷惑がかかる。でも、しずくから離れても……これじゃ、どちらにしても同じじゃねーか」

 

外は一点の曇りもない晴天だというのに、室内の空気は澱み、とてつもなく重い。カチ、カチと刻まれる時計の音だけが、残酷に響いていた。

 

ヘレネから和真に術をかけたことを告げられ、わざとらしく丁寧に卵を食わされ、嘲笑混じりの手引きで和真の家へと向かわされた。

すべてはヘレネが描いた筋書き通り。

敵の掌の上で無様に転がされている事実は、バックスの矜持をズタズタに引き裂いていた。情けなく、しずくに合わせる顔などどこにもない。

 

その重苦しい沈黙を、しずくの鋭い吸気音が切り裂いた。

 

「ふざけないでくださいっ!」

 

バックスは弾かれたように顔を上げ、しずくを見上げた。

そこには、いつものように仁王立ちし、眼鏡をクイッと押し上げるしずくの姿があった。その精悍な表情は、澱んでいた空気を一気に一掃していく。

 

「私はこんなことで傷ついてダメになるほど弱い女ではありません。そんな弱い女に風紀委員長が務まりますか!」

「しずく……」

 

気丈に振る舞ってはいるが、その表情には微かな強張りが残っている。

本当は、和真に襲われたことが怖くてたまらなかった。次に来るかもしれない「恐怖の覚悟」なんて、本当は持てるはずもない。

それでもしずくは、自分を責めて落ち込むバックスを見て、必死に勇気を振り絞った。

 

「私はバックスを信じています。力が戻るまで……ここに居てください」

 

真っ直ぐに自分を射抜くしずくの眼力に、バックスは思わずたじろいだ。

時間はそう残ってない。完全な力が戻るまでここに留まることは、不可能だ。

嘘を吐くのが苦手なしずくが、自分を鼓舞するために吐いた、精一杯の嘘。

 

バックスは彼女を見上げながらしばし黙考したが、やがて、堪えきれずに小さく噴き出した。

その困ったような笑みは、自嘲の響きを含んでいる。

 

「これじゃ、しずくに守られているも同然だな」

 

彼は照れ隠しに鼻の頭を軽く掻くと、一つ、大きな覚悟を決めたようだ。

バックスはゆっくりと立ち上がり、しずくの頭にそっと手を置いた。

言葉にしなくても、その大きな掌の温もりから、優しい眼差しから、幾重にも重なった感情が伝わってくる。

 

しずくの瞳が、熱い涙で潤んだ。

本当は、彼が帰ってきてくれたことが、死ぬほど嬉しい。

抑えきれない喜びで顔が綻びそうになるのを、必死で押し殺している。

今のしずくは、感情がパンパンに詰まった風船のようなものだ。今この瞬間に、何か決定的なことをされたら、その膜は容易に張り裂け、秘めた想いがすべて漏れ出してしまうだろう。

 

しかし、この恋心を知られてはならない。

バックスの天使としての役割。

「人間に恋をさせること」。

天使と人間の間に芽生える恋であっても、その条件は満たされる。

この気持ちをバックスに知られると、条件は満たされ、バックスは神さまに天上へ連れて行かれてしまう。

 

ぎゅーっと締め付けられるような胸の痛みに、息を止めて耐えていると――。

 

きゅるるぅ

これ以上ないタイミングで、バックスの腹の虫が盛大な音を奏でた。

 

「腹減った」

「たまごですね」

 

食欲の権化に、救われた。

しずくは微かな苦笑いを浮かべ、逃げるように台所へと向かった。

 

その微笑ましい光景を、壁の隙間から見つめる影があった。悪魔のような冷徹さを秘めた天使。

ヘレネは腕を組み、ふっくらとした唇を指先でなぞりながら、満足げに口角を上げた。

クスクスという不気味な笑い声を残し、フリルのスカートを鮮やかに翻すと、彼はその場から煙のように消え去った。

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