その晩、しずくはシーツの中で幾度となく寝返りを打った。
一階には今、バックスが寝ている。
これまでは「居候」として受け入れていただけだったのに、一度「好きだ」と自覚してしまった今、同じ屋根の下に意中の人がいるという事実は、しずくの平穏を根こそぎ奪い去っていた。
考えれば考えるほど、鼓動が耳元でうるさく鳴り響く。
「ふぅ……」
しずくはおもむろに起き上がると、重いため息を吐いた。
時計の針は深夜三時を指している。このままでは明日の風紀委員の朝活動に、支障が出る。
一度温かいお茶でも飲んで高ぶる神経を落ち着かせようと、抜き足差し足で居間へ降りると、そこには先客がいた。
「しずく」
「バックス……何してるんですか?」
暗がりに佇んでいたバックスが、しずくの顔を見るなり困ったように眉を下げた。
どうやら、眠れない夜を過ごしていたのは彼女だけではなかったらしい。
しずくは言いようのない気まずさを胸に抱えながら、二人分の温かいお茶を煎れ、テーブルに置いた。バックスはその湯気を見つめながら、ダイニングチェアに浅く腰掛ける。
「夜更かしは肌に悪いぞー」
伏せ目がちに「ずずっ」と音を立ててお茶を啜る。その顔は、いつもとどこか雰囲気が違っていた。
無造作に寛いだシャツから覗く筋肉質な胸、硬質の輝きを放つ黒髪、涼しげな切れ長の瞳に、薄い唇。
改めて直視すれば、聖なる天使というよりは、闇夜に潜む悪魔の方がしっくりくるほど、完成された容姿。
しずくは正面に座り、激しく波打つ心音を悟られぬよう、バックスがお茶を啜る仕草をただじっと眺めていた。
コトン、とカップを置く小さな音が響く。バックスが、何気なく口を開いた。
「俺の予想なんだけど……」
しずくも、導かれるようにカップをテーブルに置いた。
「もうすぐ、ここに神さまが来る。そして、ヘレネを……」
ぼんやりとした表情ながら、その口調には確信が籠もっていた。
「許可なく"クピドの力"は使ってはいけない。天上の掟だ。ヘレネが力を使っていることはきっともう神さまにバレているはず」
もう一度お茶を啜り、バックスはようやくその視線をしずくへと向けた。
視線が絡み合う。ザワついた心を沈めるため、しずくはゆっくりと温かいカップに口を付けた。
「もし、その時に俺の前にも神さまが来たら、今までの成績不良を誠心誠意謝って天上に戻ろうと思うんだ」
その一言が、鋭い棘となってしずくの胸を刺した。
バックスの本当の居場所は、天上。
そこで初めて、自分が「決して手の届かない存在」を好きになってしまったのだと、冷酷な現実に突き当たった。
しずくは肺いっぱいに酸素を吸い込み、震えそうになる声を無理やり抑え込んで言った。
「……そんなことできるんですか?」
「出来るかどうかわからないから、色々悩んで眠れなくなったんだ。まあ、しずくは安心していいぞ。天上に戻るまで、しずくのことはちゃんと守るから」
暗闇に溶けるような、静謐な微笑。
しずくは顔を伏せ、揺らめくお茶の表面に映る自分の影を眺めたまま、固く口を閉ざした。
向かい合って座っているだけで、たまらなく苦しくて、それでいてたまらなく嬉しい。
この想いを告げることなど、一生ないのだろう。バックスは何も知らぬまま、元の世界へ帰っていく。
急に沈黙したしずくの顔を覗き込むように、バックスが姿勢を正した。
「しずく?」
「……私も、バックスが天上に帰るまで全力でサポートさせていただきます」
しずくはバックスから視線を逸らしたまま、決意を込めてそう告げた。
バックスは少しだけ安堵したようにテーブルに肘をついた。
「で、しずくは何で眠れないんだ? 聞いてやるから話していいぞ」
「え?」
言えるわけがない。
バックスのことを考えて、心臓が爆発しそうだったからだなんて。
急に狼狽えはじめたしずくを、バックスが不思議そうに見つめている。しずくは眼鏡の位置を何度も直し、なんとか支離滅裂な言葉を繋ぎ合わせた。
「あ、あの、バックスがいるなぁって」
「ハ、ハァ?」
「バックスが居るとおもた、思っ、たら、なんか……こう……ドキドキ、緊張して、目が冴えてしまって」
誤魔化せていないどころか、もはや半分以上告白のようなものだった。
バックスは大きく口を開け、心底困惑した表情を浮かべている。しずくはあまりにも嘘が下手すぎた。
これ以上は自分の墓穴を広げるだけだと悟り、しずくは残ったお茶を飲み干した。胃が温まったせいか、皮肉にも急激な睡魔が襲ってくる。しずくがあくびを噛み殺した時、バックスの視線が「訝しげ」なものに変わっていることに気づいた。
「眠くなってきましたね」
「え、いや、う、うん?」
バックスはガリガリと後頭部を掻き毟り、椅子の背もたれに体重を預ける。
そして急にキョロキョロと周りを窺い、落ち着きをなくし始めた彼にしずくは首を傾げた。
「どうかしたんですか?」
「……ヘレネか?」
バックスが不意に呟いた。その名に反応し、しずくは弾かれたように立ち上がった。
「ヘレネさんが!? どこに!?」
「いや、ごめん! 違ったんなら、いいんだ。いや、いいっていうか……あれ、よくないな」
歯切れの悪い言いようだ。バックスは困惑の色を隠せないままお茶を飲み干すと、ごちそうさま、としずくにカップを渡して立ち上がった。
「あの、ヘレネさんがどうかしたんですか?」
一度背を向けたバックスが、思い直したように振り返る。テーブルに両手を突き、しずくの顔を真っ直ぐに射抜いて言った。
「違ったら……アレなんだけど、もしかして、しずく……」
そこまで言いかけた瞬間、バックスの顔が耳たぶまで真っ赤に染まった。
突然の彼の豹変に、しずくは目を丸くして固まる。
「へ?」
「いや。なんでもない」
グッと口を一文字に結び、バックスは顎を引いた。
「なんか、顔赤くないですか?」
「赤くねーよ。おやすみ」
ぽんぽん、としずくの頭を乱暴に撫でると、彼は逃げるように母の寝室へと消えていった。
しずくはその背中に「おやすみなさい」と小さな声を返し、カップを台所へ運ぶ。
二階への階段を上りながら、しずくは一人、頭を振った。
「なんて、言いかけたんでしょうか……」
大きなあくびを一つ。眼鏡を外し、ベッドに潜り込んだしずくは、今度こそ深い眠りへと落ちていった。