ひざ下5センチメートル   作:浮月 愁

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【18】利害一致

翌朝。登校のためにテーブルに卵を用意し終えたしずくの前に、少し緊張した面持ちのバックスが姿を現した。

 

「おはよう、しずく」

「おはようございます。今日は早いですね」

 

玄関でローファーを履き、振り返ると、バックスが何かを訴えかけるような、気まずそうな瞳でじっとこちらを見ていた。

 

「たまごならテーブルですよ?」

「あ、ありがとう。……いや、俺も学校行こうかなって」

 

しずくは眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、真顔で彼を見上げた。

 

「ふざけないでください。バックスが学校に来たら、ただの不審者です」

「……不審者」

 

ぴしゃりと、容赦ない一撃。しずくは流れるような動作でスクールバッグを手に取った。

 

「心配して下さっているのはわかりますが、学校では常に人目がありますし、私も一人きりになったりしないので、ご安心を。では、行ってきます」

 

きびきびとした所作で、しずくはドアを閉めた。カチャリと施錠される無機質な音が響く中、バックスは一人、首の後ろを力なく掻いた。

 

「……やっぱ、俺の勘違いか」

 

昨夜のあの「ドキドキしている」という告白めいた言葉。自惚れだったのかと呟いた瞬間、耳元に熱い吐息を吹きかけられ、バックスは総毛立って身を縮めた。

背後にいたのは、真っ赤な紅が引かれた厚い唇。マッチ棒が何本も乗りそうな、不自然なほど長い睫毛。

 

「グッモゥニーン! ヘレネちゃんでぇーす」

 

早朝の澄んだ空気には、ヘレネの存在はあまりに猛毒だった。夜の新宿二丁目の喧騒こそが似つかわしい。バックスは一気に脱力すると、剥き出しの敵意を向けて振り返った。

 

「よく俺の前に顔だせるな」

「いやん、怒ってるのん?」

「見た通りだよ」

 

ぶっきらぼうに吐き捨て、ヘレネを強引に押し退けて洗面所へ向かう。だがヘレネは、影のようにその後ろをついて回り、揚々とした声を張り上げた。

 

「何が"勘違い"?」

「関係ないだろ」

 

顔を洗うバックスの後ろ姿を、蛇のような粘着質な視線で見つめながら、ヘレネが小さく息を漏らす。

 

「まだヤッてないみたいね」

「未成年だ。俺が子供に手を出すやつに見えるか?」

 

空腹を満たすべく台所へ向かうと、ヘレネもひらひらと裾を揺らしてついてくる。

心底ウザったいが、力ずくで追い出したところで、奴は何度でもこの閉鎖空間に浸食してくる。無視しても、満足するまで言葉を浴びせ続けてくることを、バックスは天上時代から痛いほど知っていた。

 

テーブルの卵パックを見つけると、バックスの目がわずかに潤んだ。

殻を割り、中身を流し込んだ瞬間のあの至福の快感。逸る気持ちを抑え、卵を手に取る。

ヘレネはダイニングテーブルに我が物顔で腰かけると、長く細い脚を組み、バックスの顔を覗き込んできた。

 

「バックス、あの子が抱かれたがってたら抱く?」

 

危うく卵を取り落としそうになり、慌てて掴み直す。

 

「おまっ! なに言ってんだよ!」

「いやんいやん。だったとしたら、『利害一致』じゃな~い? 遠慮せず、ガンガンにゃんにゃんすればいいのよぉん」

 

ヘレネは招き猫のような仕草で、わざとらしくバックスにじゃれつく素振りを見せる。バックスは白けきった表情で顔を背け、卵を口の中へ割り入れた。

脳を直接揺さぶるような快楽の奔流。堪らず、二つ目、三つ目と喉を鳴らして飲み込んでいく。

 

「ねぇん、バックス、聞いてるのん?」

「黙れよ。食事中に変なこと言うな」

「あの子、たべてみなさいよ。たまごなんかよりもっと堪らないコーフンが待ってるわよん」

 

艶っぽく、湿り気を帯びた囁き。

ついに堪忍袋の緒が切れ、バックスはテーブルを激しく叩きつけた。

 

「いい加減にしろ! お前の考えはお見通しだぞ、ヘレネ。しずくと和真ですでに二回"クピドの力"を使っている。さすがにもう使えない。だから、次は俺を揺さぶってどうにかしようとしているんだろ」

 

ヘレネの作り物めいた笑みが、一瞬で凍りついた。

鼻から「ふんっ」と嘲笑を漏らすと、くるくると巻かれた縦ロールを指先で弄り始める。

 

「大外れよ、バックス~? あーしは別に罪なんか恐れちゃいないわん」

「嘘をつくな。相当焦っているんだろ。俺にはわかる」

 

その言葉をかき消すように、ヘレネは突然、狂ったような高笑いを上げた。

呆気に取られるバックスの目の前で、ヘレネはふわりとミニスカートを踊らせ、ダイニングテーブルの上へ飛び乗った。腕を組み、不遜な角度で首を傾げ、バックスを見下ろす。

 

「馬鹿ね、バックス。恋なんて簡単なの。相手の感情なんてどーーでもいい。一方通行の思い。それが恋よ。あの娘に恋させる。バックスは神さまに認められる。このまま天上の落ちこぼれでいいわけ!?」

 

ヘレネは地声で吠えた。

 

「いいわけねぇだろ!」

 

バックスは言葉を失い、テーブルの上の怪物を仰ぎ見た。

ヘレネはバックスの頬を両手でがっしりと掴み、血走った狂気の瞳を至近距離まで近づけた。

 

「……ヤる気、出して?」

 

無理やり絞り出された、擦れた女声。ヘレネはクスリと笑うと、うっとりと陶酔したようにバックスを見つめた。

背筋を氷の刃がなぞるような感覚。喉が急激に干上がり、バックスはごくりと唾を飲み込んだ。

 

「意味、わかんね……どうしたいんだよ、お前」

 

ヘレネは満足げに手を放し、一歩退いた。

 

「もう少しで神さまがあーしのところに来る。楽しみすぎて心が飛んでいきそうよん」

 

軽やかにステップを踏み、そのまま空間に溶けるように消え去った。

バックスには理解できなかった。

 

神に捕縛されることを、なぜこれほど待ち望めるのか。"クピドの力"の私的利用は重罪だ。良くて幽閉、最悪は存在の消去――粛清だというのに。

強がりか、それとも破滅を望む本心か。

 

バックスは、テーブルの上の卵を横目で見ると、静かにため息を吐いた。

 

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