翌朝。登校のためにテーブルに卵を用意し終えたしずくの前に、少し緊張した面持ちのバックスが姿を現した。
「おはよう、しずく」
「おはようございます。今日は早いですね」
玄関でローファーを履き、振り返ると、バックスが何かを訴えかけるような、気まずそうな瞳でじっとこちらを見ていた。
「たまごならテーブルですよ?」
「あ、ありがとう。……いや、俺も学校行こうかなって」
しずくは眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、真顔で彼を見上げた。
「ふざけないでください。バックスが学校に来たら、ただの不審者です」
「……不審者」
ぴしゃりと、容赦ない一撃。しずくは流れるような動作でスクールバッグを手に取った。
「心配して下さっているのはわかりますが、学校では常に人目がありますし、私も一人きりになったりしないので、ご安心を。では、行ってきます」
きびきびとした所作で、しずくはドアを閉めた。カチャリと施錠される無機質な音が響く中、バックスは一人、首の後ろを力なく掻いた。
「……やっぱ、俺の勘違いか」
昨夜のあの「ドキドキしている」という告白めいた言葉。自惚れだったのかと呟いた瞬間、耳元に熱い吐息を吹きかけられ、バックスは総毛立って身を縮めた。
背後にいたのは、真っ赤な紅が引かれた厚い唇。マッチ棒が何本も乗りそうな、不自然なほど長い睫毛。
「グッモゥニーン! ヘレネちゃんでぇーす」
早朝の澄んだ空気には、ヘレネの存在はあまりに猛毒だった。夜の新宿二丁目の喧騒こそが似つかわしい。バックスは一気に脱力すると、剥き出しの敵意を向けて振り返った。
「よく俺の前に顔だせるな」
「いやん、怒ってるのん?」
「見た通りだよ」
ぶっきらぼうに吐き捨て、ヘレネを強引に押し退けて洗面所へ向かう。だがヘレネは、影のようにその後ろをついて回り、揚々とした声を張り上げた。
「何が"勘違い"?」
「関係ないだろ」
顔を洗うバックスの後ろ姿を、蛇のような粘着質な視線で見つめながら、ヘレネが小さく息を漏らす。
「まだヤッてないみたいね」
「未成年だ。俺が子供に手を出すやつに見えるか?」
空腹を満たすべく台所へ向かうと、ヘレネもひらひらと裾を揺らしてついてくる。
心底ウザったいが、力ずくで追い出したところで、奴は何度でもこの閉鎖空間に浸食してくる。無視しても、満足するまで言葉を浴びせ続けてくることを、バックスは天上時代から痛いほど知っていた。
テーブルの卵パックを見つけると、バックスの目がわずかに潤んだ。
殻を割り、中身を流し込んだ瞬間のあの至福の快感。逸る気持ちを抑え、卵を手に取る。
ヘレネはダイニングテーブルに我が物顔で腰かけると、長く細い脚を組み、バックスの顔を覗き込んできた。
「バックス、あの子が抱かれたがってたら抱く?」
危うく卵を取り落としそうになり、慌てて掴み直す。
「おまっ! なに言ってんだよ!」
「いやんいやん。だったとしたら、『利害一致』じゃな~い? 遠慮せず、ガンガンにゃんにゃんすればいいのよぉん」
ヘレネは招き猫のような仕草で、わざとらしくバックスにじゃれつく素振りを見せる。バックスは白けきった表情で顔を背け、卵を口の中へ割り入れた。
脳を直接揺さぶるような快楽の奔流。堪らず、二つ目、三つ目と喉を鳴らして飲み込んでいく。
「ねぇん、バックス、聞いてるのん?」
「黙れよ。食事中に変なこと言うな」
「あの子、たべてみなさいよ。たまごなんかよりもっと堪らないコーフンが待ってるわよん」
艶っぽく、湿り気を帯びた囁き。
ついに堪忍袋の緒が切れ、バックスはテーブルを激しく叩きつけた。
「いい加減にしろ! お前の考えはお見通しだぞ、ヘレネ。しずくと和真ですでに二回"クピドの力"を使っている。さすがにもう使えない。だから、次は俺を揺さぶってどうにかしようとしているんだろ」
ヘレネの作り物めいた笑みが、一瞬で凍りついた。
鼻から「ふんっ」と嘲笑を漏らすと、くるくると巻かれた縦ロールを指先で弄り始める。
「大外れよ、バックス~? あーしは別に罪なんか恐れちゃいないわん」
「嘘をつくな。相当焦っているんだろ。俺にはわかる」
その言葉をかき消すように、ヘレネは突然、狂ったような高笑いを上げた。
呆気に取られるバックスの目の前で、ヘレネはふわりとミニスカートを踊らせ、ダイニングテーブルの上へ飛び乗った。腕を組み、不遜な角度で首を傾げ、バックスを見下ろす。
「馬鹿ね、バックス。恋なんて簡単なの。相手の感情なんてどーーでもいい。一方通行の思い。それが恋よ。あの娘に恋させる。バックスは神さまに認められる。このまま天上の落ちこぼれでいいわけ!?」
ヘレネは地声で吠えた。
「いいわけねぇだろ!」
バックスは言葉を失い、テーブルの上の怪物を仰ぎ見た。
ヘレネはバックスの頬を両手でがっしりと掴み、血走った狂気の瞳を至近距離まで近づけた。
「……ヤる気、出して?」
無理やり絞り出された、擦れた女声。ヘレネはクスリと笑うと、うっとりと陶酔したようにバックスを見つめた。
背筋を氷の刃がなぞるような感覚。喉が急激に干上がり、バックスはごくりと唾を飲み込んだ。
「意味、わかんね……どうしたいんだよ、お前」
ヘレネは満足げに手を放し、一歩退いた。
「もう少しで神さまがあーしのところに来る。楽しみすぎて心が飛んでいきそうよん」
軽やかにステップを踏み、そのまま空間に溶けるように消え去った。
バックスには理解できなかった。
神に捕縛されることを、なぜこれほど待ち望めるのか。"クピドの力"の私的利用は重罪だ。良くて幽閉、最悪は存在の消去――粛清だというのに。
強がりか、それとも破滅を望む本心か。
バックスは、テーブルの上の卵を横目で見ると、静かにため息を吐いた。