ひざ下5センチメートル   作:浮月 愁

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【19】呵責

空は暗く重たい鉛色に沈み、湿気を孕んだ風が間もなく訪れる雨を予感させていた。

あいにく傘を忘れてしまったしずくは、雨粒が落ちてくる前に我が家へ滑り込もうと、急ぎ足で帰路を辿っていた。

 

「……しずちゃん!」

 

雨雲が迫る中、門扉に手をかけようとしたしずくを引き留めたのは、和真だった。

声のした二階の窓を見上げると、そこにはいつになく曇った表情の彼が立っていた。

 

「かずま……くん……」

 

彼の顔を見た瞬間、あのアクアリウムの光の中で抱きしめられた時の熱が蘇り、しずくの足がその場で竦んだ。これまでにない拒絶に近いリアクションに、和真の眉間にはさらに深い皺が刻まれる。

 

「ちょっといいかな」

 

促されるまま、和真の家へと招き入れられた。階段を上り、彼の部屋に入る。

また、ヘレネの力で呼ばれたのではないか……。

一瞬、身構えるような緊張が走ったが、最初から疑ってかかればいい。異変を感じた瞬間に、すぐさま対策を講じれば済む話だ。

 

和真の部屋は、お世辞にも整頓されているとは言い難かった。

クレーンゲームで取ったであろうキャラクターのぬいぐるみや、読み捨てられた男性コミック誌、ゲームのパッケージ。それらが足の踏み場を奪うように散らばっている。

潔癖なほど規律を重んじるしずくは、不快そうに眼鏡のツルを指先で跳ね上げた。

 

「相変わらず、物の整理整頓が出来ないんですね」

「これでもいつもよりキレイな方なんだけど」

 

和真が苦笑しながら、大学のプリントやリモコンが散乱するテーブルの前に座布団を敷き、自分はベッドの端に腰を下ろした。

 

「あ、なんか飲む?」

「いえ、大丈夫です」

「そう」

 

"クピドの力"に侵されているのではないか。

しずくが値踏みするように観察を続けていると、和真はその視線に耐えかねたように、居心地悪そうに視線を落とした。

 

「や、やっぱ怒ってるよね?」

「え?」

「日曜日。俺、約束すっぽかして寝こけてたから」

 

どうやら和真の中では、日曜日の出来事は約束をすっぽかしたことになっているらしい。

しずくの肩から、ふっと力が抜けた。この謝罪のために呼ばれたのだと理解し、納得がいった。

 

「本当にごめんね。俺から誘ったのに」

「い、いえ。大丈夫です」

 

安堵したしずくは、ようやく和真の方へと身体を向けた。

あんな悍ましい出来事をすべて記憶されていたら、今後の近所付き合いなど不可能だっただろう。和真はその後、何度も謝罪の電話をかけようとして勇気が出なかったことを、瞳を潤ませながら語る。その必死な様子に、しずくは思わず小さく笑ってしまった。

彼女の笑顔を見て、和真もようやく憑き物が落ちたように笑った。

 

「あ、そういえばね」

 

和真がベッドから腰を浮かせ、テーブルの上の漫画本に手を伸ばそうと身を乗り出した。

急激に距離が縮まったことに、しずくの身体がビクリと過剰に跳ね上がる。

 

「え?」

 

和真の手が止まった。驚かせた自覚のない彼は、しずくの異常なまでの拒絶反応に当惑し、その場で固まってしまう。しずく自身も、自分の本能がこれほどまでに彼を拒絶していることに驚き、硬直した。

いつも通りの和真だ。いつも通りのはずなのに。

 

「な、なんか顔色悪くない?」

 

心配そうに顔を覗き込む和真の瞳。それは嫌に真剣で、あの日、ソファで見た「雄」の目と重なって見えた。

しずくの心臓が、ドキンと大きく跳ねる。

脳裏に、あの時の声が、熱い息遣いとともに蘇る。

 

『しずちゃん、動かないで。お願い、もう少しこのままでいて』

『まだ誰のものにもなっていないなら、俺のものになって欲しい』

『俺だけのものになってよ、しずちゃん。もう止まらないよ』

 

和真が何かを言いかけた瞬間、しずくは弾かれたように立ち上がった。

 

「帰ります!」

「え!?」

 

鞄を鷲掴みにして逃げ出そうとしたが――

 

「あ、ちょっと待って」

 

和真の手が、しずくの手首を捉えた。

女性のそれとは明らかに違う、骨張った、熱い手の感触。肌に指が食い込む感覚に、しずくの頭は一瞬でショートした。

 

「止めてくださいっ!」

 

渾身の力で、その手を振り払った。

二人とも驚愕して目を見合わせる。和真は宙に浮いた自分の手を、ゆっくりと下ろす。

 

「ごめん……」

 

茫然とした様子で、和真が力なく呟く。自分がなぜ謝っているかすら分からない、悲しげな顔だった。

 

どこかで、ヘレネが操っているに違いない。

しずくは震える唇を噛み締め、必死に部屋の隅々にヘレネの影を探した。

 

「ヘレネさん?」

「え?」

「ヘレネさん、いるんですか!?」

 

鞄を胸に抱きしめ、部屋のあちこちを睨みつけながら叫ぶ。その姿に、知らない外国人名を叫ぶしずくに和真は完全にパニックに陥った。

 

「し、しずちゃん?」

「ふざけないでくださいっ! 二度も!」

「に、二度……? 言ってること全然わからないんだけど……」

 

じりじりと後退するしずくの足元に、ゲーム機の充電プラグが転がっていた。

一歩下がった拍子に、鋭い金属端子が足裏を直撃する。

 

「痛っ!!」

「あ!」

 

バランスを崩し、背後へ倒れそうになったしずくの身体を、和真が咄嗟に支えた。しずくもまた、無意識に彼の腕を掴む。

至近距離で、二人の視線が交差した。

困り眉で、少し垂れた、つぶらで優しい瞳。

一瞬の静寂。

しずくは唇を噛むと、強引に彼の胸を突き放し、部屋から飛び出した。

 

「しずちゃん!」

 

その呼びかけを背中で撥ね退け、階段を一気に駆け下りる。

早鐘を打つ心臓の音が、耳の奥まで響いてくる。

 

あれは、"クピドの力"ではなかった。

そこにいたのは、間違いなくいつもの、優しい幼馴染の和真だった。

 

だが、自分は彼の手を振り払い、困惑させ、傷つけた。ドロリとした罪悪感が、血液のように全身を駆け巡る。

 

勝手な思い込みで彼を傷つけた自分を、認めたくなかったから逃げた。

勝手な思い込みで彼を疑い続けている醜い自分を、認めたくなかったから逃げた。

 

必死に靴を履き、玄関の扉を乱暴に開けると、目の前を一台のタクシーが横切っていった。

門を出たところで、その車がしずくの家の前で停車した。

タクシーから降り立った人物を見て、しずくの心臓はさらに跳ね上がり、今にも胸を突き破らんばかりに打ち鳴らされた。

 

「お母さん……」

 

多くの荷物を抱えたしずくの母が、ゆっくりと娘を振り返り、満面の笑顔で手を振った。

せり上がる息を抑えようと胸を掻きむしるが、息苦しさは増すばかりで、全身から冷や汗が噴き出す。

視界が蜃気楼のように揺らぐ。しずくは何度も瞬きを繰り返したが、それは幻想ではなかった。

最悪のタイミングで。

母が、帰ってきた。

 

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