空は暗く重たい鉛色に沈み、湿気を孕んだ風が間もなく訪れる雨を予感させていた。
あいにく傘を忘れてしまったしずくは、雨粒が落ちてくる前に我が家へ滑り込もうと、急ぎ足で帰路を辿っていた。
「……しずちゃん!」
雨雲が迫る中、門扉に手をかけようとしたしずくを引き留めたのは、和真だった。
声のした二階の窓を見上げると、そこにはいつになく曇った表情の彼が立っていた。
「かずま……くん……」
彼の顔を見た瞬間、あのアクアリウムの光の中で抱きしめられた時の熱が蘇り、しずくの足がその場で竦んだ。これまでにない拒絶に近いリアクションに、和真の眉間にはさらに深い皺が刻まれる。
「ちょっといいかな」
促されるまま、和真の家へと招き入れられた。階段を上り、彼の部屋に入る。
また、ヘレネの力で呼ばれたのではないか……。
一瞬、身構えるような緊張が走ったが、最初から疑ってかかればいい。異変を感じた瞬間に、すぐさま対策を講じれば済む話だ。
和真の部屋は、お世辞にも整頓されているとは言い難かった。
クレーンゲームで取ったであろうキャラクターのぬいぐるみや、読み捨てられた男性コミック誌、ゲームのパッケージ。それらが足の踏み場を奪うように散らばっている。
潔癖なほど規律を重んじるしずくは、不快そうに眼鏡のツルを指先で跳ね上げた。
「相変わらず、物の整理整頓が出来ないんですね」
「これでもいつもよりキレイな方なんだけど」
和真が苦笑しながら、大学のプリントやリモコンが散乱するテーブルの前に座布団を敷き、自分はベッドの端に腰を下ろした。
「あ、なんか飲む?」
「いえ、大丈夫です」
「そう」
"クピドの力"に侵されているのではないか。
しずくが値踏みするように観察を続けていると、和真はその視線に耐えかねたように、居心地悪そうに視線を落とした。
「や、やっぱ怒ってるよね?」
「え?」
「日曜日。俺、約束すっぽかして寝こけてたから」
どうやら和真の中では、日曜日の出来事は約束をすっぽかしたことになっているらしい。
しずくの肩から、ふっと力が抜けた。この謝罪のために呼ばれたのだと理解し、納得がいった。
「本当にごめんね。俺から誘ったのに」
「い、いえ。大丈夫です」
安堵したしずくは、ようやく和真の方へと身体を向けた。
あんな悍ましい出来事をすべて記憶されていたら、今後の近所付き合いなど不可能だっただろう。和真はその後、何度も謝罪の電話をかけようとして勇気が出なかったことを、瞳を潤ませながら語る。その必死な様子に、しずくは思わず小さく笑ってしまった。
彼女の笑顔を見て、和真もようやく憑き物が落ちたように笑った。
「あ、そういえばね」
和真がベッドから腰を浮かせ、テーブルの上の漫画本に手を伸ばそうと身を乗り出した。
急激に距離が縮まったことに、しずくの身体がビクリと過剰に跳ね上がる。
「え?」
和真の手が止まった。驚かせた自覚のない彼は、しずくの異常なまでの拒絶反応に当惑し、その場で固まってしまう。しずく自身も、自分の本能がこれほどまでに彼を拒絶していることに驚き、硬直した。
いつも通りの和真だ。いつも通りのはずなのに。
「な、なんか顔色悪くない?」
心配そうに顔を覗き込む和真の瞳。それは嫌に真剣で、あの日、ソファで見た「雄」の目と重なって見えた。
しずくの心臓が、ドキンと大きく跳ねる。
脳裏に、あの時の声が、熱い息遣いとともに蘇る。
『しずちゃん、動かないで。お願い、もう少しこのままでいて』
『まだ誰のものにもなっていないなら、俺のものになって欲しい』
『俺だけのものになってよ、しずちゃん。もう止まらないよ』
和真が何かを言いかけた瞬間、しずくは弾かれたように立ち上がった。
「帰ります!」
「え!?」
鞄を鷲掴みにして逃げ出そうとしたが――
「あ、ちょっと待って」
和真の手が、しずくの手首を捉えた。
女性のそれとは明らかに違う、骨張った、熱い手の感触。肌に指が食い込む感覚に、しずくの頭は一瞬でショートした。
「止めてくださいっ!」
渾身の力で、その手を振り払った。
二人とも驚愕して目を見合わせる。和真は宙に浮いた自分の手を、ゆっくりと下ろす。
「ごめん……」
茫然とした様子で、和真が力なく呟く。自分がなぜ謝っているかすら分からない、悲しげな顔だった。
どこかで、ヘレネが操っているに違いない。
しずくは震える唇を噛み締め、必死に部屋の隅々にヘレネの影を探した。
「ヘレネさん?」
「え?」
「ヘレネさん、いるんですか!?」
鞄を胸に抱きしめ、部屋のあちこちを睨みつけながら叫ぶ。その姿に、知らない外国人名を叫ぶしずくに和真は完全にパニックに陥った。
「し、しずちゃん?」
「ふざけないでくださいっ! 二度も!」
「に、二度……? 言ってること全然わからないんだけど……」
じりじりと後退するしずくの足元に、ゲーム機の充電プラグが転がっていた。
一歩下がった拍子に、鋭い金属端子が足裏を直撃する。
「痛っ!!」
「あ!」
バランスを崩し、背後へ倒れそうになったしずくの身体を、和真が咄嗟に支えた。しずくもまた、無意識に彼の腕を掴む。
至近距離で、二人の視線が交差した。
困り眉で、少し垂れた、つぶらで優しい瞳。
一瞬の静寂。
しずくは唇を噛むと、強引に彼の胸を突き放し、部屋から飛び出した。
「しずちゃん!」
その呼びかけを背中で撥ね退け、階段を一気に駆け下りる。
早鐘を打つ心臓の音が、耳の奥まで響いてくる。
あれは、"クピドの力"ではなかった。
そこにいたのは、間違いなくいつもの、優しい幼馴染の和真だった。
だが、自分は彼の手を振り払い、困惑させ、傷つけた。ドロリとした罪悪感が、血液のように全身を駆け巡る。
勝手な思い込みで彼を傷つけた自分を、認めたくなかったから逃げた。
勝手な思い込みで彼を疑い続けている醜い自分を、認めたくなかったから逃げた。
必死に靴を履き、玄関の扉を乱暴に開けると、目の前を一台のタクシーが横切っていった。
門を出たところで、その車がしずくの家の前で停車した。
タクシーから降り立った人物を見て、しずくの心臓はさらに跳ね上がり、今にも胸を突き破らんばかりに打ち鳴らされた。
「お母さん……」
多くの荷物を抱えたしずくの母が、ゆっくりと娘を振り返り、満面の笑顔で手を振った。
せり上がる息を抑えようと胸を掻きむしるが、息苦しさは増すばかりで、全身から冷や汗が噴き出す。
視界が蜃気楼のように揺らぐ。しずくは何度も瞬きを繰り返したが、それは幻想ではなかった。
最悪のタイミングで。
母が、帰ってきた。