学校から駅まで学生専用バスで十分。駅から自宅最寄り駅まで十分。
駅を降り、家路を急ぐ足取りで歩くこと十五分。
まだ空は明るい。
不意に、制服のポケットの中でスマホが震えた。着信表示は、母親。
通話ボタンを押した瞬間、スピーカーから溢れ出したのは、いつもの穏やかさとはかけ離れた母の狼狽した声だった。
北国で独り暮らしをしている祖母が、ぎっくり腰で動けなくなったという。一年前、祖父が他界してからは頼れる身内もいない。母は今まさに空港へと向かっている最中で、しばらく現地で介護にあたると言う。
「家を空ける間、留守番をお願いね」という母の言葉に、しずくは一瞬、不安げに眉を寄せた。だが、すぐに自分を律するようにスマホをポケットへ押し込むと、やや歩速を上げた。
普段は絶対に通らないが、母からの急報で気が焦り、最短距離を無意識に選んでしまった。
近道のために選んだのは、空き家の庭を抜けるルートだ。
長年主を失っているその屋敷は、ぼうぼうに生い茂った草木に呑まれ、家屋も腐食が進んだボロ家と化している。いつ取り壊されるとも知れないその荒庭は、静寂の中でひっそりと息を潜めていた。
しずくがその庭に足を踏み入れたとき、木の根元に不自然な「黒い塊」を見つけた。
一瞬、動物の死骸かと思い身を竦ませたが、よく見ればそれは人間だった。子供が、横向きに丸まって転がっている。
「大丈夫ですかっ!」
駆け寄り、砂に汚れた身体を抱き起こす。
小学校中学年ほどの男の子だった。
きめ細かく透き通るような肌。癖のある黒髪。身体のサイズに合わないほどダボダボの黒いスウェットを、手足の裾を捲り上げて着込んでいる。
(虐待? それとも、何かの事件?)
怪我や痣がないか確認するため、スウェットの袖を捲るが、白い肢体に傷ひとつ見当たらない。
彼が瞼を震わせて瞳を開いた。
すると、弱々しく揺れる少年の唇から、掠れた声が漏れた。
「おん、な……?」
鼻にかかった高い声。それきり、少年はまた力なく目を瞑ってしまう。しずくは懸命に少年の肩を揺すった。
「警察! 救急車呼びますか!」
「んっ……いや……ら」
「え!?」
「はら……へった……」
切実な訴えに応えるように、少年のお腹から小さな虫の鳴く音が聞こえた。
しずくはハッとして、先ほど和真から貰ったばかりの『ぴよちょこ』を鞄から取り出し、少年の目の前に差し出した。
「これ、食べてください!」
だが、彼は迷惑そうに首をよじり、差し出されたチョコレートを拒絶した。
(甘いものを受け付けないほど衰弱している? やはり警察へ連れて行かなければ)
しずくが震える手でスマホを取り出した、その時。少年は消え入りそうな声で、彼女を呼び止めた。
「たまご……」
「え?」
「たまご……たべたい」
痩せ細った少年の身体は、背負ってみると驚くほど軽かった。その重みのなさに不安を覚えながら、しずくはなんとか自宅へ辿り着いた。
ソファに少年を横たえ、真っ先に冷蔵庫を確認する。幸い、卵のストックは十分だった。
まずは何かを腹に入れさせ、気力を取り戻してから警察へ――。
しずくは手早く手を洗い、いつものようにきっちりとエプロンの紐を結んだ。
「あ、全然遠慮しないでください。今日は私一人なので。父も母もいないんです。料理は苦手ですが、チャーハンや目玉焼きくらいならなんとか作れます。待っていてください」
卵をいくつか取り出し、調理台に並べた時。ふっと隣に気配を感じた。
視線を右下へ落とすと、そこにはいつの間にか少年が立っていた。
思わず悲鳴を上げそうになるのを、喉の奥で飲み込む。足元はおぼつかない様子だが、その目はぼんやりと、生卵を凝視している。
「あ、あの、立ち上がって大丈夫なんですか?」
「うん」
しずくは動揺を隠すように、また一方的にまくしたてた。
「き、君の事は詳しく聞いたりしません。ご飯を食べていただいたら、そのまま警察へお連れしますので、そちらで君自身の事を話してください。きっと解決します。私と君は赤の他人です。これは私の善意です。君の事に踏み込んだりしませんので、安心してください」
「はっ?」
呆れたような少年の視線を浴びながら、しずくは卵を掴んだままうろたえた。
どう接するのが正解なのか、彼女の真面目な脳細胞は完全にショートしかかっていた。
そんな彼女の様子を見て、少年は不意に小さく笑った。涼やかな目元と大きな口が、あどけなさを際立たせる。
「名前は?」
「へっ? 渡辺と申します」
「ワタナベ……」
「渡辺 しずく、です……。あ、でもお礼とかは全然気にしないでください。遠慮はしないでください。たまご料理を作るだけです。たまごを……」
しずくが震える手で差し出した卵を、少年は吸い込まれるような眼差しで見つめ、受け取った。
次の瞬間。しずくが止める間もなかった。
少年は天を仰ぐと、その場で殻を割り、中身を直接口の中へと流し込んだのだ。
「な、何を!?」
喉がごくりと鳴る。少年はさらに調理台の卵を掴むと、躊躇なく二つ目の生卵をも飲み干した。
「え、え~~~~~~?」
困惑に叫ぶしずくの前で、少年の頬に赤みが差した。
充足感に満ちたため息とともに、言葉がこぼれる。
「うんまぁ~~~~~」
ぱちくりと瞬きをして、少年はにんまりとしずくに微笑みかけた。
「ありがと、しずく」
異変は、その直後に起きた。
まるで心臓が全身に増殖したかのような、激しい鼓動がしずくの身体を突き上げた。
眩暈に襲われ、力が抜けていく。その場に膝をついたしずくの視界で、信じがたい光景が展開された。
「う、うそ……」
少年の小さな身体が、音を立てるようにむくむくと膨れ上がっていく。
一瞬。わずか数秒の出来事だった。
スウェットの袖から伸びた手足は節くれ立ち、隆起した筋肉が生地を内側から押し広げている。あどけなかった少年の面影は、精悍な青年のそれへと変貌していた。
床に崩れ落ちたしずくを見下ろす、男の喉元。そこには、のど仏が鎮座している。
「俺の名前はバックス。天使やってます」
先ほどまでの高音は消え、低く、響くような男の声が室内に落ちた。
理解の限界を超えた衝撃に、しずくの視界は急速に暗転し、そのまま意識を手放した。