「ただーいま。和真くん家にいたの?」
キャリーバッグのキャスターを転がしながら、しずくの母が歩み寄ってきた。
電話では帰宅は四日後だと言っていたはずだ。しずくは大きく息を吸い、自分と同じくらいの背丈の母を見つめた。
満面の笑みだった母は、娘の顔を凝視するなり、その表情をサッと曇らせた。
「どうしたの? お化けでも見たような顔して」
「……おかえりなさい。早かったね」
絞り出した声には、歓迎の響きも感情も一切乗らなかった。
「叔母さんが来てくれて。後は見てくれるって言うから」
はい、とニワトリのゆるキャラがプリントされた袋を手渡される。祖母の住む地域の銘菓だ。
「家帰ってお茶入れて一緒に食べよ。はーぁ。さすがに疲れちゃった」
バッグを引き、家の門扉を開けようとする母の背中。それを見た瞬間、しずくの全身から血の気が引いた。家には、まだバックスがいるのだ。
「お、お、おかあさんっ」
「ん?」
「あ、あの、今日は疲れたでしょ? 外でごはん食べよう?」
母は一瞬、娘の気遣いに嬉しそうに微笑んだが、構わずに門を押し開けた。
「ありがと。でも、雨降りそうだから、外食は無しね。疲れているから、しずくもご飯作るの手伝ってちょうだい」
少し笑ってずんずん進む母を止めるための知恵も、言葉も、もう残っていなかった。
ついに母は、玄関の鍵穴に鍵を差し込む。カチャリと冷たい音が響き、ドアが開いた途端、居間の奥から母の知らない男の声が届いた。
「おかえりー。少し遅かったなー」
ドカドカと無遠慮な足音を立てて、逞しい体躯と整った容姿を持つ黒髪の男が玄関に現れた。バックスは母の姿を捉えた瞬間、浮かべていた笑顔を石のように硬直させた。
しずくは、いたたまれなさに彼から目を逸らす。
最悪のご対面だった。
「誰!?」
母の当然すぎる悲鳴に対し、バックスは気まずさを誤魔化すように姿勢を正した。
「お邪魔してます。俺、しずくとお付き合いさせていただいているバックスといいます」
「ふ、ふざけないでくださいっ! おつきあいしていません!」
そう、しずくは致命的なまでの正直者だ。
ここでバックスの咄嗟の嘘に便乗できるほど、彼女の頭は器用に回らない。
怪訝そうに眉を寄せ、バックスとしずくを交互に凝視していた母は、静かに、深く息を吐いた。
「じゃあ、何? 彼は泥棒? 顔見知りの泥棒? ん?」
無言で俯くしずくを一瞥し、母は玄関脇に荷物を置く。
「ここじゃ、アレね。……中でゆっくり話を聞きます。しずく」
しずくは、絶望に顔を横に振った。
「しずく?」
「……この人はバックス。天使なの」
消え入りそうな震え声だった。バックスがハッとして顔を強張らせる。
「たまごを食べたら天使の力が元に戻るから、手伝ってるの」
母の瞳に、明らかな失望と呆れの色が浮かぶ。
「何を言ってるの? 変な話で誤魔化さないで……」
「本当だよ! この人は少しの間の同居人で……」
刹那、母の眼に鋭い力が宿った。
彼女はしずくに向き直ると、その右頬を全力の平手で叩きつけた。
乾いた衝撃音が玄関に虚しく響く。
あまりに唐突な暴力に、バックスですらそれを止める余裕はなかった。
ジンジンと熱を持って痛む頬を抑え、しずくは茫然と立ち尽くした。
母は、怒鳴り散らしたい衝動を必死で抑え込むように、低く、静かな声で言った。
「……しずくはまだ高校生よ。同居人ってどういうこと? ここは、私たちの家でしょ。親の居ない間に紹介もされていない男を家に入れて。死んだお父さんに……なんて言ったらいいの……」
しずくの瞳が激しく揺れた。動揺の最中、恐る恐る見上げた母は、娘を打った自分の手を擦りながら、しずくを射抜くように見返した。
「真面目で素直ないい子に育ったと思ってたのに……こんなところで裏切られるなんて」
『裏切り』。
しずくにその自覚がなくても、母にとってはこれが紛れもない背信行為なのだ。
しずくは後悔と悲痛に顔を歪め、ゆっくりと頭を下げた。
「……ごめんなさい。お母さん」
「続きは部屋で聞くから……」
そう言ってしずくの細い腕を引こうとした母の手。だが、それよりも早く、バックスの大きな手がしずくを掴み取った。
驚き見上げた母と、バックスの視線が火花を散らす。バックスは不敵に笑うと、母に軽く会釈した。
「おじゃましました、おかーさん♡」
その場にそぐわない愛想を振りまくと、バックスは軽々としずくの身体を横抱きにした。
目を丸くした母の横を疾風のようにすり抜け、二人はそのまま玄関を飛び出した。
「え!? あなた!?」
背後で母の絶叫が響いたが、彼は一度も振り返らずに走り続けた。
腕の中のしずくをバックスが覗き込んだ。今にも泣きそうな顔をしているに違いない。悟られないようにあえて大きな声を上げる。
「バ、バックス!」
「"ふざけないでください"は今は無しな。お母さんに見つかったのはちょっと想定外」
不安に震えながらバックスを見上げたしずくの鼻の頭に、冷たい水滴が落ちた。
どんよりと暗く濁った空から、雨が降り始めた。粒は瞬く間に大きくなり、コンクリートの路面を濃い色に染め変えていく。
バックスは雨を避けるようにしずくを抱える身を丸めたが、雨足は激しさを増す一方だった。
「これじゃあ、しずくも濡れちゃうな」
「か、帰りましょう。お母さんに説明しないと」
しずくの懇願に、バックスは一瞬だけ足を止めた。
家に戻るのかと思われたが、彼は突然、猛然と方向転換した。そこは、二人がよく知る――けれど今は誰もいないはずの、あの場所へと続く道だった。