この恋は、一目惚れだった。
ここは天上。『恋』の神の講義室。
天使たちは、無限に等しい神々が司る専門分野からいくつかを選び、その下で学び、修行を積み、いつか神の座へ至るための研鑽に励んでいる。
ヘレネは『色彩』の神の課程を修了し、次なる修行の場として『恋』の神を選んだ。理由は「なんだか自分に向いていそうだから」といった、たわいもないものだった。だが、天上ではそんな直感的な選択さえも許容されている。
『恋』の神の講義室は、その分野の性質上、華やかで社交的な「陽」の気質を持つ者たち、いわゆる陽キャが集まっていた。
その喧騒の中で、一際異彩を放つ男がいた。
彼は講義中、机に突っ伏すわけでもなく、ただひどく退屈そうに、興味の欠片も見せない無機質な態度で椅子に腰かけていた。容姿は硬派で、周囲の軽薄な空気とは一線を画している。
そんな彼に興味を抱き、声をかけたのがすべての始まりだった。
名前はバックスといった。
話を聞けば、彼は本来別の神の門下を望んでいたが、定員漏れで弾き出され、不本意ながらここに配属されたのだという。
「興味がないのか」と問うヘレネに対し、彼は「興味がないのではなく、『恋』が難解すぎて理解できないのだ」と答えた。
ヘレネの瞳を真っ直ぐに射抜き、至極真面目にそう告げる彼に、心臓が跳ねた。
腕を組み、眉を寄せて首を傾げるこの不器用な男に、自分が『恋』のすべてを教えてあげたい――ヘレネは、強くそう思ったのだ。
それからというもの、ヘレネは徹底的に彼に付きまとった。
だが、側にいればいるほど、彼に関する不名誉な噂も嫌応なしに耳に入ってくるようになる。
バックスは落ちこぼれだ。地上での実務試験は散々な結果で、何一つ成し遂げられない無能。邪魔者。あいつは神になる資格などない。粛清されるべきだ。さっさと他の分野へ消えればいい。
悪口を否定したい猛烈な衝動と、否定しきれない無情な事実。ヘレネはその狭間で苦しんだ。
彼を一人前にしたい。世間にその価値を認めさせたい。自分の力で。
ヘレネはバックスを食事に誘い、執拗に酒を煽らせた。
バックスが泥酔し、意識を朦朧とさせている隙を見計らい、ヘレネは嘘を吐いた。
今回の実務試験の結果について、恋の神さまが話があると。執務室へ行くようにと。
バックスは疑いもせず承諾し、ふらつく足取りで執務室を目指そうとした。ヘレネはその腕を掴み、目的地へと先導した。
向かった先は、神の執務室ではない。
地上へと続く、禁忌の扉の前だ。
当然無断使用は禁止されている。
もう一度、彼に強制的な実務試験をさせる。ヘレネが影から完璧なサポートを行い、圧倒的な好成績を収めさせる。
そうすれば、誰もが認めざるを得なくなる。自分の恋した男は、類稀なる優秀な男なのだと。
ヘレネは、バックスを地上へと突き落とす直前、その耳元で艶やかに囁いた。
『恋の神さまが言ってたわぁん、バックス。やる気を見せろ。やる気のないやつは〜……死ね! ってね!』
これで彼も本気を出してくれる。そう信じていた。
しかし、目論見は無残に外れた。
バックスは地上に降り立っても、何一つ行動を起こさなかった。
まだ天使の力が残滓として留まっていた頃は、姿を消し、人間から不可視の状態を保ちながら、ただぼんやりと虚空を見つめていた。
やがて力が枯渇し、姿を隠す術も失い、天使の輪は消え、羽根は無残に縮み、消滅した。
徐々に彼の体躯は幼く退行していった。
彼は人間に見つからぬよう、廃屋の庭に身を隠し、飢えに耐えるようになった。
中学生ほどの外見になり、以前の服もサイズが合わなくなる。見かねたヘレネは、寝入っている彼の頭付近に、体格に見合ったスウェットを密かに置いた。
だが、彼の退行は止まらず、ゆっくりと、確実に死へと向かって縮み続けていった。
何もかもが想定外だった。
なぜ、何もしない。なぜ、生きる意欲を見せない。
彼の思考が、心の奥底が、どうしても理解できない。
このままでは、彼は人知れず朽ち果て、塵となって消滅してしまう。
ヘレネはバックスの惨めな最期を目の当たりにすることを恐れ、監視を断ち切った。自分の身勝手な想いのせいで、彼を殺すことになる。恋した男を、この手で。
監視を止めた。止めた。止めた。――だが、止められなかった。
ヘレネは、救いようのないバックスのストーカーだったからだ。わずか三日後には、吸い寄せられるように彼の姿を探しに地上へ戻っていた。
驚くべきことに、彼は生きていた。しかも、姿は元の成人サイズに戻っている。
ヘレネは歓喜に震えながら、彼の前に姿を現した。
『あーしの名前はヘレネ。天使やってま~っす』
そこには、一人の女がいた。若く、世慣れていない、初心そうな少女だ。名前は……確か三文字だった。
ヘレネは、人間の恋心を読み取る力を使った。
少女の心の中には、本人ですら気づいていない、バックスへの種火のような微かな恋心が灯っていた。
ターゲットは決まった。
彼女がバックスに恋をすれば、それは「バックスが人間に恋をさせた」という動かぬ実績となる。
あとは既成事実という名のトドメを刺せば、彼女は否応なしに自身の感情に直面する。
そのために"クピドの力"を不正利用すれば、神もその違法性に気づき、ヘレネを捕縛するために降臨するはずだ。
その際、バックスが人間に恋をさせたという華々しい成果を目の当たりにすれば、神はきっとこう言うだろう。『見直した』と。
それでいい。
恋した男の、その価値が認められる。
それさえ叶うのならば、この身がどうなろうと……自分の存在など。
「だって、これは一方通行の『恋』なのよ。見返りなんて求めてないわん」
ヘレネは、しずくの家の屋根の上で、誰に聞かせるでもなくぽつりと呟いた。
曇天の下、しずくを抱きかかえて疾走していくバックスの背中を、熱を帯びた瞳で見守りながら。
ふと、背後から冷気を含んだ声がした。
「ヘレネぇ。なぁに、してるのぉ?」
聞き覚えのある、高音の耳に触る声。
ヘレネの額に、じわりと冷や汗が滲んだ。彼は生唾を飲み込むと、激しく波打つ心拍を鎮めるべく、二、三度深く深呼吸を繰り返した。
そうして、声を放った主の方へと、ゆっくりと振り返った。