足を踏み入れた途端、埃とカビの混じった古い家の匂いが鼻をついた。激しく咽るしずくを気遣うように、バックスは空中に舞う灰色の埃を手で乱暴に払った。
そこは、しずくが通学の近道として通り過ぎた空き家だった。バックスは激しさを増す雨を凌ぐため、迷わずその中に滑り込んだ。
分厚い雨雲に覆われた空は夕刻を待たずして暗く、電気の通っていない廃屋の中は、文字通り一寸先も見えないほどの闇に包まれている。
しずくが震える手でスマホのライトを点けると、光の筋に照らされた天井には巨大な蜘蛛の巣が幾重にも張り巡らされ、足元の畳には分厚い土埃が積もっていた。
がらんとした和室には、外された障子や襖が亡骸のように重ねて置かれている。
バックスは濡れたベストを脱ぎ捨てると、それで埃を雑に拭い、しずくを押し入れの中段へと座らせた。
「ほっぺ、大丈夫か」
バックスが濡れて額に張り付いた髪をかき上げ、しずくを真っ直ぐに凝視した。しずくは小さく頷いたが、バックスの懸念は晴れないようだった。
彼の逞しい首筋を、雨の滴が一筋、流れ落ちていく。濡れたシャツが彼の肩のラインに生々しく張り付いている。バックスが犬のようにプルプルと頭を振ると、冷たい水飛沫がしずくの顔に飛んだ。
母に何一つ説明せぬまま、母の知らぬ男の腕に抱かれて家を飛び出してしまった。
湿気で蒸し返る不快な沈黙の中、しずくの脳裏を絶望的な思考がぐるぐると巡る。
早く戻らなければ。戻って、母が納得できるだけの論理的な説明を尽くさなければ。
しずくは鞄からハンカチと眼鏡拭きを取り出すと、ハンカチをバックスへ差し出し、自分は曇りきった眼鏡を拭き始めた。
「これは、住居侵入罪です」
「なんだそれ?」
「どうして家から連れ出したんですか? ちゃんと説明すれば母もわかってくれるはずです。あれじゃあ、誤解されたままです」
淡々と理屈を並べるものの、その声は沈んでおり、いつもの芯の通った「風紀委員長」の響きはなかった。
眼鏡を掛け直し、しずくはバックスを真っ直ぐに見上げた。
「早く家に戻りましょう」
バックスは動かず、ただじっとしずくの瞳の奥を見据え、重い口を開いた。
「落ち着いて考えろ。家に帰って正直に言ったところで、家に男を泊まらせたという事実は変わらないだろ?」
その正論に、しずくは息を詰まらせた。
沈黙した彼女を見つめ、バックスは静かに告げた。
「雨が止んだら、俺たちはお別れだ」
しずくは息を呑んだ。そんな唐突な宣告、心の準備など一分たりとも出来ていない。
「……しずくの母さんには……あ、俺はホームレスの何でも屋で飯を食わせる代わりに家事手伝いさせてたとか言えば誤魔化せ……」
しずくはバックスが言い終える前に押し入れから身を乗り出し、バックスへ食ってかかる。
「なんですか、それ! 誤魔化せません! それに、まだバックスは力が元に戻っていません。母に全て話して、バックスの力が元に戻るまで一緒に住むことに許可をもらうのが最善の方法です!」
「昨日の夜も話したけど、多分近いうちに神さまがここにくる。そのタイミングで天上に帰るからしずくは心配しなくていい」
「でも!」
叫ぼうとした口を、咄嗟に自らの指先で塞いだ。溢れ出しそうになった剥き出しの感情を無理やり飲み込み、俯く。言ってはならない。こんな素直な感情を。しずくは激しい躊躇いに身を焼いた。
「『でも』、何? 俺は天上に帰られる。しずくは元の生活に戻る。なんの支障もないはずだけど?」
バックスがふっと自嘲気味に笑い、指先でしずくの頬に触れた。俯いていた顔を、優しく自分の方へと向けさせる。
その至近距離にある優しげな瞳と視線がぶつかった瞬間、しずくの胸は張り裂けんばかりに鳴り響いた。
彼女は、震える唇を恐る恐る動かした。
「でも、バックスが居なくなったら、私は、……さみしい、です」
その告白を聞き、バックスは意外そうに眉を上げると、快活な声を上げて笑った。
「ありがとな。でも、寂しいのは最初だけだ。そのうち忘れる。大丈夫だ」
「大丈夫」というその突き放すような言葉に、しずくの瞳に鋭い光が宿った。彼女は、潤んだ瞳でバックスを睨みつけた。
「ふざけないでくださいっ! 何が大丈夫なんですか!?」
叫んだ声は震え、瞳には大粒の涙が滲んでいた。
「どうして大丈夫なんて言って笑うんですか? バックスは私と過ごした時間なんてどうでもいいんですか? 忘れるわけなんてないのに!」
バックスはその勢いに気圧されつつ、泣きそうな雫の姿を見て動揺した。
「寂しいのはわかる。たった数日だけど、一緒に暮らしたんだし。だけど、その数日ってこれから長く生きるしずくの人生にとってはほんの一瞬だ。言いたいこと分かるか?」
「わかりません」
「……むずいな。絶対忘れるって言ったら怒るんだろ?」
当たり前だ。
しずくはバックスの放った「絶対忘れる」という言葉に反応し、鋭くバックスを睨んだ。
激しい感情の昂りの中、しずくが何かを思いついたように目を見開いた。絶望の色は瞬時に歓喜へと塗り替えられ、その顔が異様なまでに輝き始める。
「……いいこと思いつきました!」
「え?」
「バックスのことはここで飼います」
「はぁ!?」
「私が毎日ここにたまごを持って来ます。バックスは力が戻るまでここに居てください。母にはバックスが天使であることは正直に伝えます。いいですね」
事務的な口調で宣言すると、彼女は押し入れの中段から軽やかに飛び降りた。
「バックス、濡れたままでは風邪を引きます。一度家へ戻りますので、ここで待っていてください。タオルを持ってきます」
庭へ駆け出そうとしたしずくの手首を、バックスが慌てて掴み、引き止めた。
「待て、待て。俺はペットじゃないぞ。ここで飼われる気はない」
「仕方ないじゃないですか。私はまだバックスと離れたくありません」
しずくは振り返り、真っ直ぐにバックスを見上げた。
バックスは繋いでいた手を離し、心底困り果てたように笑いながら、腰に手を当てた。
「まるで告白だな」
「え?」
「しずくはそんなに俺のこと好きだったのか」
そうだ。
好きなのだ。
どうしようもなく。
しかし、これは秘めたる恋心。
バックスに知られてはいけない。
この恋心が知られると、バックスは……
「……好きです」
ああ。出てしまった。
気がついたときには遅かった。
この"感情がパンパンに詰まった風船"は、バックスの一刺しで呆気なく爆発してしまった。
しずくの顔が熱を帯びて真っ赤に染まっていく。
喉の奥に何かがつかえたように息苦しく、何も言葉が出てこない。心臓を素手で握りしめられたような痛みが全身を駆け巡る。自身の浅い呼吸の音だけが、静かな和室に響いていた。
「……しずく? ……え?」
バックスの瞳からも余裕が消えた。しずくのあまりに純粋な反応に、彼は息を詰まらせる。だが、直後に彼はその目を冷たく据わらせると、吐き出すように大きなため息をついた。
「くそっ……ヘレネか……」
呆れ果てたように濡れた髪をかきむしるバックス。
今のしずくの態度は、ヘレネの"クピドの力"でバックスを誘惑しているように見えているのだ。
しずくは情けなさと悔しさに唇を噛んだ。
「……違うのに……」
「は?」
その時だった。
空から生暖かい風が、津波のように古い和室へと雪崩れ込んできた。建付けの悪い窓や扉がガタガタと悲鳴を上げ、堆積していた砂や埃が視界を遮るように舞い上がる。
何も見えない混沌の中、バックスは咄嗟にしずくを庇うように強く抱き寄せ、埃と砂煙の向こう側に立つ影を見据えた。
「バックスぅ。ここにいたんだねぇ」
耳の奥に爪を立てるような、頭に響く、不気味なほど甲高い声。
その瞬間、バックスの意識は凍りつくように冴え渡った。
『恋』の神が、降臨したのだ。