ひざ下5センチメートル   作:浮月 愁

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【23】恋の神

風が凪ぎ、舞い上がっていた砂埃がゆっくりと沈殿していく。バックスの逞しい腕の隙間から、しずくは恐る恐るその人物を仰ぎ見た。

 

そこに立っていたのは、一見すると若き女性だった。

腰まで届く、透き通るような白髪。吸い込まれそうな赤い瞳に、雪のように白い睫毛。唇は小さく、端正な顔立ちをしている。だが、そこには人間の耳はなく、代わりに白く長い獣耳が、まるで頭上に垂れ下がるように鎮座していた。

淡いピンクの全身タイツの上から、胸元と腰回りだけを白い毛皮で覆ったその姿は、あまりにも奇怪だった。

 

(うさぎの……コスプレ?)

 

しずくの脳裏に、そんな場違いな疑問が浮かぶ。

だが、自分を抱くバックスの腕に、かつてないほどの力が籠もるのを感じた。彼が微かに緊張していることが、肌を通して伝わってくる。直感した。この異質な存在こそが、『恋』の神なのだと。

 

彼女からは、神々しい威厳よりも、どこか底の知れない不気味さと静謐さが漂っていた。彼女はきょとんとした無機質な表情で、バックスとしずくを見据えている。

 

「あ、あの、バックス、腕を……」

「あ、ああ」

 

バックスは我に返ったように腕を解くと、神に向かって一歩、しずくを護るように前に出た。

 

「サシャ様……」

 

バックスはその神を『サシャ様』と呼んだ。

 

「はぁ〜、ヘレネの言った通りだぁ」

 

サシャは赤い丸い瞳を、ぱちくりと無心に瞬かせている。

 

「見直したよ、バックスぅ〜。人間の女の子に恋させたんだねぇ〜」

「え!?」

「え?」

 

しずくとバックスは、弾かれたように顔を見合わせた。見直したとは言いつつも、サシャの顔面は凍りついたように無表情だ。ただ、小さな口元だけが淡々と動いている。

 

「しかも、初恋」

「は、初恋って……しずくが? 誰に?」

「ふ、ふざけないでくださいっ! だ、だだ、だから好きって言ったのに!」

「俺っ!?」

 

しずくはあまりの羞恥に耐えかね、顔を背けて両手で熱を帯びた頬を覆った。今すぐにでもこの場から逃げ出したい。あるいは、これほどまでに鈍感な目の前の男を、一発しばき倒してやりたい。

 

対する鈍感な男の方は、かつてないほど激しく動揺していた。「え、なんで。いつから? 俺なんかしたっけ」情けないほど震えた声で、誰に聞かせるでもないそんな独り言を、しずくの隣でブツブツと繰り返している。

 

サシャが、その細い片腕をスッと水平に差し出した。

くるりと指先を回し、何もない空間をピアノの鍵盤を叩くように弾く。

刹那、ワンテンポ遅れてバックスの身体が、まばゆい光の粒子に飲み込まれた。パチパチと清浄な光が爆ぜ、それが収まった時――バックスの姿は、一変していた。

白と淡い金光を纏った高潔な長衣。肩には豪奢なマントが揺れ、胸元には黄金の胸当てが鎮座している。そして背中からは純白の羽根が生え、頭上には天使の輪が燦然と輝いていた。

 

天使だ。

 

バックスが、真の天使の姿を取り戻した。

 

「うぉ。初期装備」

 

バックスが、小さく呟いた。だが、その声にも表情にも、力の回復に対する歓喜が滲み出ており、口端がわずかに歪んでいる。

 

「サシャ様、ありがとうございます!」

「うん」

 

だが、バックスはすぐにその煌びやかなマントを脱ぎ、しずくの肩へと優しく掛けた。

 

「これ羽織っとけ。寒いだろ?」

「あ……ありがとうございます」

 

しずくは、複雑な想いを抱えて俯いた。

天使に戻った。

それは、喜ぶべきことなのだろう。けれど。

これで彼がこの地に留まる理由は、完全に消滅してしまった。

お別れなのだ。

じわり、じわりと、胸の奥から切なさがせり上がってくる。しずくはその温かいマントの縁をギュッと握りしめ、ただ足元を見つめた。

 

その様子を眺めていたサシャが、初めて眉をピクリと動かした。

 

「あ〜あ。これもヘレネの言ったとおりだぁ」

 

だが、その微かな動揺もすぐに消え、無表情へと戻る。

 

「バックスもぉ……この少女に恋してるねぇ」

「ええぇ!?」

「あぁ!?」

 

バックスは弾かれたように身を乗り出し、その逞しい胸を躍動させながら吠えた。

 

「してません!」

「……あれも恋。……それも恋。知ってるよねぇ? 『自覚なき恋』。ちゃあんと教えたよぉ?」

 

バックスは、反論を喉の奥で詰まらせているようだ。

しずくは彼の背後で、声にならない呻きを震わせていた。鼓動が耳を打ち、周囲の音など何も聞こえない。

バックスと、想いが通じ合っていたのだ。

その確信に、全身の血液が沸騰するような興奮を覚え、寒さなどどこかへ消え去っていた。

 

「……吊り橋……効果です」

「お?」

「ヘレネが近くに居て、極度の緊張状態にありました……。それが側にいたしずくへの恋愛感情だと、錯覚している、だけです」

 

必死の弁明を聞いたサシャは、キョトンとした顔で首を傾げた。

 

「う〜ん。意外とよく勉強しているねぇ〜。でも、後ろ見てみてぇ」

「は?」

 

バックスが振り返った、その瞬間。

しずくは我慢しきれず、彼の広い胸へと飛び込むように抱きついた。

居ても立ってもいられなかったのだ。

飛び込んでなお、足を小さく踏み鳴らし、がむしゃらにバックスの纏う長衣をきつく握りしめた。

抑えきれない初めての衝動。

制御できない。

 

バックスは一瞬躊躇しているように自身の手の所在を彷徨わせていたが、やがて諦め、その姿を笑い、しずくの頭を優しく、愛おしそうに撫でた。

 

「ほぉらね。恋心無しに普通はそんなことしないよぉ。それにぃ、今少し心拍数があがったねぇ。気持ちもやや浮き立ってる。『恋』の神の目は節穴じゃあ〜ない」

 

その指摘に、バックスはもう何も言い返せないようだ。

暴かれた無自覚な感情。じわじわと這い上がってくる羞恥心が、彼の冷静さを蝕んでいく。バックスは名残惜しそうに、けれど丁寧にしずくを身体から引き離すと、一つ咳払いをして神へと向き直った。

 

「人間と恋することは出来ません。天上へ帰ります」

「そりゃ、そうだよぉ。あたりまえ〜」

 

しずくは、慌ててバックスの服の袖を掴んだ。

 

「嫌です! 行かないでくださいっ!」

「しずく……」

 

まるで駄々をこねる子供のように、本音を曝け出してしまった。バックスの困り果てた声を聞き、しずくはハッと我に返った。掴んでいた手を弾かれたように離し、背中の後ろに隠す。

 

「……いえ。なんでもありません。嘘です」

 

しずくは嘘がつけない。バックスはそれを、誰よりもよく知っていた。

彼は姿勢を正し、もう一度サシャへと向き直る。

 

「サシャ様。お願いがあります」

「うん。わかってる〜。だってぇ、バックスはあまりにも地上で目立ちすぎたしぃ」

 

サシャは無表情のまま、一度だけゆっくりと瞬きをすると、淡々と続けた。

 

「この地上で起きたバックスの存在の形跡及び記憶の消去」

「え?」

 

バックスとの記憶が、すべて消される。

その意味を瞬時に悟ったしずくは、なりふり構わずサシャに向かって走り出した。

 

「待ってください! それは……っ!」

 

刹那、サシャがパチンと両手を打ち合わせた。

しずくの意識は急激に闇に沈み、前へ倒れ込みそうになった彼女を、バックスが咄嗟にその腕で支え止めた。

 

人間と天使が結ばれることはない。決して。

 

しずくの告白も、バックスの胸の疼きも、

すべてが真実だからこそ――

こうしてしずくの記憶を消してあげることが、彼女のためになる唯一の慈悲なのだ。

 

「……サシャ様。ありがとうございます……」

「うん……ところでぇ、『恋』わかった?」

 

バックスは眉間に深い皺を刻むと、小さく、重いため息を吐いた。

腕の中で眠るしずくの顔を見つめながら、静かに呟いた。

 

「……わかりません」

 

サシャは小首を傾げた。だが、隠すことはできなかった。それが、バックスの紛れもない本音だったからだ。

『恋』を知るのは、あまりに難しすぎた。

地上に落とされ、彼は何もできなかったのではない。何もしなかったのだ。

人間に『恋』をさせる。

それは、誰かの秘めた聖域を、土足で踏み荒らすような傲慢な行為ではないのか。隠しておきたい感情なら、そのままにしておいてあげるべきではないか。

それが天使の役目だとは分かっていても、誰かの運命を無理やりねじ曲げるような真似は、どうしてもバックスはしたくなかったのだ。

 

「あの……ヘレネは……」

 

それまで無表情だったサシャの唇が、初めて怒りに震えた。

 

「あれはダメだねぇ。ダメダメ。あんなことしちゃぜっっったいダメ。プンプン、怒り心頭だよぉ」

「幽閉ですか? 粛清ですか?」

 

サシャは、少し沈黙し、また無表情に戻る。

 

「まあ、やったことから言えば普通なら"粛清"。で〜も〜、天使と人間の恋。久しぶりに見させてもらったからな〜あ。それはヘレネ、グッジョブぅ」

「だから、俺は……」

 

それは神の御言葉、神の宣告だった。

サシャは鈴を転がすような甲高い声で高らかに告げた。

 

「バックスぅ、ワンモアできるかなぁ〜」

 

その刹那、空を叩いていた雨の勢いがふっと弱まった。

 

「…………は?」

 

雲の隙間から、一筋の鋭い太陽の光が差し込み、しずくを抱えるバックスの姿を、まるで絵画の一場面のように神々しく照らし出した。

 

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