二年後。
しずくは都会の私立大学へと進学していた。初めての一人暮らしに不安がなかったわけではない。それ以上に、地元に母を一人残してきたことが心配で、頻繁に電話をかけては逆に苦笑いされる始末だった。
彼女には、やりたいことが見つかっていた。
ある時期を境に、しずくは周囲から「変わった」と言われるようになった。スカートの短い女生徒が「恋のためにおしゃれしている」と言ったならば、しずくは「恋のためなら仕方がない」と認めたのだ。あの"歩く校則"の変化に誉川高には、天変地異が起こるとしばらく不穏な噂が流れていた。
その噂にはさすがの彼女も叫んだ。
『ふざけないでくださいっ』と。
そんな彼女に進路の道を示したのは、高校時代の恩師だった。以前からその責任感の強さは一目置かれていたが、今のしずくには、かつての頑固さを超えた「柔軟性」が備わっている。生徒に寄り添う良い教師になれるはずだ――その言葉に背中を押され、彼女は教育の道を選んだ。
夕方までは講義、十八時からは家庭教師のアルバイト。教師という夢に向かって、しずくは着実に努力を積み重ねる日々を送っている。
ただ、そんな充実した生活の中で、しずくにはどうしても気になることがあった。
十六時に大学の講義が終わってから、バイトが始まるまでの二時間。大学のオープンスペースでレポートを書くのが彼女の日課だ。
しかし、パチパチとキーボードを叩いていると、必ず「視線」を感じるのだ。
ずっと、誰かに見られている。
しずくはその視線の主が誰なのか、とうに気づいていた。
彼女は一つため息をつくと、タブレットとキーボードを鞄にしまい、勢いよく立ち上がった。
迷いのない足取りで視線の犯人へと一直線に向かい、その男が座る椅子の横に立つと、厳しい眼差しで見下ろした。
男はしずくを見上げ、不意を突かれたように目を見開いたが、すぐにバツが悪そうに視線を逸らした。
しずくは無言のまま隣の椅子を引き、再びタブレットとキーボードを机に広げて座り込んだ。
「……え、あの」
男は気まずそうに口ごもる。だが、これはしずくなりの無言の牽制だった。見ているのは、分かっているのだと。
しずくは画面から視線を逸らさぬまま、隣の男にだけ聞こえる低い声で告げた。
「どういうつもりか知りませんが、気味が悪いのでジッと見てくるのやめてもらえますか?」
きっぱりと言い放った。これだけ言えば、普通はすぐに席を立つだろう。
ところが、男は鼻から抜けるような笑い声を漏らした。
「あれ? 俺のこと見えてんの?」
「はぁ?」
しずくは思わず横を向いた。
男は白いノーカラーシャツに、黒のロングカーディガンを羽織っていた。ラフな質感のシャツは清潔感があり、シンプルながらも服の上から分かるほどがっしりとした体格をしている。
何より、その顔立ちに目を奪われた。少年のような無邪気さと、大人の男としての色気が同居している。端正な顔立ちの男がこちらを凝視しているのは、不気味であると同時に、どこか抗いがたい魅力と引力があった。
「なんでだ? 他のやつには見えてないよな?」
意味の分からない返しだ。しずくは一回り強い警戒心を抱いてタブレットに顔を戻した。
(相手にしない方がいい)
だが、レポートに集中しようとした途端、男は机に肘をついて頭を支え、またもしずくを凝視し始めた。つい数秒前に注意したばかりだというのに。
「なぁ。変なこと聞いてもいい?」
「は? ……嫌です」
即答すると、男はなぜか嬉しそうに肩を震わせて笑った。失礼な態度に、しずくの不快感は増していく。
「何が面白いのですか?」
「いや。ごめん、ごめん。もうさ。覚えていないと思うんだけど、以前俺は君と会ってる」
(あぁ、ナンパの常套句だ)
しずくが軽蔑の眼差しを向けると、男の瞳は驚くほど優しく彼女を捉えていた。
「本当、本当。しずく、眼鏡からコンタクトに変えたの?」
一瞬、思考が止まった。名前を知られているだけでなく、以前は眼鏡だったことも言い当てられた。適当な推測だと言い聞かせようとしたが、次に男が口にした言葉が、しずくの心臓を直接掴んだ。
「……和真くん、元気?」
「え?」
それは、適当な嘘では絶対に出てこない名前。幼馴染の和真の名。
「……ごめんなさい。あなた誰ですか?」
警戒心は変わらないが、しずくが身体を男へ向けた。その男は椅子を動かし、少ししずくに身体を近づける。
「知り合いが、俺のせいで、まあ、なんというか、自由の効かない身になっている」
「は、はぁ……」
「俺が不出来なせいでさ」
男はハハハと軽い調子で笑った。
一体、この人は誰なのか。しずくは吸い込まれるように男の顔を凝視した。やはり、記憶にこの顔はない。
けれど、その笑い声を聞くと、胸の奥にじんわりとした温もりが広がる。頭の後ろを乱暴に掻く、その何気ない仕草を見るたびに、心拍が一つずつ加速していく。
「とあるミッションをクリアすればそいつを自由にさせてあげることが出来る」
「ミッション……?」
男の瞳としずくの瞳が、深く重なった。
会話の中に特別な言葉など何一つない。
それなのに、胸の奥で、何かが壊れるような強い音が響いた。
ハッと息を呑み、しずくは堪らず目を逸らした。
さっきまで落ち着いていた呼吸が浅くなり、鼓動が耳の奥で激しく打ち鳴らされる。指先が熱い。落ち着こうとすればするほど、心臓は早鐘を打つ。
(あれ?)
この感覚を知っている。合格発表の瞬間のような、立っていられないほどの高揚と緊張。
「気になる? どんなミッションか……ん?」
男はしずくの異変を察知し、心配そうに顔を覗き込んできた。
「しずく? どうした?」
しずくは弾かれたように立ち上がり、半ばパニック状態で荷物を鞄に詰め込んだ。
「私はっ、あなたのことを、何も知りませんっ! 言っている意味も何もわかりません!」
逃げるように立ち去ろうとしたその時、男の手がしずくの手首掴み、引き止めた。
「おい、まだ話終わってないぞ」
「もうバイトがあるので、行かなくては……!」
焦るしずく。だが、ふっと男の手の力が緩んだ。
見ると、男は驚いた顔でしずくを見上げていた。まるで何かを読んでいるようにしずくの顔面を彼の眼球が往復し、動いている。やがて彼の顔がみるみると赤く染まり、喉の奥から困惑したような呻きが漏れる。
「は? え? 俺、まだ何も……」
「はぇ、な、なんですか?」
男は一転して困ったような顔を見せると、最後には太陽のような笑顔を向けた。
「やっぱ『恋』ってよくわかんねーわ」
全く意味が分からない。けれど、胸の高鳴りは一向に収まらない。大きな手から伝わってくる確かな熱に、しずくは言いようのない懐かしさを感じていた。
「膝下五センチやめたの?」
唐突な質問に、しずくは思わず自分の足元に目をやった。
その日の彼女は、膝丈のシャツワンピースを着ていた。
「膝下五センチ」。それは母校、誉川高校の厳格な制服の校則。卒業した今の彼女が、その"ルール"に縛られる理由などどこにもない。
「しずく」
「はい」
「知ってる? 天使と人間の恋はタブー」
何かの物語の話だろうか。
しずくが返答に窮して目を泳がせると、男は立ち上がり、至近距離まで顔を寄せた。
「ちょっと"ルール"破ってみよっか」
耳元に降ってきた、甘く、低い囁き。
急激に縮まった距離に、全身から汗が噴き出しそうになる。しずくは反射的に彼の逞しい胸を押し返した。
「ふざけないでくださいっ!!」
かつての「風紀委員長」を彷彿とさせるキビキビとした声が、広いオープンスペースに響き渡った。
たった一人で大きな声をだす女性を見て利用者は怪訝そうに振り返る。
その懐かしい響きに、男――バックスは、最高に満足げな、悪魔のような天使の微笑みを浮かべるのだった。
(完)