幸せな夢を見ていた。
どこまでも深い、静かな森の中にいる夢だ。
木漏れ日の中で、小動物たちがしずくを囲んで合唱している。
ただ、なぜだろう。その動物たちの顔立ちは、やけに彫りが深く、劇画調の陰影を帯びていた。
らんらら、らんらん、らんらら、らん。
しずくはやって(やって)しまったー。
家にてんしを連れてきたー。
らんらら、らんらん、らんらら、らん。
生たまごを飲み(飲み)込むー。
てーーんーーしーー。あーーーあーーー。
「ふざけないでください!!」
ブランケットを跳ね上げ、しずくは飛び起きた。
慌てて視線を巡らせる。そこにあるのは、見慣れた我が家のリビングだ。
額を伝う汗を拭い、すべては夢だったのだと安堵してソファから降りようとした時、頭上から場違いに涼やかな声が降ってきた。
「大丈夫か?」
弾かれたように振り返ると、ソファの背もたれに先ほどの男が凭れ掛かり、悠然としずくを見下ろしていた。
「いやああああああ!!」
しずくは悲鳴とともにソファから転げ落ち、尻餅をついた。それでも染み付いた習慣からか、必死に制服のスカートの裾を抑え、乱れた体勢を立て直す。
夢では、なかった。
肩で荒い息を吐きながら、震える指先で眼鏡のピントを合わせる。
改めて視界に入ってきたその男は、あろうことか上半身が剥き出しだった。たくましく隆起した大胸筋と、無駄な脂肪の一切ない腹筋。洗練された彫刻のような肉体を、彼は隠そうともせずしずくの眼前にさらけ出している。
当然、男性の裸体など未知の領域であるしずくの思考は、瞬時に沸点を超えた。
「あわっはわっ、はっ、ど、どうしてハダカなんですかぁ!?」
「え、服キツかったから。下も脱ぎたいところだけど、女の子の前だし、刺激強すぎだよねー」
「えぇ!? は、はああ!? ふ、ふざけないでくださいっ!!」
すでに限界突破の刺激に晒されているしずくは、顔面を朱に染めた。急上昇した体温のせいで、眼鏡のレンズが白く曇り始める。対して男は、嵐のあとの快晴のような、どこまでもあっけらかんとした態度を崩さない。
「改めまして、俺はバックス。冷蔵庫の中のたまご
を全ていただきました。ごちそうさまでした」
満足げに細められた瞳。整いすぎた顔立ちの中で、大きな口が描く笑みは、無邪気でありながらどこか男っぽい魅力を孕んでいた。
しずくは一瞬、見惚れそうになる。だが、即座に雑念を振り払い、エプロンを引っぺがして呼吸を整えた。とにかく、状況の整理が先決だ。
「あ、あの、ちょっと確認したいんですけど、てんしって、あの、天使?」
「あー、説明させてもらうな」
促されるまま、しずくはおずおずとソファに座り直した。バックスは彼女の隣に腰を下ろし、世間話でもするかのように「天上の事情」を語り始めた。
天上には、本当に神さまがいる。しかも一人ではなく、多種多様な神々が共存している
それぞれが司る領域を持ち、天使たちは自らが師事する神の元で、日々修行に励んでいるのだという。
バックスもまた、真面目な天使の一人だった。しかし、成績が悪く、真剣な取り組みが見られないと激怒した神が「やる気がないなら死ね」と、バックスを地上へと追放したのだという。
「死ねって……神さまってひどいんですね」
「やる気はあったんだけどなー。『可愛い子ほどライオンに食わせる』だっけ? アレだと思う」
一応伝わったが、『可愛い子には旅をさせよ』と『獅子の子落とし』が混ざっている。しかし、しずくは訂正するほど気持ちに余裕が無かった。
「地上の空気は天使には毒。もう少しであそこで死ぬとこだった! いやー、本能ってすげーなー。たまご食えばいいなんてなー」
嬉しそうに笑うと、彼はしずくの手を取り、あろうことか自分の胸板へと導いた。
「ほら、ガキじゃなくて男の身体だろ? 天使の力が戻ったんだ」
掌に伝わる、硬く、熱い、男性特有の質感。
しずくの全身の毛穴から、一気に汗が噴き出した。指先から熱が逆流し、触れている部分の感覚だけが異常なほど研ぎ澄まされる。心臓が肋骨を突き破らんばかりに跳ね、呼吸の仕方を忘れてしまった。
目を白黒させて固まるしずくを見て、バックスは堪えきれないといった風に小さく吹き出した。
彼はわざと距離を詰める。
「な? 男の身体だろ?」
耳を掠める低音の響きは、脳内に爆弾を放り込まれたような衝撃だった。
しずくは弾かれたように自分の手を引き剥がした。喉はカラカラに乾き、手足の震えが止まらない。
生まれて初めて体験する、動揺。
バックスから逃げるように間を置く彼女を、彼はもう我慢できないとばかりに笑い飛ばした。
「ごめん、ごめん。ちょっとからかい過ぎた」
「や、や、あめっやて、ふ、ふざっ、ふざけっ」
「やめてください。ふざけないでください」と言おうとしたはずが、空気が抜けるような音にしかならない。
(絶対真面目な天使じゃない! ほぼ悪魔だ!)
しずくは心の中で激しく毒づいた。
その時、庭先からガサリと物音が聞こえた。
二人の視線が窓へ向く。しずくは今の気まずい空気を払拭すべく、救いを得たような思いで立ち上がった。
「あ、あっれー。い、今何か庭から物音が聞こえませんでしたかー。なんだろー」
カーテンを勢いよく開け、掃き出し窓を開放する。
そこには、幽霊でも見たかのような青白い顔の和真が立ち尽くしていた。
「和真くん?」
後ずさりする和真は、泳ぐ視線をどこにも定められずにいる。
「しずちゃんママが、お祖母さんのとこに行ったって、母さんに聞いて、来たんだけど。心配だから、来たんだけど、母さんに聞いて。えーっと、彼氏さん、かな?」
「あ、わっ! 違います、かずまく」
「カーテンの隙間から見えちゃって……邪魔しちゃってごめんっ。これ、母さんからの差し入れ!」
和真は足元に紙袋を置くと、脱兎のごとく庭から走り去っていった。無理もない。あの真面目なしずくが、見知らぬ半裸の男を部屋に連れ込んでいる現場を目撃してしまったのだから。
しずくは糸が切れた人形のようにその場へ座り込んだ。
「あれ、今の男の声、彼氏?」
しばらくは呆然と虚空を見つめていたが、バックスの追い打ちに怒りが再燃した。
「彼氏ではありません! それに、今の絶対に誤解されました!」
「彼氏じゃないならいいじゃん」
「ふざけないでくださいっ!! 天使の力とやらが元に戻ったなら、早く天上ってところに帰ってください!」
羞恥で真っ赤になった顔のまま、しずくは勢いよく人差し指で天井を指し示した。
バックスはその怒声をどこか不思議そうに眺めていたが、やがて「ふう」と重い息を吐いて立ち上がる。
「……あー、やっぱまだ無理みたい」
背を向けたバックスの肩甲骨のあたりに、深い傷跡が二つ残っている。本来羽根が生えている箇所らしい。
身体は成人の姿を取り戻しても、本質的な力までは完治していない。そうバックスは語った。
しずくはその傷跡をまじまじと見つめ、無意識に呟いた。
「どうしたら、羽根が生えるんですか?」
「もしかして……協力してくれるの?」
不用意な問いかけだった。興味を持つことは、他人の領域に足を踏み入れることに他ならない。
しずくがしまったと後悔に目を見開く中、バックスの口元には、何かを企むような不敵な笑みが浮かび始めていた。