もういい。天使だの羽根だのそんな非現実的なファンタジーな話は耳にしたくない。
そう思っていたのだが、心の奥の数パーセント、その不思議な世界観に興味を持ち始めているのも事実だった。
聞きたくないけど、聞きたい。
そんな彼女の苦悩を、バックスはどこか楽しげに、細めた瞳で眺めている。
「俺な、こう見えて『恋』の天使なんだ」
「『恋』?」
バックスによれば、彼が師事していた神が司るのは『恋』。人間に恋を芽生えさせることこそが、彼に課せられた天使の使命。
そもそも、バックスが地上に落とされたのは、人間に『恋』をさせる実務試験の結果があまりにも酷すぎたからだとバックスは言う。
「多分、俺のことは今も神さまが監視してんじゃないかな。『恋』の天使としての頑張りを認めてくれたら、能力を戻してくれて、羽根も生える。そして、俺は天上に帰れる」
しずくは思わず唸った。
しずくにとって、『恋』とは未踏の領域である。
遅刻しそうな朝、トーストを咥えて角を曲がり、運命の相手と衝突して火花が散る――。
そんな、使い古されすぎて金箔のように薄っぺらくなった少女漫画的シチュエーションしか、『恋』のイメージが浮かばなかった。
しずくは困惑を隠さず、真っ直ぐに問いを投げかける。
「抽象的すぎてわかりかねます。具体的に何をすればそれは『恋』だと言えるのでしょうか。あの、お付き合いするとかそういうことを誓い合えばいいってことなのですか?」
「だよな」
意外にも、バックスはあっさりと同意した。
「簡単なようで簡単じゃないんだよ。その『恋』っていうのは人によって基準や大きさ、始まりがバラバラなんだ」
バックスは腕を組み、難解な数式を解く学者のように深く頷く。
「『恋』の天使は人間の恋心を読むことが出来る。でも、複雑に暗号化されてて、読み間違えなんてしょっちゅうだ。そもそも今の俺は天使としての力を失ってるから何もわからない」
バックスの瞳がジッとしずくを見据えた。少し緊張してしずくは姿勢を正す。彼は恐らくしずくの恋心を読もうとしたのだろう。しかし、やはり何も見えなかったようで、軽く首を横に振る。
「愛はわかりやすいよな。行動で示すから一目で分かる。だけど、『恋』ってすぐ隠すだろ?」
不意に、バックスの声のトーンが落ちた。彼は、射抜くような真剣な眼差しをしずくに向ける。
「自覚が無かったりするし。実は恋じゃなくてただの性欲だったり、嘘だったりもする。そうなったらもうお手上げだ。それに……」
しずくは、会話の温度がじわじわと艶めかしいものに変容していることに気づき、居心地が悪くなった。
家族の団らんの場であるはずのリビングで、初対面の半裸の男と、一体自分は何を話しているのか。
しずくが羞恥のあまり俯き、沈黙に逃げ込んでも、バックスの追及は止まらない。
「だから、例えば……」
バックスがしずくの方へ身体を寄せた。
大きな掌が、彼女の火照った頬を包み込む。逃げ場を奪うように、ゆっくりと、自分の顔へと向けさせた。
「俺とこうしてキスするだろ?」
男性の顔が、睫毛の数まで数えられる距離にある。
しずくの血流は一気に加速し、顔面はもはや発火せんばかりの熱を帯びた。酸素の足りない水槽の魚のように、口をぱくぱくと動かすのが精一杯で、今にも呼吸困難で卒倒しそうだった。
「え……しずく?」
そのあまりにも間抜けな表情に、バックスは、またも耐えきれずに吹き出した。
「ごめん」
「ふ、ふふ、ざ、ふざけないで、く、だだだださい」
「ピュア過ぎ。ピュア族しずく」
肩を震わせて笑うバックスの傍らで、しずくの声はすっかり涙混じりになっていた。その様子にさすがに罪悪感を覚えたのか、バックスは慌てて彼女の頭をぽんぽんと優しく叩き、宥めるように笑いかけた。
「『恋』をさせることの難しさを教えたかったってわけ。ごめん、ごめん」
「ど、どこまでが本当の話なんですか! 協力するので早く天上へ帰る方法を教えてください」
「だから、本当に人間に恋をさせれば、神さまが迎えに来てくれると思うけど……」
バックスはガリガリと後頭部を掻き毟る。
「んなこと言ったって、今の俺は天使の力失ってるしなー。何も出来ない。たまごを食べたら少しだけ力が戻るみたいだけど」
「じゃ、今からいっぱいたまごを買ってきます!!」
「今日はもう腹いっぱいだよ。毎日少しずつ食べていけばその内……」
しずくは弾かれたように立ち上がると、学生鞄から使い込まれた財布をひったくり、紙幣と硬貨をバックスの手元へ突き出した。
「これでたまごを買ってください。遠慮しないで受け取ってください」
千円札二枚と、じゃらじゃらと鳴る小銭。卵を買うには十分だ。バックスはしばしその金を見つめていたが、やがて残念そうに肩を落とし、しずくにそれを押し返した。
「俺、これの使い方知らねえし」
「安心してください。教えます。まず、これが百円玉で……」
「しずくが買って毎日俺に食わせてくれよ」
予感していた中で、最悪の選択肢が提示された。しずくの顔から血の気が引いていく。
「ふざけないでください! そんなの無理です、無理!」
しずくは千切れるほどに首を振り、でたらめに両手を振り回して拒絶を全身で表現した。その滑稽なまでの抵抗を無言で眺めていたバックスだったが、やがて、見るからに寂しげな表情でうつむいた。
「やっぱ迷惑だよな」
「当たり前じゃないですか!」
吐き捨てた、その直後だった。
バックスの身体がみるみるうちに収縮していく。ほんの数秒で、彼はしずくと同じ高校生程度の姿へと戻ってしまった。
あまりの変貌ぶりに、しずくは言葉を失う。
「あ? なんでだ? また縮んだ」
バックスは力なくスウェットの上を着て、絶望を背負ったような足取りで、玄関へととぼとぼと歩き出した。
「どこに行くんですか!?」
「知らねー。どっかで野垂れ死にだ」
しずくの思考は完全に飽和状態に達した。
今、目の前で、天使が生を終わらせるために、足を踏み出そうとしている。天使なのに。
(野垂れ死に? 誰に見届けられることもなく? 誰のせいで?)
空き家の荒庭で、冷たくなったバックスが横たわっている情景が脳裏を過った。
しずくは居ても立ってもいられず駆け寄り、少しだけ背の高い彼の肩を強く掴んだ。
「天使さん。あの、あの、死んだらダメ……です」
しずくの言葉を最後まで聞き届けると、バックスはゆっくりと、勝利を確信したような仕草で振り返った。
「いいの?」
「え?」
「今、止めたよな」
「え、え?」
にやりと歪められた口元。
「バックスって呼んでよ、しずく」
そこにあるのは、天使の不敵な笑みだった。
しずくの顔は、あまりの戦慄に引きつった。