翌日。
「寝て起きたらすべて夢であれ」
そう切に願いながら開けた瞳に映ったのは、非情にも、母の寝室からあくびを漏らしつつ這い出してきた小さな少年だった。喉元に隆起していた男の証も、跡形もなく消えている。
「おはよ」
そう言って眠気眼でしずくを見る。その声は、紛れもなく小学生程度の男の子のものだ。
縮んでしまったバックスは、その幼い外見ゆえか、不思議と「見知らぬ男を家に置く」という抵抗感を薄れさせていた。
たしかに、憧れたことはあった。
しずくは一人っ子だ。隣家の和真がお兄ちゃん代わりではあったが、「可愛い弟や妹がいたら、どれほど賑やかで楽しいだろう」と、幼い日に何度も空想したものだ。
少し寝癖のついた髪を揺らし、ぼんやりとソファに腰を下ろして庭を眺めるバックス。
その姿を、朝食の食パンを齧りながら横目で追う。まるで本当に、守るべき弟ができたかのような錯覚。
だが、しずくはハッとして激しく首を振った。
(中身は成人。中身は成人……!)
自己暗示のように心の中で繰り返す。眼鏡のピントを合わせ直し、バックスを鋭く睨みつけ、昨日の「成人バックス」を脳裏に召喚する。
あの、上半身裸の、筋骨隆々としたドアップの彼――。
羞恥と後悔に身悶えしていると、バックスがくるりと身体を反転させ、しずくの目を見据えた。
「しずく、俺、腹減ったんだけど」
少し甘えたような高い声。黒目がちな横長の瞳。子供特有の柔らかな曲線を描く頬。ダボダボの黒スウェットに埋もれたその姿は、紛れもなく「保護を必要とする小学生」そのものだった。
グラグラと揺さぶられる母性を必死に押し殺し、しずくは枯れた声を絞り出した。
「昨日家にあったたまごは全て食べてしまったからありません! コンビニで買いましょう」
スッキリとしない、朝の空。しずくの心境を写し取ったかのような、カラスの不吉な鳴き声が響く鈍色の曇り空だ。しずくは通学のため、バックスは卵のために、連れ立って駅へと向かっていた。
早歩きで先を急いでいると、前方に見慣れたなで肩のシルエットを見つけた。和真だ。心なしか、その後ろ姿には元気がなかった。
しずくは思わず足を止める。昨日の壮絶な誤解を解かなければならない。だが、一体どう説明すればいいのか。
頭を抱えて呻くしずくの隣で、バックスは相変わらず呑気な顔をしている。
「あ、しずくの彼氏だっけ?」
「ふざけないでください! 彼氏ではありません!」
思わず張り上げた声は、当然のように和真の耳へと届いた。彼はビクリと肩を震わせ、恐る恐る振り返る。
「しずちゃん……」
「あ……おはようございます」
気まずさに耐えかねて目を逸らし、しずくは必要以上に激しく眼鏡を押し上げた。
「和真くん、昨日ですがっ」
「あれ、その子は?」
和真の視線は、しずくの言葉を遮るようにバックスへと釘付けになっていた。
しずくの動揺は頂点に達し、両の瞳はもはや背泳ぎとバタフライを同時に繰り返しているような混濁ぶりだ。
そんな彼女を尻目に、バックスは実にあざとく、愛想を振りまいて和真に頭を下げた。
「おはようございます。俺、しずくの従兄弟のバックスっていいます」
「おはよう。上手に挨拶できていい子だね~」
和真はいつもの垂れ目を細めてバックスの頭を撫でたが、すぐさましずくへ困惑の眼差しを向けた。
「従兄弟? ば、ばっくすくん? 初めて見る子だけど」
「ちょっと、事情が複雑なんです。な、しずく」
「じじょうがふくざつ……」
幼い子供の口から「事情が複雑」などという重苦しい言葉を聞かされ、和真の表情もまた複雑に歪んだ。しずくは嘘がつけない性質だ。肯定も否定もできぬまま、顔色を土気色に変えて和真から首を背けた。
「昨日からしずくの家でお世話になっているんです」
「昨日から? ……しずちゃん、じゃあ昨日家に居た男は?」
「アレは俺のアニキです。昨日あいさつだけして帰りました」
しずくへの追及には、にんまりと笑ったバックスがすべて代弁した。
和真はかなり気まずそうに無理やり笑顔を作って言った。
「しずちゃん、詳細はあまり聞かないでおくよ。ほら、学校遅刻しちゃうよ」
「遅刻」という自身の辞書において禁忌とされる単語に、細胞レベルで反応した。
「遅刻はいけません!」
「あ、おい、え、走るの!?」
全速力で駆け出したしずくを、バックスが慌てて追う。
走り去るしずくの背中を見送りながら、和真は溜息をついた。
和真はしずくの挙動不審に気づいてはいたが、バックスの言う「複雑な事情」から、何か知られたくない家庭の事情があるのではと推測を巡らせ始めた。
(純粋で真面目なしずちゃんが、親のいない家に男を連れ込んだなんて、やっぱり何かの間違いだったんだ。従兄弟なら納得だ。……バックスなんて変わった名前だし。兄弟の人も、もしかしたら服を着る習慣のない、遠い異国のルーツを持つ親戚なのかもしれない……)
どうやら誤解は「より深い謎」へと昇華されたようだ。しかし、和真の溜息は、どこか安堵を含んでいた。
一方しずくは「遅刻は万死に値する」。
その強迫観念のせいで、道中のコンビニに寄ることすら忘れ、学校へと直行した。必然的に、バックスも同伴である。
学専バスは避け、一般の路線バスを乗り継ぎ、校門から離れた停留所で降りる。人目を避けるため、正規のルートを大きく外れて林を抜け、裏手の森へと潜り込んだ。
しずくは勢いよく腕を振りかぶり、木々の隙間に見える校舎を指差した。
「校舎の時計が十二時二十分になったら昼休み。そのときに一度ここに来ます。その時間までここにいてください。変な人に付いて行ったらダメですからね」
「……はらへった」
ぐぅ、と鳴り響いたバックスの腹の虫に、しずくは慌てて小指を差し出した。
「お、お昼までに必ずたまごを買ってきます! 約束!」
「やくそく?」
しずくはバックスの小さな手を強引に掴み上げると、自分の小指と絡ませた。指切りげんまんだ。
しずくは力強く頷くと、嵐のように校門の方へと走り去っていった。
残されたバックスは、力なくその場にしゃがみ込むと、自分の小指を、さも不可解なものを見るようにじっと凝視した。
「なんだ、今の。……おれぁ、ガキじゃねーんだぞ」
きゅるるぅ、と腹の虫が切なげに応答する。
彼は森の静寂の中で、一人と一匹、飢えに耐える孤独な闘いを開始した。
チャイムの余韻と同時に、しずくは自席へと滑り込んだ。
誰よりも早く登校し、校門前で目を光らせているはずの「風紀の番人」が、始業直前に現れた。その異常事態に、周囲のクラスメイトたちが興味津々で声をかけてくる。
「めっずらしいねー。渡辺さん、寝坊?」
「校門前服装チェックしてないから、みんな不思議がってたぞ」
だが、彼女の使命感は今、校則を守ることではなく、森に置き去りにした「天使」の空腹を満たすことに向いていた。