ひざ下5センチメートル   作:浮月 愁

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【6】腹ペコ

校舎から響くチャイムの音を、何度か聞いた。

次第に高くなる太陽を仰ぎ、校舎の外壁に据えられた大時計を盗み見る。十時二十分。

朝から何も口にしていないバックスの胃袋は、すでに限界を通り越していた。立っていることすら億劫になり、彼は湿った土の上に力なく横たわった。

 

「あー」

 

正午にしずくが卵を持って現れるという約束。

 

(……本当に、あいつは来るんだろうか)

 

空腹で霞む思考の中でぼんやりと考えていると、至近距離で「パサッ」と何かが落ちる音がした。重い瞼をゆっくりと持ち上げ、焦点の定まらない瞳でその正体を確認する。

卵だ。

指先ほどの、小さな、鳥の卵。

その瞬間、バックスの背筋を電流のような興奮が駆け抜けた。本能のままにそれを手に取り、宝物でも扱うかのようにそっと殻を割る。上を向き、中身を喉の奥へと滑り込ませた。

五臓六腑に染み渡るような、ゾクゾクする恍惚。彼は溜息とともに呟いた。

 

「うんまぁあ~~~」

 

あまりにも小さな卵だったため、身体が成人へと戻るほどの劇的な変化はない。しかし、枯渇しかけていた気力は確実に回復した。

なぜ、空から卵が?

不思議に思って見上げれば、枝の隙間に鳥の巣が見えた。どうやら他の鳥が巣を荒らしているらしく、その争いの最中に、運命の一粒が零れ落ちてきたようだった。

 

(落ちたのか、落とされたのか……)

 

バックスは一抹の罪悪感を覚えながらも、自らの血肉となってくれた鳥の尊い命に、静かに合掌した。

 

バックスは猫のように伸びをして立ち上がると、視界を広げた。

遠くのグラウンドでは、土煙を上げて男子生徒たちがボールを蹴り合っている。体育の授業なのだろうが、バックスの目には、それが何らかの高度な軍事訓練か儀式のように映っていた。

 

十二時までは、まだ時間がある。

彼は暇つぶしを兼ねて、鬱蒼とした林の探索を始めることにした。

フェンスに沿って歩を進めると、やがて境界は無機質なコンクリートの壁に変わった。さらに進むと、立派な校門の入り口に行き当たる。

 

私立誉川高校。

門を潜れば、中央に鎮座する巨大な花時計が来客を迎える。

右手に目を向ければ、陽光を反射するプールや温室、彩り豊かな花壇に合宿施設。

左手には、整然と並ぶ車両の間に飼育小屋が確認できた。

 

遠くに警備員らしき男の姿が見えたが、彼は手元のスマホに夢中で、侵入者である小さな少年の存在には微塵も気づいていない。

バックスは堂々と校門を突破し、校舎の一階教室が見える右側の庭へと足を進めた。

 

(ここなら、しずくの姿が見えるかもしれない)

 

きゅるるるぅ。

せっかくの気力も、歩行ですぐに使い果たした。

皮肉にも、しずくを探す旅は温室の傍らで一旦幕を閉じた。バックスはそこへ力なく突っ伏した。

 

 

「えっ!? 無いんですか!?」

 

休み時間のチャイムが鳴るや否や、しずくは購買部へと猛ダッシュを仕掛けた。

誉川高校の周辺は、小さな喫茶店がポツリとある程度の僻地だ。その分、学内の購買部はコンビニ顔負けの充実度を誇っている。

 

(ここなら……生卵の一つや二つ、置いてあるはず!)

 

淡い期待に全財産(お小遣い)を賭けたしずくだったが、現実は無情だった。

 

「生たまごはさすがにないね。たまごのサンドイッチはあるよ?」

 

目の前に差し出されたのは、マヨネーズで和えられた卵サラダ入りのサンドイッチ。

しずくはガックリと項垂れた。あの「生」への執着を見せるバックスが、加工品で満足するとは到底思えない。

購買のおばちゃんに力なく首を振ると、彼女は重い足取りで教室へと引き返した。

 

その途上、クラスメイトの飯塚優子と鉢合わせた。

スレンダーな長身に、潔いショートカット。誰に対しても分け隔てなく接する優子は、孤高を保ちがちなしずくにとっても、数少ない気心の知れた友人だ。

 

「おー、しずく、どこ行ってたの?」

「ちょっと、購買部に」

「あんた、顔色悪いよ? ああ、生理? あたし持ってるけど」

「いえ、違います」

 

しずくのあまりの消沈ぶりに、優子が心配そうに顔を覗き込んできた。教室に戻り、しずくが自席に座り込んでも、優子は興味津々で背後から付いてくる。

 

「購買部で何買ってきたの?」

「無かったんです」

「何が」

「なま……」

 

危うく真実を漏らしそうになり、しずくは慌てて口を噤んだ。

 

「生卵を買いに行った」などと口にすれば、理由を問われる。天使のことは誰にも言えない。

 

優子は不審げに眉を寄せたが、しずくは必死に首を横に振った。

 

「なま……名前シール?」

「違います」

「鉛?」

「いいえ」

「なまこ?」

「なんでですか!?」

 

優子は「うーん」と唸って首を捻っていたが、不意に、何かを閃いたようにぱちんと指を鳴らした。

 

「わかった。生たまご!!」

 

冗談のつもりだったのだろう。しずくのリアクションを楽しもうとニヤつく優子。

しかし、しずくという人間は、驚くほど感情が顔に出る。「なぜわかったのか」という驚愕が、大きく開かれた口にそのまま表現されてしまった。

 

「え……生たまご?」

「ち、違います!」

「ナマケモノと生たまごならどっちが正解?」

「生たまごです」

 

ついに隠しきれず認めてしまったしずくの回答に、優子は吹き出し、膝を叩いて爆笑した。

こういう隠し事が絶望的に下手で実直なしずくの性質が、優子はたまらなく好きなのだ。

 

「購買部に生たまごあるわけないじゃん!」

「とにかく必要なんです!」

 

優子の高らかな笑い声に、周囲の生徒たちの視線が集まる。しずくは血相を変えて人差し指を口の前に立てた。

優子は笑いすぎた涙を指先で拭い、呆れたように、しかし確信を持って告げた。

 

「たまご、あそこにあんじゃん」

「え?」

 

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