ひざ下5センチメートル   作:浮月 愁

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【7】温室

時計の長針が十二時二十分を指した。

バックスは温室のビニール壁にもたれかかり、遠くで鳴り響いたチャイムの音で重い瞼を持ち上げた。

開け放たれた校舎の窓からは、一斉に動き出した椅子や机の摩擦音、そして堰を切ったような生徒たちの賑やかな声が溢れ出してくる。

約束の、昼休み。しずくが来る時間だ。

だが、今のバックスに森の中まで戻る体力は残っていなかった。ひどく重たい溜息とともに、ぼんやりと高く遠い空を仰ぐ。身体の全細胞が、あの濃厚な卵の滋味を渇望していた。

 

「え!? 君、大丈夫!?」

 

不意に、少し掠れたハスキーな声が鼓膜を叩いた。視線を向ければ、そこには一人の女子生徒がしゃがみ込み、こちらを覗き込んでいる。ボーイッシュな短髪。しずくではない。

 

「具合悪いの? どこの小学校の子? 可愛い顔してんね。肌やべー」

 

感嘆の声を漏らしながら、彼女はバックスの頬を指先でなぞった。バックスは抗う気力もなく、されるがままに指先の感触を受け入れていたが、ふと彼女の制服に目を留めた。しずくと同じものだ。ならば――。

 

「渡辺しずく知ってる?」

 

その名を口にした瞬間、彼女は意外そうに目を丸くして頷いた。どうやら顔見知りらしい。バックスは自らしずくの親戚であることを名乗り、「温室の側にいる」と伝えてほしいと彼女に依頼した。女子生徒は何事かを察したように快諾し、颯爽と立ち上がった。

しずくがここに来るという安堵とともに意識の糸が緩み、バックスは再び深い闇の中へと落ちていった。

それから、数分後。

 

「君、君〜、しずく連れてきたよ! 大丈夫?」

 

先ほどの女子生徒の声で、バックスはゆっくりと目を開いた。

そこにいたのは、目を疑うような惨状のしずくだった。

二つに結わえていたはずの黒髪は無惨に乱れ、清潔だった制服は土と埃にまみれている。黒縁眼鏡も薄汚れて曇り、脚には無数の擦り傷が刻まれていた。

 

「大丈夫ですかっ!?」

 

悲鳴のような声を上げ、しずくはバックスの足元に滑り込むようにしゃがみ込んだ。外見の被害状況だけで言えば、どう見てもしずくの方が「大丈夫」ではなかった。

 

「しずくこそ、どうした……」

「はい! たまごです!」

 

差し出された、ひっかき傷だらけの手のひら。そこには、四つの茶色い卵が鎮座していた。

傍らで見ていた女子生徒が、堪えきれずに吹き出した。彼女の話によれば、しずくは飼育小屋のチャボたちの猛攻を受けながら、決死の覚悟でこの卵を強奪したのだという。風紀委員長がなぜそこまでして卵に固執するのか。

校内では、彼女の奇行に野次馬まで集まっていたらしい。

 

「なるほどねー、小学校の授業で使うとか?」

「どうぞ。すみません、約束、ちょっと遅れてしまいました」

 

これほどまでに、一途に。

バックスは、彼女が自分一人のために、これほどの無茶をするとは思ってもみなかった。

 

「ケガまでして……」

 

労わるようにその傷ついた手に触れると、しずくは熱いものに触れたように、反射的に手を引いた。

 

「気にしないでください。これくらい大丈夫です!」

 

責任感という名の鎧を纏い、凛とした表情を作ってみせるしずく。だが、バックスの瞳には微かな軽蔑に近い色が混じり、声は低く、静かに落とされた。

 

「大丈夫なわけないだろ。女だぞ」

 

バックスは力なく立ち上がると、しずくの制服に付いた土埃を、払い落としてやった。子供に扱われるがままのしずくという奇妙な構図に、女子生徒は苦笑を漏らす。

 

「ちょ、それ誰の真似? 子供のくせに大人みたい」

 

事実、その魂は成人した男のものだ。バックスは少しだけ背伸びをして、しずくの眼鏡をそっと外した。そして、スウェットの袖で丁寧にレンズを拭う。

 

「ばい菌が入るから、傷口、洗わなくちゃいけないな。痛くないか?」

「あ、そっちに水道あるからそっちで洗おっか。あたし絆創膏持ってくるよ。洗って待ってて」

 

女子生徒は気が利くようで、そのまま校舎へと駆けていった。

温室の前で二人きり。しずくは「今だ」とばかりに、手の中の至宝を差し出した。

 

「お腹空いてますよね? これ、約束……」

 

バックスは一瞬だけ卵に視線を落としたが、すぐに彼女の瞳を捉え直し、綺麗になった眼鏡をそっとかけさせた。

 

「今はそんなことより、しずくのほうが大事だから」

 

傷など大したことはないのだ。転んで汚れただけだ。そう言おうとしたしずくだったが、言葉は喉の奥で消えた。

まるで「弟に本気で心配される姉」のような、くすぐったい感覚。

しずくがふっと表情を緩め、温かな心地に浸ろうとした、その時。バックスが糸の切れた人形のように膝から崩れ落ちた。

 

「っ!」

 

慌てて卵を脇に置き、彼を支えようとしたしずくの耳に、か細く、だが切実な「虫の声」が届く。空腹が限界値を突破したのだ。

 

昼休みの校庭、いつ誰の目に触れるか分からない。

しずくは必死の思いでバックスを抱え上げ、隣接する温室の中へと引きずり込んだ。

ビニールに囲まれた蒸し暑い空間。しずくは、仰向けになったバックスの頭を自らの膝の上に乗せた。そして、震える声で耳元に囁いた。

 

「は、はやく。口、開けてください」

 

バックスはうっすらと眼を開き、促されるままに口を大きく開ける。

しずくの指先が緊張に震える。その口の上で、卵を割った。

黄金の輝きが、透明な白身を纏ってバックスの口中へと滑り落ちる。

咀嚼の音もなく、ごくりと喉が鳴る。その刹那、バックスの表情は至福に歪み、白い頬に鮮やかな赤みが差した。

 

「うんまぁああああ~」

 

膨れ上がる、生命の躍動。

バックスの四肢はみるみるうちに長く、逞しく変貌を遂げ、あっという間に成人の姿へと戻った。

二度目の光景。だが、人知を超えたその変態(へんたい)は、やはりどこか薄気味悪さを孕んでいる。

恐怖に慄くしずくを見上げたのは、弟のあどけなさなど微塵も残っていない、恍惚に蕩けた男の顔だった。

 

「もう一個……」

 

しずくの手を取り、低く甘い声で囁く。

 

「いやぁぁぁあああ!」

「うわぁっ!」

 

子供を膝枕するのと、成人男性を膝枕するのとでは、意味が全く違う。

しずくは全力でバックスを突き飛ばし、弾かれたように立ち上がって後ずさりした。

 

「ふざけないでください!」

「え? え? なんで?」

 

真っ赤に茹で上がった顔で動揺し、叫ぶしずく。

バックスは突き飛ばされた痛みに呻きながら、本気でわけがわからないといった風に狼狽える。

彼にとって、自身の見た目は関係ないのだから。

 

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