バックスは重い腰を上げ、残りの卵も手際よく口の中へと流し込んでいく。
ひとつ、ふたつ。嚥下するたびに、彼は肺の空気をすべて吐き出すようにうっとりとした溜息を漏らす。その悦楽に浸る姿は、どこか性的にも見え、しずくは直視できず、薄目で彼を見守っていた。
空っぽになった殻を傍らに、バックスは弾かれたように飛び起きた。だが、急激な成長に衣服が追いつかない。パツパツに張り詰めたスウェットを鬱陶しそうに脱ぎ捨てると、彼は無防備な上半身のまま、天を突くように大きく背伸びをした。
その眩いばかりの裸体からしずくが慌てて目を逸らした、その刹那。
「しずく、行くぞ」
「ぎゃあ!?」
視界が不意に回転し、重力から解放される。まさかのお姫様抱っこだった。
宙に投げ出された脚、奪われた平衡感覚。しずくは落下の恐怖から、無意識にバックスの首にしがみついていた。
広く温かな胸板。自分を支える、岩のように硬い腕。そして、石鹸とは違う、生命力に満ちた男の匂い。
密着した場所から熱が伝播し、しずくの心臓は太鼓を叩くような激しい音を奏で始めた。
「ふ、ふざけないでください!! 降ろしてください!」
温室を一歩出れば、そこは白日の下だ。
風紀委員長の叫び声に反応して窓から顔を出す野次馬たちの好奇の視線が、針のように突き刺さる。しずくの恥じらいは沸点を突破し、顔面はもはや発火せんばかりに熱くなった。
「いい加減にしてください! 校則違反です!!」
もはや何がどう違反なのか、説明すらつかない。混乱ゲージは最大値を振り切り、回路は完全にショートしていた。
対するバックスは、腹も心も満たされた全能感からか、「ハハッ」と愉快そうに笑うばかりだ。
彼は、腕の中で暴れるしずくを宥めるように地面へと降ろし、レンガの縁に座らせた。
そこは、先ほど優子が指し示した園芸部の花壇だった。傍らには、水道と巻き取られたホースが鎮座している。
バックスは迷いのない手つきで蛇口を捻った。
「ほら、傷あるとこ出して」
あまりに強引。あまりに厚顔。
肩で荒い息を吐きながら、しずくは「親の仇」でも見るような目で彼を睨みつけた。
しかしバックスはそんな視線など柳に風と受け流し、しずくの前に膝をつく。彼女の左腕を無造作に取ると、ホースの水を汚れの上へと導いた。
「つめたっ」
反射的に引こうとした手を、強い力で固定する。流れる水とともに、泥の付いた彼女の肌を大きな掌で優しく撫で洗った。バックスはふと視線を上げ、射抜くような上目遣いで彼女を見つめる。
「気持ちいいだろ?」
鼓膜を震わせる低音は、暴力的なまでの色気を孕んで届いた。しずくはそんなふうに聞こえてしまう自分の耳と頭がおかしいのだと心のなかで自分を責める。水で冷やされているはずなのに、触れられた箇所から全身へと、焼けるような熱が広がっていく。しずくは唇を噛み締め、必死に動揺を殺した。
「ほら、次は脚」
言い放つと同時に、バックスの手がしずくの長いスカートの裾を、膝上まで容赦なく捲り上げた。
「何するんですか!!」
「濡れるだろ」
しずくの抗議を彼は当然の権利のように、再びその脚を露わにした。
「っ!」
抵抗しようとするしずくの手を鮮やかに捌き、彼は彼女の足首を自分の膝の上に固定した。そして、掬い取った水を、彼女の膝小僧へと滴らせる。
透明な雫が砂を押し流し、地面を黒く染めていく。
バックスは丁寧な手つきで靴下を濡らさぬよう、その下の汚れも水で清めた。
指先が、ほとんど無防備に晒された彼女の肌をかすめる。そのたびにしずくの身体は、微かな電流に打たれたようにピクリと跳ねた。
抗えない気恥ずかしさが全身を支配し、彼女はついに、物言わぬ石像のように固まってしまった。
急な沈黙を訝しんで、バックスが顔を上げる。
「なに?」
「な、なんでもありませんっ」
至近距離で見つめてくる、混じりけのない瞳。しずくは耐えきれず、首が折れんばかりの勢いで顔を背けた。
彼はそのまま、しずくの脚を品定めするように見つめた。
「なんか……脚隠してるからコンプレックスでもあるのかと思ってたけど、普通にキレイな脚してんじゃん。もっと出せば?」
あっけらかんと放たれた言葉に、しずくは怒声を上げそうになったが、間一髪で飲み込んだ。
(天上の人が、校則を知るはずもない。無知は、罪ではない……例外)
「膝下五センチは、ルールなんですっ」
「さっきの女はこんな長くなかったけど」
「あれは! ルールを破ってるんです」
バックスは、なおもしずくの脚を水で清めながら、どこまでも軽い調子で問いを重ねた。
「それ、本当にルールなのか?」
「え?」
「それ、守らなかったらどうなるんだ? ルール破っても誰か死ぬわけじゃないんだろ?」
その言葉は、しずくの耳にタコができるほど聞かされてきた、使い古された反論だった。
瞬間、しずくの顔から表情が消えた。冷え切った彼女の様子に、バックスは戸惑いを見せる。
「しずく?」
「えっと……父は、飲酒運転した……ルールを破った車との接触事故で亡くなりました」
バックスの動きが止まった。ホースから流れる水だけが、低い方へと無機質な川を作って去っていく。
配慮に欠けた自身の言葉を悔いるように、バックスは気まずそうに後頭部を掻いた。
「規律を守って生きていこうって。最初は自分にだけ科したルールだったので、他人に押し付けるつもりはなかったんですが」
しずくは自嘲気味に、わずかな笑みを零した。
「"歩く校則"。そう呼ばれ始めた頃、周りから推薦で、風紀委員に任命されました。任命されたからには、職は全うしなければいけないものだと思います」
「……そっか」
「でも、校則なんて破っても人は死なないのに、変ですよね」
梢を揺らす風の音。遠くで響く喧騒。
その静寂の合間に、しずくは不自然な「気配」を嗅ぎ取った。
視線を向ければ、そこには、先ほどまで無人だったはずの温室の中に蠢く影があった。
園芸部員ではない。そもそも、誉川高校の制服を着た生徒ですらない。
そこにいたのは、風景から浮き出したような、やたらとカラフルの人型だった。
困惑に歪んだしずくの顔を見て、バックスもその視線を追う。
「……嘘だろ」
バックスが、呻くように呟いた。
バックスが温室へと踏み込む。しずくも、何かに導かれるようにその背を追った。
温室の中央。そこに立つ者は、観客を前にした演者のように両手を広げ、鮮やかにウィンクを決めてみせた。
ピンクのフリルをあしらった、大胆な肩出しのトップス。
ミニスカートから伸びる、眩いばかりに磨かれた脚線美。
華奢なウエストを包むエプロン。
パステルオレンジに巻かれた髪。
長い睫毛を揺らし、桃色のチークと真紅の唇が描く、完璧な微笑み。
「見つかっちゃった~~ん」
その声は。
紛れもなく、男のそれだった。