静かな、あまりに静かな時間が流れた。
(出落ち!!)
しずくの脳内で、理性の叫びが絶叫となって木霊した。
対するバックスは、その破壊力抜群の姿を目の当たりにしても、驚くほど冷静だった。むしろ、心底呆れ果てたといった風に腰に手を当て、目の前の「それ」を一瞥する。
「お前一体どうやってここに来た」
「もっちろん! 神さまにお願いしたのよぉん」
「神さまに……?」
バックスの表情が一瞬、険しく曇る。その変化を敏感に察したのか、その者はしなやかな動作で一歩、また一歩と距離を詰めてきた。
「イイ身体はもっと出し惜しまなきゃ、ダ・メ」
バックスに向かって艶然と投げキスが放たれた。直後、サイズ違いで悲鳴を上げていたスウェットが、光に包まれて変貌する。
バックスの体躯に完璧にフィットした白シャツにベスト、鮮やかなブルーの蝶ネクタイ。下半身は仕立ての良い黒いパンツ。
その姿は、まるで披露宴の司会者か、あるいは一流ホテルの給仕のようだった。
バックスは自身の正装を一瞥すると、苛立ちを隠さず蝶ネクタイを毟り取り、奇怪な装いの者へと投げつけた。
「ありがとよっ!」
「いたぁい~」
大袈裟に身体をくねらせながらも、どこか嬉しそうに声を上げるその「どっちつかず」な存在。
しずくは、バックスに説明を求める切実な視線を送った。
「あー、こいつは俺の知り合いで」
「でしょうねえ」
引きつった笑顔で応じるしずくに、バックスは深い溜息で答えた。
「そう、その、俺の同期で、同じ神さまの元で修行していた天使だ。特別に仲が良かったわけじゃないんだけど、なぜかいつもこうして俺につきまとう……」
「バックスのストーカーよぉん」
自称ストーカーは、ニコリと完璧な営業スマイルを作ると、フリルのスカートを派手に揺らしてしずくに詰め寄った。
そうして、アイドルのようなキメ顔で改めて自己紹介した。
「あーしの名前はヘレネ。天使やってま~っす」
頬の横でピースサインを作り、足をぴょんと跳ね上げるその徹底した仕草に、しずくはリアクションの取り方を見失った。背後ではバックスが面白くなさそうに毒づく。
「なんで俺の時は気絶して、こいつの時は気絶しないんだよ。気絶しとけ」
「免疫がついたというか、身体に抗体が出来たというか」
「病原菌と一緒にするな」
観察すれば、ヘレネの背中には白い羽のようなものがピョコピョコと見え隠れしており、はっきりと輪郭を確認できないが、頭の上に天使の輪のような薄い薄い光の輪が見える。彼が人外の存在――天使であることを証明していた。
逞しい肩幅や骨張った四肢、無理に作ったカサカサの女声は紛れもなく男のものだが、顔の造形そのものは中性的で驚くほど美人なのだ。
値踏みするようなヘレネの視線を受け、しずくは意を決して右手を差し出した。
「私の名前は、渡辺しずく、です。高校生やってます」
ヘレネはその手を取る代わりに、大袈裟に肩をすくめてみせた。
「で、あーたはバックスの何なの?」
虚を突かれたしずくは、行き場を失った手を気まずそうに引っ込める。
バックスが二人の間に割って入り、簡潔にしずくを紹介した。
地上で出会った少女であり、力を取り戻すために世話になっているのだと。それを聞いた瞬間、ヘレネの顔に歓喜の色が走った。
「そぉ~なのぉ~! と言う事は、バックスはすぐに帰ってくるってことなのね~~」
「いや、それは……」
「あらん? ターゲットはこの……」
「ん゛っん、うん!!」
強烈な咳払いが、ヘレネの言葉を強引に掻き消した。バックスの鋭い眼差しが、黙れと訴えかけている。
ヘレネはしずくを上から下まで、失礼なほどジロジロと見定めた。
「すごく簡単そうだけど?」
「あの、彼は一体なんの話をしているんですか?」
「ヘレネ」
バックスの制止。ヘレネは眉を顰め、今度はバックスをじっくりと観察し始める。
「変ね? あーたの天使としての力は枯渇して、とっくに身体が消滅する時間は過ぎてる。どうしてまだ生きてるのかしらん?」
「……こっちの世界のたまごを食べると少し力が戻るんだ」
ヘレネは唇の前で両手を合わせ、劇的に驚いてみせた。どうやら天上の世界での常識ではなさそうだ。
「だから、ヘレネ。俺はたまごを食べて少しずつ力を取り戻そうと思う」
「たまごでぇ?」
ヘレネは口をぽかんと開けたまま、バックスとしずくを交互に見やった。
しばらく解せない様子で眉を寄せていたが、やがて何かを察したように、その表情は怪しげな笑みへと変わっていった。
「あーあーあーあー、な~~~るほどぉお? いいわ、いいわん」
納得したように何度も頷くと、手をパンと打ち鳴らす。
「すざくちゃん」
「しずくです」
「しずくちゃん。バックスのことよろしくねん」
にんまりと笑うヘレネは、バックスに向けて鮮やかにウィンクを飛ばした。
「誰か来たみたい。バックス、またねん」
その予言に従うように、遠くから微かな足音が響いてくる。二人が音のした方へ気を取られた、わずか一瞬の隙に、ヘレネの姿は影も形もなくなっていた。
「き、消えた?」
驚愕するしずくに対し、バックスは険しい表情で地面を睨んでいた。
そして、しずくの耳に、聞き慣れた優子の声が重なる。
「しずく~?」
しずくは弾かれたように、バックスの背中を温室の奥へと押しやった。
「隠れていてください!」
「え?」
バックスを置き去りにし、しずくは慌てて温室から顔を出した。
「優子さん! 本日は、お日柄もよく!!」
「ほら、絆創膏。生意気な小坊主は学校へ行ったの?」
優子から差し出された絆創膏を受け取りながら、しずくは背後の温室の死角を必死に確認する。眼鏡のピントを無理やり合わせ、不自然な笑顔を張り付けた。
「絆創膏、ありがとうございます」
「腕も脚も水で洗ったんだ。キレイになったじゃん。じゃ、もう戻ろー」
「えっ!」
バックスをここに残したままでは。せめて帰宅の指示を。
焦るしずくの腕を、優子が強引に引いた。
「『えっ』って。あんた、昼ごはんも食べてないし、早めに戻ってアレしな」
「え、え! ま、待って……」
抵抗も虚しく、しずくはそのまま校舎へと連行されてしまった。
喧騒が去り、再び静寂が訪れたことを確認して、バックスは温室の陰から姿を現した。
彼は、ゆっくりとその場に腰を下ろした。
柔らかな風が吹き抜け、色とりどりの花々と、バックスの無造作な黒髪を静かに揺らしていた。