仕事が忙しくハーメルンをしばらく開いておりませんでした。
不定期投稿になります。キリンのように首を長くしてお待ちを。
錆びついた鉄屑と、腐った機械油の臭いが充満するブラックマーケットの深部。
道幅が二メートルにも満たない、歪に折れ曲がった路地裏を、RABBIT小隊たちは無言で疾走していた。
サキの足が、地面に溜まったどす黒い泥水を激しく跳ね上げる。その背中には、激しい硝煙の臭いを纏った先生の肉体があった。先生の呼吸は浅く、不規則だ。サキの首筋に触れるその吐息は冷たく、皮膚を通じてダイレクトに伝わってくる。
先頭を走るミヤコが、短く左手を挙げて方向転換のサインを出した。
誰も声は発さない。発せるほどの酸素は、すでに彼女たちの肺には残されていなかった。喉の奥が焼けるように熱い。激しい全力疾走と、途切れることのない極限の緊張感が、四人の体力を確実に蝕んでいた。
モエから、大量の冷や汗が流れ落ちる。
ミユの指先は、ボルトアクションライフルの引き金にかけられたまま、過度の疲労と恐怖によって微かに震えていた。
――ドゴォォンッ!!!
背後で、建物の壁が物理的に破裂する凄まじい衝撃音が響いた。
振り返る余裕などない。だが、直後に迫る、空気を力任せに切り裂く不気味な風切り音が、追っ手の距離の近さを証明していた。
セツナだ。
彼女は路地の形状に合わせて走ってはいない。最短距離にあるレンガ造りの民家や、違法パーツを格納した倉庫の分厚い外壁を、その超人的な身体能力と手にした鉄の棒だけで強引に突き破り、直線的に肉薄してきていた。
ミヤコが走りながら、足元に転がっていた錆びついたドラム缶を力任せに蹴り倒し、後方への障害物とする。
しかし、その程度の抵抗は無意味だった。
直後に迫ったセツナは、速度を一切落とすことなく、跳躍一閃、鉄の棒を無造作に振り下ろした。頑丈な鋼鉄のドラム缶が、まるで紙屑のように構造ごと真っ二つに両断され、激しい火花と共に路地の両壁へと弾け飛ぶ。
セツナの目が、スモークの奥からサキの背中にある「標的」を確実に捉えていた。
――ダダダダダダダダッ!!!
モエが咄嗟に反転し、サブマシンガンをフルオートで掃射する。弾幕を、セツナは顔を伏せることすらなく、肉眼で捉えきれない速度で鉄の棒を回転させてすべて金属音と共に弾き散らす。火花がセツナのパーカーを焦がすが、その足取りは微塵も揺るがない。
サキの視界の端が、激しい心拍数の上昇によってチカチカと明滅し始めていた。背中の先生の身体が、衝撃のたびにズシリと重みを増していく。
ミユが泥にまみれながら、走りながらの手の震えを抑え込み、次の一弾を強引に装填する。
言葉によるやり取りはない。互いの視線が交わす「ここで止まれば先生が!」という焦燥だけが、彼女たちの足を無理やり前へと進めさせていた。
だが、路地を抜けた先は、周囲を何階建てもの雑居ビルに囲まれた、行き止まりに近い狭い広場だった。
サキの足がもつれ、アスファルトに膝を突きかける。ミヤコが即座にその腕を掴んで支えたが、彼女たちの退路は、完全に塞がっていた。
背後の闇から、一歩一歩、確実な足取りでセツナが姿を現す。
その全身からは、弾幕を正面から受け止めたことによる硝煙が立ち上っていた。鉄の棒の先端が、アスファルトを擦り、不快な金属音を響かせる。
サキは先生の身体を地面にそっと横たわらせ、残された僅かな弾薬のハンドガンを引き抜いた。ミヤコもまた、銃口をセツナの胸元へと固定する。意識を辛うじて保っている先生の瞳が、絶望的な距離にいる追っ手の姿を捉えていた。だが、首を動かすことすら満足にできない状態では、これ以上の抵抗の手立てなど存在しなかった。
セツナが、鉄の棒を大きく頭上へと振り上げた。その肉体が、トドメの一撃を放つために沈み込む。
タイムリミットは、すでに数分前に過ぎ去っていた。
カラスたちの放った広域ジャミングが完全に崩壊し、クロノスから「シャーレ襲撃!!先生の安否は!」という緊急特報がキヴォトス全土に駆け巡った結果――この無法地帯の周囲には、すでに先生を助けるという目的のためだけに結集した各学園が、網の目を絞るようにして完全に包囲網を形成していたのだ。
ゲヘナ学園。
トリニティ総合学園。
アビドス高等学校。
ミレニアムサイエンススクール。
ただ先生のためだけに集った各学園の力が、突入を開始していた。
――ドゴォォォォォンッ!!!
セツナが振り下ろそうとした鉄の棒が、寸前で停止した。
彼女たちのすぐ側面に位置していた、五階建ての雑居ビルのコンクリート外壁が、内側から爆破されたかのように激しく爆散したからだ。
「キエエエエエエエエエエエエエッ!!!!」
立ち上る濃密な土煙と瓦礫の嵐を突き破り、鼓膜を直接抉るような、正気とは思えない狂気的な奇声が広場に木霊した。
姿を現したのは、血飛沫のような不気味な赤黒いオーラを全身から噴き立たせ、目を血走らせたトリニティの戦略兵器――剣先ツルギだった。
「が、あ――!?」
セツナが回避の動作をとる暇すら、そこには残されていなかった。
先行して突入してきたツルギは、着地と同時にその圧倒的な質量と推進力のまま、セツナの無防備な横っ腹に向けて、大型トラックが正面衝突したかのような勢いで肉体ごと突撃を敢行した。
ドカァァンッ!!!
骨が肉の内側から激しく砕け散る、鈍く凄まじい衝撃音が響く。
ツルギの一撃をまともに脇腹に受けたセツナの肉体は、地面に足を触れさせることもできず、そのまま砲弾のような速度で真横へと吹き飛ばされた。
吹き飛んだセツナの身体は、広場に面していた頑丈なレンガ造りの民家を一枚、さらにその奥にあるスラムの建物を二棟、三棟と、肉体だけで文字通りバリバリと粉砕しながら突き抜けていく。
最終的にセツナの肉体は、ブラックマーケットの境界線付近に位置する大型ショッピングモールのガラス壁を木端微塵に粉砕し、その一階にある婦人服屋の店舗の奥へと激しく突っ込み、マネキンの山を巻き込んでようやくその動きを止めた。
「キヒ、キヒヒヒヒ……ッ! みづ、見つけ、見つけたァァァァッ!!」
ツルギはセツナを吹き飛ばした体勢のまま、激しく肩を上下させ、広場の中心で咆哮を上げている。
直後、崩壊した壁の向こう側から、制服の乱れ一つないゲヘナの空崎ヒナが、巨大な機関銃を片手で保持しながら静かに姿を現した。その後ろには、アビドスの面々、ミレニアムの部隊やC&Cが、広場を完全に制圧する形で続々と進入してくる。
「……RABBIT小隊。よく、先生を守りきってくれたわ」
ヒナの表情は冷静ながらも、どこか怒気を孕んだ声が響いた。
その言葉を聞いた瞬間、限界を遥かに超えていたミヤコたちの緊張の糸が、完全に切れた。
サキはハンドガンを地面に落とし、そのままアスファルトの上へと力なく崩れ落ちる。モエもミユも、武器を保持する力すら残されておらず、泥のようにその場に横たわった。
「救護騎士団です! 怪我人の救護を最優先に!」
広場の後方から、トリニティの救護騎士団の生徒たちが一斉に走り込んできた。ミネをはじめとする救護部隊が、疲労困憊で動けないRABBIT小隊の面々を、手際よく担架へと乗せ、安全圏へと搬送していく。
同時に、上空から進入してきたミレニアムサイエンススクールの最新鋭救急搬送ヘリコプターが、広場の中心へと静かに着陸した。
防護服を着た医療ドローンたちが、地面に横たわる先生の身体を迅速かつ慎重にストレッチャーへと固定し、ヘリのキャビン内へと運び込んでいく。
激しいローター音が再び広場を圧し、先生を乗せたヘリは、他学園の警戒部隊に見守られながら、上昇を開始した。
規則的な機械音だけが、狭い空間に響いていた。
ピッ、ピッ、ピッ, と、先生の胸部に貼り付けられたバイタルセンサーが、一定の電子音を刻んでいる。
重い瞼をゆっくりと押し上げると、視界に入ってきたのは、白を基調とした清潔極まりないヘリコプターのキャビン内部だった。
窓の外を、かなりの速度で流れる雲の断片が見える。
先生は、自分の呼吸が酸素マスクによって補助されていることに気づいた。爆風による肺の圧迫感は、医療機器の適切な処置によって、幾分かは和らいでいる。
コクピットの方向へ視線を向けるが、そこにはパイロットの姿はなかった。計器類だけが整然と発光し、完全な自動操縦システムによって飛行していることが理解できた。
(……ミレニアムの、無人搬送ヘリか……)
思考が、徐々に明晰さを取り戻していく。
RABBIT小隊が救護されたこと、他学園の生徒達が突入してきたことまでは、薄れる意識の中で記憶していた。ならば、今の自分は安全なヘリの中にいるはずだ。
だが、先生の背筋に、説明のつかない奇妙な違和感が走った。
視線をキャビンの対面座席へと動かす。
そこに、一人の少女が静かに腰掛けていた。
セミナーの制服を乱れなく着こなし、特徴的なアホ毛を微かに揺らしている少女。ミレニアムサイエンススクールの書記、生塩ノアだった。
彼女は膝の上に白い手帳を置き、いつもと変わらないお淑やかな佇まいで、じっと先生の顔を見つめていた。
先生は、酸素マスクの奥で息を呑んだ。
何かが、決定的に「おかしい」
思考が、脳内で急速にパズルを組み立てていく。
まず、シャーレの執務室が襲撃されたあの瞬間、ノアは確実に私の目の前で、私を庇って爆風の直撃を受けていた。あの衝撃の凄まじさからして、いくらキヴォトスの生徒の肉体が頑丈であるとはいえ、数時間足らずで制服に汚れ一つなく復帰し、何事もなかったかのようにヘリに同乗しているなど、医学的にも物理的にも考えて早すぎる。
さらに言えば、このヘリの内部には、ノア以外のセミナーの子達も、ネル筆頭とした「C&C」のメンバーさえ、誰一人として付き添っていない。セミナーであるノアが復帰したばかりであるならば、周囲に護衛がいないはずがなかった。
何より、目の前に座るノアの「ヘイロー」が――先ほどから、不自然なほど静止したまま、僅かな輝きすら見せていない、飾りもののような違和感。
先生は、震える右手をゆっくりと動かし、酸素マスクを強引に取り外した
乾いた空気が喉を刺激し、微かな痛みが走る。
対面の座席にいる少女は、その様子を制止しようともせず、ただ静かに、冷たい瞳で観察し続けていた。
先生は、肺に力を込め、意を決してその言葉を口にした。
「……君は……」
掠れた、しかし確かな疑問と問いかけが、ヘリの機械音を割って響く。
「君は……誰なんだい?」
その問いかけが空間に落ちた瞬間。
目の前に座っていた「生塩ノア」の顔から、これまでの理知的でお淑やかな色彩が、まるで剥がれ落ちるようにして完全に消失した。
少女は、その形の良い唇の端を、人間の感情が通っていないかのような、歪で、不気味で、意味深な笑みへとゆっくりと釣り上げた。
不穏すね。