いつからここが尸魂界だと錯覚していた? 作:yvrararara
椎名ひよりが1年Bクラスに移籍してきてから、一週間が経過した。
二千万ポイントという天文学的な数字が動いたあの日、クラスの空気は完全に「藍染惣右介=逆らえば消される悪魔」という図式で固まっていた。
だが、その後の『中間テストに向けた勉強会』を通じて、Bクラスの生徒たちの私に対する認識は、ほんの少しずつではあるが、奇妙な方向へと変化しつつあった。
「あ、あの……藍染くん。ここの英語の長文読解なんですけど、どう訳せばいいか分からなくて……」
「――世界が紡いだ暗号を解き明かすには、まず己の視座を高めることだ。……ここの関係代名詞が導く真理を見落とすようでは、君の言葉は誰にも届かないよ」
私が冷徹に(内心では『ここは関係代名詞の係り受けだよ!』と優しく)教えると、質問に来た女子生徒――書記の白波千尋は「ひぇっ」と小さく肩を竦めた。
すかさず、私の隣の席に座る銀髪の天使が微笑む。
「惣右介くんは『ここの関係代名詞の修飾先に気をつければ、綺麗に訳せますよ』と仰っています。白波さん、ここの単語からここまでが一つのかたまりですね」
「あ、なるほど! ほんとだ、意味が繋がった! ……あ、ありがとう、藍染くん、椎名さん!」
「……造作もない」
(どういたしまして! 勉強頑張ってね白波さん!! ひよりも通訳ありがとう!!)
相変わらずひより以外の人間と直接的な会話は成立しないものの、私が「絶対に間違ったことは教えない」上に、「なんだかんだで見捨てずに答えてくれる」という事実が、クラスメイトたちの間に広まり始めていたのだ。
『最初は殺されるかと思ったけど……訳してもらうとめちゃくちゃ的確じゃね?』
『なんか、喋り方が魔王なだけで、意外と面倒見いい……のか?』
『っていうか、椎名さんが隣にいる時の藍染くん、オーラが少しだけマイルドになってない?』
藍染スペックの驚異的な聴覚は、そんなクラスメイトたちのヒソヒソ声を正確に拾っていた。
完全に恐れられるだけの魔王ボッチ状態から、「言葉の通じない超有能な魔王(通訳必須)」という、若干マイルドなポジションへと軟化しつつある現状に、私は内心で安堵の涙を流していた。
そんな少しだけ平穏を取り戻しつつあった五月八日のこと。
朝のホームルームにて、担任の星之宮知恵が教卓に立ち、いつも通りのゆるふわな笑顔で、とんでもない爆弾を投下した。
「はーい、みんなおはよー! 朝からちょっとだけ残念なお知らせがありまーす。……今月末の中間テストなんだけどね、『全科目』の試験範囲が、大幅に変更になりまーす!」
星之宮が黒板に新しい試験範囲のプリントを貼り出した瞬間、教室内から悲鳴に近い絶叫が上がった。
「ええっ!? せ、先生、全科目ってどういうことですか!?」
「嘘だろ……これ、来月とか再来月に習うはずの範囲まで入ってるぞ!」
「赤点取ったら退学なのに、試験三週間前に全科目大幅変更なんて酷すぎます!」
絶望に染まる生徒たち。一之瀬帆波や神崎隆二といった優秀な層でさえ、明らかな焦りの色を浮かべていた。無理もない。ただでさえプレッシャーのかかる初めての定期試験で、全教科において未知の領域を大量に追加されたのだから。パニックにならない方がおかしい。
しかし、生徒たちの悲痛な叫びを前にしても、星之宮は全く悪びれる様子を見せず、むしろニコリと意味深な笑みを浮かべた。
「大丈夫大丈夫! 先生はね、Bクラスのみんななら、誰一人赤点を取ることなくこの試練を乗り越えられるって、強く『確信』しているから! じゃあ、今日も一日頑張ってねー!」
星之宮はそれだけ言い残し、嵐のように教室から去っていった。
残されたのは、絶望と混乱に陥り、頭を抱える生徒たちだけ。
だが、窓際の一番後ろの席で頬杖をつく私の脳内では、驚異的な速度で思考の歯車が回り始めていた。
(……全科目大幅変更? そして確信、か。なるほど)
私は窓の外の景色を眺めながら、この一ヶ月間に受けた『小テスト』の内容を思い返していた。
どの教科も、基本的には中学生レベルの基礎問題だった。だが、必ず最後の三問だけが異常に難易度が高く、時には授業の範囲を逸脱しているような問題が出題されていたのだ。藍染スペックを持つ私には息をするように解ける問題だったが、一般の高校生には解けなくて当然のレベルだった。
(全科目での大幅なテスト範囲の変更。にもかかわらず、担任は全員が乗り越えられると『確信』している。……つまり、個人の勉強の出来不出来とは別の『明確な抜け道』が用意されているということだ)
この学校のシステムは「あらゆるものがポイントで買える」こと。
ならば、その抜け道とは何か。
(過去問だ)
私は結論に辿り着き、フッと口角を吊り上げた。
学校側が意図的に過去のテスト問題を使い回しているのだとしたら、最後の難問の不自然さも、教師の「確信」も全て辻褄が合う。上級生から過去問さえ手に入れれば、試験範囲がどう変更されようが、誰一人として赤点を取ることはない。
(この学校……実力至上主義と謳いながら、実は『情報収集能力』や『交渉力』も試しているんだな。面白い。だが、藍染スペックの前ではあまりにも見え透いた盤面だ)
その日の放課後。
私は、一之瀬、神崎、白波、柴田颯、網倉といった、Bクラスの委員会メンバーに呼び出され、ひよりと共に特別教室へと向かっていた。
「集まってもらってごめんね、藍染くん、椎名さん」
教室の机を寄せ合い、一之瀬が深刻な表情で口を開いた。
「今朝の試験範囲の変更……正直、今のままじゃクラスの下位層が赤点を取っちゃう可能性があると思うんだ。勉強会でカバーするにしても、全科目なんて時間が足りないし……」
「ああ」と、神崎が腕を組んで頷く。
「何か、学校側の意図があるはずだ。あれだけ理不尽な変更をしておきながら、星之宮先生の態度は余裕そのものだったからな」
(おっ、神崎も良い線いってるな。よし、ここで俺がバシッと過去問の存在を指摘して、クラスのピンチを救う超絶クールなアドバイスをしてやるぞ!)
私は大きく息を吸い込み、一之瀬たちを見据えて口を開いた。
「――嘆くことはない。星々の軌道が突如として乱れたと錯覚するのは、君たちが己の足元しか見ていないからだ。……過去の亡霊たちが遺した足跡を辿ればいい。彼らが歩んだ灰の中にこそ、この偽りの試練を打ち砕く『真理』が眠っているのだから」
「「「「「…………えっと」」」」」
一之瀬、神崎、白波、柴田、網倉の五人が、完璧にハモった声で固まった。
五人の頭の上に、巨大なクエスチョンマークが浮かんでいるのが幻視できる。
(ああああああ!! まただ!! 『上級生から過去のテスト問題もらえばいいんだよ』って言いたいだけなのに!! 過去の亡霊ってなんだよ!! ゾンビ映画かよ!!)
私が内心で大パニックに陥り、頭を抱えそうになっていると、隣に座っていたひよりがポンッと手を打った。
「なるほどっ! さすがは惣右介くんですっ!」
ひよりのパァッと明るくなった声に、一之瀬たちがビクッと肩を跳ねさせる。
「し、椎名さん……? 今のポエ……言葉、意味がわかったの?」
「はい! 惣右介くんはこう仰っています。『焦る必要はありません。先生があれほど余裕を見せているということは、問題が過去のテストの使い回しである可能性が高いです。上級生に交渉して、全科目の過去のテスト問題を譲ってもらえば、全員が確実に赤点を回避できるはずです』……と!」
「「「「「…………っ!!」」」」」
ひよりの完璧すぎる翻訳(というかもはや超能力に近い意訳)を聞いて、一之瀬たちの顔に雷に打たれたような衝撃が走った。
「か、過去問……! そうか、この学校なら『ポイント』で先輩から過去問を買うこともルール違反じゃない……!?」
「そういうことか……! 小テストの理不尽な難易度も、全科目のあり得ない範囲変更も、過去問を手に入れられるかどうかの適性検査だったというわけか。……藍染、お前はそこまで見抜いていたのか……!」
神崎が、信じられないものを見るような、深い畏敬の念を込めた目で私を見た。
私は表面上「……造作もない」と冷酷に微笑みながら、内心では(ひよりぃぃぃぃ! ありがとうぅぅぅ! 君は本当に最高の親友だよ!!)と、ひよりに向かって五体投地で感謝を捧げていた。
「すごいよ、藍染くん! その作戦で行こう!」
一之瀬が立ち上がり、目を輝かせる。
「わたし、お世話になってる先輩に連絡してみる! ええっと、クラス貯金から交渉してみるね!」
一之瀬の行動力は本物だった。彼女はすぐさまスマートフォンを取り出し、画面を素早くタップしてメッセージを送る。
数分後。一之瀬のスマホが小さく震えた。画面を確認した彼女の顔が、パァッと明るくなる。
「みんな! 今、先輩から2万ポイントで全科目の過去問データを買えたよ!」
一之瀬が端末に送られてきた過去問のデータ画像をみんなに見せる。
「やったーっ!! さすが一之瀬! これで試験も楽勝だなー!」
体育委員の柴田颯が、ガッツポーズをして歓喜の声を上げた。
網倉や白波も「よかったぁ、これで退学は免れるね」と胸を撫で下ろしている。
(……いや、待てよ)
喜びに沸く彼らを見て、私の脳内の危険信号が点滅した。
(確かに今回は過去問で乗り切れるだろう。だが、最初から過去問に頼りきりになれば、基礎学力は全く身につかない。もし学校側が意地悪をして、期末テストで問題の傾向をガラリと変えてきたら? その時、過去問しか解けない連中は一斉に赤点を取って退学になるぞ)
目先の勝利に酔いしれるのは危険だ。
私は、この浮かれた空気を引き締めなければならないと決意した。
(みんな聞いてくれ。この抜け道が毎回使えるとは限らない。過去問を配るのは試験の三日前くらいにして、それまでは今まで通り、基礎を固める勉強会を続けよう。……よし、これを言うぞ!)
私はスッと立ち上がり、喜ぶ柴田たちを一瞥した。
「――愚かな。たかだか一度の勝利の幻影にすがり、己の牙を研ぐことを忘れた獣に、明日の朝日は昇らない」
「「「…………ヒッ」」」
教室内が一瞬にしてシベリアの凍土へと変貌した。
柴田の顔が引き攣り、白波が涙目になって後退る。
(違う! 違うんだ!! 怒ってない! 全然怒ってないよ俺!!)
「……神から与えられた果実を貪るのは、処刑台の階段を登る直前でいい。それまでは、這いつくばってでも己の足で泥を啜り、盤石な城を築くべきだ」
私の圧倒的な威圧感と、死刑宣告のようなポエムを前に、誰もが息を呑んで震え上がっていた。
――ただ一人、銀髪の天使を除いて。
「……はいっ。皆さんも、分かりましたよね?」
ひよりが、ニコニコと微笑みながら皆を見渡した。
「惣右介くんは、『この過去問の抜け道が、次回のテストでも必ず使えるとは限りません。今から過去問に頼り切ってしまうと、基礎学力が低下して後々取り返しのつかないことになります。だから、過去問をクラスに配布するのは試験の三日前にして、それまでは今まで通り、みんなで基礎を固める勉強会を続けましょう』と仰っています」
「「「「「…………っ!!」」」」」
神崎が、ハッと息を呑んで目を見開いた。
「……なるほど。確かに藍染の言う通りだ。ここで気を緩めて過去問に依存してしまえば、いずれ必ず足をすくわれる。……恐ろしい男だ、藍染。お前は、俺たちが勝利の美酒に酔うことすら見越して、その先の絶望まで計算していたというのか……!」
神崎のその言葉に、一之瀬もハッとして深く頷いた。
「うん、藍染くんの言う通りだね。わたし、危なく目先の安心に流されるところだった。……ありがとう、藍染くん。厳しい言い方だったけど、クラスのみんなのことをそこまで深く考えてくれてたんだね」
「過去問の配布は、試験の三日前にしよう。それまでは、藍染くんを講師にした勉強会を全力で続ける。みんな、それでいいかな?」
一之瀬の提案に、柴田たちも「藍染、マジでサンキューな……!」「ちょっとチビりそうになったけど、言ってること正論だわ!」と、畏怖の中に確かな「信頼」を込めた眼差しを私に向けてきた。
(お、おお……! なんか知らんが、めちゃくちゃ尊敬されてる!? 俺、ただ『ちゃんと勉強しようぜ』って言いたかっただけなのに!! ひよりの翻訳のおかげで、俺が超絶有能な参謀みたいになってる!!)
私は表面上「……君たちが無駄死にを避けたというのなら、それでいい」とフッと冷笑しながら、内心ではひよりに向かって(一生ついていきます!!)と忠誠を誓っていた。
作戦会議が無事に終わり、私たちはそのまま図書室へと移動した。
いつもの私とひよりの「二人ぼっち」の空間に、今日は一之瀬たちを加えた大きな勉強会の輪ができている。
「藍染くん、ここの数学の公式の使い方が……」
「――世界を数式で縛ろうとするな。その公式が持つ真の意味を理解すれば、答えは自ずと……」
「惣右介くんは、公式を丸暗記するのではなく、なぜその式になるのかの過程を……」
「なるほど!! すっげぇ分かりやすい!!」
私がポエムを吐き、ひよりが翻訳し、クラスメイトたちが感嘆する。
そんな奇妙な、しかし確かに連帯感のある光景が、夕暮れの図書室に広がっていた。
「……惣右介くん」
ふと、隣に座るひよりが、皆に見えないようにこっそりと私の袖を引いた。
私が視線を向けると、彼女はとても嬉しそうに、そして誇らしげに微笑んでいた。
「惣右介くんの本当の優しさ、少しずつ、皆さんに伝わってきましたね」
「……買い被りだ、ひより。私はただ、盤上の駒が勝手に盤から落ちるのを防いだだけさ」
(ひよりのおかげだよ、本当にありがとう!)
私のその言葉に、ひよりは「ふふっ」と小さく笑い、再び自分のノートへと視線を落とした。
最強のスペックと、絶望的な呪いのポエム。
そして、その全てを優しく解きほぐす最高の親友。
魔王と天使が織りなす高度育成高等学校での日々は、クラスメイトたちを巻き込みながら、少しずつ、しかし確実に「温かなもの」へと変化し始めていた。